◆『「甘え」の構造 [増補普及版]』
1971年に出版されて以来「日本人論」「日本文化論」の代表的な著作のひとつとなった本である。
甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。
著者は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。著者はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。
親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。
だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。
たとえば「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係するという。すねるのは素直に甘えられないからであり、しかし実際はすねることで甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」は、いずれもすねが高じ、なお甘えられない結果である。ひがむのは、甘えたいのに自分だけが甘えられないと曲解することである。ひねくれるのは、甘えないでかえって相手に背を向けることだが、どこかに甘えの感情があるからそうなるのだ。
ある欧米の研究者は、日本語の「甘え」にあたる心理を「受身的対象愛」という用語で表現し、研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。さらに甘えが挫折した結果として起こる特殊な敵意を表す「うらむ」という語もあることを知って、いたく感激したという。
著者は、この他「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」など日本人に馴染みの感情を甘えの心理との関係で分析していくが、ここでは省略する。ここでは最後にひとつだけ「遠慮」という言葉と甘えとの関係を取り上げよう。
「遠慮」という日本語は、現代では人間関係の尺度を測る意味合いで使われるようである。たとえば親子の間には遠慮がないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えにどっぷりと浸かっているからである。この場合、親も子供もたがいに遠慮がない。親子関係以外の関係では、親しみが強いほど遠慮は少なく、親しみが薄くなるほど遠慮は増す。親友同士は遠慮がないが、遠慮を感じる友人もいる。要するに日本人は、できれば遠慮のない関係がいいと感じ、遠慮し合う関係をあまり好ましいとは思っていない。これも、日本人がもともと親子関係、とくに母子関係に典型的な一体感をもっとも望ましいものとして理想化しているからだろう。
1971年に出版されて以来「日本人論」「日本文化論」の代表的な著作のひとつとなった本である。
甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。
著者は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。著者はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。
親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。
だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。
たとえば「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係するという。すねるのは素直に甘えられないからであり、しかし実際はすねることで甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」は、いずれもすねが高じ、なお甘えられない結果である。ひがむのは、甘えたいのに自分だけが甘えられないと曲解することである。ひねくれるのは、甘えないでかえって相手に背を向けることだが、どこかに甘えの感情があるからそうなるのだ。
ある欧米の研究者は、日本語の「甘え」にあたる心理を「受身的対象愛」という用語で表現し、研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。さらに甘えが挫折した結果として起こる特殊な敵意を表す「うらむ」という語もあることを知って、いたく感激したという。
著者は、この他「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」など日本人に馴染みの感情を甘えの心理との関係で分析していくが、ここでは省略する。ここでは最後にひとつだけ「遠慮」という言葉と甘えとの関係を取り上げよう。
「遠慮」という日本語は、現代では人間関係の尺度を測る意味合いで使われるようである。たとえば親子の間には遠慮がないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えにどっぷりと浸かっているからである。この場合、親も子供もたがいに遠慮がない。親子関係以外の関係では、親しみが強いほど遠慮は少なく、親しみが薄くなるほど遠慮は増す。親友同士は遠慮がないが、遠慮を感じる友人もいる。要するに日本人は、できれば遠慮のない関係がいいと感じ、遠慮し合う関係をあまり好ましいとは思っていない。これも、日本人がもともと親子関係、とくに母子関係に典型的な一体感をもっとも望ましいものとして理想化しているからだろう。