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好きな漫画やBL小説の二次小説を書いています。
作者様・出版社様とは一切関係ありません。

凛として咲く花の如く(後編)

2024年09月27日 | 火宵の月 昼ドラパラレル二次創作小説「凛として咲く花の如く」
「火宵の月」二次小説です。

作者様・出版社様とは一切関係ありません。

二次創作・BLが嫌いな方はご注意ください。


その日の夜、雲居の御息所邸で、歌会が開かれた。

「皆様、今宵は来てくださってありがとう。」

そう言って客人達に挨拶した雲居の御息所は、五十路(いそじ)であるのに東宮妃であった頃から変わらぬ美貌を保っており、艶やかな雰囲気を纏っていた。
「あなたが、土御門仁様ね?」
「はい、お初にお目にかかります。実はわたくし、歌を詠むのが苦手でして・・なので、このような場に呼ばれることにいささか驚きを感じております。」
恐縮した様子で仁がそう言って雲居の御息所を見ると、彼女は口元を袙扇(あこめおうぎ)で覆い、クスクスと笑った。
「そんなに緊張なさることはないわ。わたくしだって、初めは歌を詠むのが苦手でしたのよ。人には得手、不得手があるのが当り前ですわ。」
「そう・・ですね・・」
「さてと、ご挨拶もこれまでにして、歌会を始めましょうか?」
雲居の御息所はそう言って後ろに控えていた女房に目配せすると、彼女は衣擦れの音を立てながら寝殿から出て行った。
雲居の御息所にフォローされつつも、仁は苦手な歌を何首か詠んだ。
「いい歌だこと。」
「そうでしょうか、余りにも味気のない歌ではありませんか?」
「そんなことはないわ。歌はその人が心から詠うものですわ。」
「そうですか・・」

歌会が終わり、仁は少しリラックスしたような表情を浮かべながら牛車に乗り込んだ。

「そのご様子だと、上手くいかれたようですね?」
「うん。雲居の御息所様は、お優しい方だったよ。」
「あの方は菩薩の生まれ変わりのようなお方ですからね。お風呂のご用意が出来ましたよ。」

湯船に浸かりながら、雲居の御息所の姫君が歌会に居なかったことを、仁はふと思い出した。

彼女は、何かを隠している―

「姫様、入りますよ?」
「気分が優れないの、入って来ないで!」

歌会が終わった後、雲居の御息所(みやすんどころ)邸にある彼女の娘である菫(すみれ)の君の部屋へと女房が向かうと、彼女は頑なにそう言って彼女を部屋の中に入れようとはしなかった。
「では、薬師(くすし)をお呼びいたしましょうか?」
「いらないわ、少し横になればよくなるんだから、放っておいてよ!」
「わかりました・・」
これ以上菫の君の機嫌を損ねるようなことはしたくないと思った彼女は、衣擦れの音を立てながら主の部屋の前から辞した。
その御簾の奥―御帳台(みちょうだい)の中で、菫の君は激しく咳き込みながら寝返りを打っていた。
こんな咳が出るようになったのは、あの男から文を貰った所為だ。
菫の君は、数日前に自分の元へと訪れた男の顔を思い出そうとしたが、咳と高熱の所為で思い出せないでいた。
一体何故、自分がこんな病に罹ってしまったのか、彼女自身解らずにいた。
「まぁ、姫の気分が優れないですって?薬師は呼んだの?」
「いえ・・少し横になれば良くなるからと、薬師を呼ぶのを拒まれて・・」
「何を言っているの、早く薬師を呼びなさい!」
「は、はい・・」

女房は慌てて御息所に頭を下げると、そそくさと部屋から出て行った。

数日後、菫の君と似たような症状を患っている三条家の姫君が家族に看取られながら、静かに息を引き取った。

「一体、どういうことになっているんだ?立て続けに謎の病で貴族の姫達が亡くなるとは!」
「それが主上(おかみ)、わたくしにも理由が解りませぬ。」
「ええい、そなたそれでも賀茂家の次期当主か!良いか、これは何者かが姫達に呪詛を掛けているに違いない!早うその者を突き止めるのじゃ!」
「は、はぁ・・」
忠光は帝と謁見した後、すぐさま陰陽寮の者を全員集めた。
「皆も謎の病について色々と聞いているであろうが、これは何者かが姫君達に強力な呪詛を掛けたに違いないというのが、主上からのお言葉である。一刻も早く、呪詛をした者を突き止め、被害を最小限に食い止めよ!」
「はい!」
謎の病が姫君達の命を次々と奪ってゆく中で、菫の君の容態は徐々に悪化の一途を辿っていった。
「姫の様子は?」
「快方に向かうどころか、意識が混濁しております。」
「何としたことじゃ、薬師でさえ姫の病を治せぬとは・・」
「御息所様、そうお嘆きにならずに。陰陽寮の者が病の原因を調査しておりますし・・」
「陰陽師か・・一度、姫の病を診て貰えばよいな?」
「ええ。では早速、賀茂家に文を・・」
「いや、賀茂家は信用ならぬ。他の陰陽師を呼んで参れ。」
雲居の御息所は、そう言って口端を歪めて笑った。
その笑みは、ゾッとするほど恐ろしかった。
「仁様、雲居の御息所様から文が届いております。」
「雲居の御息所様から?」
翌朝、出仕しようとしている仁の元に、雲居の御息所の使者が文を届けに来た。
「雲居の御息所様は何と?」
「御息所様の姫君―菫の君様が謎の病に罹られているらしい。わたしに、診て貰いたいと・・」
「まぁ、何だか怪しいですわね。そのような依頼ならば、普通は陰陽頭様に頼むべきであるのに・・」

これは何かの罠かもしれない―仁はそう思うと恐怖に戦慄(わなな)いた。

「御息所様、土御門仁が参りました。」
「そうか、通せ。」
「はい。」
女房が仁の来訪を告げた時、雲居の御息所は先程まで読んでいた経典から顔を上げた。
「よく来てくれましたね、仁様。」
「お久しぶりです、御息所様。」
「まぁ、そう固くならずに楽にして頂戴。あなたを今日ここへ呼び出したのは、わかるわよね?」
「はい・・菫の君様のことですね?」
「ええ。娘はあの病に・・数人の姫達を奪った病に罹っているの。薬師に診せても原因が判らない。だから、あなたのお力を借りようと思ってお招きしたのです。」
「わたしのような未熟者にお任せするよりも、陰陽頭(おんみょうのかみ)様にお頼みした方が宜しいのでは?」
「いいえ、彼は駄目。わたくしは、彼が信用できないのよ。」
そう言った貴婦人の顔からは、忠光への嫌悪感に満ちていた。
一体彼女と忠光とは、どのような関係なのだろうか―仁がそんな疑問を抱き始めていると、御息所付の女房数人が突然、仁に向かって深々と頭を下げた。
「どうかお願い致します、姫様の命を救ってくださいませ!」
「お願い致します!」
「あ、あの・・わたしは・・」
「あなた達、おやめなさい。仁様が困っているではないの。」
「ですが・・」
「わかりました、お引き受け致しましょう。」

この依頼を引き受けるしか、仁にとって残された道はなかった。

「それでは、早速姫様にお会いしたいのですが・・」
「ええ。こちらですわ。」
菫の君付の女房に案内され、彼女の部屋へと向かった仁は、御簾の外から不穏な何者かの空気を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。
「どうかなさいましたか?」
「いえ・・」
「姫様、土御門仁様が来られましたよ。」
「・・入って。」
「失礼致します、菫の君様。」
仁が御簾の奥に潜む姫君へと向かって深々と頭を下げると、部屋の中へと入った。
すると、魚の内臓が腐ったような臭いが部屋中に満ちていることに彼は気づいた。
「姫様、顔をお見せください。」
「嫌よ、今のわたくしの顔を誰にも見られたくないのよ!」
「そう言わずに、お顔を・・」
「嫌だと言ってるの!」
激しく仁と揉み合った所為で、菫の君が羽織っていた袿(うちぎ)の袖が仁の目に当たってしまった。
「ごめんなさい・・大丈夫?」
「いいえ。」
痛みに顔をしかめながら仁が菫の君を見ると、彼女の顔の右半分が、魚の鱗のようなものに覆われていた。
「見ないで・・見ないで!」
「姫様、どうか落ち着いてください。」
「どうして、どうしてわたくしだけがこんな目に遭うの!?一体わたくしが何をしたというのよぉ!」

そう叫んだ菫の君は、嗚咽して顔を両手で覆い隠した。

「わたくしが必ず、姫様の病を治してさしあげます。ですから、わたくしに時間を下さい。」

仁は菫の君が罹っている病の原因を突き止めようと、病で亡くなった姫君達の家を訪れた。

「わたくしに話とは何かな?」
「実は申し上げにくいことなのですが・・姫君様のご遺体をわたくしに調べさせては頂けないでしょうか?」
「その必要が何処にあるというのだ?」
「実は・・雲居の御息所(みやすんどころ)様の姫君様も、同じ病に罹られているのです。その姫君様の顔は、魚の鱗のようなものに覆われておりました。」
「我が娘が同じ病に罹ったのなら、その鱗とやらが顔に残っていると?」
「はい。その確認の為に是非ともお力をお貸しいただきたく思います。」
仁はそう言うと、深々と貴族に向かって頭を下げた。
「娘の遺体を調べることは許したが、わたしはまだそなたを完全に信用はしておらん。」
「わかりました。では一旦、外へと出て頂けないでしょうか?」
仁の言葉に貴族は少しムッとした表情を浮かべたものの、大人しく娘の部屋から出ていった。
彼はそっと御帳台の中に入り祭文を唱えると、姫君に向かって一礼した。
彼女の顔には、菫の君のように魚の鱗のようなものがない。
だが、彼女の両手の爪が割れている事に仁は気づいた。
「大臣(おとど)、ここ数日の間、姫君に何者かが訪れたことはございませんでしたか?」
「ああ、そういえば播磨(はりま)からやって来たという女人が、恋を叶えるという貝殻を姫に売っていたな。」
「それを、見せていただけませんか?」
「これじゃ。」

貴族はそう言うと、金箔に塗られた貝殻を仁に手渡した。
一見何の変哲もない貝殻のように見えたが、今回の病にはこの貝殻が絡んでいるのではないかと、仁はにらんだ。
「暫くこれを預かっても構いませんか?」
「どうせもう使わぬ物ゆえ、好きに持っていくといい。」
そう言った貴族の顔には、仁への嫌悪感が滲み出ていた。
「では、これで失礼致します。」
貴族の邸を辞した仁は、寄り道もせずに帰宅するなり、自室で貝殻を調べた。
「あら、これは確か・・」
「涼香、これを知っているの?」
「ええ。近頃、宮中の女房達の間で恋の運気が上がると話題になっているものですわ。本邸の女房達も、こぞってこれを買い求めておりました。」
「そうか・・実はね、病で死んだ姫君の一人がこの貝殻を持っていたんだよ。もしかすると、病の原因はこの貝殻にあるんじゃないかと・・」
「貝殻に呪詛が掛けられていると?」
「そうかもしれないね。明日、これを忠光様にお見せしようと思うんだ。わたし一人の手では負えないかもしれないから・・」
「その方が宜しいですわ、仁様。それに、鎌倉のお父上様にも文を出された方が宜しいのでは?」
「まずは明日、忠光様に貝殻をお見せしてから、父上に文を出そうと思う。明日はやることが沢山あるから、もう寝るよ。」
「お休みなさいませ。」
「お休み。」

仁は烏帽子を脱いで結っていた髪を下ろすと、夜着に着替えて御帳台の中へと入ってすぐに眠った。

その頃、宇治のとある貴族の別邸で、一人の女が護摩壇の前で何かを唱えていた。
炎に照らされた白皙の美貌は、かつて宮中で権勢を誇っていた頃から全く衰えていなかった。

それどころか、日に日にその美貌が輝いているように見えた。

「お方様、お薬をお持ちいたしました。」
「ありがとう。」

女房が差し出した薬湯を雲居の御息所は受け取ると、一気にそれを飲み干した。

「あの者はどう動いておる?」
「それが、少々厄介なことになりました。」
「厄介なことだと?」
眉間に皺を寄せながら、雲居の御息所は女房を睨んだ。
「実は、あの者が例の貝殻を見つけたようでございます。」
「何だと?そなた、あれを全て処分せよと命じたであろう!」
「申し訳ございませぬ、御息所様!すぐさま処分しようと思いましたが、間に合わず・・」
「まぁ、過ぎたことはどうでもよい。それよりも、姫には早う病を治すよう、あの者に伝えておけ。三条の姫君達は死んだが、何としても姫には生きて貰わねばならぬ・・入内を控えている身なのだからな。」
「・・御意。」
雲居の御息所は再び護摩壇の方へと向き直ると、中宮付の女房の名が書かれた藁人形を炎の中へと放り込んだ。
「慌てふためいた中宮の顔が早う見たいものじゃ・・恐怖に戦(おのの)くあの女の顔は、さぞやみものであろうの。」

雲居の御息所はそう呟くと、口端を上げて笑った。

護摩壇の炎に照らされた彼女の頭には、禍々しい二本の角が生えていた。

「今度は、中宮様付の女房が二人、病で死んだらしいぞ?」
「何ということだ・・御息所の姫君様の容態が芳しからない時に・・一体どういうことになっているんだ・・」

雲居の御息所が今回の病の原因を作った張本人であることを知らぬ者達は、ただひたすら病に怯える日々を送っていた。

そんな中、仁は忠光に例の貝殻を見せた。

「これは?」
「三条の姫君様が、死に間際に握り締めていたものです。何でも、宮中の女房達の間で人気があるものだとか。」
「そうか・・呪い物の類は、呪詛の道具ともなりうることがあるからな。それを見せてみろ。」
「はい・・」
仁がそう言って貝殻を忠光に手渡そうとした時、突然貝殻が震え始めた。
(何だ?)
仁がじっと貝殻を見つめていると、震えだした貝殻の口から瘴気のような紫の煙が出て来た。
「どうした?」
「瘴気のようなものが、貝の口から・・」
「それを吸いこむな!今すぐこの場から出ろ!」
忠光の言葉を従い、仁はただちに部屋から出た。
「一体あれは何なんだ?」
「わたしにもわかりません・・しかし、あれが今回の病を引き起こした原因だとすれば・・」
「三条の姫君達の他に、あの貝殻を持っている姫達の身にも同じことが起きる、ということだな?」
「ええ。」
仁は紫の煙がもうもうと先程まで忠光と居た部屋を包み込む様を黙って見ていた。
一方弘徽殿(こきでん)では、主である中宮が恐怖に顔を引き攣らせながら、病に倒れた女房達が次々と死んでいくさまを見ていた。

「一体、何が起きているのじゃ・・」

彼女は、そっと目立たない下腹部を擦った。

帝との愛の結晶が、そこに宿っていた。

「中宮様が、ご懐妊だと?」
「はい。」

中宮付の女房・宣旨(せんじ)はそう言うと、忠光を見た。

「それは、おめでとうございます。」
「ですが中宮様は、今回の事で心底怯えております。女房達の災難がいつかご自分の身に降りかかるのではないのかと・・」
宣旨は溜息を吐いて忠光を見ると、彼の手を握った。
「どうか、中宮様をお助けくださいませ。」
「わかりました。それよりも宣旨様、その手をお離しくださいませ。何処で誰が見ているのかわかりませぬゆえ。」
「これは、失礼致しました!」
我に返った宣旨は、握っていた手を離した。
「それよりも忠光殿、貴殿の所には大変優秀な学生が居られるとか。」
「土御門仁のことですか?彼は幼少の頃から父親に陰陽道とは何たるかを厳しく叩き込まれたようです。難解な講義もすぐに理解し、試験ではいつも満点を取っておりますよ。」
「そうですか・・もしや、その学生の父君とは、土御門有匡殿とは?」
「ええ、そうですが・・それが何か?」
「いいえ、何でもありませぬ。それよりも忠光様、くれぐれも中宮様のことを頼みましたぞ。」
「承(うけたまわ)りました。」
忠光が弘徽殿から辞した後、宣旨は人気のない場所へと向かうと、そこで待っていた一人の女房に文を渡した。
「これを、あの方へ。」
「わかりました。」
「くれぐれも、人目につかぬように。」
「では、わたくしはこれで失礼致します。」
女房はそう言うと、サラサラと衣擦れの音を立てながらその場から去っていった。
「こんな所にいたのかえ、宣旨?急に居なくなるから心配したではないか?」
「申し訳ありませぬ、中宮様。外の空気が吸いたくなりまして・・」
「そうか。それよりも今度(こたび)の件、忠光殿は承諾してくれたであろうな?」
「はい。それよりも中宮様、そろそろ日が落ちて参りました。冷たい風はお身体に障ります故、どうかお部屋にお戻りくださいませ。」
「わかった。」
部屋へと戻る中宮の背中を、宣旨は何処か冷めた目で見つめていた。
「中宮様、薬湯をお持ちいたしました。」
「ありがとう。」
中宮はそう言うと、薬湯に口をつけたものの、すぐに顔を顰(しか)めてしまった。
「悪阻がお酷いのですか?」
「ああ。この前まで食べられた物が、急に食べられなくなった。だがこの子が生まれるまでの辛抱じゃ。」
「そうでございますとも。さぁ、もう一口お飲みくだされ。」
「わかった・・」

(その薬湯を早く飲み干してくださいませ、中宮様。あの方の為にも・・)

雲居の御息所邸では、菫の君が病から快復し、それを祝う為の宴が開かれていた。

「姫や、よう生きてくれた。」
「お母様が加持祈祷をしてくださったお蔭ですわ。」
「礼を言うのではわたくしではない、あの陰陽師に申すがよい。」
「陰陽師とは・・わたくしの所に来て下さった、あの方?」
「そうじゃ。あの者のお蔭で、そなたはもうすぐ入内できるのだから。」
笑顔でそう言う雲居の御息所とは対照的に、菫の君の顔は暗く沈んでいた。
「なぁ、聞いたか?」
「中宮様がご懐妊されたとか・・」
「この時期に・・」
陰陽寮に出仕した仁は、学生(がくしょう)達の噂話から中宮がご懐妊されたことを知った。
「仁、ちょっと来てくれないか?」
「はい・・」
忠光とともに講堂を後にする仁をチラチラと見ながら、学生達は何やらひそひそと囁きを交わしていた。
「どうしたんだ?」
「最近あいつ、陰陽頭様に呼び出されているなと思って。やっぱり、父親が高名な陰陽師だと、待遇も違うのかな?」
「そんなことはないだろう。俺だって、父親は帝の護持僧だが、一度も特別扱いなどされたことはない。」
真雅(みつまさ)が不機嫌な顔をしながらそう言うと、学生達は一斉にバツの悪そうな顔をしてそそくさとその場から去っていった。
(全く、下らない・・)
何かにつけて権力者の機嫌を取ろうとする学生達の態度に、真雅は心底うんざりしていた。
彼らは互いに切磋琢磨(せっさたくま)しようともせず、他人の粗探しをしては足の引っ張り合いをしている。
陰陽師にとって一番大切なものは、優秀な能力を持っていることと、そして名家の出身であること。
優秀な能力があり、尚且つ名家出身である真雅と仁の存在は、実力も家柄も劣っている他の学生達にとっては脅威そのものであった。
陰陽寮に入寮して以来、真雅は一度も他の学生達と腹を割って話したことなどなかった。
一方仁はというと、初めは他の学生達とぎこちない様子だったものの、次第に打ち解けてきているようで、数人の学生達に囲まれて談笑する姿を何度か目にすることがあった。
自分にはあって、彼にはないものは何なのだろう―真雅がそう思いながら簀子縁(すのこのえん)を歩いていると、突如後宮の方―正確に言えば弘徽殿の方から悲鳴が聞こえた。
「忠光様、弘徽殿の方から悲鳴が・・」
「まさか、中宮様の身に何か・・仁、真雅、ついて来い!」
「はい!」
忠光とともに仁と真雅が弘徽殿へと向かうと、そこには大量の血を吐きながら床に倒れ伏している女房の姿があった。
「一体何があったのですか?」
「ちゅ、中宮様の為に作られた薬湯を毒味した者が、急に苦しまれて・・」
中宮付の女房が泣きながら忠光にそう訴えると、彼は宣旨が混乱に乗じて弘徽殿から出て行くところを見た。
「暫し、お待ちくださいませ。」
慌てて忠光は宣旨の後を追ったが、彼女はまるで煙のように姿を消してしまった。
「クソッ、逃がしたか・・」
「宣旨よ、あの忌々しい陰陽頭には捕まらなかったか?」
「はい、御息所様。それよりも、例の薬湯は毎日中宮様に飲ませております。」
「そうか。このまま順調に計画を進めれば、わたくしたちの復讐は完了する。くれぐれも気を引き締めるように。」
「御意。」
(ふふ、面白くなってきたわ・・あとはあの目障りな陰陽師どもを片付けるだけね。)
蝋燭(ろうそく)な仄かな明りに照らされた美しい貴婦人の横顔は、禍々しく見えた。
「中宮様、薬湯をお飲み下さいませ。」
「あんなことがあったというのに、飲めるものか!」
毒味役の女房が死んだ日の夜、宣旨(せんじ)が平然とした様子で自分に薬湯を差し出すのを見た中宮は、そう叫ぶと宣旨の手から薬湯を払いのけた。
「この薬湯には、毒など入っておりませぬ。」
「じゃが・・」
「あの者はたまたま運が悪かったのでございます。いずれ国母となられる中宮様に毒を盛るような者が、この後宮に居(お)りましょうか?」
「そ、それは・・」
「ご安心なされませ、中宮様。わたくしがあなた様と腹の御子を我が命を掛けてお守り致します。」
「宣旨・・」
もしや自分に毒を盛り、殺そうとしたのは宣旨ではないかと一瞬彼女を疑った中宮は、己の猜疑心を恥じた。
「そなたさえいれば、妾も腹の子も無事じゃ。」
「そうでございますとも、中宮様。さぁ、薬湯をお飲み下さいませ、腹の御子の為にも。」
「わかった。」
宣旨に騙されているとは知らずに、中宮は安堵の表情を浮かべながら薬湯を飲み干した。
「あの女房の死因がわかったぞ。」
「死因が?」
「ああ、あの女房が死ぬ直前に毒味した薬湯だが・・あれにはトリカブトの毒が入っていた。」
「トリカブトの毒が・・やはり、あの薬湯に何者かが毒を入れたと考えて宜しいのですね?」
「ああ。中宮様付の女房の誰かが、薬湯に毒を盛っていたと考えていい。しかし、その犯人を突き止めるのは少々時間がかかるな。」
忠光の部屋で、弘徽殿での事件の詳細を聞いた仁は、彼の言葉を受けて唸った。
「事件が起きたのは男子禁制の後宮ですからね。始終見張りを置くのは難しいでしょうし、今は皆、例の病の事で出払っておりますし・・どうすれば・・」
「最も効果的な方法は、陰陽寮の誰かが後宮に潜入し、犯人を突き止める事だ。」
そう言った忠光の視線は、何故か仁に注がれていた。
「あの、もしかしてそれをわたしにやれと?」
「お前はまだ宮中に入って日が浅いし、お前の事を知っているのは中宮様と宣旨様だけだ。それに、女装しても余り違和感がないだろう。」
「そうですけれど・・」
いくら事件を解決する為とはいえ、女装して後宮に潜入するのは少し気がひけた。
「忠光様がおゆきになれば宜しいのでは?」
「生憎だが、わたしは後宮の女人達に顔を知られてしまっているからな。」
「そうですか・・このまま手をこまねいていても仕方がありませんね。」
「では、やってくれるか?」
「はい。必ずや犯人を突き止めて参ります。」
そう言ったものの、自分にこんな大役が務まるのだろうかと、仁は不安で堪らなかった。
「まぁ、後宮に潜入捜査を?」
「うん、事の成り行きでわたしが行く事になった。でも、不安だなぁ・・」
「そうおっしゃらずに、仁様。仁様ほどの美貌をお持ちならば、きっと帝の目にも留まりましょう。」
何処か嬉しそうな口ぶりでそう言った涼香の目は、きらきらと輝いていた。
「仕事だから仕方ないだろうけど・・父上にもしこの事が知れたらどうなるか・・」
「お父上様もご理解して下さいますわ。」
数日後、仁は忠光とともに弘徽殿へと向かった。
「そなたが、後宮に潜入するという旨は、忠光から聞いておる。」
中宮はそう言ってじろりと仁の顔をじっと見つめた。
「あの、中宮様?」
「そなたほどの美貌ならば、男だと露見するのは難しいだろう。そうは思わぬか、宣旨?」
「ええ。近々入内される雲居の御息所様の姫君よりも、お美しい方ですしね。」
「あの、菫の君様が入内なさるのですか?」
自分と面識がある菫の君が入内すると聞き、仁は少しうろたえた。
「ええ、何でもあの病から無事全快されたようで、雲居の御息所様が主上に文で娘が入内する旨をしたためになられたようじゃ。」
「そうですか・・」
「何か、引っかかることでも?」
「いえ、ございません。」
「そなたが男と知っているのは、妾と宣旨のみ。くれぐれも男だと露見せぬよう、気を付けよ。妾からの話は以上じゃ。」
「では、失礼致します。」
忠光とともに中宮に深々と頭を下げた仁は、忠光と別れて宣旨とともに支度部屋へと入った。
「烏帽子を脱ぎなされ。」
「ですが・・」
髪を結い、烏帽子を被ることは宮中に居る時の身だしなみとされ、髪を下ろし烏帽子を被らずに出仕すると、“はしたない”と非難されてしまうことくらい、仁は知っていた。
「ここは女人達が住まう後宮ですぞ。男であるそなたが女人に化けるには、まず烏帽子を脱いで髪を下ろすことから始めるのじゃ。」
「はい・・」
不承ながらも仕事の為だと割り切った仁は、烏帽子を脱いで結いあげた髪を下ろした。
「ほう、見事な髪をしておる。烏の濡れ羽の如き艶やかな髪じゃ。」
仁の髪を櫛で丁寧に梳きながら、宣旨は彼に賛辞の言葉を送った。
「ありがとうございます。」
この場でどう返したらよいのかわからず、仁は素直にそう言って宣旨を見た。
「まぁ、髪の美しさだけでは後宮では生き残れぬ。女人が最も必要とするのは知性じゃ。その事を肝に銘じておくがよい。」
「わかりました、宣旨様。」
「さてと、髪は下ろしたが、直衣姿では皆の前ではそなたを紹介出来ぬ故、それを脱いで貰おうか?」
「は、はぁ・・」
仁はこれも仕事の為だと割り切って羞恥に耐えて宣旨の前で直衣を脱いだ。
「そなたには紅が似合う故、紅を中心に色を襲(かさね)ると良いな。」
宣旨は終始上機嫌な様子で、仁が着る装束の色を次々と決めていった。
仁は彼女にされるがまま、壮麗な女房装束(にょうぼうしょうぞく)を纏って中宮と彼女に仕える女房達の前に顔を見せることになった。
女物の衣は動きにくい上に、袴の裾が長い為に上手く捌く事が出来ず、仁は数歩進むだけでも苦労した。
「中宮様、その者が新しく入った女房ですか?」
中宮の右隣に控えていた一人の女房が、そう言ってジロリと仁を睨みつけた。
「お初にお目にかかります、淡路様。相模(さがみ)と申します。」
予め後宮に潜入する為に用意した名でそう仁がその女房に挨拶すると、彼女は少し面白くなさそうな様子で鼻を鳴らした。
「中宮様が是非にとそなたをこの弘徽殿へと入れたが、中宮様に気に入られたからといって天狗になるでないぞ!」
「はい、肝に銘じます。」
こうして仁は、弘徽殿で“相模の方”として中宮に仕えることになった。
今回の事件の犯人を突き止める為に女装して後宮に潜入した仁であったが、中宮付の女房・淡路の方に何故か目をつけられてしまい、彼は何かと彼女から雑用を押しつけられて調査どころではなくなっていた。
(一体淡路の方は、わたしの何処が気に食わないんだろう・・)
縫物をしながら、仁は溜息を吐いて淡路の方が自分に対して何故冷淡な態度を取るのかがわからずにいた。
「どうしたの、何か考え事でも?」
そう自分に声を掛けて来たのは、中宮の左隣に控えていた伊勢の方という女房だった。
「わたくし、淡路の方に何か失礼な事でもなさったのでしょうか?何やらあの方、わたくしに対してだけ態度が違うので・・」
「恐らく、あの方と仲違いされた妹御と良く似ていらっしゃるから、あなたに厳しくされるのでしょう。」
「まぁ・・」
そんな理不尽な理由でいじめられたら堪らないと仁は思ったが、そんな気持ちはおくびにも出さずに伊勢の方にある事を尋ねた。
「伊勢の方様は、こちらに勤めて長いのでしょう?」
「ええ。中宮様が入内された頃から勤めているから・・7年位になるかしら?」
「まぁ、そんなに・・では、宣旨様のことは良くご存知で?」
「あの方は確か、わたくしの後に弘徽殿に入って来たのよ。何でも、訳有りだとかで・・」
「訳有りですって?」
宣旨が何故弘徽殿に入ったのかを伊勢の方に聞こうとした仁だったが、間が悪いところに淡路の方が部屋に入って来た。
「ちゃんと仕事はやっているようね?」
「はい、淡路の方様。」
「まぁ、新入りにしてはなかなかの出来だこと。」
仁が縫いあげた物をひとつずつ手に取りながら、淡路の方はそう言って彼を睨んだ。
「今宵、中宮様が管弦の宴を開かれます。腕に覚えのある者は来なさい。」
「はい、承知致しました。」
「わたくしが居ないからといって、怠けるのではありませんよ!」
淡路の方は去り際にジロリと再度仁を睨み付け、衣擦れの音ともに部屋から出て行った。
「不機嫌な様子ですね・・何かあったのでしょうか?」
「気にすることはないわ。それよりも、もう仕事は終わったのでしょう?」
「ええ。」
「では急いで中宮様の元に行かなくては。淡路の方様から聞いたでしょう?」
「ですがわたしは、宴に出るつもりはございません。」
「あらあなた、そんな事をしてはますます淡路の方様からにらまれてしまうわよ?」
何だか訳が判らずに仁が伊勢の方とともに中宮の元へと向かうと、そこには数人の女房達が彼女の前に集まっていた。
「あら、相模の方様も宴にお出になられるの?」
「ええ・・淡路の方様が是非にと推してくださったので。」
横目で憤怒の表情を浮かべる淡路の方をチラリと見つつも、仁は同僚の女房にそう言って笑った。
「何をお弾きになるの?今回の宴では琵琶や和琴(わごん)、箏、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)の奏者がそれぞれ選ばれるのよ。」
「わたくし、余りわからなくて・・」
仁は父・有匡の影響で幼い頃から和琴を嗜(たしな)んでいたので、和琴を弾くつもりでいたのだが、淡路の方が何を弾くのかがわからないので、同僚には曖昧な返事をしておいた。
「まぁ、そうなの。淡路の方は箏を弾かれるのだそうよ。」
「そう、じゃぁあの方に被らないようにしなければね。」
淡路の方が弾く楽器が和琴ではないと知り、仁はほっと胸を撫で下ろした。
雅やかな楽の音が弘徽殿(こきでん)に響き渡った。
仁が和琴を弾いていると、一人の女童が彼の元へとやって来た。
「相模(さがみ)の方様、淡路の方様がお呼びです。」
「わかりました、すぐ参りますとあの方にお伝えして。」
「かしこまりました。」
一体淡路の方が自分に何の用だろうと思いながら、仁は彼女の元へと向かった。
その途中、簀子縁(すのこのえん)を挟んだ向かいの部屋から誰かが言い争うような声が聞こえた。
「わたくしは、嫌だと申し上げた筈でしょう!」
「何故わたしの言う事を聞いてくれぬのだ!」
どうやら、恋人同士の別れ話が縺(もつ)れているらしく、御簾の奥から啜り泣く女と、それを怒鳴りつける男の声が聞こえた。
だが仁は、淡路の方の機嫌を損ねてはいけないと思い、そそくさとその場から離れた。
「淡路の方様、わたくしに何かご用でしょうか?」
「あなた、和琴をお弾きになられるんですってね?」
「はい・・それが何か?」
「随分と中宮様に目をかけられているようだけれど、何か中宮様に心付けでも差し上げたのかしら?」
「いいえ、そんなことはしておりません。」
「ふぅん、怪しいものだわ。まぁ、いずれあなたの化けの皮を剥がして差し上げますから、そのおつもりで居てくださいな。」
何か含みを持たせたような口調でそう言うと、淡路の方は勝手に仁を呼びつけておいてさっさと奥の方へと引っ込んでいった。
(何だよ、あの態度・・あの女、絶対に周りから嫌われてるよな!)
淡路の方に呼びつけられ、貴重な練習時間が減ってしまったことに苛立ちながら仁が自室へと戻ると、和琴の前には見慣れぬ男が座っていた。
「もし、わたくしに何かご用でしょうか?」
仁がそう言って男に声を掛けたが、彼は振り向きもせずに和琴を奏でている。
「わたくしに何かご用でいらっしゃらないのなら・・」
「あるに決まっているだろう、馬鹿。」
男は突然和琴を奏でるのを止め、ゆっくりと仁の方へと振り向いた。
男―眉間に皺を寄せながら、大陰陽師・土御門有匡は仁を睨みつけた。
「ち、父上・・これはですね、深い事情がありまして・・」
「全く陰陽頭め、人の息子をこき使いおって。まぁ、奴にパシリにされていることにも気づかぬお前もお前だが。」
「あの、父上は何故京に?鎌倉にいらしていたのではないのですか?」
「涼香からお前の事を聞いてな、丁度休暇を取りたかったし、会いに来たまでのことだ。」
(嘘だ。)
父は有能である故に多忙で、何日も職場に泊まり込んで家に戻らない日があり、それが土御門家では当たり前であった。
それなのに、ただ息子に会いに来たという理由だけで休暇を取るだろうか。
「あの父上、ひとつお聞きしても・・」
「おやまぁ、珍しい。誰かと思うたら有匡殿ではないか?」
御簾の向こうから声がしたかと思うと、賀茂忠光が有匡に微笑みながら部屋に入って来た。
「わざわざ息子の顔を見に休暇を取られたとか?」
「違う。お前が息子をこき使うのを黙って見ていられなくなっただけだ。」
「それは心外だな、有匡殿。君のご子息は大変優秀だよ。何せ、今回の病の原因が宮中で流行っている貝殻にあると指摘したからねぇ。」
「貝殻?」
有匡がそう言って忠光を睨むと、彼は笑みを崩さずに次の言葉を継いだ。
「都では最近、原因不明の病で貴族の姫君達が数人亡くなってね。それと、中宮様付の女房も数人死んだ。被害者たちの共通点は、最近恋愛の運気があるという貝殻を死に間際に握り締めていたこと。」
「本当なのか、仁?その貝殻が、今回の事件の原因だと?」
「はい、父上。例の貝殻を三条家から預かっておりましたが、急に貝殻から紫の煙が・・」
「紫の煙か・・忠光様、その貝殻は今どちらに?」
「わたしの部屋に保管してあるよ。」
「そうですか。では、今から案内して頂けないでしょうか?」
「え・・わたしは仁を訪ねてここに来たんだが・・」
「息子はまだ勤務中ですよ?」
そう言って有匡は忠光に向かってニッコリと笑ったが、目は全く笑っていなかった。
「そうだな。仁、くれぐれも油断するなよ?」
「はい、忠光様・・」
「では、参りましょうか?」
有匡は忠光の腕を掴むと、半ば彼を引き摺るようなかたちで部屋から出て行った。
「あなた、土御門有匡様と親しいの?」
彼らと入れ違いに部屋へと入って来た女房が、そう言って仁に詰め寄って来た。
「はい・・彼は遠縁の伯父でして。」
「まぁ、有匡様とご親戚だなんて羨ましいわ。」
女房は嬉しそうに目を細めると、仁の手を握った。
「ねぇ、お願いがあるのだけれど、いいかしら?」
「お願い、でございますか?」
「そうよ、あなたにしか頼めないことなの。」
その夜、仁は溜息を吐きながら淡路の方の元へと向かった。
中宮主催の管弦の宴に出る奏者を、宣旨と中宮が選出することになり、仁達は急遽淡路の方の部屋に呼ばれたのだった。
「中宮様はまだおいでにはならないのですか?」
「ええ。それよりもあなた、和琴が弾けるそうね?」
「はい・・」
「言っておくけれど、和琴は信濃の方が上手いのよ。」
淡路の方は余程仁の事が気に食わないのか、自分が懇意にしている女房の名を出してわざと彼のやる気を削ぐような発言をした。
「そうでございましたか。それでは、負けるわけには参りませんね。」
「ま・・」
まさか仁が反論するとは思わなかったのか、彼の言葉を聞いた淡路の方は怒りで顔を赤く染めた。
彼女が仁に言い返そうとした時に中宮が宣旨とともに部屋に現れたので、彼女は悔しさの余り唇を噛み締めた後、仁を睨みつけてそっぽを向いた。
「さぁ、皆集まったところだから始めようか。」
「はい、中宮様。」
琵琶、箏、龍笛、笙(しょう)の奏者たちが一人ずつその腕前を中宮に披露した。
そして最後に和琴の奏者たちが呼ばれ、仁は信濃の方に負けてなるものかと、日頃の特訓の成果を見せた。
「和琴の奏者二人は、甲乙つけがたい腕前だった。だが、その中で一人選ぶとすれば、妾は相模の方を選びたいと思う。」
淡路の方が憎悪の視線を自分に送っているのを感じた仁だったが、彼はそれを無視して中宮に深々と頭を下げた。
「有り難き幸せにございます、中宮様。」
「皆、主上の前で素晴らしい演奏を見せるがよい。妾も楽しみにしておるぞ。」
中宮はそう言うと、宣旨と共に部屋から出て行った。
「この痴れ者が!お前があんな新入りに負けてどうするのです!」
「申し訳ございません、淡路の方様・・」
管弦の宴で仁に負けた信濃の方に待っていたものは、淡路の方からの激しい打擲(ちょうちゃく)と罵倒だった。
「そなたほどの腕の者が、何故負けたのじゃ!」
「わたくしが至らなかった所為でございます。なにとぞ・・なにとぞお許しくださいませ!」
信濃の方は怒り狂う淡路の方の前に、ただ彼女に対して許しを乞うしかなかった。
「許さぬ、許さぬぞ・・わたくしを差し置いて主上の寵愛を受けようなどと・・」
そう呟いた淡路の方の目は、禍々しい光を放っていた。
「それで、お話とは何ですか?」
一方、陰陽寮では忠光はそう言うと有匡を見た。
「貝殻を、見せてはいただけませんか?」
「申し訳ありませんが、それは出来ません。実はあの貝殻には、禍々しい瘴気を放っているのです。」
「そうですか。では、見ない訳にはいきませんね。」
有匡はそう言うと、忠光を睨んだ。
彼が簡単に諦めないとわかった忠光は、渋々と貝殻がしまってある箱を有匡の前に差し出した。
「どうぞ、お調べください。」
「ありがとうございます。」
有匡は祭文を唱えると、貝殻を手に取った。
すると彼の脳裏に、恋に破れた一人の女が己の血で貝殻に何かを書いている姿が浮かんだ。

“憎い、憎い・・”

ヒシヒシと、女の恨みつらみが伝わって来た。

「何か、わかりましたか?」
「ええ。この貝殻は恋に破れた女の怨念が宿っております。何故、このような禍々しい呪物が宮中に出回ったのですか?」
「それが、わたしにもわからぬのです。亡くなられた三条家の姫君の元に、播磨から来たという女人がその貝殻を姫に手渡したそうです。」
「その女人が、今回の事件と関係しているのかもしれませんな。」
「何としてでも、その女人を捕えねば・・」
有匡と忠光の会話を、一羽の烏(からす)が木に止まって聞いていた。
やがて烏は翼を羽ばたかせると、主の元へと帰っていった。
「お帰り。」
女はそう言って烏の頭をそっと撫でると、烏は嬉しそうにカァッと鳴いた。
「そうか、その様子だと良い事があったようだな?」
女はまるで烏の言葉を解しているようで、笑顔を浮かべながら烏にそう聞いた。
すると烏はまた鳴いた。
「・・あの男が、京に?」
先程まで笑みを浮かべていた女の顔が、突如歪んだ。
烏は不安げに首を傾けると、女の肩に止まった。
「大丈夫だ。そなたを驚かせてしまったな。」
女はそう言うと、烏の頭を撫でた。
「さぁ、腹が減っただろう。中へと入ろう。」
衣擦れの音を立てながら、女は烏とともに部屋の中へと入った。
「姫様・・」
「その呼び方は止めよ。」
年老いた女房は女の言葉を聞いて項垂れた。
女はかつて、後宮で華やかな生活を送っていた。
帝にも目を掛けられ、彼の妃となった。
だが女は、それを快く思わぬ恋敵に嵌められ、親子ともども都から追い出されて、このような辺鄙(へんぴ)なところに邸を構えて暮らしている。
どのくらい、長い歳月が経ったのだろうか。
その間に父は無念を抱えながら亡くなり、自分もこのような場所で生を終えるしかない。
昔は自分に仕えていた女房達も、一人、また一人と自分の元へと去ってゆき、今は乳母だけが残ってかいがいしく仕えてくれている。
こんな筈ではなかったのに。
こんな、惨めな生活を送る為に自分は生まれてきたのか。
何も自分は悪くはないというのに、何故自分だけがこんな目に?
(全ては、あの女の所為だ・・)
女の脳裏に、自分を陥れた恋敵の顔が浮かんだ。
今自分の暮らしぶりを彼女が見たら、狂喜乱舞することだろう。
だが、このまま終われるものか。
あの女を地獄へと道連れにするまで、復讐は止(や)めない。
「笑っていられるのは今の内だ。」
女は虚空に向かってそう言うと、血走った眼で闇を見つめた。
一方、弘徽殿(こきでん)では、中宮主催の管弦の宴に向けての準備が慌ただしく行われていた。
「相模様。」
「おはようございます。」
先輩女房に声を掛けられた仁は、そう彼女に挨拶すると深々と頭を下げた。
「ねぇ、有匡様には例のことをお願いして下さったの?」
「それが、まだなのよ。」
「もう、早くしてくださらないと困るわね!」
彼女は少し苛立った様子で仁にそう言うと、彼に背を向けて何処かへと行ってしまった。
先日、仁は彼女に、“有匡様と自分との仲を取り持って欲しい”と頼まれたのだった。
それを口実に、有匡に会わせて欲しいと言われ、仁は彼女にどう言うべきかどうか迷っていた。
有匡が妻帯者であることを伏せている所為か、よく女達からの文を貰う事があった。
眉目秀麗で、大陰陽師である有匡に恋焦がれる女人は多いだろう。
自分に仲を取り持つよう仁に頼んだ女房も、その一人かもしれない。
「相模様、まだこんな所に居たの?宴の準備を早めに行わないと・・」
「今、参ります!」
我に返った仁は、そそくさと伊勢の方とともに中宮の部屋へと向かった。
「中宮様、遅くなってしまいまして申し訳ございません。」
「よい。宴の時間にはまだ早い。」
そう言った中宮は、少し疲れた様子で仁と伊勢の方を見た。
「お顔の色が優れませぬが・・」
「いつものことだ、案ずるな。」
「ですが・・」
「暫く奥で休んでくる。その間、準備を頼むぞ。」
「かしこまりました、中宮様。」
この時、仁は中宮の様子が少しおかしかったことに全く気づかなかった。
最近、妙に身体が重く感じて、中宮は動くのも億劫(おっくう)で仕方がなかった。
「中宮様、薬湯でございます。」
「ありがとう・・」
宣旨から渡された薬湯を飲み干すと、中宮はその身体を横たえた。
「余り無理はなさらぬ方が宜しいですよ?特にこの時期は。」
「わかっておる。」
少しずつ瞼が重くなり、中宮はいつの間にか眠ってしまった。
「さてと、これで大丈夫ね・・」
誰にも聞こえぬような低い声で宣旨はそう呟くと、薬湯が入っていた器を片付けた。
宴の時刻となっても、主催者である中宮が全くその姿を見せない事に不審を抱いた伊勢の方が中宮の部屋へと向かうと、そこは不気味なほどに静まり返っていた。
「中宮様、主上がもうすぐお渡りになられます。」
彼女がそう言いながら中宮の姿を探すと、彼女は寝所で倒れていた。
「中宮様、どうされたのですか!?」
伊勢の方が蒼褪めている中宮の身体を揺さ振ると、彼女は自分の手に生温いものに触れた気がした。
慌てて自分の手を見ると、赤くねばついた血がついていた。
彼女は思わず悲鳴を上げた。
「今のは・・」
「中宮様の寝所からだわ!」
伊勢の方の悲鳴を聞きつけた女房達が中宮の寝所へと向かうと、そこには恐怖で震える伊勢の方と、蒼褪めたまま動かない中宮の姿があった。
「一体何が起きたのだ!?」
「わたくしが中宮様のお部屋に入った時に、中宮様は既にこのようなお姿でたおられておりました。」
恐怖で震えながらも、伊勢の方は宣旨に対して自分が駆けつけた時の状況を説明した。
「薬師を呼べ、宴は中止せよ!」
「はい!」
中宮が倒れたことで、後宮はもとより宮中全体が騒然となった。
「おい、中宮様が倒れられたとは本当なのか?」
「ああ・・」
「腹の御子は、大丈夫なのか?」
殿上人達は中宮とその腹の子の身を案じていた。
「残念ながら、御子は流れてしまいました。」
「そうか・・」
薬師からの報告を聞いた帝は、彼に下がるよう命じた。
中宮との間に今まで子が出来ず、今回の妊娠を彼女と喜んだのはほんの数ヶ月前のことだったというのに、何故このような事になってしまったのだろうか。
「中宮はどうしておる?」
「それが・・まだ意識が戻られておりません。」
「何と・・」
何処まで不幸は続くのだろうか―帝は溜息を吐きながら扇を握り締めた。
「そうか、中宮の御子が流れたか・・」
「はい、御息所様。薬湯に鬼灯(ほおずき)の根を粉末にして混ぜておいてよかったですわ。」
「あの女も、御子の元にいってくれれば尚良いのだがな。」
自分の企てが着実に進んでいることに満足した雲居の御息所はそう言うと高笑いした。
(これで、わたくしの復讐はもうすぐ完了する!)
やっとあの女に復讐できるのかと思うと、彼女は嬉しくて仕方がなかった。
中宮が流産し、未だ生死の境を彷徨っている事実に弘徽殿(こきでん)は大騒ぎとなった。
「中宮様はこのまま亡くなられてしまわれるなんてこと、ないわよねぇ?」
「馬鹿な事を言うんじゃないわよ!」
「そうよ、縁起でもない!」
主なき弘徽殿では、中宮の容態について様々な憶測が飛び交っていた。
それほどまでに、女房達は中宮の容態を案じていたのであった。
だが中宮の身に降りかかった不幸を喜んでいる者達が居た。
「中宮はまだ目覚めぬとな?」
「はい。」
「でかかしたぞ、宣旨。これで我が家も安泰じゃ。」
「有難うございます、御息所様。」
(漸く我が家に春がめぐってくるとはのう・・)
「お母様・・」
「どうしたのじゃ、姫?」
「中宮様のご容態が芳しからない中で、どうして笑っていられるの?」
「何を言う。姫よ、今までわたくし達があの女からどのような仕打ちを受けたか忘れたのか?」
「忘れる筈がございません、お母様。」
「その恨みを晴らす時が来ているのじゃ。姫よ、中宮亡き後はこの家を頼みましたぞ。」
「はい、お母様・・」
そう言った菫の君の顔は、暗く沈んでいた。
数日後、彼女は豪華な調度品と衣装を持ち入内した。
「これまた、豪華な衣だこと・・」
「雲居の御息所様の姫君様が入内されるなど・・少し不謹慎ではないか?」
「中宮様があのような時に限って・・」
菫の君が入内する様子を見ていた市井の人々はそう言いながら眉をひそめていたが、雲居の御息所は彼らの声など完全に無視していた。
寧ろ、娘の入内を豪勢にして何が悪いと開き直っていたのだった。
「菫の君様がご入内されたそうよ。」
「まぁ、この時期に?」
「まるで嫌がらせのようではなくて?」
「完全に嫌がらせよ。御息所様は中宮様に深い恨みを抱いておられたようだから。」
弘徽殿の女房達は菫の君の入内について様々な事を言い合いながら仕事をしていた。
「相模様、あの・・」
「伊勢様、中宮様のご容態に変化はございましたか?」
また例の女房が笑顔で仁に近寄って来たので、彼は咄嗟に伊勢の方の方へと向かった。
「中宮様のご容態は未だに芳しくないわ。やはり、あの貝殻の所為かしら?」
「あの貝殻と申しますと、巷で流行っているというあの貝殻のことでございますか?」
「ええ。これから、弘徽殿はどうなってしまうのでしょう?」
「それは、天に任せるしかありませんわ。」
仁は伊勢の方に、そんな慰めの言葉しか掛けられなかった。
その夜、中宮の容態が急変し、彼女は一度も意識が戻らぬまま亡くなった。
「中宮様、何故このような事に・・」
宣旨は主の死に悲しみに暮れる振りをしながら、内心ほくそ笑んでいた。
(これで邪魔者は居なくなった。)
中宮の死は、敵側の人間を大いに歓喜させ、中宮を慕う者たちを大いに悲しませた。
帝は、中宮の死を嘆き悲しみ、彼女の喪が明けるまで妃を迎えないことを決めた。
「余が妃と思うたのは中宮ただ一人。」
この帝の言葉は、雲居の御息所を大いにやきもきさせた。
「主上は妃を迎えぬと、そうおっしゃられたのか?」
「はい、御息所様。」
「何のために娘を入内させたと思うておるのじゃ!あの女に勝てたと思うておったのに、とんだ計算違いだったわ!」
雲居の御息所は怒りの余り、近くにあった脇息を床に叩きつけた。
「ええい、あの女め、死した後も妾の邪魔をするつもりか・・」
「御息所様、どうお気を鎮めてくださいませ・・」
「まだ、終わりではない・・」
「そうですわ。」
宣旨は怒り狂う主を前にして、そう言うしかほかになかった。
「雲居の御息所が、動き出したようですね。」
「ああ。中宮様の件で、密かにあの方が動いていたとはな。」
陰陽寮では、忠光と有匡が向かい合って座りながらそんなことを話していた。
例の貝殻で二人が探りを入れてみたところ、中宮に貝殻を贈った者が雲居の御息所であることを突き止めた。
そして彼女がかつて、中宮と帝の寵愛を巡って醜い争いを繰り広げていたことも。
「雲居の御息所は、今回の事件に深く絡んでいると言ってもよいですね。彼女は中宮様を深く恨んでいる。」
「ああ。もう彼女は鬼と化しているかもしれません。」
「人は負の感情を抱き続けると鬼となる・・雲居の御息所の場合は、中宮様に対する強い憎悪、嫉妬、恨みの念を抱いていた。ですがわたしは、彼女の他にも動いている者が居るとにらんでおります。」
「他の者、とは?」
「以前仁が三条家に訪れた“播磨から来た女人”のことが、どうもひっかかっておりましてね。もしやその女人と雲居の御息所が手を組んでいるのではないのかと・・」
「それも考えられますね。今は慎重に動くべきです。」
「そうですね。」
有匡はそう言うと、仁は今弘徽殿でどうしているのだろうかと彼の身を案じた。
「相模様、どうしてわたくしを避けるんですの?」
「あら、わたくしそのようなことなさったかしら?」
簀子縁(すのこのえん)を歩いていると、仁は例の女房に出くわしてしまった。
「有匡様にはいつ・・」
「申し訳ないけれど、有匡様には北の方様がおられるのですよ?」
「まぁ、北の方様が?それは本当なの?」
「ええ・・あくまでも噂ですけれど、有匡様は大層北の方様を愛されておいでだとか。」
少し脚色しつつも、仁は彼女に有匡が妻帯者であることをにおわせた。
まぁ、あながち嘘ではないが。
「そう・・わたくし、急用を思い出したのでこれで失礼するわ。」
仁の話を聞き終えた女房は、落胆した様子でその場から去っていった。
これで彼女に付纏われずに済む―そう思いながら仁が安堵のため息を吐いていると、誰かに肩を叩かれた。
「あなた、あの時の・・」
「菫の君様・・」
仁が振り向くと、そこには雲居の御息所の娘・菫の君が蒼褪めた顔をして立っていた。
「どうしてあなたが、男子禁制の後宮に居るの?」
「それは、申し上げられません。では、これで失礼致します。」
背後で菫の君に声を掛けられたが、仁はそれを無視して伊勢の方の元へと向かった。
「伊勢の方様、今宜しいでしょうか?」
仁が御簾の前で伊勢の方にそう声を掛けたが、中から返事がなかった。
どうしたのだろうかと彼が訝しがりながら御簾をそっと捲ると、部屋の奥で彼女が直衣姿の男と口論している姿が見えた。
「ですから、わたくしはもうあなた様の事を・・」
「何故、わかってくれぬのだ!」
そう怒鳴った男の声に、仁は何処かで聞いた覚えがあった。
あれは確か、淡路の方の元へと向かう途中で聞いたものと同じ男の声だ。
「伊勢の方様?」
仁がもう一度伊勢の方に声を掛けると、奥から衣擦れの音が聞こえたかと思うと、男が御簾を乱暴に捲って部屋から出て来た。
咄嗟に仁は扇で顔を隠したが、男はジロリと彼を睨み付け、その場から去っていった。
「伊勢の方様、今の方は・・」
「お願い、この事は何も言わないで。」
そう言った彼女の顔は、何かに怯えているようだった。
「ええ、何も言いませんわ。」
「あの方は、以前お付き合いしていらした方なのよ。けれど、もうわたくしはあの人と終わりにしたいのよ。」
聞いてもいないのに、伊勢の方は仁に自分の恋愛事情を語り始めた。
「あの方とは幼馴染でね、いずれは親同士が結婚させるつもりでいたのだけれど・・あの方には想い人がいらっしゃったのよ。」
「想い人、でございますか?」
「ええ。その想い人というのは、雲居の御息所(みやすんどころ)様なのよ。」
「まぁ・・」
「あの方には勝てやしないわ、悔しいけれど。」
伊勢の方は、心底悔しそうに唇を噛み締めると俯いた。
一方、播磨の朽ち果てた邸に住んでいる女は、烏と年老いた乳母を引き連れて上洛した。
「姫様、一体どちらへ向かわれるのですか?」
「雲居の御息所様の元じゃ。」
「まぁ・・かつての東宮妃様の元へ?」
「心配するでない、御息所様はわたくしを歓迎して下さる。」
雲居の御息所邸についた女達は、邸の主に歓迎された。
「長旅のところ、お疲れでございましょう。さぁ、たんと召し上がってくださいませ。」
「ありがとうございます。」
女は微笑みながら、雲居の御息所が注いだ酒を猪口に受け、それを一気に飲み干した。
「そなたのお蔭で、わたくしの積年の恨みが晴らせた。礼を言うぞ。」
「礼なぞ要りませぬ。わたくしはただ、当然のことをしたまでです。」
「中宮が死に、我が姫が帝の目に留まれば、没落寸前の我が家もかつての光を取り戻すことじゃろう。その為には、そなたの力が必要なのじゃ。」
「わかっておりますとも、御息所様。」
「これからも、宜しく頼むぞ。」
雲居の御息所と女は、固く手を握り合った。
「御息所様、よろしいのですか、あのような者を信用して?」
「よいに決まっておる。あの女のお蔭で、中宮は死んだ。このまま計画を中止する事はならんぞ。」
「はい・・」
「後は、姫がどのようにして帝の心を捉えるかじゃ・・」
母の期待を受けながら入内した菫の君は、弘徽殿で孤立していた。
中宮を殺害したのは雲居の御息所ではないのかという噂が囁かれるようになったのは、帝が中宮の死後初めて弘徽殿に渡った時からであった。
その日、中宮主催で開かれる筈だった管弦の宴を、菫の君が開くこととなった。

仁達は素晴らしい演奏を帝の前で披露し、彼を感動させた。

「まるで天女達が舞い降りて余の心を慰めたかのような美しき音色であった。」
「そうでございましょう、主上。これらの者達は、わたくしが選んだ優秀な者たちばかりですから。」
奏者達を選出したのは中宮であるというのに、さも自分が選んだというような口ぶりで帝に話している菫の君に対し、その場に居た者達が不快さから眉を顰めた。
「何なのです、あの方は?」
「まるで、ご自分の手柄のように振る舞っておいでではありませんか?」
「あの御息所の姫君様ですもの、狡猾なところは母親に似ておりますわねぇ・・」

宴の件で、菫の君はすっかり女房達に嫌われてしまった。

宮中で行われる行事の準備で菫の君が声を掛けても、その場に居た女房達は無視して別の仕事をしていたり、雑談をしていたりしていた。
特に、中宮に対して親身に仕えていた淡路の方は、新しく主となろうとする菫の君の事を認めようともせず、同僚達と結託して菫の君を弘徽殿から追い出そうとしていた。
日に日に孤立を深めてゆく菫の君は、部屋に引きこもりがちとなり、ブツブツと独りごとを言うようになっていった。
「相模様、あなたあの方とお知り合いなの?」
「菫の君様とですか?いいえ、あの方とは初めてお会いしたばかりですわ。」
以前菫の君とは御息所邸で会っていたのだが、それをわざわざ伊勢の方に知らせるつもりはないだろうと思い、仁は咄嗟に嘘を吐いた。
「あの方、いつまで弘徽殿にいらっしゃるおつもりなのかしら?ご自分が嫌われていることに気づいていらっしゃらないようだけど。」
普段穏やかで他人を悪く言わない伊勢の方の口からそんな辛辣な言葉が出て来るとは思わなかった仁は、思わず彼女の顔を見てしまった。
「なぁに、どうしたの?」
「いいえ。それよりも、最近陰陽寮から連絡はございましたか?」
「ええ。忠光様の使いの方から、文を預かっているわ。」
「ありがとうございます。」
伊勢の方から文を受け取った仁は、彼女の部屋から辞して人気のない場所へと向かい、忠光からの文を読んだ。
そこには、今回の事件に雲居の御息所が絡んでいること、その背後には貝殻を貴族の姫君達に渡した“播磨から来た女人”が居ることなどが書かれていた。
(事件の黒幕は、雲居の御息所様ではない?)
「相模様、こちらにいらしたのね?随分探したのよ?」
「あ、淡路の方様・・」
仁は淡路の方に見つからぬよう、さっと忠光の文を衣の下に押し込んだ。
「わたくしに何かご用でしょうか?」
「ええ、実はね、あなたにお会いしたいという方がわたくしの部屋で待っているのよ、一緒に来てくださらないこと?」
「わかりました・・」
わざわざ自分に会いたいというのは、どんな人物だろう―そう思いながら仁は淡路の方の部屋に入ったのだが、そこには誰も居ない。
「淡路の方様、これは・・」
「まさか、こんな簡単な手に引っ掛かるとはね。あの陰陽師の息子だと聞いていて恐れていたけれど・・随分と間抜けだこと。」
そう言った淡路の方の声は、何処かしゃがれていた。
「そやつが、あの陰陽師の子か?」
「はい、御息所様。」

淡路の方は女に恭しくそう言って彼女に頭を下げると、仁を女の前に突き出した。

その女は、雲居の御息所だった。

だが仁が以前会った雲居の御息所とひとつ違うところは、彼女の額から二本の角が突き出ているところだった。
「あなたは・・」
「御息所様は鬼となって、あの忌々しい中宮を腹の子もろとも始末した。あとは、中宮に与(くみ)する者を殺すだけです。」
淡々とした口調でそう言った淡路の方の横顔が、酷く冷たく見えた。
「そうか。では、貴様には死んで貰わねばならぬな。」
「お待ちください、御息所様は一体何を考えておいでなのですか!?中宮様亡き今、あなたの望みはもう叶えられた筈でしょう!」
仁がそう御息所に問い詰めると、彼女はジロリと仁を睨みつけた。
「そなたは何もわかっておらぬ。わたくしがあの女からどのような仕打ちを受けたのか・・死してなお、帝の心を引き留めるあの女が許せぬ!」
御息所が叫んだ瞬間、周囲の空気が激しく振動したのを感じた。
結界を張っていなければ、衝撃波に身を引き裂かれそうだった。
「そなたなどにわたくしの邪魔はさせぬ。死ね!」
御息所はすっと仁に向かって手を伸ばすと、その首を片手で絞めあげた。
酸素を求めて喘いだ仁は、御息所の手を振り払おうとしたが、鋭い爪で手を引っ掻かれて痛みに呻いた。
「おのれ、小癪(こしゃく)な!」
「やめろ!」
その時、誰かが雲居の御息所を仁から引き離した。
「そなた・・」
「わたしの息子に手を出そうとするとは、恐れ知らずの鬼女だな。」
有匡はジロリと御息所を睨み付けると、彼女に向かって祭文を唱えた。
「やめろ・・」
目に見えない何かに縛りつけられ、御息所は苦しげに呻いてもがいた。
「何故邪魔をする、土御門有匡!わたくし達は今まで苦労したと思っておる!」
「黙れ、鬼を相手にする時間など無駄だ!」
淡路の方の言葉を一蹴した有匡は、護符を放った。
「ぎゃぁぁ~!」
護符を額に喰らった淡路の方は、全身を炎で焼かれ、苦しみながら死んだ。
「おのれ、よくも淡路を!」
本性を露わにした雲居の御息所は、牙を剥いて有匡に襲い掛かった。
だが、その牙が有匡に届く前に、彼が放った式神がその身を引き裂いた。
「おのれぇ・・」
有匡を憎々しげに睨みつけながら、雲居の御息所は灰と化して消えていった。
「父上・・」
「これで終わったな、何もかも・・」
「はい・・」
有匡と仁がその部屋から出て行こうとした時、一振りの太刀が有匡の肩先を掠めた。
「父上、大丈夫ですか!」
「まだ終わらぬ・・終わってはおらぬぞ!」
半狂乱になった宣旨は、太刀を振り回しながら有匡達の方へと突進してきた。
「父上に手を出すな!」
仁はそう叫ぶと、宣旨に向かって祭文を唱えた。
すると彼女は、炎に巻かれて息絶えた。
「良くやったな。」
「連れて参りましたぞ、例の者を。」
淡路の方が部屋の奥へと向かってそう呼びかけた時、黒い影がゆらりと蠢(うごめ)いたかと思うと、一人の女が仁の前に姿を現した。
宮中での中宮呪殺事件から数日後、有匡と仁は京の土御門家を後にして鎌倉へと戻った。

「ただいま。」
「お帰りなさい、仁。長旅ご苦労様。」
「ありがとうございます、姉上。」
仁はそう言うと、数ヶ月振りに会った姉に対して頭を下げた。
「聞いたわよ、あなた、今回の事件を見事解決したんですって?」
「そんな・・大したことないよ。」
「まぁ、そんなに謙遜することじゃないでしょう?あなたもこれで立派な陰陽師ね。」
「もう、姉上ったら。」
雛と仁が談笑している姿を、有匡は横目でチラリと見ながら笑った。
「先生、あの子達はあっという間に大きくなりましたね。」
「ああ。仁はわたしのお蔭で逞しくなったようだな。」
「まぁ、先生のスパルタ教育の賜物でしょうね、今回の事件を仁が解決したのは。女装して後宮に潜入するなんて思ってもみませんでしたけど。」
「わたしの助けが要らなくなる時期も近い、ということだな。」
「そうですね。けれど、これからどうするんですか?」
「どうするって?」
「陰陽寮の忠光様から先程文が来ましたけど、忠光様は仁の事を大変気に入っておられるようですよ?」
「・・見せてみろ。」
火月から文を渡された有匡がそれに目を通すと、そこには仁の事を高く評価しているという旨が書かれていた。
「あいつがもし陰陽寮に居たいというならば、反対する理由があるまい。」
「随分と甘くなりましたね、先生。昔は外に出ようとした仁をこっぴどく叱りつけていたのに。」
「あいつだってもう小さな子どもじゃないんだ。本人の好きにさせた方がいい。」

その夜、有匡は仁に忠光からの文を見せた。

「忠光様が、こんな文を・・」
「どうする?お前が陰陽寮に居たいというのならば、わたしは止めぬ。好きにしろ。」
「この話、喜んで引き受けようと思います。」
「そうか。また、寂しくなるな。」

有匡はそう言うとフッと笑った。

数ヶ月後、仁は再び上洛する事となった。

「向こうで頑張ってきなさいね、仁。」
「はい、姉上、母上。」
「お父様ならまた何処かに行ってしまったわ。全く、困ったものだわ。」
雛がそう言って嘆息すると、仁はクスクスと笑った。
「それじゃぁ、行って参ります!」
「体調を崩さないでね!」
「必ず手紙を頂戴ね!」
牛車が見えなくなるまで、雛と火月は仁に手を振った。
「これからまた、忙しくなりますわね。」
「ああ。」
「忠光様のご期待に応えなければなりませんね、仁様?」
「そんなにプレッシャーかけないでよ、涼香。」

仁が困惑したような表情を浮かべながら涼香を見ると、彼女はクスクスと笑った。


~完~
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凛として咲く花の如く(前編)

2024年09月27日 | 火宵の月 昼ドラパラレル二次創作小説「凛として咲く花の如く」

「火宵の月」二次小説です。

作者様・出版社様とは一切関係ありません。

二次創作・BLが嫌いな方はご注意ください。

「わたしが、陰陽寮に?」
「ああ、そうだ。今しがた、京の土御門家から文が来た。」

梅雨が過ぎ、蒸し暑さを感じるようになった夏の昼下がり、土御門仁(つちみかどじん)は、父・有匡(ありまさ)に呼び出されて彼の自室へと向かうと、彼から上洛するよう言われた。
一瞬動揺した後、仁はずいと身を乗り出し、父を問い詰めた。
「何故、わたしが上洛しなければならないのですか、父上?土御門家とは、母上と結婚した時に絶縁されたと、そうおっしゃいましたよね!?」
「ああ、そのつもりだったが、向こうは人を使って密かにわたし達の生活を調べていたらしいのだ。」
有匡はそう言って嘆息すると、握り潰してくしゃくしゃになった土御門家からの文を仁に手渡した。
そこには直ちに仁を上洛させ、陰陽寮に入寮させるようにとの旨が書かれてあった。
「一体あちらは何を考えているのでしょうか?」
「それはわからぬ。ただ、このまま返事をせずに居ると悪い方へと事が進むかもしれぬ。」
「それは・・」
「母上と雛(すう)のことは心配するな。」
「ですが父上・・」
「くどいぞ、仁。これはもう決まった事なのだ。」
尚も仁が有匡に抗議しようとすると、彼はそっと仁の肩を叩いた。
「わかりました。父上がそうおっしゃっておられるのなら、わたしは従うしかありませんね・・」
悔しさの余り唇を噛み締めながら、仁はそう呟いて俯いた。
「仁、お父様と何を話していたの?」
「姉上・・」
有匡の部屋から出た仁は、サラサラという衣擦れの音とともに姉の雛がやってきたことに気づいた。
双子の姉である彼女は、母・火月譲りの金髪紅眼の美しい容姿の持ち主ではあるが、外見は母親似であるのに対して、性格は父親である有匡に似ていた。
「その様子だと、お父様に何か言われたようね?」
「ええ。」
「どうせ土御門家があなたに上洛せよという文が届いたのでしょう?あちらの主の体調が芳しからないというから、何か含むところがありそうね。」
「姉上のおっしゃる通りです。」
「まぁ、あなたが留守の間、わたしがこの家を守るから心配要らないわ。」
雛はそっと仁の手を握ると、彼に微笑んだ。
姉とともに自室に戻った仁は、衣紋掛けに見慣れぬ直衣が掛けられていることに気づいた。
「先程土御門家から届きました。」
父の式神である種香がそう言うと、仁を見た。
「・・僕の趣味じゃないな。」
「どうやら有匡様が駄目なら、仁様に家督をお譲りする気になったのかもしれませんね?」
「それはどうかな、向こうとは絶縁したって思っているんだから、こっちは。」
上洛するまでの間、仁は土御門家がどんな手を使って有匡に自分の上洛を迫ったのかが気になり、眠れぬ夜を過ごした。
「行ってらっしゃいませ、仁様。」
「仁、くれぐれも身体には気を付けるのですよ。」
「わかりました、母上。それでは、行って参ります。」
出立の日の朝、姉と母に見送られ、仁は上洛する事になった。
「有匡様も薄情よねぇ、息子の見送りにも顔を出さないなんて。」
「殿もお辛いんじゃないんの?だからわざと仕事を入れてさっさと職場に向かわれたんだと思うわ。」
「まぁ、そうかもねぇ・・」
式神達はそんな囁きを交わしながら、家事に取りかかった。
「仁、よう来たな。さぁ、近う寄れ。」
「は・・」
上洛した仁は、土御門家当主と対面した。
有匡の養父である彼は、自分の義祖父に当たる人物なのだが、何故か仁は彼に対して不信の感情しか抱けないでいた。
「そなたをここに呼んだのは他でもない、土御門家を再興する望みをお前に託す為じゃ。」
「そんな大それたことをわたくしが出来る筈がございません。元服したとて、わたくしはまだまだ半人前ですから。」
なるべく当たり障りのない言葉を選びつつ、仁はそう言って義祖父を見つめると、彼は少し落胆したかのような表情を浮かべていた。
「おお、そのような事を言うでない。わしはそなたの父、有匡に絶縁を言い渡されて以来、生きるのが嫌になったことがあった。有仁(ありひと)の時もそうであった・・」
「ご自分のご都合のよいように解釈されては困ります。祖父が死んだのは、あなた方の所為でしょう?」
土御門家前当主であり、有匡の実父である有仁は、帝を惑わした妖狐・スウリヤと逃げ、土御門家を勘当された挙句、土御門家の追手によって無残な最期を遂げた事を仁は知っていた。
「父上が駄目ならば、わたくしに土御門家の家督を譲ろうとお思いになられていることでしょうが、わたくしはこの家を継ぐ気などさらさらありません。」
今まで義祖父を傷つけぬよう、下手に出ていた仁だったが、いい加減彼との噛み合わない会話をしてきてもうどうにでもなれと思ったのだった。
「この際はっきり申し上げますが、わたくしはもうあなた方とは親族でも何でもありません。父がこの家で暮らしていた時、あなた方が父にどのような仕打ちをなさったか、お忘れか?」
仁がそう言って義祖父を睨み付けると、彼はヒィッと叫んで身を竦めた。
「わたくしも狐の子ですゆえ、いつ何時あなた方の寝首を掻き切るかもしれませぬ。それでも良いというのならば・・」
老い先短い老人を脅迫するような真似はしたくなかったが、祖父や父の事を有耶無耶にしようとするこの男が仁は許せずにいた。
「もうよい、そなたの気持ちは解った。じゃが京に居る間、我が家に滞在してはくれぬか?」
「いいでしょう。ですがあなた方とは顔を合わせたくはありませんので、別邸で過ごすことに致しましょう。」
一緒に暮らすことだけでも有り難いと思え―そんな負の感情を言葉の端々に滲ませながら仁がそう言うと、先ほどまで沈んでいた義祖父の顔がパァッと輝いたように見えた。
「何をしておる、別邸を整えよ!」
「は、はい!」
仁が別邸に住むとわかった途端、彼はテキパキと家人達にそう命じ始めた。
(まったく、何て爺なんだ・・父上が絶縁したくなったのも、解る気がするな・・)
別邸と本邸を隔てる渡殿を歩いていた仁はそう思いながら、深い溜息を吐いた。
その時、向こうから自分と同い年の少年が数人やって来た。
どうやら一族の厄介者の息子である自分の姿を見ようと来たらしく、彼らは仁と目が合うなり、意地の悪い笑みを口元に湛(たた)えていた。
「お前があの有匡の息子か?」
「薄気味の悪い顔をしているな、流石あの狐の子と血を分けた息子らしい。」
「呪力はどうかな?まぁ、似ているのは顔だけだと思うがね。」
初対面だというのに、彼らは仁にそんな事を言いながら無遠慮な視線を投げつけて来た。
「わたくしの顔をとやかく言う前に、一度ご自分の顔を鏡でご覧になられてはいかがです?性根が腐りきった醜い顔をしておられますよ?まぁ、あなた方の顔は元から大層残念なものですけれどね。」
背後で彼らが何か喚いている声が聞こえたが、仁はそれを無視してそこから去っていった。
別邸で眠れぬ夜を過ごした仁は、そのまま陰陽寮へと入寮することとなった。

「貴殿が、あの土御門有匡殿のご子息か?」
「はい、これからお世話になります。」

入寮早々、彼は陰陽頭(おんみょうのかみ)・賀茂忠光(かものただみつ)に挨拶に行った。
遥か平安の御世、陰陽道の大家として名を馳せた賀茂家の出身だけあり、彼は何処かこの世を達観しているような賢い顔立ちをしていた。
「君の噂は聞いているよ。何でも、父上にもひけをとらぬほどの実力だとか?」
「いいえ、わたしはまだまだ父の足元にも及びません。」
「そう謙遜するんじゃないよ。それよりも、鎌倉に居る父君に宜しくお伝えしてくれ。」
「はい、わかりました。」
「では、わたしについてきなさい。君にとって陰陽寮は初めてだろう?今日の内に全体を把握しておいた方がいい。」
「わかりました。」
「では早速、案内するよ。」
陰陽寮のトップである忠光の後ろについて歩く仁の姿を、好奇心を剥き出しにした他の学生達(がくしょうたち)の視線が突き刺さった。
突然やって来た、東国(かまくら)から来た新入りが、何故忠光と歩いているのか皆興味があるらしく、仁は行く先々で声を掛けられた。
「お前、忠光様と一体どんな関係なんだ?」
「わたしは大した者ではありませんので、どうかお気にならさぬよう。」
そう言って暦生(れきしょう)の一人に微笑んだ仁であったが、はいそうですかと彼らが納得する筈がなく、あっという間に暦生達に仁は取り囲まれてしまった。
「どうせお前、親のコネで入ったんだろ?さもなきゃ、名高い陰陽寮に田舎者が入れるわけないもんな?」
暦生の一人が冷笑交じりでそう言うと、仁の前に出て来た。
「ほう?それならば貴殿は、どのようにして陰陽寮に入ったのですか?まさか、親の縁故で入ったとは言えませんよねぇ?」
陰陽寮に入る学生達は、天賦の才がある者も居るのだが、その大半は親の口添え、つまり縁故で入ってきた者が殆どだった。
「ふん、そんな筈ないだろう?俺は才能を買われてここに入ったんだ!お前のような田舎者とは違う!」
「ならば、その才能とやらをとくと拝見致しましょう。」
そう言った仁は、近くにあった暦を自分の手元に引き寄せた。
「この暦で、吉凶を占ってくださいませ。常日頃緻密な計算をされる貴殿なら、このような物は朝飯前でしょう?」
「クソ、俺を馬鹿にするな!」
仁の軽い挑発を受けた暦生は、仲間達が見守る中作業に取り掛かったものの、数秒もしない内に根を上げた。
「お前もやってみろ!」
「やらずとも、もう占えましたから。」
仁はスラスラと、暦で吉凶を占い始めた。
「ここは、西北に災いありと出ております。」
「ふん、なかなかやるじゃないか。ならばこれを作ってみろ!」
負け惜しみなのかどうかわからないが、暦生は未完成の暦を仁に押し付けると、そそくさと部屋から出てしまった。
これが新人いびりというものか―仁は苦笑しつつも、暦作りに取り掛かった。
「仁、そんな所で何をしているんだ?」
「先程先輩方から仕事を任されました。」
「全く、新人を来た早々いびるなど・・後で君に仕事を押しつけた者達を呼び出して叱らなければ・・」
「いえ、もう出来あがりましたから。それよりも忠光様、どうやらわたしは彼らに良い刺激を与えたようです。」
「そ、そうか・・」

忠光は仁の言葉を受け少し面食らったが、そのまま彼に背を向けて部屋から去っていった。

新入りでありながら、仁は陰陽寮の学生達に一目置かれる存在となった。

幼い頃から父・有匡に陰陽道の何たるかを叩き込まれ、厳しい鍛錬を重ねて来た甲斐があり、難解な講義にもついていけた。

「先日の試験が発表された。最下位の者は追試を受けることになっているから、心してそれに臨むように。」
忠光がそう言って講堂から出て行くと、学生達は我先にと試験結果が張りだされている場所へと殺到した。
仁はつま先立ちになりながらも、自分の名を必死に探した。
そして一番上に自分の名が出ている事を確認し、彼は安堵のため息を吐いてその場から離れた。
「なぁ、土御門仁って何者なんだ?」
「さぁな。何でも、父親の土御門有匡殿は宮中に居た頃色々と噂になった大物だそうだ。」
「土御門といえば・・確か昔陰陽頭を務めていたのも、土御門姓の者だったよな?」
「やっぱり、血は争えないんだろうなぁ。」
学生達が試験の結果について―正確に言えば仁について話していると、一人の学生が彼らの元へとやって来た。
「血統が何だっていうんだ?親が偉大な人物でも、その仁って奴が凄いっていう訳じゃないだろう?」
「それは・・」
「つまらないことで騒ぐなよ、馬鹿らしい。」
その学生は鬱陶しげに前髪を掻きあげると、蒼い双眸で周囲を睥睨(へいげい)した。
「何が天才だよ、馬鹿らしい・・」
周囲には聞こえぬ低い声でそう呟いた彼は、簀子縁(すのこのえん)を歩いてくる仁を見るなりさっと立ち上がり部屋から出ていった。
「お前が、土御門仁か?」
「はい、そうですが・・あなたはどちらさまでしょうか?」
「ふぅん・・どんな奴かと思ったら、余りパッとしない顔だな。」
「おや、どうやらあなた様はご自分のご容姿にさぞや自信がおありのようですね?」
初対面の相手に“パッとしない”と言われ、黙って引き下がる仁ではなかった。
咄嗟にそんな言葉をその学生に返すと、彼は怒りで顔を赤く染めた。
「真雅(ただまさ)、そこで何をしている?」
「忠光様・・」
仁と睨み合っていた学生は忠光の姿を見るなり、慌てて彼にひれ伏した。
「どうして仁をあんな目で睨みつけていたんだ?」
「いえ・・」
「すまないね、仁。この者にはわたしからよく言い聞かせておくから、今回はわたしに免じて許してやってくれないだろうか?」
「わたしは別に構いませんよ?」
「そうか、ありがとう。真雅、来なさい!」
「ですが忠光様・・」
「黙ってわたしの後について来なさい、真雅!」
まるで見えない鞭に打たれたかのように、その学生はビクリと身を震わせると、慌てて忠光の後を追いかけていった。
「真雅、お前が仁に対して良からぬ感情を抱いていることはわかる。だが、少し分別というものを身につけないといけないよ?」
「ですが、あいつの父上は・・」
「親同士の関係がどうであれ、お前達がいがみ合う理由はない筈だ、そうだろう?」

忠光にそう言われ、真雅は唇を噛み締めながら俯いた。

「わかればいいんだ。さぁ、もう仕事に戻りなさい。」
「これで、失礼致します。」

真雅は忠光の部屋を出ると、苛立ち紛れに近くの柱を拳で殴った。

仁が陰陽寮に入寮して数日後、鎌倉に居る父から文が届いた。

そこには体調を崩さぬようにとだけ書かれていた。
いかにも父らしく、そっけない文だったが、それでも仁にとっては嬉しかった。
「仁様、何やらご機嫌ですわね?」
「そうかな?」
仁の式神・涼香(すずか)がそう言って彼の肩越しから有匡からの文を覗き見ると、彼女は溜息を吐いた。
「そっけない文ですわね。」
「まぁ、別にいいんじゃない?逆に長ったらしい文を書かれたら嫌だよ。」
「そうですわね。それよりも仁様、今日はご出仕ならさないのですか?」
「うん・・試験がまたあるから、勉強しないと。」
「実技はもう終わったのでは?」
「今度は小論文の試験なんだ。実技は出来るんだけど、小論文は苦手なんだよね。」
「余り無理なさらないでくださいね。」
「わかった。」
朝食を食べ終えた仁は、すぐさま自室で試験勉強に取りかかった。
元は有匡所有の別邸には数人の使用人達の他には誰もおらず、ひっきりなしに来客が訪れる本邸とは違って静かだった。
周りに雑音がしなくて勉強に集中できた甲斐があったのかどうかわからないが、仁は小論文の試験でも満点を取った。
「君は優秀だね。実技だけでなく小論文も得意とは。やはりあの父君の子だけである。」
「いえ、わたしは努力してそれが報われただけです。」
そう言って仁が謙遜すると、陰陽博士(おんみょうのはかせ)である賀茂輝義(かものてるよし)は苦笑しつつ彼の肩を叩いた。
「そんな事を言うな。君の実力は君自身がわかっていることじゃないか?」
「まぁ、それはそうですけれど・・」
輝義と仁の会話を、真雅(みつまさ)は柱の陰から聞いていた。

(どうして、あいつの顔を見ると苛々するんだろう?)

初めて顔を合わせた時から、何故か真雅は仁の事が嫌いになった。
何故彼を嫌うのか、自分でも解らない。
それはひとえに、父・文観と彼の父・有匡との確執が原因なのかもしれない。
文観は有匡のことを嫌い、有匡も文観の事を嫌っていた。
だが、有匡の妹・神官(シャマン)が文観の妻となったので、親戚同士となった二人はあからさまに好悪の感情をぶつけ合うことはないものの、親戚づきあいは皆無に等しかった。
親同士の仲が悪いと、当然それは子ども達にも悪影響を及ぼす。
一度も顔を合わせた事がない従兄弟達に対して、真雅はいつの間にか彼らに悪感情を抱いていたのだった。
「どうしたんだ、真雅?」
「父上・・」
何者かに肩を叩かれて真雅が振り向くと、そこには墨染の衣の上に金襴(きんらん)の袈裟を掛けた帝の護持僧(ごじそう)である父・文観の姿があった。
「あれが、有匡殿の息子か?」
「ええ。父親に似て優秀で、それでいて憎らしい顔をしております。」
「そんな事を言うんじゃない、真雅。宮中で不用意な発言を控えるように。」
「はい、父上。」
真雅は、そう言うと俯いた。
「人の事を気にするよりも、勉学に励むがいい。陰陽寮に入った以上、志を高く持ってくれよ?」

文観は我が子を励ますかのように、そっと真雅の肩を叩いた。

「歌会、ですか?」
「ああ。何でも、雲居の御息所(みやすんどころ)様が最近気欝(きうつ)なご様子でいらっしゃる姫君様をお励ましになろうとお思いになって今宵開くんだとか。」
「へぇ・・雲居の御息所様がそんな事を・・」
雲居の御息所の名は、仁は何度か宮中でその名を聞いたことがあった。
かつて東宮妃(とうぐうひ)として後宮で権勢を振るうも、政敵の娘である中宮の讒言(ざんげん)により宮中から追い出され、今は姫君と実家で暮らしているという。
「仁はどうするんだ?」
「歌会ですか?お恥ずかしながら、余り歌を詠むのが得意ではないので遠慮させていただきます。」
仁がそう言って歌会を欠席する旨を忠光に伝えようとした時、衣擦れの音とともに一人の童子が講堂に姿を現した。
「土御門仁様は、おられますか?」
「わたしですが・・」
「これを、雲居の御息所様から預かって参りました。」
そう言うと童子は、梅の枝に巻きつけた文を仁に手渡した。
「ありがとう。」
文には、是非今宵の歌会に出席して欲しいという旨が書かれていた。
「どうやら、出席しなければならないようだね?」
「はい・・」
そう言った仁の声は、少し沈んでいた。
「雲居の御息所様の歌会に?」
「うん。歌を詠むのが苦手なのに、歌会なんて・・人前で恥をかくのは嫌だよ。」
帰宅した仁はそう涼香に愚痴をこぼすと、彼女はそっと仁の肩を叩いてこう言った。
「大丈夫ですよ。雲居の御息所様はそんなに意地の悪いお方ではありませんから。」
「そうだといいんだけど・・」
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