BELOVED

好きな漫画やBL小説の二次小説を書いています。
作者様・出版社様とは一切関係ありません。

狼と一角獣 第1話

2024年04月09日 | 薄桜鬼 異世界昼ドラファンタジーパラレル二次創作小説「狼と一角獣」
薄桜鬼の二次小説です。

制作会社様とは関係ありません。

二次創作・BLが嫌いな方は閲覧なさらないでください。

その日は、凍えるような冬の日だった。

―急ぎなさい、歳三!早くしないと、“あいつら”が来てしまうわ!
―母様、どこへ行くの?
―行けばわかるわ。さぁ、わたしの手を握って。いい、絶対に母様の手を離さないで!

冷たい風が吹きつける中、歳三は母の手を握りながら峠を越えようとしていた。
あと少しで峠を越えられると思った時、遠くで何かが光るのを歳三は見た。

―いたぞ!
―あそこだ、捕まえろ!

数頭分の馬の嘶きと、男達の怒声が徐々に自分達の方へと近づいてきている事に気づいた歳三は、怯えた顔で母を見つめた。

―歳三、今から言う事を一度しか言わないから覚えておきなさい。どんなに辛い時や苦しい時があっても、生きることを諦めないで。

母はそう言うと、首に提げていたロザリオを外し、それを彼の首に提げた。

―あの洞穴の中へ逃げなさい。
―母様はどうするの?一緒に行こうよ。
―あなたは生きて、わたしの分まで。

そう言うと母は、歳三を洞穴の中へと残して、吹雪の中へと消えていった。

―母様~!

これが、歳三にとって最愛の母と過ごした、最後の記憶だった。

―母様、早く戻って来ないかなぁ・・

寒さと空腹に震えながら、歳三は只管母が戻って来るのを待った。
しかし、いつまで経っても、母は戻って来なかった。
いつしか歳三は、疲れた所為か眠ってしまった。

暫くして、急に暑くなって来たので彼が目を覚ますと、自分が狼の毛皮のようなものに包まれている事に気づいた。
辺りを見渡すと、その毛皮の持ち主が琥珀色の瞳で歳三を見つめて来た。
恐怖で固まっている歳三に向かって、狼は薄紅色の舌で彼の顔についている汚れを舐め取ってくれた。

歳三に、新しい“母”が出来た瞬間でもあった。

雪山の洞穴で母と別れた歳三は、その日から新しい“母”となった狼達と暮らすようになった。
狼達は、人間に対して警戒心が強かったが、何故か彼らは人間の子供である歳三を、“護る者”だと判断し、群れの中で大切に彼に狩りの仕方を教え、愛情深く育てた。
歳三も、狼達を尊敬し、慕った。
母を亡くし、孤独に震えていた歳三は、ずっと狼達との暮らしが続けばいいと思っていた。
だが、狼達との幸せな暮らしは長くは続かなかった。
春を迎え、色とりどりの花が山を彩り始めた頃、歳三は狩りを終えて狼達と共に巣へと戻ろうとしていた。
だが、その途中で彼は一番遭遇したくない敵―人間と会ってしまった。
「あなた、何処から来たの?」
そう自分に尋ねて来た人間の小さな雌こと女児は、紅茶色の瞳をクリクリとさせながら歳三に近づいて来た。
彼はこれ以上近づくなと女児に威嚇するかのように、いつも身に着けていた狩猟用のナイフを彼女に突き付けた。
ナイフを見た彼女が怯えてその場から立ち去るのを見送った後、歳三は“家族”の元へと戻った。
(何だ、この臭い?)
巣が近づくにつれ、歳三の自然で鍛え抜かれた鋭い嗅覚が、血と炎の臭いを捉えた。
歳三の前には、人間によって惨殺された“家族”の遺体が転がっていた。
(母さん・・)
「何だ、こんな所にガキがいるじゃねぇか!」
「へへ、こんな上玉が隠れていたとはな!狼の毛皮と一緒に売り飛ばしちまおう!」
「う~!」
歳三は怒りの余り男達に向かっていったが、多勢に無勢だった。
気づいたら彼は、口に猿轡を噛ませられた上で、荷馬車の中で転がされていた。
一体男達が何処へ向かおうとしているのか、歳三は知る由もなかった。
激しく揺れる荷馬車は、やがて王都へと辿り着いた。
「お前達か、珍しい物を売りに来たのは?」
「へぇ。山の中にある、狼のねぐらに潜んでいた所を捕まえました。上玉ですよ。」
男達は、そう言うと麻袋から歳三を出した。
目隠しを外され、歳三は一瞬自分が何処に居るのかがわからなかった。
 だが、自分の前に居る女が高貴な身分に属している者だと、歳三は彼女がつけている香水の匂いでわかった。
「お前は・・」
女は、歳三の顔をみて、美しい顔を少し歪めた後、パンパンと軽く手を打った。
すると奥から、揃いの服を着た娘達が次々と出て来た。
「この者を浴場へ。」
「はい。」
女の命令を受けた娘達は、嫌がる歳三を浴場へと連れてゆき、七年間彼にこびりついた汚れを落とした。
すると、それまで狼の糞尿で汚れていた歳三の雪のような白い肌と美しい黒の髪が現れ、娘達はその美しさに思わず息を呑んだ。
「何だと、あの子が生きていただと!?」
「これからどうなさいますか、陛下?」
「だがその子が、我が国の王子であるという証拠がないであろう。それに、敵勢力が送り込んで来た暗殺者かもしれぬ。」
国王・ディルクはそう言うと、少し苛立ったかのように爪を噛んだ。
「例の子供が持っていたものです。」
「それは、エミヤのロザリオ・・」
ディルクには、十人の妃と、三人の愛妾との間にそれぞれ十人の子を儲けていた。
ディルクが溺愛していたのは、王宮に行儀見習いの為に女官としてやって来た歳三の母・エミヤだった。
エミヤは辺境の地で育った、没落貴族の娘だった。
だが、身分が低くても、いつもエミヤは凛として美しかった。
それは、女遊びに長けていたディルクの目には新鮮に映った。
エミヤとディルクが出会ったのは、春を告げる舞踏会の夜の事だった。
美しくドレスで着飾ったエミヤに欲情したディルクは、その唇と純潔を奪った。
エミヤははじめディルクを警戒していたが、やがて彼と共に過ごす内に、心を開いていった。
しかし、エミヤの存在を快く思わないディルクの妃達から、エミヤは酷い嫌がらせを受けた。
その時、エミヤはディルクの子を身籠っていた。
ディルクには十人の子が居たが、王家の継承権を持つ男児は二人だけで、あと七人は継承権を持たぬ王女だった。
エミヤの腹の子が男であるのならば、自分達の地位が危うくなる―そう思った妃達は、エミヤを腹の子諸共始末しようとした。
ディルクが狩りで不在の時を狙い、第二王妃・ティリアがエミヤに毒入りの茶を飲ませようとしたが、失敗に終わった。
何度も命の危機に晒されながらも、エミヤは元気な男児を産んだ。
それが、歳三である。
 ディルクはエミヤ母子の為に離宮を建てたが、国民の税金の一部を建築費用に充てた事により、エミヤは一部の国民から、“毒婦”と呼ばれるようになった。
エミヤは、歳三が三歳の時、彼を連れて王宮から抜け出した。
だがティリアが差し向けた追手に捕らえられた後、刑場の露と消えた。
「あの子に・・わたしの坊やに会わせて!」
処刑前夜、エミヤはティリアに歳三に会わせて欲しいと懇願したが、ティリアはそれを鼻で笑うと、一枚の血が滲んだハンカチを彼女に投げて寄越した。
「あの子は、もう居ないわ。」
「あ・・嫌よ、そんなの!」
「あはは、良い気味!」
「何ですって、あの女の子供が生きていた!?」
「はい。何でも、あの女が捕らえられる直前に、洞穴の中に子供を隠していたそうで・・」
「じゃぁ、殺すしかないわね。いずれこの国は、アンドリューが王となって治めるの。だから、邪魔者には消えて貰わなくちゃ!」
奴隷商人によって王宮に献上された歳三は、かつて母と暮らしていた離宮で再び暮らすようになった。
だが、長い間文明社会から切り離され、森の中で狼達と暮らしていた歳三にとって、人間社会への復帰は困難を極めた。
文字の読み書き以前に、彼は言葉を理解し、話す事が出来なかった。
その為彼には三十人もの家庭教師がつき、服の着方やトイレでの排泄の仕方など、生活に必要最低限の知識を徹底的に彼に叩きこんだ。
彼はまるで水を得た魚のように、ありとあらゆる知識や教養を学び、それを己の中へと消化していった。
「あの子はどうしているの?」
「歳三様なら、健やかにお育ちになられましたよ。」
「そんな下らない事は報告しなくていいの!」
「も、申し訳ありません。」
「まぁいいわ、引き続きあの子の監視をして頂戴。」
「かしこまりました。」

離宮で歳三が暮らし始めて、五年の歳月が過ぎた。
歳三は十五歳となり、離宮で暮らし始めた時よりも背が高くなった。

―見て、歳三様よ・・
―素敵な方だわ・・

普通に王宮の廊下を歩いているだけでも、歳三は貴族の令嬢達から熱い視線を注がれていた。
それもその筈、エミヤの美貌を受け継ぎ、贅肉が一切ない美しい筋肉を持ち、その上聡明であるというから、彼女達が歳三に熱を上げるのは当然と言えば当然だった。

「歳三様、またこんなに恋文が来ましたよ!」

そう言いながら読書をしている歳三の前に、うんざりしたような顔をしながら恋文の山を押し付けてきたのは、彼の小姓である市村鉄之助だった。

「もう勘弁して下さいよ!僕だって暇じゃないんですから!」
「丁度良い、暖炉の火がもうすぐ消える所だったんだ。」

歳三はそう言って自分の前に置かれている恋文の山を両手で掴むと、それらをまとめて暖炉の中へと放り込んだ。

「歳三様・・」
「あぁ、漸く暖かくなった。」
「そんな事をしていたら、いつか後ろから刺されますよ?」
「望むところだ。」
「それにしても、歳三様の奥方となられる方は色々と苦労される事でしょうね。」
「何言っていやがる、俺は一生独り身でいい。今まで独りで暮らして来たんだ、今更他人と一つ屋根の下で暮らせるか。」
「・・それを僕に言いますかね。」
鉄之助は溜息を吐いてそう言った後、コーヒーを主のティーカップに注いだ。
「はぁ、やっと終わった。」
歳三は読んでいた本を閉じると、それを鉄之助に手渡した。
「歳三様、陛下がお呼びです。」
「わかった、すぐ行く。」
離宮を出た歳三がディルクの元へと向かう途中、彼は第二王子・アンドリューと擦れ違った。
「おや、珍しいな、お前がこんな所に来るなんて。」
「どうせ父上に媚を売りに来たのだろう?あの娼婦の母親のように・・ぐぁっ!」
「すいません、耳元で何やらコバエがうるさく飛んでいたもので、つい・・」
「この無礼者!」
「行くぞ、鉄之助。」
「はい。」
背後でうるさく何かを喚き散らしているアンドリューを無視して歳三が鉄之助と共にディルクの執務室の中へと入ると、執務机では何やら気難しい顔をしながら何かを読んでいる彼の姿があった。
「父上、歳三が参りました。」
「歳三、この書類にサインしろ。」
「は?」
ディルクが歳三に突き付けたのは、長い間敵対関係にあったアティカ王国王女との婚姻証明書だった。
「父上、これは一体・・」
「我がラドルク王国と、アティカ王国とは長年敵同士である事はお前も知っているだろう。」
「えぇ。それと俺の結婚とどんな関係があるのですか?」
「我々はこれまで対立し、多くの血を流してきた。」

ディルクが治めるラドルク王国と、アティカ王国は、対立する狼族と一角獣族がそれぞれ治めていた。
二つの民族は異なる宗教・文化・言語を有していた。
それ故に、領土拡大を狙う両国は、幾度も武力衝突を繰り返してきた。
そんな事態を重く見た国際連盟は、両国と両民族の和解・融合策として両民族の王族同士が婚姻という“条約”を締結する事を提案したのだった。
そこで成人していない歳三に白羽の矢が立ったのだった。
「何故、俺なのですか?」
「わたしは、お前を心から愛しているし、信じている。だから、わたしの役に立ってくれるな、歳三?」
「父上が、そうお決めになったのならば、俺は従うだけです。」
「いいのですか、こんな・・」
「断っても、あいつは俺の事なんか何も考えちゃいねぇよ。まぁ、俺と結婚する相手はとてつもなく不幸だという事だな。」
歳三はそう言うと、自嘲めいた笑みを口元に閃かせた。
幼少期に一人だけ広大な雪山に取り残され、狼と共に生きて来た歳三は、母を死に追いやり、自分を蔑ろにしている父王に対して憎しみしか抱かなかった。
「それで、相手は?」
「アティカ王国の第三王女・千鶴様です。何でも、母親を幼い頃に亡くし、王宮では王女でありながらも使用人と同じ扱いを受けていらっしゃるとか・・」
「へぇ・・」
自分に宛がわれる結婚相手が自分と同じ境遇である事を知り、興味が湧いた。
「山崎、居るか?」
「はい。」
「その第三王女の事を調べろ。」
「かしこまりました。」
「歳三様、どちらへ?」
「気晴らしに遠乗りに行って来る。」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ。」
「すぐ戻る。」
王宮を出た歳三が愛馬に跨り向かった先は、“家族”と暮らしていた山だった。
狼達の冥福を祈った後、歳三は母と別れた洞穴の前に立った。
あの時、母は悲しそうな顔をしていた。
もう自分が逃げられないと、わかっていたからだろうか。
暫く歳三が感傷に浸っていると、洞穴の中で何か光る物を見つけた。

(何だ?)

ハンカチでその光る物を歳三が拾い上げると、それは美しいルビーの指輪だった。
よく見ると、指輪の裏には何かが彫られてあった。

“愛する娘へ”

「歳三様、お帰りなさいませ。」
「この指輪の持ち主を調べろ。」
「かしこまりました。」

山崎は、歳三からルビーの指輪を受け取ると、すぐさまその持ち主を調べた。
すると、すぐにその持ち主がわかった。

「これは、千鶴王女様の物ですよ。」
「何と・・」
「まぁ、正確に言えば千鶴様のお母君の物でした。」
「そうですか・・」

山崎が王宮へと戻り、歳三に指輪の持ち主の事を報告すると、彼はニヤリと笑ってこう言った。

「この指輪は、婚礼の日に彼女に渡す。」
「では・・」
「彼女がどんな女なのかは知らねぇが、この結婚に俺は全てを賭けるつもりだ。もうこれ以上、あいつの好きにはさせねぇ!」

一方、アティカ王国の王宮では、一人の少女が凍えるような寒さの中、庭園で雑草取りをしていた。
彼女の名は雪村千鶴、地味な黒のワンピースという服を着ているが、彼女はれっきとしたアティカ王国第三王女である。
母親の身分が卑しい所為で、千鶴は義理の姉王女達のように美しいドレスも宝石も持っていなかった。
唯一持っていた母の形見であったルビーの指輪も、狩りの最中になくしてしまった。

「あら、遅かったわね。」
「申し訳ございません。」
「次はこれをお願いね。わたくし達は音楽会に行かなければならないから。」
「わかりました。」
「陰気臭い子を、どうして歳三様が選ばれたのかしら?」
「本当よねぇ。」
姉王女達がまるで世間話のように自分の陰口を叩いているのを聞くのは、もう慣れた。
縫い物を終わらせ、千鶴は溜息を吐いた。
「千鶴姉様、どうしたの?」
「アルフレッド、ここに来てはいけないと言ったでしょう?」
王宮の、天井裏にある千鶴の部屋に入って来た少年は、アティカ王国王太子・アルフレッドだった。
彼は千鶴をいじめる姉王女達の弟であったが、性格は彼女達と全く似ておらず、時折こうして千鶴の部屋を訪ねて来ては、他愛のない話を花を咲かせていた。
「姉様、お嫁に行ってしまったら、もう会えなくなってしまうの?」
「いいえ、そんな事はないわ。結婚しても、時々会いに来てくれてもいいのよ。」
「本当!?」

敵国の王子と結婚すると言っても、その実千鶴は“敵国へ自ら人質になりにゆく”のと同じ事だった。

(陛下は、わたしが邪魔だから、敵国へと嫁がせるのだわ・・)

陰鬱な気持ちを抱えながら、千鶴は婚礼の日を迎えた。

「さようなら、元気でね。」

千鶴は一度も姉王女達の方を振向く事なく、婚礼馬車へと乗り込んだ。

「とてもお似合いですわ、千鶴様。」
「ありがとう。」
母親の身分が低いとはいえ、父王は一国の王女である千鶴の為に一応婚礼の支度は調えてくれたようで、馬車も美しい装飾が施された新品だった。
「まぁ、見てごらんよ。王女様の婚礼行列だよ。」
「美しいねぇ。」
王宮から出て来た千鶴の婚礼行列を一目見ようと、沿道には沢山の人が集まった。
「千鶴様は、幸せになれるの?」
「さぁ、どうだろうね。」
王都を出た千鶴達は、アティカとラドルクの国境付近にあるティルラ山へと差し掛かった。
 ティルラ山は、“魔女が棲む山”として知られており、これまで多くの旅人の命を奪って来た難所である。
「姫様、足元にお気をつけくださいませ。」
「わかったわ。」
馬車から降りた千鶴達は、寒さに震えながら切り立った崖の上を歩いた。
漸く彼女達が下山できたのは、その日の夕方の事だった。
「姫様、早く身体を温めませんと・・」
「そうね。」
麓にある宿場町で、千鶴達は宿屋に入ると、暖炉の前で身を寄せ合い、冷えた身体を温めた。
「それよりも、アグネスは何処に居るの?」
「さぁ・・」
千鶴達は姿を消した侍女を捜しに宿屋を出たが、闇の中からけたたましい笑い声が森の方から聞こえて来た。
「何、今の!?」
「行ってみましょう!」
千鶴達が森へと向かうと、そこには全裸で踊り狂うアグネスの姿があった。
彼女は、完全に正気を失っていた。
「しっかりして!」
 何とかアグネスを宿屋まで連れて行き町医者を呼んだが、彼女はもう手の施しようがなかった。
「何てこと・・」
「どうして、こんな・・」
「彼女は低体温症に罹っていました。ティルラ山で彼女はもう手遅れの状態だったのでしょう。」
町医者はそう言うと、力になれずに済まないと、千鶴達に詫びた。
千鶴達はアグネスの遺体を引き取り、近くにある教会の墓地に埋葬して貰った。
「アグネス、安らかに眠ってね。」
「わたし達を見守ってね。」
アグネスの墓前に花を供えた後、千鶴達は旅を続けた。
「あと少しですわ、姫様。」
「えぇ。」

(あの船に乗れば、わたしはこの国には二度と戻らないわ。)

ティルラ山を越え、港に辿り着くまで、千鶴達一行は行く先々で国民達の歓迎と歓声を受けた。

「姫様、万歳!」
「アティカ、万歳!」

だが彼らから歓迎され、祝福の言葉を贈られる度に、千鶴の心は深く沈んでいった。

(わたしは、この国の為に出来る事はないのかしら?)

そう思いながら、千鶴は家事の合間に姉王女達の目を盗んで王宮図書館に通い詰め、経済学や帝王学、化学や植物学など、幅広い分野の本を読み漁った。
しかし、どれだけ知識を身に着けても、父王は千鶴を閣議に出席させなかった。
“女は王宮に籠もって刺繍やダンス、噂話に興じていれば良い”という考えを持っている父王は、“余計な知恵”がつかぬよう、千鶴を他国へと嫁がせたのであった。
相手国の、夫となる王子は、“狼に育てられた野蛮な王子”だという。
王宮では、“毛むくじゃらの大男”だとか、“背骨が曲がった醜いあばた面の男”だとか、女官達が針仕事をしながら王子の姿を噂し合っているのを聞いた事が何度かあった。
そして彼らは決まってこう言うのだ。

“可哀想な千鶴様”と。

わかっていた、自分が王宮中から憐れまれ、疎まれている事に。

千鶴の母は、父王の正妃・マルティナの侍女だった。
父王が母に一目惚れし、母は千鶴を身籠った。
そして、千鶴が産まれた。
千鶴は、産まれてすぐ実母と引き離され、王宮のはずれにある塔に幽閉された。
誰も居ない、暗い塔の中で千鶴が友人と呼べたものは、塔に住み着いていたネズミの一家だけだった。
千鶴は七歳の時、初めて父王とその妻子に会った。

「はじめまして・・」
「陰気臭い子ね。」

父王の正妃・マルティナはそんな言葉を千鶴に投げつけると、そのまま娘達を連れてダイニングルームから出て行った。
「気にするな。」
「はい・・」
それからというものの、千鶴はマルティナから王宮の雑用を言いつけられ、いつしか彼女は王女ではなく使用人と同じような扱いを受けるようになった。
「ドレスより似合ってない?」
「そうよ。母親が侍女だから、血は争えないわね。」
姉王女達は事あるごとに母親の出自を持ち出しては、千鶴を馬鹿にした。
それを諫める者も、叱る者も居なかった。

(母様は、どうしてわたしを捨てたの?どうしてわたしを産んだの?)

王宮で陰鬱な生活を送っていた千鶴の唯一の気晴らしは、遠乗りだった。
王宮から離れて静かな森の中で動物達と戯れる事が、千鶴にとっては唯一の癒しだった。
ある日、千鶴がいつものように森の中を歩いていると、近くの茂みの中から一人の少年が現れた。
彼は全身が狼の糞尿に塗れており、悪臭を漂わせていた。
「何処から来たの?」
千鶴がそう少年に尋ねると、彼はまるで狼のように唸り、腰に帯びていたナイフを自分に向けて来たので、彼女は慌ててその場から逃げた。
それ以来、少年とは一度も会っていない。
「姫様、起きて下さい。」
「ん・・」
馬車に揺られ、いつの間にか眠ってしまったらしい。
「もうすぐ、船が来ますよ。」
「えぇ・・」
千鶴達は港でラドルク王国行きの船へと乗ろうとしたが、荒天の為出航は数日後になると言われたので、彼女達は港近くの尼僧院の世話になる事になった。
しかし、そこには先客が居た。
尼僧院の入口には、焚火の周りで暖を取っている数十人の武装した若者達の姿があった。
「彼らの相手をしてはなりませんよ、姫様。」
「えぇ・・」
長旅の疲れが出たのか、尼僧院の中に入った千鶴達は、宛がわれた部屋の中で泥のように眠った。
パリン、という音がして千鶴達が起きたのは、夜中の三時頃だった。
「何でしょう?」
「さぁ・・」
侍女の一人が外の様子を見に行こうとした時、野太い男達の下卑た笑い声と尼僧達の悲鳴が聞こえた。
それを聞いた千鶴達は、何が起きているのかを瞬時に悟った。
「ここに居ては危険です!」
「でも、どうすれば・・」
「彼らがここに来るまで、逃げましょう!」
外は激しい嵐が吹き荒れ、千鶴達は何度も強風に吹き飛ばされそうになりながらも、暴漢達が居る尼僧院から少し離れた洞窟の中へと避難した。
「ここで夜を明かしましょう。」
「はい・・」
千鶴達は尼僧院から持って来た毛布にくるまり、嵐が収まるまで待った。
「姫様、あれを・・」
「まぁ、何て事・・」
洞窟の中から外の様子を見た千鶴達は、荒れ狂う海の中へと次々と投げ出されてゆく女達の悲鳴を聞き、思わず耳を塞いだ。
一夜明け、港は昨夜の荒天が嘘のように雲ひとつなく晴れていた。
「アティカの千鶴王女一行は、間もなく港へ着くようです。」
「そうか。」
歳三は、自室の執務室で山崎の報告を聞きながら、あのルビーの指輪を、執務机の引き出しから取り出した。

漸く、この指輪を持ち主の元に返せるのだ。

「そう、例の王女が・・」
「どうなさいますか?」
「放っておきなさい。」
「はい・・」

(不運な子ね・・まぁ、わたしには関係のない事だけれど。)

婚礼の日、千鶴ははじめて夫となる王子と会った。

自分の前に立っているのは、毛むくじゃらの大男でも醜いあばた面の男でもなかった。
雪のように白い肌、宝石のように美しい紫の瞳を持った美男子だった。
その美しさに、千鶴は思わず見惚れてしまった。

(嘘みたい・・この方が、わたしの旦那様なんて・・)

「姫様?」
「ごめんなさい、ボーッとしてしまったわ。」
「さぁ、お召し替えをなさいませんと。」
「わかったわ。」

長旅の泥と汗にまみれたドレスと身体で婚礼に出るなどあってはならないと思った千鶴は、侍女達に連れられて控室へと向かった。

「あなたが、トシのお嫁さんになる方?」
「はい、あのう・・」
「はじめまして、わたしはエリーゼ、トシの三番目の姉よ。」

歳三の三番目の姉・エリーゼに招かれ、千鶴は彼女主催のお茶会に出席した。

「長旅の疲れが取れない内に、こんな所に呼び出してしまってごめんなさいね。」
「いいえ・・」
「あなたには、トシの事で伝えておかなければならないの・・彼の生い立ちについて。」
「狼に、育てられたと聞きました。」
「そう、トシは狼に育てられたの。母親を殺されて、広大な雪山に独り取り残されたのよ・・奴隷商人に見つかるまでね。」
「そんな・・」
「あの子は、今は立派に人間社会に溶け込んでいるようだけれど、人間不信というか、人間嫌いな所があるの。あなたに対して冷たい態度を取るかもしれないけれど、余りあの子を嫌いにならないで頂戴。」
「はい、わかりました。」
「あなたも、今まで辛い思いをしてきたのでしょう?」
「わたしは母に捨てられ、父や姉達に疎まれながら育ちました。王女ではなく、使用人のような扱いを長年王宮で受けて来ました。なので、色々と至らない点があると思いますが、これから宜しくお願い致します。」
「こちらこそ、よろしくね。」
エリーゼはそう言うと、千鶴の手を優しく握った。
エリーゼの部屋から出て、控室へと戻る途中で、千鶴は一人の女性と擦れ違った。
女性は華やかなドレスと髪飾りで己の美しさを際立たせており、彼女が身分の高い者であるという事は一目でわかった。
「陰気な子ね。あの子も可哀想に。」
その女性と擦れ違った時、耳元で彼女にそう囁かれた千鶴は、暫くその場から動けなかった。
「お綺麗ですわ、千鶴様。」
「ありがとう。」
鏡の前で、千鶴は花嫁姿の自分を見た。
そこには薄化粧を施され、純白の花嫁衣装を纏い、ルビーのティアラをつけた美しい王女の姿があった。
「さぁ、お時間ですよ。」
「わかったわ。」
彼女達にヴェールの裾を持って貰いながら、千鶴は馬車へと乗り込み、新郎が待つ教会へと向かった。
久しぶりの慶事に、長い間紛争や内戦が続いて疲弊しきっていた国民の心は歓喜に湧いた。

「見ろ、花嫁行列だ!」
「何と美しい・・」

王宮から教会までの道中、花嫁を乗せた婚礼行列を一目見ようと、沿道には多くの市民達が集まった。

「着きましたよ。」

侍女達から支えられながら馬車から降りた千鶴は、ゆっくりと新郎が待つ祭壇の方へと歩いていった。

純白の軍服姿の新郎は、自分よりも美しく見えた。

「神の名の下に、この二人を夫婦とする。」

千鶴と歳三は、神の前で永遠の愛を誓い合った。

「指輪の交換を。」
「司教様、お待ち下さい。」

歳三はそう言うと、リングケースの上にルビーの指輪を置いた。

それは、千鶴が狩りの最中に失くしたと思っていた母の形見の指輪だった。

「これは・・」
「この指輪を、三年経って漸く元の持ち主に返せる。」

そう言った歳三の笑顔は、美しかった。

あぁ、この人となら幸せになれる―千鶴は直感でそう思った。

厳粛な雰囲気に満ちた結婚式が終わり、王宮では二人の結婚を祝う舞踏会が開かれた。

―お似合いのご夫婦ね。
―えぇ、本当に。

「あんな陰気な花嫁のどこがいいのやら。わたくしの方が・・」
「いくら美容にお金を掛けても、若さには勝てませんわ。」
「あなた、わたくしに喧嘩を売っているつもり?」
「わたくしは事実を述べただけですわ。年増の嫉妬は見苦しいですわよ?」

図星を指され悔しそうに歯噛みするティリアを見て、エリーゼは満足気に笑いその場を後にした。

「母上、どうかされたのですか?」
「何でもないわよ!」

(許せない・・この世で一番美しいのは、このわたくしよ!)

舞踏会が終わり、千鶴と歳三は新婚初夜を離宮で過ごす事になった。

「あの・・本当にわたしのような陰気な者が、あなたの妻に相応しいのでしょうか?」
「相応しいのかどうかは、周りではなく俺が決める。それに、自分を卑下するような事を言うな。」
「はい・・」
「まぁ、お前ぇが母国の王宮でどんあ扱いを受けて来たのかは簡単に想像出来る。」
「エリーゼ様から聞きました、あなた様の生い立ちを。」
「そうか。俺は十歳の時に奴隷商人に売られて王宮に来るまで、狼に育てられた。あいつらは言葉を話さなかったが、心は通じ合えた。それに、動物は無駄には人を殺さねぇ。」
歳三はそう言うと、馬車の窓から外の風景を眺めた。
王都から少し離れた場所で歳三と母は暮らしていた。
父王はたまに顔を見せに来たが、家族団欒といったものを歳三が体験した事はなかった。
(さてと、そろそろかな・・)
歳三がそう思いながら、目を少し閉じていると、突然馬車が大きく揺れた。
「どうした!?」
「申し訳ございません、車輪が泥濘に嵌ってしまいました!」
「お前はここで待っていろ。」
「はい。」
車内に千鶴を待たせ、歳三は降りしきる雪の中、御者と共に二人がかりで泥濘に嵌った馬車の車輪を動かした。
彼らが離宮に辿り着いたのは、深夜一時過ぎだった。
「千鶴様、どうぞあちらへ。」
「はい・・」
千鶴は緊張した面持ちで支度部屋へと入った。
(これから、この方に抱かれるのだわ・・)
今まで異性と話した事も、手を繋ぐ事もなかった。
そんな自分に、歳三は失望してしまわないだろうか―そんな事を思いながら鏡台の前に座り、髪を梳いていた千鶴は、廊下で女官達が話している内容を聞いてしまった。

―かなり地味な方だったわね。
―不釣り合い過ぎじゃない?
―胸もないし、ねぇ・・

やはり、自分は歳三に相応しくない。

千鶴がそう思った時、歳三が部屋に入って来た。
「あの・・」
「今夜は、お前を抱かねぇ。」
「わたしに、魅力がないからですか?
「違う。」
「では・・」
「考えてみろ、初めて会った男女が床を共にできると思うか?」
「あ・・」
「そんな関係になるのは、互いの事を知って仲を深める事が普通だろう。」
「そう、ですね。」
「あいつらには、ある事ない事言いふらすなと言っておいたから、安心しろ。」
「はい。」
「へぇ・・あの子が、そんな事をねぇ。」
「まだお世継ぎ誕生には期待しない方がいいかと。」
「ふん、まぁいいわ。これから面白くなっていきそうだし。」
ティリアはそう言うと、ワインを飲み干した。
口がさない女官達が、二人の新婚初夜の事を話したので、その話はたちまち宮廷中に広まった。

―ねぇ、本当なの?
―“あの”歳三様が、ねぇ・・
―信じられないわ。

歳三が経験豊富な事を知っている女官達は、陰で千鶴の事を、“夫に相手にして貰えない可哀想な女”と笑っていた。
千鶴は自室に引き籠もるようになり、歳三との会話は少し挨拶を交わす程度のものとなった。

「失礼します、千鶴様。」
「鉄之助君、どうしたの?」
「いえ、歳三様が一緒に遠乗りへ行かないかと・・」
「すぐに支度するわ。」

先程まで陰鬱な表情を浮かべていた千鶴は、鉄之助の言葉を聞いた途端明るくなった。

「お前は、馬が好きなのか?」
「えぇ。王宮の中は息苦しくて、遠乗りする事だけが唯一の気晴らしでした。」
「俺もだ。今度弓術大会が開かれるんだが、お前も出てみないか?」
「いいのですか?」
「あぁ。ここへ来てから、お前にも気晴らしが必要だと思ってな。」
「嬉しいです。」
「後で俺の部屋に来てくれ。お前ぇに渡したい物があるんだ。」
「わかりました。」

遠乗りから王宮へと戻った千鶴が歳三の部屋へと向かう途中、一人の少女が彼女の前に立ち塞がった。

「あなたね?アティカから来た陰気な女というのは?」

少女はそう言うと、無遠慮に千鶴の粗末なドレスを見た。

「王族ではなくて、使用人なのかと思ったわ。」
「あらリズ、あなたがこんな所に来るなんて珍しいわね。」
「エリーゼ姉様・・」
「ラテン語の先生が、呼んでいらしたわよ。」
「どうして、そんな事を・・」
「また試験で赤点を取ったのでしょう?」
「行くわよ!」

少女は千鶴に背を向けると、侍女達を連れて慌しくその場から去って行った。

「あの子の事は気にしなくていいわよ。」
「あの方は?」
「あの子はリズ、ティリア様の姪よ。きっと歳三の花嫁であるあなたの事を探りに来たのね。」
「わたし、王女には見えないですよね?こんなに地味なドレスを着ているのは、わたしだけですもの。」
「歳三の部屋へ早く行きなさい、きっとあなたの事を待っていると思うわ。」
「はい・・」

歳三の部屋のドアをノックしようとした千鶴は、中から賑やかな笑い声が聞こえて来た事に気づいた。

「失礼します、千鶴です。」
「おう、千鶴か、入れ。」

歳三の部屋に入ると、そこには色とりどりの美しい布が広げられていた。

「あの、これは?」
「お前のドレスを何着か仕立てて貰おうと思ってな。」
「はじめまして、仕立屋のカルロスと申します。」
「はじめまして・・」
「お美しい肌をしていらっしゃいますね。あなたには、暖色系のドレスが似合いそうです。」
「え?」
「カルロス、こいつに似合うドレスを何着か作ってくれ。」
「かしこまりました。」
「あの、わたしはこのドレスで・・」
「良い訳ねぇだろう。いいか、お前ぇはここの使用人じゃねぇ、俺の女房なんだ。惚れた女を美しく着飾らせたいのが、男としての性だろうが。」
「まぁ・・」
「トシゾウ様のおっしゃる通りです。ダイヤモンドの原石は美しく磨かなければ光りません!」

カルロスはそう言った後、両手を打ち鳴らした。
すると、揃いのスーツ姿の美女達が部屋に入って来た。

「彼女はわたくしの優秀な弟子達、ヴィーナスの申し子達です。」
「まぁ、あなたが・・」
「可愛らしい方。自己紹介が遅れました、わたくしはミミ。そして、こちらが双子の姉のリリですわ。」
「以後、お見知りおきを。」
「は、はぁ・・」
「さぁ、千鶴様、全てをわたくし達に委ねて下さいませ。」
「よろしくお願い致します。」
「こちらこそ。」

その日の夜、国王主催の舞踏会が王宮の大広間で開かれた。

「ねぇ、あの陰気な方は来るかしら?」
「地味なドレスしか持っていないのですから、恥ずかしくて出席出来ないのかもしれませんわ。」
「そうね。」

リズと侍女達がそんな事を話していると、大広間に歳三達が入って来た。

歳三は、純白の軍服姿だった。
そして彼の隣に居るのは、美しいアメジストのティアラを扱った千鶴の姿があった。
彼女は宝石を鏤(ちりば)めた純白のドレス姿で、凛としていて美しい雰囲気を纏っていた。

(あれが、今日会った女なの?)

「まぁ、あなた本当に千鶴さんなの!?」
「はい。」
「そのドレスと宝石、トシからプレゼントされたのね!とても似合っているわ!」
「ありがとうございます。」
「トシ、あなた達二人共お似合いよ。」
「う、うるせぇ!」
「あら、顔が赤くなっているわよ!」

(本当にお似合いよ、あなた達。)

歳三と千鶴がワルツを贈っている姿を見つめながら、エリーゼは嬉しそうに笑った。

「陛下のお成り~!」

ディルクがティリアと共に大広間に入ると、そこには美しく着飾った歳三の花嫁の姿があった。

「陛下、どうなさったのですか?」
「いや・・」

ティリアはディルクの視線の先に千鶴が居る事を知り、その美しさに彼女は思わず目を見張った。
白貂を織り込んだ、サファイアとアメジストを鏤めた美しいドレスは、千鶴の白い肌に映えており、その頭上に輝くティアラも、彼女の美しさを際立たせていた。
彼女と初めて会った時、木綿のくたびれたドレス姿の彼女を見たティリアは、彼女が王宮に新しく入った使用人かと思ってしまう程、地味だった。
だが今はどうだろう、彼女は美しいドレスを纏い、威厳に満ちていた。
そして彼女の美しさに、周囲の者達は見惚れているようだった。

(悔しい・・あの小娘が注目を浴びるなんて・・)

今まで、宮廷の中で注目を浴びて来たのは自分だった。
それなのに―

「何ですって、あの子があの娘に贈り物を?」
「はい・・」
「あの娘を、わたしより目立たせてなるものですか!」

ティリアは千鶴が弓術大会に出場するという事を聞き、良からぬ事を考えた。

「これを、あの娘の馬の鞍に仕込みなさい。」
「そのような事、出来ません。」
「お前、実家の母親の具合が悪くて、薬代が高くかかるそうね?」
「そ、それは・・」
「悪いようにはしないわ。お前も、お前の母親も。」

ティリアはそう言って蒼褪める女官に、待ち針を渡した。

弓術大会の日を迎え、王都は熱気と興奮に満ちていた。

「アティカのあの方が、大会に出られるみたいよ?」
「あの陰気な娘が、弓や馬を扱えるのかしらね?」
「身の程知らずな娘だわ。」

そんな周囲の嘲笑を吹き飛ばすかのように、千鶴は大会で好成績を収めた。

「あの娘があんなにいきいきとしている姿を見るのは初めてだわ。」
「えぇ、そうですわね。」
「リズ、あなたはトシを千鶴に取られて嫌なんでしょう?」
「そ、そんな事はっ!」
「この際だからはっきり言っておくわ。自分がされて嫌な事は、他人にしてはいけないわ。そんな事をすれば、、周りから嫌われてしまうわよ、あなたの伯母様のようにね。」
「な・・」
怒りで顔を赤く染めながら絶句しているリズをその場に残し、女官達ともにエリーゼは厩舎へと向かった。
「あなた、そこで何をしているの!?」
「申し訳ありません!ティリア様に命じられて・・」
千鶴の馬の近くで不審な動きをしていた女官は、そう言って泣き出した。
「あの婆、見境がなくなって来たわね。」
「どう致しましょう・・このまま彼女を放っておく訳にはいきませんわ。」
「わたしに考えがあるわ。」
エリーゼはそう言うと、女官の耳元に囁いた。
「まぁ、ちゃんとやったのね?」
「はい・・」
「そう。」
ティリアは馬に乗って走り出したが、森の中に架かる橋を渡ろうとした所で、異変に気付いた。
耳障りな羽音を立てながら、雀蜂の大群が彼女を襲った。
彼女はパニックになった馬に振り落とされ、頭から泥水の中に突っ込んでしまった。
「何なのよ、もう!」
泥だらけになりながらティリアが王宮に戻ると、彼女は観客達の笑い物となった。
「ほら、あんなに惨めに笑われたくないでしょう?」
「伯母様・・」
「あぁ、悔しい!わたくしが一番注目されるべきだというのに!」
「伯母様、全身泥パックで少しは肌が潤いましたか?」
「リズ、あなた何を・・」
「わたくし、伯母様のようになりたくありません。自分の衰えと向き合えず、他人を貶す事でしか生き甲斐を見出せない惨めで哀れな人生を送りたくありませんわ。」

リズから痛烈に批判されたティリアは、ショックで数日寝込んだ。

「ふん、あれだけ底意地悪い癖に、意外とヤワなんだな。」
「歳三様・・」
「まぁ、あの婆が大人しくなればいい。」

歳三はそう言うと、せっせと羽根ペンを動かした。

弓術大会から数日経った後、“ある噂”が王都に広まった。

それは、T伯爵家令嬢との縁談が持ち上がっているというものだった。

「何処からそんな話が?」
「ティリア様の嫌がらせでしょう。」
「T伯爵家の娘といえば、あの勝気でわがままな女か。」
「全く、あの婆には大人しくして貰いたいものですね。」
鉄之助はそう言うと、溜息を吐いた。
「歳三様、千鶴様がお見えです。」
「わかった。」
「土方さん、失礼致します。」
「千鶴、どうした?」
「あの、一緒に遠乗りを・・」
「わかった。」
「最近、千鶴様との関係が良くなりそうですね。」
「ええ。あの方達との間に子供が授かればねぇ・・」
「それはまだ先の話ですよ、エリーゼ様。」
「そうね。」
エリーゼはそう言うと、少し冷めた茶を飲んだ。
「さっき、歳三様に縁談が来たというお話を聞きました・・」
「あんな下らねぇ噂に、お前が悩む必要はねぇ。」
「ですが・・」
「もうこの話は終わりだ。」
「はい。」
遠乗りから二人が王宮へと戻ると、一人の少女が彼らの元へとやって来た。
その少女が、T伯爵家令嬢だと歳三は一目でわかった。
彼女は美しいブロンドの髪を揺らしながら、歳三を見た。
「トシゾウ様、お会いしたかった!」
千鶴を無視した少女―T伯爵家の娘・ロザリアは、そう言うと歳三に抱き着こうとしたが、歳三はロザリアを無視した。
「ロザリア殿、何か勘違いされているようですが、俺はもう妻帯しております。」
「あら、では隣に居らっしゃるのが奥様ですの?てっきり侍女なのかと思いましたわ。」
ロザリアは少し馬鹿にしたような顔をして千鶴を見た。
「あら、誰かと思ったら、未だ独り身のロザリア様ではありませんか。」
ロザリアの前に現れたリズは、そう言って小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「リズさん、あの・・」
「お前ぇ、どうしたんだ?悪い物でも食ったのか?」
「いいえ。わたくし、あの方のようにはなりたくないので、心を入れ替える事にしましたの。チヅル様、今までの無礼な態度をお許し下さいませ。」
「まぁ、お前がそう言うのなら、信じよう。」
「ありがとうございます。」
「行くわよ!」
ロザリアは歳三に無視された事に腹を立て、取り巻き達を連れて廊下から去っていった。
「あいつの事は気にするな。」
「はい・・」
ロザリアは、歳三の事が気に入らないのか、嫌がらせをするようになった。
しかし、リズがロザリアの嫌がらせに気づき、その証拠を取っていた。
「あら、わたくしの刺繍針がないわ!」
「まぁ、本当ですか?」
「大変ですわね。」
取り巻き達が大袈裟に騒ぎながら、ロザリアの刺繍針を捜そうとしていた。
「もしかして、この刺繍針ではなくて?」
リズはそう言うと、前もってロザリアの取り巻き達が千鶴の裁縫箱の中に入れてあったロザリアの刺繍針をそこから取り出し、“拾った振り”をしてロザリアに手渡した。
「まぁ、何処でそれを?」
「廊下に落ちていましたわ。誰かが怪我をしないように拾って差し上げましたの。」
「あら、ありがとう。」
そう言ってリズから刺繍針を受け取ったロザリアの笑みは、少し引き攣っていた。
「チヅル様を傷つける方は、いくらロザリア様でも許しませんわ。」
「リズ、あなた・・」
「ご機嫌よう。」
「リズさんも来ていたのですね。皆さん、揃った所ですから始めましょうか?」
「わたくし達は、これで失礼致します!」
「ロザリア様、お待ちください!」
ロザリア達の後を追おうとした千鶴は、リズに止められた。
「放っておきなさい。」
「ですが・・」
「あの方は、チヅル様が嫌いなのです。」
「わたし、あの方に何かしましたか?」
「いいえ。この世には、理由がなくても人を嫌う方がいるのですわ。」
自分よりも年下の少女にそう諭された千鶴は、暫くその場に立ち尽くしていた。
「そうか、そんな事が・・」
その日の夜、千鶴は歳三にそんな事を話すと、彼は溜息を吐いた。
「まぁ、王宮って所は、魔窟だからな。王宮には、色んな考え方を持った奴等が居る。そんな奴等が、俺の母親を殺した。俺は必ず、母親の仇を討つ。」
「わたしに、何が出来ますか?」
「ただ傍に居てくれるだけでいい。」
「はい・・」
歳三と千鶴が眠っている時、彼らの寝室に一人の女官が忍び込んだ。
彼女は千鶴に近づくと、隠し持っていた短剣を彼女目掛けて振り下ろした。
だがその刃が届く前に、歳三が女官の首を絞め上げた。
「言え、誰から命じられてこんな事を?」
「アイリス様です・・」
「こいつを殺せと、アイリスが確かに命じたのか?」
「はい・・」
(敵はティリアだけだと思っていたが、まさかアイリスも敵だったとはな・・)
執務室で歳三は明かりもつけずに、アイリスと初めて会った事を思い出していた。
アイリスはディルクの第三王妃で、ティリアと敵対関係にあった。
 歳三が王宮で暮らし始めた頃、彼はエリーゼと共に遠乗りへ来ていた。
「どう、王宮での暮らしは?」
「山に帰りたい。あいつら、みんな嫌い。」
「トシ・・」
エリーゼは、暗い顔をしている年の離れた弟を見た。
「あいつら、俺の悪口ばかり言う。あいつら、俺が化物だって・・」
「あなたは、化物なんかじゃないわ。」
「みんな、俺の事嫌ってる。」
「そんな事ないわ。」
「どうしたら、みんなに好かれるようになる?」
「みんなから無理に好きになって貰わなくてもいいの。あなたが好きなようにおやりなさい。」
「わかった!」
遠乗りから二人が王宮へと戻ると、そこではディルクの生誕を祝う宴が開かれていた。
「あら、誰かと思ったら、山で育った子ね?」
「ティリア様、何かわたくしに用かしら?」
「あなた、相変わらずわたくしに向かって生意気ね?」
「わたくし、あなたを尊敬していませんもの。わたくし達に何も用がないのなら、そこを退いて下さる?」
「何の騒ぎです?」
睨み合うティリアとエリーゼの前に現れたのは、アイリスだった。
彼女はブルネットの髪を揺らしながら、碧緑色の瞳でティリアを睨んだ。
「またお前が二人を挑発したのね?」
「わたくしの方が立場が上よ。」
「金で買った爵位なんて、犬の糞以下よ。二人共、おゆきなさい。」
「はい・・」
王宮に馴染めず、貴族の子供達に虐められていた歳三を、何かと気遣い優しくしてくれたのは、アイリスだった。
「あなたには才能があるの。それを皆、気づかないだけ。」
「本当?」
「そうよ。」
アイリスは歳三が刺繍の才能がある事に気づき、彼に刺繍を学ばせた。
孤独に満ちた生活の中でも、針仕事をしたり読書をしたりすれば心が満たされる事に歳三は気づいた。
刺繍したハンカチを見て、歳三は満足そうに笑った。
「まぁ、素敵なハンカチね。自分で作ったの?」
「はい。」
「これ、わたしに下さらない事?」
「いいのですか?」
「いいわよ。あなたの最初の作品ですもの。」
そう言ったアイリスは、歳三に優しく微笑んだ。
その時の、彼女の笑顔は演技ではなかった。
心からの、笑顔だった。
(あの人は、俺を信じ、優しくしてくれた。それが、偽りだったなんて・・)
翌朝、歳三は執務室で書類仕事をしていると、そこへアイリス付の女官がやって来た。
「歳三様、アイリス様がお呼びです。」
「わかった、すぐに行くとアイリス様に伝えろ。」
「はい。」
歳三はアイリスの元へと向かう途中、リズと千鶴が楽しそうに話をしながら刺繍をしている姿を見た。
「あの二人なら、大丈夫そうね。」
「はい。」
「アイリス様の元へ行くの?」
「彼女に会って、聞きたい事があるのです。」
「そう・・」
アイリスは、執務室で歳三が初めて作ったレースのハンカチを見ていた。
あの頃、歳三は自分にとって、“庇護すべきもの”だった。
だが、今は違う。
「アイリス様、歳三様がいらっしゃいました。」
「そう・・通しなさい。」
「失礼致します。」
「朝早くから呼び出して済まなかったわね、トシ。あなたに、話したい事があるの。」
「俺もです。アイリス様、昨夜俺達の寝室に刺客を放ったのは・・」
「わたしです。あなたの妻は、やがてこの国の脅威となる存在です。」
「あなたは、変わってしまわれた・・」
「人は変わるものです。」
そう言ったアイリスの、自分に向けた碧緑色の瞳は、冷たかった。
「失礼します。」
「さようなら、トシ。あなたと会う事はないでしょう。」
「えぇ。」
執務室の扉が閉まった時、アイリスは執務机の上に置いていたレースのハンカチを掴むと、それを躊躇いなく暖炉の中へと放り投げた。
それは、瞬く間に灰と化した。
「アイリス様は、どんなお方なのですか?」
「アイリス様は、とても美しくて賢い方です。ですが、敵に回すと厄介な方ですわ。」
「そう・・ですか。」
「どうかされましたか、千鶴様?」
「いいえ。」
「ここは、魔窟ですわ。優しい顔をして人を騙す方ばかりです。」
「まぁ・・」
二人の姿を、アイリスは何かを考えこんだ様子で執務室の窓から眺めていた。
「これから、どうなさいますか、アイリス様?」
「“どう”とは?」
「あの娘を、始末しますか?」
「いいえ、今はしないわ。あの娘を始末するかどうかは、わたしが決めるから、お前達はくれぐれも娘に手を出してはなりませんよ。」
「・・はい。」
「陛下、どうかなさったのですか?余り、お食事の量が・・」
「ここの所、風邪をひいてそれが長引いてな・・」
「まぁ、それはいけませんわ。後で医師を・・」
「その必要はない。」
ディルクは食事を残したまま、ダイニングから出て行った。
彼はそのまま寝室に引き籠もり、七日間そこから出て来なかった。
「陛下、ティリアです。」
「寝ていらっしゃるのでは?」
「そんなの、おかしいわ。」
ティリアはディルクから渡された彼の寝室の合鍵を使ってその中に入ると、ディルクはワインが少し入ったグラスを握り締めたままうつ伏せになって息絶えていた。
「きゃぁぁ~!」
「陛下~!」
「あの毒は、処分したわね?」
「はい・・」
「そう。暫く、身を隠していなさい。」
「はい・・」
「下がりなさい。」
(全く、あの男とティリアをまとめて始末しようと思っていたのに。)
アイリスは舌打ちした後、ティリアの元へと向かった。
「ティリア様・・」
「アイリス様、陛下が、陛下が・・」
「このハーブティーを飲んで落ち着いて下さいませ。」
「ありがとう。」
睡眠薬が入ったハーブティーを飲んだティリアは、そのまま深い眠りに落ちていった。
(さてと・・)
アイリスは深呼吸した後、”仕事“に取り掛かった。
「きゃ~、誰か来て!」
「アイリス様、一体・・」
「ティリア様が、ティリア様が!」
―ティリア様がお亡くなりに・・
―陛下の後を追って、毒を・・
―何と・・
「陛下とティリア様が、立て続けに亡くなられるなんて・・」
「何だか、におうな。」
「えぇ。」
歳三と鉄之助がそんな事を話していると、突然彼の執務室に武装した男達が雪崩れ込んで来た。
「何だ、てめぇら!?」
「土方歳三、貴様を陛下とティリア妃殺害の容疑で逮捕する!」
「何だと、何の証拠があって・・」
「連行しろ!」
「あいつに、千鶴に伝えてくれ、俺は何もしていないと!」
「歳三様・・」
千鶴は、鉄之助から歳三が連行された事を聞いて、ショックで気を失った。
「千鶴様、気が付かれましたか?」
「軽い貧血を起こされたそうです。暫く横になって下さいませ。」
「はい・・」
「大丈夫、きっと歳三様の疑いは晴れますわ。」
「そうね・・」
「そうか、あいつが・・」
「アンドリュー様、どうなさいますか?」
「拷問にかけろ。あいつが罪を認めるまで、徹底的にやれ。」
「はい。」
地下牢へと連行された歳三を待ち受けていたのは、苛烈な拷問だった。
「まだ、あいつは吐かないのか?」
「はい。」
「では、あいつの妻を連れて来い。」
歳三が連行されてから、二月が経った。
千鶴は、月のものが遅れている事に気づいた。
「おめでとうございます、ご懐妊されていますね。」
「それは、確かなのですか?」
「はい。」
(ここに、歳三様との子が・・)
千鶴は、まだ目立たない下腹をそっと撫でた。
「何だと、あいつの妻が!?」
「はい。」
「あいつの拷問は中止だ。」
「ですが・・」
「歳三さん!」
「ただいま、千鶴。」
「お帰りなさいませ。」

千鶴は、そっと歳三の手を、己の下腹に宛がった。

「お前、まさか・・」
「はい・・」
「そうか。」

「あの娘が、懐妊した?」
「はい。彼女を診察した侍医が、間違いないと・・」
「そう。」
アイリスは、美しい繻子で飾られた扇子で顔をあおいだ。
「あの娘を、殺しますか?」
「そのような事をしなくても、誰か他の者がそれをしてくれるでしょう。」
「は、はぁ・・」
「それに、トシは次期国王になる身、彼を蔑ろにしてはいけません。」
「わかりました。」
長年アイリスに仕えて来た侍女は、そのまま何も言わずに彼女の部屋から辞した。
―あの方が、次期国王に?
―そんな馬鹿な事が・・
地下牢から解放された歳三は、王宮内の自室で療養生活を送っていた。
苛烈な拷問によって痛めつけられた歳三の身体には、全身にその痕跡が残っていた。
特に酷かったのは、右足だった。
「歳三様、ご気分はいかがですか?」
「あぁ、少しは良くなった。」
「右足の傷も、少しは良くなりましたね。」
鉄之助は歳三の右足に巻かれている包帯を解きながら、その下に隠された醜い傷痕を見た。
「今日は、部屋の隅から隅まで歩いたぜ。」
「それは良かったです。」
「千鶴はどうしている?」
「千鶴様なら、エリーゼ様の元で過ごされております。」
「そうか。」
エリーゼならば、千鶴の事を守ってくれる事だろう。
アイリスの耳にも、千鶴が妊娠している事が入っているのかもしれない。
彼女の動向が気になるが、今は拷問によって痛めつけられた心身の健康を取り戻す事が歳三にとって一番大事な事だった。
「今日もよろしく頼む、鉄。」
「わかりました。」
歳三が鉄之助の下でリハビリに励んでいる頃、千鶴はエリーゼの元で過ごしていた。
故国の王宮では実の家族と共に過ごしていても感じられなかった心地良さを、千鶴は嫁ぎ先の王宮で感じていた。
幼い頃に母と死別し、第三王女でありながらも使用人同然の生活を送っていた千鶴だったが、ラドルクへ嫁いで来てからは、エリーゼからは礼儀作法やダンスなどを教わり、政治・経済・外国語などを学び始め、充実した日々を送っていた。
「トシはどうしているの?」
「毎日リハビリに励んでいます。」
「そう。千鶴ちゃん、体調はどう?」
「悪阻は治まりました。少し、身体がだるいですが・・」
「余り無理しないようにね。」
「はい。」
エリーゼの部屋から出た千鶴は、廊下でアイリス達と擦れ違った。
「あなたが、チヅルね。」
「はい、あの・・」
「丁度いいわ、あなたに色々と聞きたい事があるのよ。」
「わたしに、ですか?」
アイリスに話し掛けられ、千鶴は思わず身構えてしまった。
しかし彼女は千鶴に優しく微笑み、次の言葉を継いだ。
「安心して、わたしはあなたに危害を加えたりしないわ。遠い所から嫁いで来て、色々と不安な事があるでしょう?」
「ええ・・」
「そうだ、明日お茶会を開くから、あなたもいらっしゃい。」
「よろしいのでしょうか、わたしのような者が・・」
「あなたは次期王妃となられる御方。この王宮であなたを蔑ろにする者など居ないわ。」
そう言ったアイリスの碧緑色の瞳は、優しい光を帯びていた。
「歳三様、千鶴です。」
「入れ。」
千鶴が歳三の部屋に入ると、彼は鉄之助に身体を支えて貰いながら腹筋をしていた。
「暫く身体が鈍っちまったからな、少し身体を動かさねぇとな。」
「お元気になられて、良かったです。」
「悪阻はもう治まったのか?」
「はい。それよりも、先程アイリス様からお茶会に誘われました。」
「アイリスが?」
「断った方が、よろしいでしょうか?」
「いや、断ったらアイリスの気を悪くする。俺も行こう。」
アイリスは、千鶴付きの侍女から、千鶴がお茶会に出席するという旨が書かれた手紙を受け取った。
「アイリス様・・」
「安心なさい、あの子のお茶に毒なんて入れないわ。」
「はぁ・・」
アイリス主催のお茶会には、エリーゼやリズ、そして彼女の考えに賛同する者達が招待されていた。
「アイリス様、本日はお招き下さりありがとうございます。」
「トシ、チヅル、良く来たわね。さぁ、こちらにいらっしゃい。」
「はい・・」
―どうして、あの二人が・・
―アイリス様は一体何を考えていらっしゃるのかしら?
「今日あなたをここへ招待したのは、戴冠式の事を相談する為よ。」
「戴冠式ですか・・」
「あなたは、次期国王となる資格が充分にあるわ。」
「アイリス様・・」
「トシ、わたくしを許して。わたくしは、あなたの事を誤解していたようね。」
「は、はぁ・・」
突然のアイリスの心変わりに、歳三は戸惑うばかりだった。
「アイリス様、アンドリュー様が・・」
「通しなさい。」
「アイリス様、一体どういう事なのですか!?」
「お茶会の事?二人を招待したのは、わたしがそうしたかったからよ。」
「そんな・・」
「この国を救えるのは、トシだけよ。」
アイリスはそう言ってアンドリューを睨んだ。
「何故そこまで、あいつに肩入れするのです?」
「エミヤに頼まれたのよ。いつかトシが成長したら、彼を支えてくれとね。」
「何だと!?」
「あなたは、自分が何故王位に就けないのか考えた事は無いの?もしかしてあなた、王子だというだけで王位が自分のものになると、馬鹿な事を考えているのかしら?」
「そ、それは・・」
「あなたは、王に相応しくないわ。だから、あの二人を王宮から追い出そうなんて思わない事ね。」
アンドリューは、アイリスの言葉にぐうの音も出なかった。
「アイリス様、アンドリュー様の事はどうなさいますか?」
「放っておきなさい、馬鹿はいずれ自滅するわ。」
千鶴が安定期を迎えた頃、ラドルク次期国王・歳三とその妃・千鶴の戴冠式が行われた。
「大丈夫か?」
「はい・・」
「漸く、この日を迎えられたのですね。きっと天国のエミヤ様もお喜びの事でしょう。」
「あぁ、そうだな・・」
王宮の前にある広場では、新しい国王の誕生を祝いに、多くの国民が集まっていた。
「神の名の下に、この者に王冠を授ける。」
歳三の漆黒の髪の頭上に、エメラルドと柘榴石が嵌め込まれた王冠が輝いた。
「新国王陛下、万歳!」
「新国王陛下に神の祝福を!」
新国王夫妻が王宮のバルコニーへ出ると、国民達が二人に祝福の言葉と歓声を送った。
「これから、忙しくなりますね。」
「あぁ。千鶴、余り無理をするなよ。」
「はい、わかりました。」
「王妃様、そろそろお召し替えをなさいませんと・・」
「わかった。」
千鶴が女官達と共に広間から去っていく姿を見送った歳三は、妙な胸騒ぎに襲われた。
(何だ・・)
「陛下、アイリス様がお呼びです。」
「わかった。」
アイリスは、喪服姿だった。
「アイリス様、その格好は・・」
「わたくしは、この国を去ります。」
「何故です?」
「トシ、あなたはわたしの息子同然の存在です。今まであなたを、エミヤ、あなたのお母様の代わりに見守り、育てて来ました。しかし、もうあなたにわたしは必要ありません。」
アイリスはそう言うと、歳三を抱き締めた。
「これからどちらへ行かれるのですか?」
「故郷へ。もうわたしの帰りを待ってくれる家族は居ないけれど、漸く帰れます。」
「お元気で。」
「あなたも。」
アイリスは、そのまま一度も振り返る事もなく、王宮を後にした。
ラドルク王国南西部にあるブリュレ―。
そこが、アイリスの故郷だ。
漁業と鉄鉱業で栄えていた町は、黄金期を過ぎた今となっては廃墟ばかり建ち並ぶゴーストタウンとなっていた。
(すっかり、変わってしまったわね。)
アイリスはドレスの裾を翻しながら、目的の場所へと向かった。
そこは、廃坑となった炭鉱跡地だった。
「誰か居るの?」
「アイリス、来てくれたのか。」
しわがれた声と共に、一頭のドラゴンが姿を現した。
「長い間会いに来られなくて、ごめんなさいね。」
「いいのだ。儂はもう永くはない。だからそなたに会えて良かった。」
「今日、わたしは実の姉妹のように仲良くしていたエミヤの息子が王になったのをこの目で見たわ。」
アイリスはそう言った後、激しく咳込んだ。
口元を覆った白いレースのハンカチは、赤く染まっていた。
「アイリス・・」
「もう、わたしには思い残す事はないの。だから・・」

“わたしも、連れて行って”

「わかった。」
「今までずっと独りだったけれど、もう怖くないわ。」

そう言ったアイリスの口元には、笑みが浮かんでいた。

(トシ、この国の未来をあなたに託すわ。だから、また会うその日まで、さようなら。)

アイリスが静かにこの世を去ってから半月経った後、千鶴は元気な男女の双子を産んだ。

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