白川郷と明善寺
飛騨白川郷に浄土真宗の教えを最初に広められたのは嘉念坊善俊上人という。親鸞聖人から直接お話を聞かれた方です。集落ごとに聞法道場があって、それがお寺として成立していくわけですが、元禄の頃、荻町集落内のお寺の転派により、内ケ戸という集落にあった道場をこちらに持ってきて、その後延享元年(1744)には、明善寺の寺号をいただいて今日に至っている。(パンフレットより・以下茶色文字全て)
平日だというのに、この人出です。外国人旅行者の方を多く見かけました。太陽の熱で温められた茅葺き屋根から蒸気があがつています。

明善寺本堂 (右側の建物)

庫裏 (右側の建物) と本堂 (中央の建物)

本堂
今から約二百六十年前の延享五年創立。飛騨高山の国分寺の塔建立ゆかりの棟梁「水間宇助」により木積され、数年を要して建築された。延人足九千百九十一人と記され、厳選された良材の総欅材は、長い年月を経ても木おこりや割れ目が無く、優雅な風格ある彫刻とともに、山添いの風土的な庭園に包まれた茅葺き合掌の全国でも珍しい寺院です。


明善寺鐘楼門
明善寺創建以来造られたもので飛騨の匠の作で、述べ人足千四百二十五人を要したと記されています。上層屋根裏は御光垂木の茅葺き構造であり、茅葺きの鐘楼は合掌の本堂と相調和し、我が国建築美の極致を表現しています。梵鐘は黄鐘調にて地上を流れるように鳴り響き、人の心をとらえる銘鐘であり、鋳金美術の大家、越中高岡の中村儀一氏の作品です。

本堂


浜田泰介画伯の障壁画 (本堂)


明善寺庫裏 (居間)
今からおよそ二百年前の徳川末期に、飛騨高山の棟梁大工と地方の棟梁大工と、正副棟梁が協和して三年間の工作で完成したものです。かってドイツの高名な建築家、ブルーノ・タウト氏も「極めて論理的・合理的構造で、日本では全く例外に属する」と賞賛させた合掌造りは、釘、カスガイ等を一切使わず、クサビの外は「ネソ」(マンサクの若木)、「ワラナワ」でしめくくった特殊なもので、茅葺き屋根は雪を落とすため、六十度に近い急勾配になっています。白川郷の五階建て合掌造りとして最大随一の物です。階下建坪約百坪、念入りに建築された強固なもので、五階建の内部、良材の欅や檜の柱は梵火の煙で漆塗りのような光沢を放ち文字通り古代ビルディングの名にふさわしい壮観な建物です。

合掌造りの庫裏の屋根裏
幕末から昭和初期にかけて白川村では養蚕業が人々を支える基盤産業でした。屋根裏の大空間を有効活用するため小屋内を二〜四層に分け、蚕の飼育場として使用していました。蚕が繭になる時期になると蚕が大きくなるため、二層から四層も使い小屋内の全ての空間を使用していました。いわば「繭製造工場」として積極的に小屋空間を活用していたのです。

囲炉裏の火は「火種」を残すため一日中燃やされ、上の床は煙やススが屋根裏に上がるようにスノコ状になっています。


屋根裏から見た周辺の眺望


庫裏前のこの木はアブラチャンだと教えてもらいました。

結(ゆい)
白川村の春は屋根の葺き替えとともにやって来ます。秋に刈り取った茅(カリヤス)で広大な屋根面を葺きあげます。昔は四十年から五十年に一度葺き替えられていましたが、現在では「いろりを使う機会の減少」、「かやの種類の変化」等により、葺き替えの周期が短くなって来ています。茅葺き屋根の吹き替え作業は村民総出の「結」によって行われ、百人〜二百人の村民によって基本的に一日で吹き替えられます。(写真もパンフレットに掲載されているものです)
飛騨白川郷に浄土真宗の教えを最初に広められたのは嘉念坊善俊上人という。親鸞聖人から直接お話を聞かれた方です。集落ごとに聞法道場があって、それがお寺として成立していくわけですが、元禄の頃、荻町集落内のお寺の転派により、内ケ戸という集落にあった道場をこちらに持ってきて、その後延享元年(1744)には、明善寺の寺号をいただいて今日に至っている。(パンフレットより・以下茶色文字全て)
平日だというのに、この人出です。外国人旅行者の方を多く見かけました。太陽の熱で温められた茅葺き屋根から蒸気があがつています。

明善寺本堂 (右側の建物)

庫裏 (右側の建物) と本堂 (中央の建物)

本堂
今から約二百六十年前の延享五年創立。飛騨高山の国分寺の塔建立ゆかりの棟梁「水間宇助」により木積され、数年を要して建築された。延人足九千百九十一人と記され、厳選された良材の総欅材は、長い年月を経ても木おこりや割れ目が無く、優雅な風格ある彫刻とともに、山添いの風土的な庭園に包まれた茅葺き合掌の全国でも珍しい寺院です。


明善寺鐘楼門
明善寺創建以来造られたもので飛騨の匠の作で、述べ人足千四百二十五人を要したと記されています。上層屋根裏は御光垂木の茅葺き構造であり、茅葺きの鐘楼は合掌の本堂と相調和し、我が国建築美の極致を表現しています。梵鐘は黄鐘調にて地上を流れるように鳴り響き、人の心をとらえる銘鐘であり、鋳金美術の大家、越中高岡の中村儀一氏の作品です。

本堂


浜田泰介画伯の障壁画 (本堂)


明善寺庫裏 (居間)
今からおよそ二百年前の徳川末期に、飛騨高山の棟梁大工と地方の棟梁大工と、正副棟梁が協和して三年間の工作で完成したものです。かってドイツの高名な建築家、ブルーノ・タウト氏も「極めて論理的・合理的構造で、日本では全く例外に属する」と賞賛させた合掌造りは、釘、カスガイ等を一切使わず、クサビの外は「ネソ」(マンサクの若木)、「ワラナワ」でしめくくった特殊なもので、茅葺き屋根は雪を落とすため、六十度に近い急勾配になっています。白川郷の五階建て合掌造りとして最大随一の物です。階下建坪約百坪、念入りに建築された強固なもので、五階建の内部、良材の欅や檜の柱は梵火の煙で漆塗りのような光沢を放ち文字通り古代ビルディングの名にふさわしい壮観な建物です。

合掌造りの庫裏の屋根裏
幕末から昭和初期にかけて白川村では養蚕業が人々を支える基盤産業でした。屋根裏の大空間を有効活用するため小屋内を二〜四層に分け、蚕の飼育場として使用していました。蚕が繭になる時期になると蚕が大きくなるため、二層から四層も使い小屋内の全ての空間を使用していました。いわば「繭製造工場」として積極的に小屋空間を活用していたのです。

囲炉裏の火は「火種」を残すため一日中燃やされ、上の床は煙やススが屋根裏に上がるようにスノコ状になっています。


屋根裏から見た周辺の眺望


庫裏前のこの木はアブラチャンだと教えてもらいました。

結(ゆい)
白川村の春は屋根の葺き替えとともにやって来ます。秋に刈り取った茅(カリヤス)で広大な屋根面を葺きあげます。昔は四十年から五十年に一度葺き替えられていましたが、現在では「いろりを使う機会の減少」、「かやの種類の変化」等により、葺き替えの周期が短くなって来ています。茅葺き屋根の吹き替え作業は村民総出の「結」によって行われ、百人〜二百人の村民によって基本的に一日で吹き替えられます。(写真もパンフレットに掲載されているものです)

茅葺き屋根の明善寺本堂 などを詳しく解説されて、中の様子・建築技術などを学びました。
豪雪地帯なので、お寺も茅葺き屋根にしないと、雪の重さに耐えられないのだと思います。
江戸時代に白川郷の方々が力を合わせて、この明善寺を建てられたのは、信仰心が高い地域だからだと感じました。
現在は、良質なカヤを集めるのに、苦労する時代だそうです。今後のメンテナンスは、かなり大変と予想されています(数年がかりでカヤを蓄えるそうでうす)。また、解説されているようにいろりを使わないので、カヤの寿命は短くなっています。便利な文明は進みましたが・・
白川郷は雪深い土地だけに、合掌造りの急傾斜の屋根は理にかなったものですね。
ご指摘のように、最近は囲炉裏を使う家がだんだんと減って来ているようです。
目立たない色に塗られた、エアコンの室外機を取り付けられた家が多いです。
こういう建物は、煙で燻すからこそ長持ちするのでしょうが、
生活様式が変わって来て、それも難しくなりつつあるようですね。
おはようございます。
白川郷ではお寺まで合掌造りなんですね。
お寺の鐘楼が合掌造りには驚きました。
これだけ大きな合掌造りの屋根をふくのにはどれだけの茅がいるのでしょうね?!
大きな茅場が必要でしょうね。「結」の組織はなくてはならないものだと言うことがよくわかります。
白川郷は、昔一度訪れましたが、全く記憶はありません。
まもなく冬の季節を迎えて雪が積もった白川郷の風景が有名ですが、紅葉の時期の郷は見応えありますね。
紅葉の美しさは、白川郷のみならず日本の遺産ですね~
お寺も鐘楼も合掌造りというのは珍しいと思いますね。
以前何かで見たような記憶があるのですが、村で大きな茅場を所有されているようです。
茅をストックする場所もあるようですよ。一年ぶんの茅では不足するのでしょうね。
屋根の葺き替えは、お互いの助け合いで成り立っているのですね。
白川郷というと雪景色が浮かびますが、紅葉の季節も素晴らしいですね。
今は、東海北陸道もできて、訪れるのも、ずいぶん便利になりました。
その分、観光客でごった返しています。昔のような風情はなくなりましたね。
明善寺は浄土真宗なのですね!
屋根が違うだけで内部は当地のお寺と違わないようです。
屋根の彫刻もあり、内部も広いですね。
鐘楼の姿は屋根が重くはないかと?
資料館になっているのですか?
蛍光灯があり、近古の同居が面白いです。
観光地だけに観光客も多いですね!
いい思い出になりましたね!
明善寺は浄土真宗ですね。飛騨周辺は、真宗王国と呼ばれるほど浄土真宗の信仰が厚いところのようですよ。
そうですね。お寺の内部は普通のお寺さんと変わりがないですね。
柱も梁も太いものが使ってあるので、かなりの重さには耐えうる構造になっているようです。
このお寺の庫裡は、囲炉裏が使われていましたが、あとは一般家庭と同じような生活をされているのでは
ないのでしょうか。
観光客の数は半端ではないですね。かなり昔になりますが、私が最初に訪れた時は、観光客も少なかったのですが、
今の人出は都会の繁華街並みですね。
今日のブログは興味深く見ました。
本堂の作りの素晴らしさ、村民総出の屋根の吹き替え作業など、写真を見せていただき、村の人達の日々の努力の上での、美しさに、
胸がジーンときます
自然の素材で作ると、建造物になっても命を持っているかのように見えます。
茅葺き屋根の吹き替え作業は村の人が総出で、順番に助け合って行うのですね。
日本人の原風景、後世に長く受け継がれていきますように…