本日の東京地方の天候は晴でした、午前中は快晴と言っても良いくらいの天気だったのですが、午後になると少し雲が出て来てしまいました。とは言え晴れていた事は晴れていたと思います。都心部の最高気温は20℃、最低気温は14℃。三多摩地域の最高気温は21℃、最低気温は12℃でした。気温は思ったほど上がらず・・このくらいが暑くも寒くもなく過ごしやすい気温だと思います。明日の東京地方は曇時々晴、週間天気予報によれば土曜日は一日中雨で、強く降るかも知れないとの事です。日曜日が祭りがあるので、晴れなくとも雨が降らねば良いと思います。
思った以上の長編となりそうなこの2009年石和の旅ですが、たぶん、合戦の模様はものすごく・・・、はしょります、・・・たぶん。
甲斐善光寺は、石和から甲府へ至る国道140号線、雁坂道を使うと甲府の手前にそびえ立つ古刹が甲斐善光寺です。
善光寺と言えば信濃善光寺、牛に引かれてと詠まれた善光寺があります。江戸時代に善光寺参りが流行した事でも知られます。このお寺は宗派を越えて信仰を集めています。この国に初めて高句麗の聖明王から送られて来た仏像があります。
この仏像が安置されたのが信濃善光寺とされます。それ故に宗派を越えた信仰を集めるお寺なのです。
この700年代に海を渡って来たと言う仏像は、現在では秘仏とされ、現在これを見た人は一人もいません。恐らく最後に見たのは・・・戦国時代の信玄公とその側近か信玄公に近い僧侶ぐらいでしょう。もっとも記録は一切残っていないので、信玄公が御覧になったかどうか・・・・これも不明です。
信濃善光寺のある地は善光寺平と呼ばれ、川中島とも非常に近い位置にあります。
戦国時代の竜虎を呼ばれた「武田信玄公」と「上杉謙信公」が、その支配を巡って戦火を交えたのが川中島。一山に無数の坊社を構え、十三谷三千坊と呼ばれた戸隠神社は、この戦の余波で、その坊社の大半を失ったとされます。
武田信玄公は善光寺の焼失を恐れ、この秘仏を甲斐の国へ疎開させます。その時に作られたのがこの甲斐善光寺とされ、その本尊は信濃善光寺祭られていた前立て観音とされます。善光寺の絶対秘仏とされる「善光寺式阿弥陀三尊」はその写しが多数生まれ、善光寺と呼ばれるお寺はたくさんあるとか。この「善光寺式阿弥陀三尊」は阿弥陀仏であるが観音様と言う説もあるのだとか。
今年は甲斐善光寺も7年に一度の御開帳の年とあり、是非とも訪れたい場所でした。前回の御開帳の時も甲斐善光寺は一度訪れてますが・・。
以下に善光寺御開帳のHPにある御開帳に関しての解説文を示します。
「善光寺本堂に安置される御本尊一光三尊阿弥陀如来は、白雉5年(654)以来の秘仏。その後、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして前立本尊が造られ、拝されるようになりました。
前立本尊は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特の一光三尊阿弥陀如来のお姿をされています。普段は御宝庫に安置されていますが、七年に一度の御開帳の時だけ、特別にお姿を拝むことが叶います。
中央の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸にかわり、白い善の綱として、本堂前の回向柱に結ばれます。その回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じこと。ここにありがたい結縁が生まれ、その功徳ははかりしれません。」
秘仏である御本尊の代わりに前立て観音様の厨子が開かれ、その右手から金糸が伸びて回向柱に結ばれます。この回向柱に触る事が重要です。
信濃善光寺では7年に1度のこの御開帳に使用される回向柱となる材木を引くお祭りもあるそうです。
思った以上の長編となりそうなこの2009年石和の旅ですが、たぶん、合戦の模様はものすごく・・・、はしょります、・・・たぶん。
甲斐善光寺は、石和から甲府へ至る国道140号線、雁坂道を使うと甲府の手前にそびえ立つ古刹が甲斐善光寺です。
善光寺と言えば信濃善光寺、牛に引かれてと詠まれた善光寺があります。江戸時代に善光寺参りが流行した事でも知られます。このお寺は宗派を越えて信仰を集めています。この国に初めて高句麗の聖明王から送られて来た仏像があります。
この仏像が安置されたのが信濃善光寺とされます。それ故に宗派を越えた信仰を集めるお寺なのです。
この700年代に海を渡って来たと言う仏像は、現在では秘仏とされ、現在これを見た人は一人もいません。恐らく最後に見たのは・・・戦国時代の信玄公とその側近か信玄公に近い僧侶ぐらいでしょう。もっとも記録は一切残っていないので、信玄公が御覧になったかどうか・・・・これも不明です。
信濃善光寺のある地は善光寺平と呼ばれ、川中島とも非常に近い位置にあります。
戦国時代の竜虎を呼ばれた「武田信玄公」と「上杉謙信公」が、その支配を巡って戦火を交えたのが川中島。一山に無数の坊社を構え、十三谷三千坊と呼ばれた戸隠神社は、この戦の余波で、その坊社の大半を失ったとされます。
武田信玄公は善光寺の焼失を恐れ、この秘仏を甲斐の国へ疎開させます。その時に作られたのがこの甲斐善光寺とされ、その本尊は信濃善光寺祭られていた前立て観音とされます。善光寺の絶対秘仏とされる「善光寺式阿弥陀三尊」はその写しが多数生まれ、善光寺と呼ばれるお寺はたくさんあるとか。この「善光寺式阿弥陀三尊」は阿弥陀仏であるが観音様と言う説もあるのだとか。
今年は甲斐善光寺も7年に一度の御開帳の年とあり、是非とも訪れたい場所でした。前回の御開帳の時も甲斐善光寺は一度訪れてますが・・。
以下に善光寺御開帳のHPにある御開帳に関しての解説文を示します。
「善光寺本堂に安置される御本尊一光三尊阿弥陀如来は、白雉5年(654)以来の秘仏。その後、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして前立本尊が造られ、拝されるようになりました。
前立本尊は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特の一光三尊阿弥陀如来のお姿をされています。普段は御宝庫に安置されていますが、七年に一度の御開帳の時だけ、特別にお姿を拝むことが叶います。
中央の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸にかわり、白い善の綱として、本堂前の回向柱に結ばれます。その回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じこと。ここにありがたい結縁が生まれ、その功徳ははかりしれません。」
秘仏である御本尊の代わりに前立て観音様の厨子が開かれ、その右手から金糸が伸びて回向柱に結ばれます。この回向柱に触る事が重要です。
信濃善光寺では7年に1度のこの御開帳に使用される回向柱となる材木を引くお祭りもあるそうです。
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