◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より
《まとめ》本書では、私たちが主観的に体験する心的状態は、全てクオリアだという立場をとる。こうした概念の拡張は、意識という現象を統一的に説明する上で意義がある。
クオリアには、感覚的クオリアと、志向的クオリアがある。
感覚的クオリアとは、たとえば「赤い色の質感」のクオリアであり、視覚で言えば、色、透明感、金属光沢など、外界の性質が鮮明で具体的な形で感じられるときの質感である。「薔薇」をそれと認識する前の、視野の中に拡がる色やテクスチャ(きめ)などであり、言語化される以前の原始的な質感のことだ。
一方、視野の中の「薔薇」を構成する感覚的クオリアを、「ああ、これは薔薇だ」と認識する時に心の中に立ち上がる質感が志向的クオリアである。換言すれば、言語的、社会的文脈の下におかれた質感ということになる。
私たちの心の持つ、「何かに向けられている」という基本的な性質を「志向性」と呼ぶ。「私が○○を感じる」という主観性の構造は、まさに、私たちの心のもつ志向性そのものである。そして、志向的クオリアは、「私」という主観性の本質と密接な関係を持っている。(46~49)
◆根源的な志向性
まずここで問題を感じるのは、意識という現象を統一的に説明するのにクオリアという概念が適切かどうかだ。
一方で、感覚的クオリアと志向的クオリアを分けているが、志向性は、すべての意識現象に当てはまる根源的な性質であり、「言語化される以前の原始的な質感」も、志向的な現象であることに変わりない。だから、こうした区別は誤解を招きやすいということ。
志向性が根源的な性質であるのは、人間を含めた生物が生きるという目的をもって世界に向かっているからである。生物が生きるという目的をもって行動しているからこそ、外的な環境は生物によって価値づけられ一定の意味を付与される。生物が、外的な環境に自らを差し出し、それらを価値付け意味づけることこそが、志向性と呼ばれる生物的な機能である。
われわれは、世界内に存在して生命のもつこの志向性によって世界に向かっていくことを止めない。それによって「われわれは意味への宿命づけられている」(メルロ=ポンティ)。
この根源的な志向性によって、人間が知覚するものは、つねに一定の「意図ないし志向」を帯び、一定の「狙い」をもつ。この時に志向され、意図されているものが「意味」である。
茂木が、感覚的クオリアと、志向的クオリアとに分けたものは、どちらもこの根源的な志向性を基盤として成り立っている。だから「意識という現象を統一的に説明する」ことを意図するなら、クオリアという元来狭い概念を使用するのではなく、志向性や意味の概念を用いた方がよいと思う。
ともあれ、志向性という概念の根本には、生物が自らを生命を維持しようとする目的という観点が含まれているのだ。そして脳の物理・化学的な過程をいくら解明したところで、生物の目的論的な機能は、説明できない。それと同じ理由で、志向性という主観性の根本的な特性を説明することもできない。
しかし以上は、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないことの理由としては、副次的なものにすぎない。より根源的な理由を明確にできるはずなのだが、それは、もう少し茂木の議論を追いながら、考えていきたい。
《まとめ》本書では、私たちが主観的に体験する心的状態は、全てクオリアだという立場をとる。こうした概念の拡張は、意識という現象を統一的に説明する上で意義がある。
クオリアには、感覚的クオリアと、志向的クオリアがある。
感覚的クオリアとは、たとえば「赤い色の質感」のクオリアであり、視覚で言えば、色、透明感、金属光沢など、外界の性質が鮮明で具体的な形で感じられるときの質感である。「薔薇」をそれと認識する前の、視野の中に拡がる色やテクスチャ(きめ)などであり、言語化される以前の原始的な質感のことだ。
一方、視野の中の「薔薇」を構成する感覚的クオリアを、「ああ、これは薔薇だ」と認識する時に心の中に立ち上がる質感が志向的クオリアである。換言すれば、言語的、社会的文脈の下におかれた質感ということになる。
私たちの心の持つ、「何かに向けられている」という基本的な性質を「志向性」と呼ぶ。「私が○○を感じる」という主観性の構造は、まさに、私たちの心のもつ志向性そのものである。そして、志向的クオリアは、「私」という主観性の本質と密接な関係を持っている。(46~49)
◆根源的な志向性
まずここで問題を感じるのは、意識という現象を統一的に説明するのにクオリアという概念が適切かどうかだ。
一方で、感覚的クオリアと志向的クオリアを分けているが、志向性は、すべての意識現象に当てはまる根源的な性質であり、「言語化される以前の原始的な質感」も、志向的な現象であることに変わりない。だから、こうした区別は誤解を招きやすいということ。
志向性が根源的な性質であるのは、人間を含めた生物が生きるという目的をもって世界に向かっているからである。生物が生きるという目的をもって行動しているからこそ、外的な環境は生物によって価値づけられ一定の意味を付与される。生物が、外的な環境に自らを差し出し、それらを価値付け意味づけることこそが、志向性と呼ばれる生物的な機能である。
われわれは、世界内に存在して生命のもつこの志向性によって世界に向かっていくことを止めない。それによって「われわれは意味への宿命づけられている」(メルロ=ポンティ)。
この根源的な志向性によって、人間が知覚するものは、つねに一定の「意図ないし志向」を帯び、一定の「狙い」をもつ。この時に志向され、意図されているものが「意味」である。
茂木が、感覚的クオリアと、志向的クオリアとに分けたものは、どちらもこの根源的な志向性を基盤として成り立っている。だから「意識という現象を統一的に説明する」ことを意図するなら、クオリアという元来狭い概念を使用するのではなく、志向性や意味の概念を用いた方がよいと思う。
ともあれ、志向性という概念の根本には、生物が自らを生命を維持しようとする目的という観点が含まれているのだ。そして脳の物理・化学的な過程をいくら解明したところで、生物の目的論的な機能は、説明できない。それと同じ理由で、志向性という主観性の根本的な特性を説明することもできない。
しかし以上は、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないことの理由としては、副次的なものにすぎない。より根源的な理由を明確にできるはずなのだが、それは、もう少し茂木の議論を追いながら、考えていきたい。