探訪・日本の心と精神世界

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「甘え」の構造

2015-05-10 22:49:14 | 書評:日本人と日本文化
◆『「甘え」の構造 [増補普及版]

1971年に出版されて以来「日本人論」「日本文化論」の代表的な著作のひとつとなった本である。

甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。

著者は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。著者はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。

親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。

だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。

たとえば「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係するという。すねるのは素直に甘えられないからであり、しかし実際はすねることで甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」は、いずれもすねが高じ、なお甘えられない結果である。ひがむのは、甘えたいのに自分だけが甘えられないと曲解することである。ひねくれるのは、甘えないでかえって相手に背を向けることだが、どこかに甘えの感情があるからそうなるのだ。

ある欧米の研究者は、日本語の「甘え」にあたる心理を「受身的対象愛」という用語で表現し、研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。さらに甘えが挫折した結果として起こる特殊な敵意を表す「うらむ」という語もあることを知って、いたく感激したという。

著者は、この他「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」など日本人に馴染みの感情を甘えの心理との関係で分析していくが、ここでは省略する。ここでは最後にひとつだけ「遠慮」という言葉と甘えとの関係を取り上げよう。

「遠慮」という日本語は、現代では人間関係の尺度を測る意味合いで使われるようである。たとえば親子の間には遠慮がないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えにどっぷりと浸かっているからである。この場合、親も子供もたがいに遠慮がない。親子関係以外の関係では、親しみが強いほど遠慮は少なく、親しみが薄くなるほど遠慮は増す。親友同士は遠慮がないが、遠慮を感じる友人もいる。要するに日本人は、できれば遠慮のない関係がいいと感じ、遠慮し合う関係をあまり好ましいとは思っていない。これも、日本人がもともと親子関係、とくに母子関係に典型的な一体感をもっとも望ましいものとして理想化しているからだろう。

タテ社会の人間関係

2015-05-10 22:44:41 | 書評:日本人と日本文化
◆『タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

代表的な「日本人論」「日本文化論」とひとつとだろう。1967年初版発行だから『甘えの構造』よりは4年早い。『甘えの構造』の中でも、甘えとの関係でこの本について言及している。

甘えは本来人間に共通の心理現象でありながら、日本語の「甘え」に当たる言葉は欧米語には見られない。この事実は、甘えの心理が日本人にとって身近であるばかりでなく、甘えを許容するような社会構造が日本には存在することを物語る。「甘え」という言葉は、日本の社会構造を理解するためのキー概念ともなるのではないか、日本社会で甘えが重要な働きをすることは、『タテ社会の人間関係』でいうタテの社会構造と一体をなしているいるのではないかと土井は指摘する。

甘えとタテ社会とは、どのようにつながるのだろうか。日本がタテ社会だというのは、タテの人間関係つまり上下関係が厳しいということだという誤解があるかもしれない。しかしこれは俗説であり、欧米の会社での管理者と労働者との上下差の方がはるかに大きく、厳しいという面もある。

タテ社会とは、ヨコ社会と対をなす概念である。日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。自分を記者、エンジニア、運転手などと紹介するよりも、「A社のものです」「B社の誰々です」という方が普通だ。これは、場すなわち会社・大学などの枠が社会的な集団認識や集団構成に大きな役割を果たしているということである。すなわち記者、エンジニアなどの資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっているということである。

日本の労働組合が、企業という枠を超えた職種によるヨコの組織になっておらず、職種の違いに関係なく企業単位の組合になっていることは、場や枠を重視する日本のタテ社会の特徴をみごとに現している。

「タテ社会」日本の基本的な社会構造が、企業別、学校別のような縦断的な層化によって成り立っているのに対し、「ヨコ社会」は、たとえばインドのカースト制度や西欧などの階級社会のように横断的な層化をなしている。「ヨコ社会」では、たとえば職種別労働組合のように資格によって大集団が構成され、個人の生活や仕事の場にかかわらず、空間的な距離を超えて集団のネットワークが形成される可能性がある。

日本人にとって「会社」は、個人が一定の契約関係を結ぶ相手(対象・客体)としての企業体というより、「私の会社」「ウチの会社」として主体的に認識されていた。それは自己の社会的存在や命のすべてであり、よりどころであるというようなエモーショナルな要素が濃厚に含まれていた。つまり、自分がよりかかる家族のようなものだったのである。もちろん現在このような傾向は、終身雇用制の崩壊や派遣労働の増加などで、かなり失われつつある。しかし、それに替わってヨコ社会が形成されはじめたわけではなく、依然として日本の社会は基本的にタテ社会である。

終身雇用制が崩壊していなかったころは、会社の従業員は家族の一員であり、従業員の家族さえその一員として意識された。今でもその傾向はある程度残っているだろう。日本社会に特徴的な集団は、家族や「イエ」のあり方をモデルとする「家族的」な集団でなのである。そして家族が親と子の関係を中心とするのと同様の意味で、集団内のタテの関係が重視される。そこでは、家族的な一体感や甘えの心理が重要な意味をもってくるのは当然である。