
「反日」を国是として、日本批判を繰り返す中韓に日本人観光客が行かなくなるのは当然だ(おまけに中国は大気汚染や食物汚染なども深刻だ)。だから、これは余計なお世話なのだ。
<日中韓、4年ぶりに大臣会合…観光客増に協力>
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150411-OYT1T50127.html?from=yartcl_popin
■日本と中国、韓国3か国の観光大臣会合が11日、東京都内で開幕した。
2006年から11年まで毎年行われてきたが、尖閣諸島や竹島を巡る日中、日韓の関係悪化などで中断し、4年ぶりの開催となった。
初日は日中、日韓、中韓の観光担当大臣が、それぞれ2か国会談に臨んだ。太田国土交通相は、中国の李金早・国家観光局長との会談で「日中韓が一緒に欧米などから人を呼び込むことが大事だ」と述べ、両国の観光面での協力で一致した。
韓国の金鍾徳・文化体育観光相との会談では、2018年の平昌(ピョンチャン)冬季五輪、20年の東京五輪・パラリンピックへ向け、観光振興のための共同事業を行うことで合意した。
最終日の12日には3か国が協力して観光客を増やすことなどを盛り込んだ共同声明を採択し、閉幕する。■

<日中韓の行き来1・5倍目標…観光客減に危機感>
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20150412-OYT1T50068.html?from=ytop_main5
■日本と中国、韓国の観光大臣会合は12日、3国間を行き来する人を、2020年に14年の約1・5倍の3000万人に増やす目標を掲げた共同声明を採択し、閉幕した。
旅行者を増やす手段として、航空路線の充実やクルーズ船の就航促進、姉妹・友好都市間の交流ツアーの実施などが盛り込まれた。18年の韓国・平昌ピョンチャン冬季五輪や20年の東京五輪を見据え、欧米などに東アジアをPRする共同キャンペーンを展開していくことも明記した。
日中韓観光大臣会合は06年から11年まで毎年開かれていたが、尖閣諸島や竹島を巡る関係悪化などで中断してい多。再開の背景には、中国、韓国が日本からの観光客の減少に危機感を強めたことがある。JTB総合研究所によると、14年に中国、韓国を訪れた日本人はそれぞれ271万人、228万人で、いずれもピークより3割以上減った。■
国交省のロボットと化している公明党出のこの無能大臣は、反日政策やプロパガンダについて、中韓にきちんとクギを刺したのか?どうせ建前に終始して何も言えかったのであろう。無意味な会合である。
だから、こんな勘違い発言が韓国紙に載るのだ。
<ソウル以外の魅力アップを 日本人観光客減少に韓国長官>
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/04/12/2015041200563.html?ent_rank_news
■【東京聯合ニュース】韓国と中国、日本の3カ国による観光担当相会合に出席するため訪日している韓国の金鍾徳(キム・ジョンドク)文化体育観光部長官は11日、聯合ニュースとのインタビューで、日本人観光客が減少していることに絡み「(日本人は)ソウルはほぼ見尽くしたのではないか。観光客を呼び戻すためには地方の観光コンテンツを開発しなければならない」と強調した。
韓日関係の冷え込みやウォン高・円安の影響で、日本を訪れる韓国人が増える一方、訪韓する日本人はここ2年間で約35%減少。昨年は韓国を訪問した日本人の数が6年ぶりに訪日韓国人数を下回った。
金長官は同日、東京都内のホテルで太田昭宏国土交通相と会談。両国の観光交流促進に向けた10大共同事業を推進することで一致した。太田氏から韓国の地域観光地やグルメなどに関する紹介を求められ、地方空港活性化を通じた周辺を観光コンテンツやテンプルステイの強化を推進する計画を説明したという。■
日本人は今、韓国自体に嫌悪感を感じているのだ。都市の魅力とかコンテンツの問題ではない。韓国各地に、慰安婦像を立てて観光客を誘致するつもりか?
もっとも中国は、抗日戦争記念館などのほかに、全国に「勝利館」なるものを建てているというが、日本人が行くはずもない。<【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(2)前半】習近平中国が血道を挙げる「勝利館」建設“抗日ビジネス”>http://www.sankei.com/world/news/141225/wor1412250011-n1.html
勘違いと言えば、この男もそうだ。
<【安倍政権考】翁長沖縄知事「敵意」むき出しで首相と面会して何を得ようとしているのか>
http://www.sankei.com/premium/news/150413/prm1504130002-n1.html

■菅義偉(すが・よしひで)官房長官と沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事による5日の初会談は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古への移設をめぐって双方が主張を譲らず、「平行線」に終わった。翁長氏は政府の辺野古移設方針を「上から目線」「政治の堕落」となじり、両氏が一致したのはこの会談を「第一歩」として今後も協議を継続することだった。翁長氏はこの場で安倍晋三首相との会談を要求したが、何を見いだそうとしているのか。
「翁長」コールに押され…
会談が行われた5日午前。那覇市内のホテル近くには数百人規模の辺野古移設反対派が集結した。沖縄県警は警察官をホテル周辺に大量動員し、大がかりな警備を実施した。
「頑張れ、頑張れ、翁長」
翁長氏を乗せた乗用車が反対派の前を通ると騒然となり、翁長氏は車の窓を開け、手を挙げて歓声に応えた。翁長氏は昨年11月の知事選で、辺野古移設に向けた政府の埋め立て申請を承認した当時現職の仲井真弘多(なかいま・ひろかず)氏を破った。その原動力となった辺野古反対派の声援を背に、菅氏が待つ会場に入った。
会談は約1時間と決められていた。両氏は握手するも笑みはなく、テーブルを挟んで向かい合った。
菅氏は、安全保障の観点から日米同盟による抑止力維持と、住宅街に囲まれる普天間飛行場の危険性を早期に除去するためには「辺野古移設は唯一の解決策だ」として理解を求めた。
翁長氏の態度は苛烈を極めた。
「危険除去のために(代替施設を)沖縄が負担しろという話をすること自体が日本の政治の堕落だ」
「官房長官は(辺野古移設の工事について、)『粛々』という言葉を使うが、問答無用の姿勢だ。上から目線で、使えば使うほど県民の怒りは増幅する」
「新基地は絶対に建設できないと確信を持っている」
「国民や県民を洗脳するかのように辺野古が唯一の政策だと言うが、辺野古ができなければ本当に普天間が固定化されるのか」・・・・・・・・■
言いたい放題である。これに対する森本氏の分析は的確だ。
■em>辺野古移設「賛成」の民意は
菅氏はしかし、6日のBSフジ番組で、日米両政府が合意した名護市辺野古以外に移設先を検討する選択肢は「ない」と明言した。
一方、政府批判を繰り広げた翁長氏だが、菅氏から求められてきた普天間の「危険除去」について具体策を示さなかった。元航空自衛官であり、野田佳彦政権時代に防衛相として当事者として普天間移設にかかわってきた森本敏(さとし)氏は、同じBSフジ番組で「日米安保をどう考えるかというのは、まさに政治の責任であり、国の責任であり、沖縄の責任でもある」と指摘した。中国が不当に領有権を主張し、公船が周辺海域を執拗(しつよう)に領海侵犯する尖閣諸島は沖縄県(石垣市)に属する離島だ。尖閣だけではなく、南西地域はいまや日本政府が防衛強化する対象になっている。
・・・・・・・・・・
森本氏は「(菅、翁長両氏の会談が)平行線になっている理由は、必ずしも同じ次元で議論がされていないからだ」とも指摘する。「抑止(力)をどう考えるのか。国は国、県は県の立場から本音で話し合い、対話の内容がより実質的になるのが期待される。それがこれからの目標だ」とも求めた。
首相との会談のタイミングは
今後の焦点は、首相と翁長氏による会談の実現可能性に移っている。
翁長氏が首相との会談を求めた理由は明らかではない。初めて顔を合わせた菅氏にいきなり要求したのは、首相でなければならない理由があるからだろうか。ただ首相に会い、菅氏のときと同じように、自らの主張をひたすら開陳するだけならば、支持者向けの政治的パフォーマンスのためだけに首相を引きずり出したとのそしりは免れない。・・・・・・・・・・・■
辺野古移設反対派の支持を失うまいと汲々とする醜いパフォーマンス政治家(もどき)である。
今日も沖縄在住のブロガーの<狼魔人日記>から引用しておきたい。
<龍柱建設、断念か?!>
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925

■翁長県知事を筆頭に、知事を支援する沖縄のサヨクは、中国の尖閣近海の領海侵犯や東南アジアの露骨な拡張主義の況をまったく無視して、辺野古移設反対を叫んでいる。
こんな状況で中国へいく知事の心中は中国崇拝と東南アジア蔑視が雑居している。 沖縄に住んでる何も知らずに「米軍出て行け」と叫んでいるない人達は、本当は可哀相だな人達かもしれない。
この人達は中国が小笠原近海のサンゴを根こそぎ盗み去ったことや、南シナ海の軍事目的の岩礁埋め立て工事には全く無関心である。
中国に利する工事には無関心で、日米同盟に利する工事にはすべて反対するのが「平和活動家」というから、わかりやすい。(苦笑)・・・・・・・・・・・■
全く同感である。
ちなみに、「龍柱」について、反対署名サイトで「中止は当然です。朝鮮の迎恩門じゃあるまいし」という書き込みを見た。
「迎恩門」とは、wikiによると・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%8E%E6%81%A9%E9%96%80

迎恩門(げいおんもん、ヨンウンムン)は、1896年まで存在していた門(牌坊)である。現在は、大韓民国ソウル特別市西大門区峴底洞(ヒョンジョドン)101番地の独立公園内の独立門の正面に、2本の迎恩門柱礎だけが残っており、大韓民国指定史跡第33号となっている。
この門は、漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道に建てられていた。中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮の歴代の王が、中国の皇帝の使者を迎えるための門であった。1407年には慕華楼という使臣のための建物が建てられていたが、1536年に金安老の建議でそのそばに「迎詔門」を立てた。しかし1539年に明の使臣で来た薛廷寵は、使臣は中国皇帝の詔書や勅書や下賜の品々を持ってくるのに、門の名前が「詔だけを迎える」ではおかしいと言いがかりをつけ、朝鮮側は名前を「迎恩門」に変えた。1606年に来た明の使臣朱之蕃が書いた門の扁額が国立古宮博物館にある[1]。
日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制から李氏朝鮮は離脱した。 こうして大韓帝国が成立、独立協会は迎恩門を取り壊し、1897年に独立の記念として新たに独立門を同じ場所に建てた。迎恩門に隣接して建てられていた慕華館は独立門建立時に独立館に改名された。
崔基鎬によると、迎恩門は明代および清代に朝鮮国王が三跪九叩頭の礼によって使者を迎えた場所である[2]。崔基鎬は、
1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。(中略)1893年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本には名紋だ。その歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった
と評している[3]。崔基鎬 『韓国 堕落の2000年史 日本に大差をつけられた理由』 祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉
日本には不要な門なのだ。もちろん龍柱も不要である。