今日の一貫

国家を考えさせたコロナとEU

最初にグローバル化と国家の役割について考えさせられたのは、ギリシャ危機の時だった。EUに諸属しているギリシャ危機は、明らかに中銀がなく金融政策がないという、国家にとって致命的な欠陥によると私は考えていた。紙幣発行権のない国家の悲劇である。
マクロ経済の常識から言えば、金融政策と財政政策の併用はどんな場合にも国家の有り様を決定していて、国民の豊かさを規定していくと私は考えている。それが国家と敷いてのガバナンスの基本であろう。
しかしながら財政危機に陥ったときのギリシャは、その通貨発行権のないいびつな国であった。通貨発行権を海外に依存すると言う日に国家としての体をなしていない国家だったのである。

また、GAFAのような世界企業の納税に関しても、その国での活動がその国に納税しないでケイマン諸島のようなタックスヘイブンに逃れる企業が出現しているのも、国家の税のシステムを破壊する行為ではないだろうか。

国民国家が担わなければならない基本は、民族と金融、財政と外交、防衛軍にある。徴税、外交、国家安全保障が基本だ。
その基本を脅かせば、たとえどのようなシステムでも国民の命や健康、安全を毀損することになる。

国家は民族国家でなければならないと常々思ってきたが、しかしリベラルな社会ではそうした考え方があまり許されていなかった。移民問題もしかりである。国家を失った移民は、人道的立場からもすべからく他の国家が受け入れるべきだという考えがリベラルには支配的である。EUもまたそうした考えの地域であった。

そうしたところにコロナが起きた。

イタリアの発症が当初はひどかったが途端にドイツは国境を閉鎖しドイツ自身で体制を組んで行った。中近東からの難民の増加でも維持されたEUのシェンゲン協定は、感染症が流行ればすぐに反故にされた。
EUの共同体はあっけなく国家を前面に押し出した。フランスやイギリスも同様で、いざとなれば人々の命を守るのは国家しかないことをあからさまに教えてくれた。

グローバルな社会の社会秩序に関して、この間多くの議論がなされてきたが、しかしそうした中での国民・国家のあり様に関しての議論は少なかった。むしろ世界市民としての個人の尊厳を言うユートピアが議論の中心だったのではないか。

20世紀は、リベラルな考えが浸透しすぎてきた世紀で、人類みな兄弟、格差是正、人種差別反対、そうした人道主義的な配慮から見れば、多様性こそが重要で、一見同質性を維持するような国家の境界をとりわけ意識させる政策は忌避されてきた。むしろ社会の発展と齟齬をきたすものだと言う発想が強かったように思われる。

グローバリズムを推進してきたのは、西欧近代化思想であり、リベラル思想であった。
そうした中で国家を考えることは保守反動と言われてきた。
だが、今回のコロナで試されたのが、そのリベラルであり、西欧近代思想が作り上げたグローバリズムでありEUであったのではないか。

同時にコロナは人と人との関係を明らかにしたといったが、それは差別や格差をも明白にした。最初はEUでの難民差別が話題になり、今や移民国家アメリカの黒人差別問題が火を噴いている。
国家が、民族国家であるとする定義からすれば、移民や奴隷を受け入れたアメリカは当初から国家維持に難題を抱えていた。しかしそれを州の自治の中に押し込めているうちはよかったが、ヒスパニックと違って、長い歴史のあるアメリカ住民としての黒人差別問題は、本来ならもうすでに解決していなければ課題だったのが、いまだに解決策を見ていないため、それをコロナがあぶりだしてしまった。解決策を見ないのは、理性に基づく西欧近代思想の限界のような気がする。もっといえば、人間の理性の限界であろう。

国家を意識することが必然ということは、その根底に家族やコミュニティを見るということである。
そうした延長で考えたいのが、経済安全保障ということである。

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