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2台に1台。日本のスズキが大国インドで異常に愛される理由~まぐまぐニュース ~

2017年04月06日 | 日記

 

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2台に1台。日本のスズキが大国インドで異常に愛される理由

一部引用
昭和57(1982)年、スズキはインドへの進出を決めたのだが、それはまさに「瓢箪から駒」から始まった。

パキスタン出張中の社員が、帰りのエア・インディア機中で現地の新聞を読み、「インド政府が国民車構想のパートナーを募集」という記事を見つけた。
その報告を聞いた鈴木は、「すぐにインド政府に申し込んでこい」と指示した。
日本では最後尾のメーカーだったので、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」という気持ちだった。

ところがすでに募集は締め切りになっていて、スズキの申し込みは断られてしまった。
鈴木は「いいか。セールスは断られたときからだ勝負だ。あきらめずに掛け合ってこい」と再び、社員を現地に派遣した。
その申し出も断られたが、3度目の掛け合いで、ようやく補欠で認められた。

しばらくして、突然、インド政府の調査団がやってくる、という連絡が入った。
運悪く、鈴木は前年に提携したばかりのGMとの話し合いで、アメリカに出張する直前だった。
なんとか羽田に向かう際の時間をやりくりして、一行の泊まっている帝国ホテルに表敬訪問をした。

30分程度のつもりだったが、先方が「作りかけの建物(工場)もすでにある」
というので、細かなレイアウトを描きながら、3時間くらい話し込んだ。先方も熱心に耳を傾けていた。

別れ際、いつまで日本にいるのか、と聞くと、「15日にはインドに帰る」という。鈴木が米国出張から戻るのは16日だった。
心残りだったが、「ぜひスズキの工場も見ていって下さい」と別れた。

米国から帰ると、インドの調査団が帰国を伸ばして、鈴木を待っていた。
彼らは、当然、他の日本メーカーとも話し合っていたが、
われわれと直接向かい合って、真剣に話を聞いてくれた社長は、ミスター・スズキだけだった。だから、もう一度、浜松に来たのです」と言った。
当時は、日米自動車摩擦が深刻化していて、日本の大手メーカーはインドのことまで本気で考えているところはなかったのである。


「個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは認めない」

調査団が帰国してから、2週間ほどで「基本合意書を交わしたいから、インドに来られたし」という連絡が入った。
社内は騒然とした。「誰かインドに行った者はいるか」と聞いても、誰もいない。
「そんなところでクルマがつくれるんですか」という疑問も出た。それでも乗りかかった船で、鈴木はインドに行って、調印した。

インド側の責任者クリシュナムーティは「日本的な経営で構わない。全面的に任せる」と言った。
ところが、実際にできかけの工場に行って見ると、幹部用の個室が作ってある。
「事務所のレイアウトは日本流でやるはずだ。こんな個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは絶対認めない」と、
できあがっていた壁をすべて取り払わせ、大部屋にした。まさに日本の中小企業のおやじそのままのやり方である。

昼食も労働者たちと一緒の食堂でとるという鈴木に、インド人幹部たちは非常な抵抗を示した。
鈴木は率先垂範で、毎月インドに行っては、昼食は社員食堂に行って、従業員と一緒に並んで順番待ちをした。
幹部たちは冷ややかな目で見ていたが、半年もすると一緒に並ぶようになった。

スズキ流では、幹部も作業服を着て、掃除もやる。
幹部たちは「掃除などは、カーストの低い人の仕事だ」と、言うことを聞かなかった。
鈴木は「ふざけるな」と怒って、「工場運営はスズキの主導でやることになっている。
それができないなら、インドにおさらばして日本に引き揚げる」と言った。

クリシュナムーティが「ミスター・スズキがそこまで言うのなら、従おうじゃないか」と仲裁してくれた。
そのうちに、リーダー格の人々が作業服を着て、現場のラインに出て行くようになった。日本流が浸透し始めた。


「息子の悲願が、ようやく今日、実りました」

実際に、車の生産を始めるにあたっては、従業員向けに15分ほどの短編映画『共に前進しよう』を作った。
鈴木自身のシナリオで、最初に戦争直後の日本の焼け野原を映し、それから発展した日本の姿を映す。
「ひとりひとりが一生懸命働いたから、日本もここまで復興できた」というメッセージである。

また、社員食堂で管理職と従業員が一緒に席を並べて食事しながら談笑している場面、
従業員が病気で仕事を休むと班長が夜、自宅まで見舞いに行く場面などを映して、日本流の工場運営とは、どんなものかを伝えた。

1983(昭和58)年12月14日、工場のオープニング・セレモニーには、インディラ・ガンディー首相も駆けつけた。
首相は「スズキがインドに日本の労働文化を移植してくれた」と称賛した。

また、この日は首相の亡き次男の誕生日だった。
次男は大の車好きで、国民車構想をぶちあげ、自ら工場建設を始めたのだが、飛行機事故で不慮の死を遂げていた。
この工場を引き継いだのが、スズキのプロジェクトだったのである。

ガンディー首相は「息子の悲願が、ようやく今日、実りました。息子が生きていてくれたら、さぞかし喜んでくれたでしょう」
と語った。子供を思う母親の気持ちは、どの国でも同じである。


「心と心が通い合うことが重要だ」


アルトをベースにした車を売り出すと、作るそばから売れていった。当時のインドでは、車は高関税もあって、普通の市民には手が届かない存在だった。
現地で「マルチ800」と呼ばれている車は、2代目アルトを持ち込んだものだ。
累計生産台数は270万台余に達していて、いまや「インドの国民車」と言っても過言ではない。

新車販売におけるシェアも、多目的車を除けばスズキが50%を超えている。
インドに行った日本人は、右を見ても左を見ても、日本で見慣れたスズキの「S」のマークのついた車を見て驚かされる。

鈴木会長は、インド・プロジェクトの基本契約を提携したとき、
インドでの記者会見で「人間は皆同じ。言語、風俗、習慣、環境が違っても、心と心が通い合うことが重要だ」と述べた。