◆『中空構造日本の深層 (中公文庫)』(河合隼雄)
日本文化がもつ長所と短所、あるいは世界の文化の中で日本文化がどのような意味を持つかを考える上で、きわめて重要な洞察を含む本だと思う。
無意識は、意識化された自我の一面性をつねに補償する働きをもつ。そのような無意識の世界を自我に統合していくプロセスが、ユングのいう「個性化の過程」だ。ユングの患者たちは、キリスト教文化圏の人々だから、彼らの無意識から産出される内容は、正統キリスト教の知を補償するものであることが多かった。
父なる神を天に頂く彼らの意識を補償しようするのは、母なるものの働きである。ユングはそのような観点からヨーロッパの精神史を見直し、正統キリスト教の男性原理を補うものとして、ヨーロッパ精神の低層に、グノーシス主義から錬金術に至る女性原理の流れを見出していった。
西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。
唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出される。これに対して日本神話の場合はどうか。例えばアマテラスとスサノオの関係は、それほど明白でも単純でもない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。
男性原理と女性原理の対立という点から見ると、日本神話は、どちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。著者はここに日本神話の中空性を見る。何かの原理が中心を占めることはなく、それは中空のまわりを巡回しながら、対立するものとのバランスを保ち続ける。日本文化そのものが、つねに外来文化を取り入れ、時にそれを中心においたかのように思わせながら、やがてそれは日本化されて中心から離れる。消え去るのではなく、他とのバランスを保ちながら、中心の空性を浮かび上がらせる。
非ヨーロッパ世界のなかで日本のみがいちはやく近代文明を取り入れて成功した。男性原理に根ざした近代文明は、その根底に先に見たような危機をはらんでいる。日本の文化は、近代文明のもつ男性原理や父性原理の弊害をあまり受けていないように見える。それは、日本が西洋文明を取り入れつつ母性的なものを保持したからだろう。しかし単純に女性原理や母性原理に立つのではなく、中空均衡型モデルとでもいうべきものによって、対立や矛盾をあえて排除せず、共存させる構造をもっていたからではないのか。
日本が、男性原理の上に成り立つ近代文明を取り入れて、これだけ成功しながら、なおかつ男性原理の文明のもつ弊害を回避しうる可能性をもっているということが、今後ますます重要な意味をもっていくような気がする。
日本文化がもつ長所と短所、あるいは世界の文化の中で日本文化がどのような意味を持つかを考える上で、きわめて重要な洞察を含む本だと思う。
無意識は、意識化された自我の一面性をつねに補償する働きをもつ。そのような無意識の世界を自我に統合していくプロセスが、ユングのいう「個性化の過程」だ。ユングの患者たちは、キリスト教文化圏の人々だから、彼らの無意識から産出される内容は、正統キリスト教の知を補償するものであることが多かった。
父なる神を天に頂く彼らの意識を補償しようするのは、母なるものの働きである。ユングはそのような観点からヨーロッパの精神史を見直し、正統キリスト教の男性原理を補うものとして、ヨーロッパ精神の低層に、グノーシス主義から錬金術に至る女性原理の流れを見出していった。
西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。
唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出される。これに対して日本神話の場合はどうか。例えばアマテラスとスサノオの関係は、それほど明白でも単純でもない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。
男性原理と女性原理の対立という点から見ると、日本神話は、どちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。著者はここに日本神話の中空性を見る。何かの原理が中心を占めることはなく、それは中空のまわりを巡回しながら、対立するものとのバランスを保ち続ける。日本文化そのものが、つねに外来文化を取り入れ、時にそれを中心においたかのように思わせながら、やがてそれは日本化されて中心から離れる。消え去るのではなく、他とのバランスを保ちながら、中心の空性を浮かび上がらせる。
非ヨーロッパ世界のなかで日本のみがいちはやく近代文明を取り入れて成功した。男性原理に根ざした近代文明は、その根底に先に見たような危機をはらんでいる。日本の文化は、近代文明のもつ男性原理や父性原理の弊害をあまり受けていないように見える。それは、日本が西洋文明を取り入れつつ母性的なものを保持したからだろう。しかし単純に女性原理や母性原理に立つのではなく、中空均衡型モデルとでもいうべきものによって、対立や矛盾をあえて排除せず、共存させる構造をもっていたからではないのか。
日本が、男性原理の上に成り立つ近代文明を取り入れて、これだけ成功しながら、なおかつ男性原理の文明のもつ弊害を回避しうる可能性をもっているということが、今後ますます重要な意味をもっていくような気がする。