今日は土曜日、昨日帰りが遅かったので、朝から洗濯を始め、そして土曜日の恒例である昼食を取りに吉祥寺へ、天気が心配だったのですが・・・、吉祥寺では一時期太陽が顔を見せました。「これで梅雨明けか?」「明けたでしょう」と言った会話をしてから自宅へ・・・、自宅に戻った頃合いには空は暗く・・・、梅雨明けはまだまだと言った感じ。
天気予報では明日もはっきりしない天気で、明後日の月曜日は雨、火曜日は回復すると言う予報。こうなると梅雨明けは火曜日以降と言う事になりそうです。もっとも予報では火曜日と水曜日は晴れ間が覗きますが、木曜日と金曜日は曇りの予報、さすがに8月までには梅雨は明けると思いますが・・・。
明日は花小金井のサンバカーニバル。23日月曜日は相馬の野馬追いが始まると言うので、そろそろ梅雨は明けて貰えないと・・。
去年は7月が涼しく、8月の当初も妙に涼しかった記憶があります。
もっと暑くならないと、幼稚園の園児や小学生のプールが寒そうで・・・。今年は冷夏という声も聞こえてきますが・・・、さて、どうなんでしょう。
夏(か)と言う王朝を御存知だろうか、教科書には乗ってないかも知れない。中国の古代王朝で殷に滅ぼされたとされる最古の王朝が「夏」である。自分が勉強した時は「殷」がもっとも古い王朝だったような気がする。殷は商ともされるが・・・。殷でさえ伝説の王朝で、夏はもはや幻の王朝だった。
あの封神演義は、殷周の交代を描いているわけで、夏と殷の交代はそのさらに前の事になる。
殷が夏を滅ぼしたのは紀元前1600年頃とされるから、夏はそれ以前、紀元前2000年ぐらいに成立した事になる。従って中華4000年の歴史と言うのは、伊達ではないのだ。
もっとも夏王朝は中国全土を支配する大きな王朝ではなく、極一部を支配した小さな王朝であったとも聞いている。つまり殷、周のような統一王朝ではなかったというのだ。
日本で言えば出雲王朝のような存在だったのかも知れない。そして国譲りとして大和王朝に支配権を譲る・・・。
さて、この夏王朝から帝位を譲られたとされる禹は治水で功績を上げた、その功績をたたえる文章を刻んだとされる石碑が建てられたが、宋代に行方が分からなくなっていたそうで、今回この石碑が再度見つかったと言うのである。
中国古代王朝の謎はまさに人類史の謎であり、人類史の起源でもあるのだ。
天気予報では明日もはっきりしない天気で、明後日の月曜日は雨、火曜日は回復すると言う予報。こうなると梅雨明けは火曜日以降と言う事になりそうです。もっとも予報では火曜日と水曜日は晴れ間が覗きますが、木曜日と金曜日は曇りの予報、さすがに8月までには梅雨は明けると思いますが・・・。
明日は花小金井のサンバカーニバル。23日月曜日は相馬の野馬追いが始まると言うので、そろそろ梅雨は明けて貰えないと・・。
去年は7月が涼しく、8月の当初も妙に涼しかった記憶があります。
もっと暑くならないと、幼稚園の園児や小学生のプールが寒そうで・・・。今年は冷夏という声も聞こえてきますが・・・、さて、どうなんでしょう。
夏(か)と言う王朝を御存知だろうか、教科書には乗ってないかも知れない。中国の古代王朝で殷に滅ぼされたとされる最古の王朝が「夏」である。自分が勉強した時は「殷」がもっとも古い王朝だったような気がする。殷は商ともされるが・・・。殷でさえ伝説の王朝で、夏はもはや幻の王朝だった。
あの封神演義は、殷周の交代を描いているわけで、夏と殷の交代はそのさらに前の事になる。
殷が夏を滅ぼしたのは紀元前1600年頃とされるから、夏はそれ以前、紀元前2000年ぐらいに成立した事になる。従って中華4000年の歴史と言うのは、伊達ではないのだ。
もっとも夏王朝は中国全土を支配する大きな王朝ではなく、極一部を支配した小さな王朝であったとも聞いている。つまり殷、周のような統一王朝ではなかったというのだ。
日本で言えば出雲王朝のような存在だったのかも知れない。そして国譲りとして大和王朝に支配権を譲る・・・。
さて、この夏王朝から帝位を譲られたとされる禹は治水で功績を上げた、その功績をたたえる文章を刻んだとされる石碑が建てられたが、宋代に行方が分からなくなっていたそうで、今回この石碑が再度見つかったと言うのである。
中国古代王朝の謎はまさに人類史の謎であり、人類史の起源でもあるのだ。
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