石野真琴のなんでもあり?

多趣味な石野真琴が、普段感じている事、将棋、祭り、甲冑等々、趣味の内容を描きます

16.矢沢但馬守頼綱、矢沢薩摩守(三十郎)頼康

2010-07-25 20:58:41 | 趣味
 本日の東京地方の天候は、晴後所により雨と言った感じでした。西東京市では今のところ19時ぐらいにザッと小雨が降った程度ですが、千葉の北部から茨城県に掛けて強い雨が降っているようです。警報も出ているので充分に注意して下さい。西東京市周辺は早朝から快晴と言って良いような晴れ間が広がっていましたが、午後になって雲が広がって、16時には日射がもう観測されていません。都心部の最高気温は33℃、最低気温は28℃、三多摩地域の最高気温は34℃、最低気温は24℃でした。府中のデータで見る限り昨日の22時ぐらいから雨が降った為か、4℃ほど気温が下がっています。その結果が最低気温は24℃となったようです。週間天気予報によれば明日以降8月1日まで雨の予報はありません。最高気温は33℃~35℃、最低気温は26℃となっています。

 真田幸隆の弟とされるのが矢沢頼綱です。
 幸隆が家督を継いですぐに、信濃の名門諏訪家に連なる矢沢家の家督を継いだようですが、その詳細は不明です。兄がその家の家督を継ぐと、弟たちは養子あるいは猶子となって別の家の家督を継ぐか、独立するか、そのどちらかを選択したようです。
 諏訪家の話はしてますが、神氏に連なる家は武勲の家であり、戦国時代の信州では軍師の役割を担ったかも知れません。
 日本の戦国時代の軍師は、三国志の軍師とは違います。武田二十四将では山本勘助が軍師とされますが、この時代の軍師というのは作戦を立案し、それを実行する将の事ではありません。作戦案を立案するのは総大将や大将格の武将のする事です。
 軍師と言う存在は、どちらかと言えば呪術師のような存在で、卦を立てて出陣の日を決めたり、亀の甲羅を焼いて、素焼きを割って占いを行ったりします。
 実際の仕事は、兵団のとりまとめを行う役職で、これが非常に重要でした。またその地形から陣形を決めたりします。
 将は戦う事だけを考え、戦の行軍の順番などを決めるのは軍師んじゃのです。軍師はその為に必要な戦の全てを取り仕切る事になります。軍師というのは非常に重要な役割であり、様々な知識を持つ必要があったのです。今で言えば戦のプロと言える存在です。
 真田幸隆の初期の戦いでは、この矢沢頼康がその役割を担っていたのではないかと想像出来ます。海野家の戦では禰津家がその役割を担い、真田では矢沢家が。
 さて、この矢沢頼綱、幼き日には京に送られ僧となったと言う伝説がありますが、それは確認する事が出来ません。
 真田家においてその武勲は、幸隆に匹敵するものがあります。信玄・幸隆の戦の大半に参加してその武勲を上げ、幸隆が亡くなって後は昌幸に従い、特に昌幸が徳川家を上田城に迎え撃った戦において、沼田城にて小田原北条家の大軍を迎え撃ち、僅か数百の軍勢を沼田城を守りきる活躍を見せています。
 真田昌幸が徳川勢と上田城で戦えたのは、この叔父である頼綱の存在が大きかったと思います。

 矢沢頼康は頼綱の嫡子で、幸隆、昌幸、信之の三代に仕えた真田家の家臣です。上杉家に信繁が人質として出された頃、その警護として同道し、そのまま信繁と一緒に人質となったとされています。真田家は上杉家の後ろ盾を得る為に、真田信繁、矢沢頼康の二名を人質として出しています。
 真田家にとって矢沢家はそれほど重要な家であり、上杉家に対してそれだけの誠意を見せる必要があったとも言えます。
 矢沢頼綱、昌幸の戦には参加して武勲を立てています。昌幸、信之の信頼は非常に厚く、分隊として兵を率いて戦った事もあったようです。
 大坂の陣では信之の代わりに出陣した信政、信吉らを補佐して出陣しています。この出陣にあたって信之は頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」と書き送っている書状があります。
 頼康に子が生まれなかったので、その弟の頼邦が矢沢の家督を継ぎ、その後、子孫は代々松代藩家老職を担って真田氏を支えました。

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