今日の一貫

コロナは国家の役割を再度発見させた

 

コロナは人間社会の脆弱性をついてきた。それを、最近よく資本の論理によるグローバルな一元社会の問題としてとらえ、代わってSDGsなどの多元社会の実現をポストコロナの社会の在り方として日露だとする論調がある。

確かにその要素はあり、決してそれを否定するものではないが、感染症が人類にとって永遠に戦い続けなければならない厄災だと考えれば、グローバリズムが蔓延を助長したとしてそれを批判しても何の解決策にもならないように思われる。

こうした主張には、もともとグローバリズムへの嫌悪感があるのだが、コロナが提起した課題は、わたしはこれは「国家の再定義の問題」であり、多元社会も、何でもが共存し、許容される社会というよりは、「メリハリのある多様な社会」ととらえた方がいいと考えている。

国家の議論として考えているのは市場の失敗と政府の失敗の議論である。コロナ以前の社会は、グローバリズムへの国家の関与の仕方を著しく後退させた社会であった。GAFAなどに対し、国家の関与の仕方がわからなくなった社会といってもいいかもしれない。そのアンチテーゼとして出てきたのが、国家資本主義である。

コロナで明らかにされたのは、様々あるが中でも、重要なのは人と人との関係性である。人と人との関係性は、単にソーシャルディスタンスの問題だけでなく、国と国との関係性でもあるだろうし、大きくは体制選択の問題でもあるような気がする。

コロナが人と人との関係にどのような変容を加えたかを見ると、中国の強権的ロックダウンと野戦病院の様な急ごしらえの病院への患者や市民の押し込めであり、そのことによるウイルスの封じ込めであった。
同時に、これまで国際社会の盟主とされてきた、自由と民主主義を価値観とする国々の迷走であった。アメリカはいうに及ばず、イタリアの感染当初に見る国家ガバナンスの脆弱さや、イギリスの集団感染といった誤った対応であり、EUの盟主ドイツの感染激化した諸国への支援どころか、国境遮断によって自国を守るおよそEUとは思えない利己的対応である。
だが、ウイルス対策には全体主義的な対応に親和性があるということをここでいいたいのではない。感染病への戦いはどんな国家であれ国家を基本としてなされた、ということを言いたいのである。いくらグローバル社会といっても、国家の役割を強烈に意識した国と、普段から国際協調を基本としてできうれば国家を超えた理想郷を求めてきた国とでは、様相が全く違った。もっと言えば、WHOなどの国際機関や、国を超えたワクチンや治療薬開発での国際協力は弱い環にあるということが明らかになった。

グローバル社会に国民の命や安全を守る基本単位は、国家であって、グローバル社会になればなるほど国家のガバナンス能力が問われる時代になってきたということになる。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2023年
2022年
人気記事