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聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

MCS(化学物質過敏症)の人を助ける ~ 聖書

2021年09月09日 | 日記
数日前から「化学物質」を取り上げ投稿しています。
私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌,パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。


ここ最近、化学物質過敏症(MCS)で少しずつ認知されてきましたが
エホバの証人の発行する「目ざめよ!」誌の内容は世界で一番早く、正確で正しい情報と思います。
だいたい5~10年は情報が早いです。

代表的なものとして「児童労働-1999」「睡眠負債-1995」

 

「化学添加物は有害ですか」1970-10/8

「化学物質 ― 友であり敵でもある?」1998-12/22

「化学物質が病気の原因となるとき」2000-8/8

 

 

 

 

MCSの人を助ける

オーデコロンであれ,洗剤であれ,一般に広く使われている化学物質に対して過敏な反応の出る人は,医療上の問題だけでなく,社会的な問題も抱えることになります。
人間は本来,他の人との交友を楽しむものです。しかし,化学物質過敏症(MCS)は,普通なら温かくて陽気な人を,孤独な生活スタイルへと押しやります。
MCSに悩むシェリーは,「健康上の問題はこれまでにもいろいろ経験したことがありますが,これは最悪です。いちばんつらいのは,人から孤立してしまうことです」と述べています。

残念なことですが,MCSに悩む人はどこか風変わりな人と思われることがあります。理由の一つに,MCSというのが複雑な現象で,まだ世間によく認知されていない,という点が挙げられます。
しかし,MCSについてあまり知らないからといって,疑い深い目でその人たちを見るべきではありません。「アメリカの家庭医」誌は,「それらの人たちは,その症状の結果として大いに苦しんでいる」と述べています。

MCSにはなぞの面が多く,あまりよく理解されていないからといって,それをかかえる人に不信感を表わすべきではありません。
賢明な人はむしろ,箴言 18章13節にある原則を導きとするべきです。「聞かないうちに返事をするなら,それはその人の愚かさであり,恥辱である」。
病気の人に対してであれば,なおのことクリスチャン愛を偏りなく示すほうがはるかに勝っているのではないでしょうか。
将来,医学がどんなことを明らかにするにせよ,そのような愛を示したことを後悔することは決してないはずです。

 

キリストのような愛を示す

クリスチャンの愛はいわばダイヤモンドのようで,個々の状況や必要にかなった,幾つもの美しい面を持っています。友人にMCSの人がいるなら,わたしたちの持つキリストのような愛は,感情移入によって光り輝くべきです。
そうするなら,自分を相手の立場に置くことができます。また愛は,『自分の利を求めない』,つまりあえて自分の権利を追い求めない,と言えます。
他の人の福祉を優先させるのです。愛は,わたしたちが『辛抱強く,すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を忍耐する』よう助けます。そのような愛は「決して絶えません」。

「愛は辛抱強く,親切です。愛は嫉妬しません。愛は自慢せず,思い上がらず,下品な振る舞いをせず,自分のことばかり考えず,いら立ちません。愛は傷つけられても根に持ちません。
愛は不正を喜ばないで,真実を喜びます。愛は全てのことに耐え,全てのことを信じ,全てのことを希望し,全てのことを忍耐します。愛は決して絶えません。一方,預言する能力があっても,それは除き去られます。さまざまな言語があっても,それはなくなります。知識があっても,それは除き去られます」。
(コリント第一 13:4~8)

メアリーはMCSを患ってはいませんが,友人の中にはそれに苦しんでいる人がいます。メアリーは,「自分としては香水が好きですが,MCSの人を訪ねるときには,つけていきません」と書いています。メアリーは自分なりの方法でイエスに見倣って,「わたしは助けになりたい」と言っているのです。

『イエスはかわいそうに思い,手を伸ばして男性に触り,「そう望みます。良くなりなさい」と言った』。
(マルコ 1:41)

トレバーは幼いころにMCSになりました。その母親は,「一緒に働いていた人たちは,息子のことを考えて相当の努力を払ってくれた」と言っています。オーストラリアに住むジョイも重度のMCSに悩まされています。ジョイは,友人や親戚がいつも訪ねてくれ,問題を理解していることを示してくれるとき,とても励まされる,と述べています。

一方,MCSをかかえる人も,自分の周りで香水を使っている人に対して辛抱強くあるべきです。前の記事で登場したアーネストは,本誌に対して,「わたしたちの病気は,自分が負わなければならない重荷です。だれでも問題をかかえているとは思いますが,助けていただければ,うれしく思います」と述べています。そうです,どんな場合でも,協力を強いるのではなく,お願いするのが最善の方法です。
ロレーンは,「香水やオーデコロンをつけている人から,具合が悪そうですねと言われたら,『香りに敏感なんです。今晩は特にひどいみたい』と答えます。識別力のある人なら,たいていはそれだけで理解してくださいます」と述べています。もちろんこれは,MCSに悩む人が,助けの必要なことを友人に親切に思い起こさせてはならない,という意味ではありません。

もっと明るい面として,先に引用したパムは,「いま味わっている苦しみはすべて,ほんの一時的なものです」と書いています。パムはなぜ,「ほんの一時的」と述べるのでしょうか。
彼女は,神の王国が間もなくすべての苦しみを除き去るという,聖書に基づいた希望を抱いているからです。神の王国は,どんな健康な人でもいずれ直面しなければならない死をさえぬぐい去ります。

「この王たちの時代に,天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。その王国はほかのどんな民にも渡されません。これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,その王国だけが永遠に存続します」。
(ダニエル 2:44)

『その時,王座から大きな声がした。「見なさい! 神の天幕が人々と共にあり,神は人々と共に住み,人々は神の民となります。神が人々と共にいるようになるのです。神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。以前のものは過ぎ去ったのです」』。
(黙示録・啓示 21:3,4)

それまでの間,有効な治療法が今のところ見つかっていない病気に耐えなければならない人は皆,神の王国支配のもとで,『「わたしは病気だ」と言う人のいない』時が来るのを心待ちにすることができます。

『「私は病気だ」と言う住民はいなくなる。その土地に住む人々は過ちを許される』。
(イザヤ 33:24)

わたしたちは,この現在の事物の体制で直面するいかなる試練にも忍耐しつつ,イエスのように,自分たちの前に置かれた報いを見つめるようにしましょう。

「信仰の導き手であり,その完成 者であるイエスに,わたしたちは目を注ごうではありませんか。イエスはご自分の前に置かれた喜びを捨てて,恥をもいとわず十字架を耐え忍ばれました。そして,神の玉座の右に座っておられます」。
(ヘブライ 12:2)

「私の兄弟たち,さまざまな試練に遭う時,それを喜ばしいことと考えましょう。ご存じの通り,そのようにして信仰の質が試されると,忍耐力が身に付くからです。 忍耐するのをやめないでください。忍耐がその役割を果たす時,皆さんは完全になり,全ての点で健全な,欠けたところがない人になります」。
(ヤコブ 1:2~4)

 

                       

 

 


内面的な調和 ~ 聖書

2021年09月09日 | 日記

内面的な調和

こんな状況を考えてみてください。さまざまな経歴の持ち主を40人集め,手分けして1冊の本を書いてもらいます。
40人は幾つもの国に分かれて住んでおり,全員がお互いを知っているわけではありません。他の人が何を書いたかを知らない人もいます。
そのようにして出来上がった本の内容は,果たして調和の取れたものとなるでしょうか。

聖書はそれと似た状況で書かれた本です。 
いえ,もっと難しい条件のもとで書かれました。それにもかかわらず,驚くほどの内面的な調和が見られます。

 


ユニークな背景。
聖書は,西暦前1513年から西暦98年ごろまでの1,600年ほどの期間にわたって書き記されました。
約40人の筆者の多くは,幾世紀も離れた時代に生きていたことになります。職業も様々でした。漁師もいれば,羊飼いや王もいました。医者も一人います。

 

調和の取れた内容。
聖書は一つのテーマを中心として書かれています。人類に対する神の支配権の立証と,世界政府である天の王国による神の目的の成就,というテーマです。
このテーマは「創世記」で紹介され,それに続く各書の中で展開され,「啓示・黙示録」の書で最高潮に達します。

 


細部も合致。
聖書の各書はごく詳細な点に関しても一致していますが,そのような調和の多くは,明らかに,筆者たちが意図したものではありません。
一例を挙げましょう。聖書筆者ヨハネの記録によると,大群衆がイエスの話を聞きに来た時,イエスはフィリポに,群衆に食べさせるためのパンをどこで買ったらよいかと尋ねています。

『この後,イエスはガリラヤ湖つまりティベリア湖の向こうへ行った。大勢の人がその場所に向かっていった。イエスが奇跡を行って病気の人たちを癒やすのを見たからだった。 イエスは山に登り,そこで弟子たちと座った。さて,ユダヤ人の祭りである過ぎ越しが近かった。イエスは目を上げて大勢の人がやって来るのを見,「この人々が食べるパンをどこで買いましょうか」とフィリポに言った』。
(ヨハネ 6:1~5)

同じ出来事を記録したルカは,これがベツサイダという都市のそばでのことであったと書いており,ヨハネの記録の初めのほうには,フィリポはベツサイダから来ていたと書かれています。

「使徒たちは帰ってきて,行ったことを全部イエスに報告した。イエスは使徒たちを連れ,自分たちだけでベツサイダという町に去っていった」。
(ルカ 9:10)

「フィリポは,アンデレやペテロの町ベツサイダから来ていた」。
(ヨハネ 1:44)

イエスは,近くに住んでいたことがある人に尋ねた,というわけです。このように細部も合致しており,しかも意図的に調和を図ったとは思えません。

 


違いはあるが矛盾はない。

記述に違いが見られることもあります。しかし,それは当然のことではないでしょうか。ある犯罪の目撃証人が幾人もいるとしましょう。
全員が同じ詳細な点を同じ表現で述べるなら,共謀が疑われるのではありませんか。それぞれ見る角度が異なるので,証言もいくらか異なっているのが自然でしょう。
聖書筆者についても同じことが言えます。

一つの例を考えましょう。イエスが亡くなる日に身に着けていたのは,マルコとヨハネが記録しているように,紫の衣でしたか。

「そして,イエスに紫の衣をまとわせ,いばらの冠を編んでかぶらせて」
(マルコ 15:17)

「兵士たちはいばらで冠を編んでイエスにかぶらせ,紫の長い衣を着せた」。
(ヨハネ 19:2)

それとも,マタイが述べているように,緋色の衣でしたか。

「そして,イエスの服を剝ぎ取って緋色の衣をまとわせ」
(マタイ 27:28)

実際のところ,どちらも正しいと言えます。紫には赤い色が含まれています。見る角度によって,また光の反射や背景によって,何らかの色彩が抑えられ,衣の色合いが違って見えたのでしょう。 

聖書の各書が調和しており,意図せずに一貫していることは,聖書が信頼に値することの一層の裏づけとなっています。