「霊視は本当か?」を考えた哲学者たち
人間は不思議な生き物である。科学・技術の進歩によって物質文明を謳歌しているかと思えば、反対に精神世界(スピリチュアル)的なものを信じて、霊視占いの類に傾倒したりすることもあるのだから。それは今に始まったことではなく、昔から霊的な存在を信じ、視霊者の占い、予言に耳を傾けてきた人は権力者から庶民まで幅広く、その伝説、記録は数知れない。
日本では霊が憑依することでそのお告げを知らせる口寄せ巫女がその代表であろう。だが、その一方で霊の存在の有無をめぐって議論が繰り広げられてきた。実は、流行好きの評論家や科学者だけではなく、名だたる真面目な哲学者までもがこの問題に取り組んできた。そこで、今回は秋の夜長談義として、霊視に関する哲学を紹介したい。
霊の存在が不思議なのは、一般人にはたいてい見えないばかりか、触ることも嗅ぐこともできないこと。またどんな探知機にも反応しないわけで、はっきり言って科学的、常識的感覚ではまったくお手上げなわけ。なので、特殊な感性を生まれつき持った者、精神世界に通じるための修行を積んだ者しかその存在を感じられないという理屈になる。そもそもこんな厄介なものに哲学者が真剣に取り組むこと自体不思議なことではないか。これについて、これから紹介する18世紀ドイツ哲学者、カントがぼそりとこうつぶやく。
「哲学はその自惚れゆえに、いかなる空虚な問いにも答えようとする」
哲学者とはつくづく大変な職業である。
「形而上学の夢によって解明された視霊者の夢」というタイトルの論文をカントは初期研究の中で著述している。夢という言葉が二度も出てくることから分かるように、霊は夢とよく似たものと見ているのだ。つまり、霊が存在するとするなら、それは非物質的な存在であり、にもかかわらず見える人には見えるし、その声まで聞こえるものなのである。それは身近なところで言えば、夢がまさにそれに当たるというわけだ。ちなみにカントは非物質的な存在を信じており、「非物質的な本性のものが生命の原理」と位置づけている。
さて、霊が非物質的で夢のようなものだとすると、それはあくまで夢想者の内部でイメージされる存在に過ぎないのであるが、視霊者はそれとはかなり事情が異なる。
「視霊者は自分の周囲に実際に知覚する他の事物の間の外的な場所に、幻影ではなく何か対象があると報告するからである」
これは精神錯乱したものにおいて、たとえば無いものを有ると叫んだり、それに怯えたりすることがあるが、そのような現象に似ていないか。
「この病気の特徴は、彼の想像力の対象に過ぎないものを自分の外部に移転し、現実に彼の前に現在する事物とみなす点にある」とカントも言っている。そして視霊者は、「他世界の半市民とみなしたりせず、はっきり言えば(精神)病院に入るべき者」と付け加える。
私自身の見解として、視霊者をすべて病院送りにすべきとは思わない(入院すれば治るとも限らないし)が、視霊のペテンを故意に広範に撒き散らしたり、人を不幸に陥れる霊感商法者のような者たちは病院ではなく、刑務所に入れるべきである。
さて、カントの「視霊の夢」を引き継いで発展させたのが、「視霊とこれに関連するものについての研究」を著した19世紀ドイツ哲学者のショーペンハウアー。過去コネタでも何度か登場した人物で、その該博な知識と文学的センスを生かして専門家向けの哲学書だけでなくさまざまなテーマの哲学的エッセーも残している。氏もカントと同じく霊を夢のような幻覚と認識しているのは共通だ。
「幽霊現象は、覚醒時の夢と名付けられることができる」
「夢と同様に単なる表象であるため、ただ認識する意識のなかにのみ存在する」
だが、霊の正体が夢だったとしても、それはときに明瞭な映像で客観的なストーリーを描き出すことがあり、さらに将来の出来事を言い当てる正夢だってある。実際、ドイツの文豪ゲーテはそうした稀有な体験をしているという。
「彼は道すがら逆方向から馬でやって来る己の姿を見た。しかもその服装は、じじつ8年後行われた再訪時の服装そのままであった」(詩と真実11巻)
これはどういうことか。ショーペンハウアーいわく、人には「夢の器官」なるものが存在し、覚醒時の通常の感覚では感じ取れない将来起こりうることを夢を通して本人に暗示しているのだという。この見解はなかなかに神秘的である。ゲーテへの暗示とは、「彼が先刻苦しい別離をしてきた恋人を再訪すべく8年後に同じ道を逆の方向からやってくる己自身の姿を見せてくれた。悲しみの只中にあるゲーテに再び恋人に会えることを告げるため、一瞬間未来のベールを上げてくれたのだ」
この解釈が真実なら、自然は何と人間に慈悲深いことであろう。
霊学研究で知られるハンガリーの思想家、シュタイナーも、霊視の修行次第で夢に「高次の現実が啓示されるようになる」といい、さらに、修行が進むと「夢の状態を覚醒時の意識の中に持ち込める」のだそうだ。氏にとっては霊は実在しており、色も形もあって、修行を積むことでそれが見られるようになると説く。その修行内容は多岐に渡る。興味がある方は彼の著作を読んでみるとよい。