自然を求めて近辺ぶらり

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茅葺合掌造りのお寺・白川郷の明善寺郷土館を見学しました。

2018年11月08日 | 花・風景・紅葉
白川郷と明善寺
飛騨白川郷に浄土真宗の教えを最初に広められたのは嘉念坊善俊上人という。親鸞聖人から直接お話を聞かれた方です。集落ごとに聞法道場があって、それがお寺として成立していくわけですが、元禄の頃、荻町集落内のお寺の転派により、内ケ戸という集落にあった道場をこちらに持ってきて、その後延享元年(1744)には、明善寺の寺号をいただいて今日に至っている。(パンフレットより・以下茶色文字全て)


平日だというのに、この人出です。外国人旅行者の方を多く見かけました。太陽の熱で温められた茅葺き屋根から蒸気があがつています。


明善寺本堂 (右側の建物)


庫裏 (右側の建物) と本堂 (中央の建物)


本堂
今から約二百六十年前の延享五年創立。飛騨高山の国分寺の塔建立ゆかりの棟梁「水間宇助」により木積され、数年を要して建築された。延人足九千百九十一人と記され、厳選された良材の総欅材は、長い年月を経ても木おこりや割れ目が無く、優雅な風格ある彫刻とともに、山添いの風土的な庭園に包まれた茅葺き合掌の全国でも珍しい寺院です。





明善寺鐘楼門
明善寺創建以来造られたもので飛騨の匠の作で、述べ人足千四百二十五人を要したと記されています。上層屋根裏は御光垂木の茅葺き構造であり、茅葺きの鐘楼は合掌の本堂と相調和し、我が国建築美の極致を表現しています。梵鐘は黄鐘調にて地上を流れるように鳴り響き、人の心をとらえる銘鐘であり、鋳金美術の大家、越中高岡の中村儀一氏の作品です。



本堂




浜田泰介画伯の障壁画 (本堂)




明善寺庫裏 (居間)
今からおよそ二百年前の徳川末期に、飛騨高山の棟梁大工と地方の棟梁大工と、正副棟梁が協和して三年間の工作で完成したものです。かってドイツの高名な建築家、ブルーノ・タウト氏も「極めて論理的・合理的構造で、日本では全く例外に属する」と賞賛させた合掌造りは、釘、カスガイ等を一切使わず、クサビの外は「ネソ」(マンサクの若木)、「ワラナワ」でしめくくった特殊なもので、茅葺き屋根は雪を落とすため、六十度に近い急勾配になっています。白川郷の五階建て合掌造りとして最大随一の物です。階下建坪約百坪、念入りに建築された強固なもので、五階建の内部、良材の欅や檜の柱は梵火の煙で漆塗りのような光沢を放ち文字通り古代ビルディングの名にふさわしい壮観な建物です。



合掌造りの庫裏の屋根裏
幕末から昭和初期にかけて白川村では養蚕業が人々を支える基盤産業でした。屋根裏の大空間を有効活用するため小屋内を二〜四層に分け、蚕の飼育場として使用していました。蚕が繭になる時期になると蚕が大きくなるため、二層から四層も使い小屋内の全ての空間を使用していました。いわば「繭製造工場」として積極的に小屋空間を活用していたのです。



囲炉裏の火は「火種」を残すため一日中燃やされ、上の床は煙やススが屋根裏に上がるようにスノコ状になっています。




屋根裏から見た周辺の眺望




庫裏前のこの木はアブラチャンだと教えてもらいました。


結(ゆい)
白川村の春は屋根の葺き替えとともにやって来ます。秋に刈り取った茅(カリヤス)で広大な屋根面を葺きあげます。昔は四十年から五十年に一度葺き替えられていましたが、現在では「いろりを使う機会の減少」、「かやの種類の変化」等により、葺き替えの周期が短くなって来ています。茅葺き屋根の吹き替え作業は村民総出の「結」によって行われ、百人〜二百人の村民によって基本的に一日で吹き替えられます。(写真もパンフレットに掲載されているものです)