「薄桜鬼」二次小説です。
作者様・出版社様とは一切関係ありません。
土方さんが両性具有設定です、苦手な方はご注意ください。
二次創作・BLが嫌いな方は読まないでください。
性描写が含まれます、苦手な方はご注意ください。
「それじゃぁ、行って来るわね。」
「行ってらっしゃいませ、お義母様。」
「夕飯は外で食べて来るから、用意しなくていいわよ。」
「はい・・」
「ちゃんと戸締りはして頂戴ね。」
姑はそう言うと、わたしに背を向けてさっさと家から出て行ってしまった。
「はぁ・・」
結婚して、夫の実家に住む事になってもう二年も経つが、中々子宝が授からず、勇気を振り絞って不妊外来クリニックの門を夫と共に叩いたら、夫が男性不妊症である事が判った。
それ以来、夫はわたしとベッドを共にするどころか、キスすらしてくれなくなった。
(これから、どうしよう・・)
わたしがそんな事を考えながら掃除機をかけていると、リビングのテーブルに置きっ放しだった夫のスマホが鳴った。
その画面には、“ミキちゃん”という女の名が表示されていた。
『ねぇ、今度また遊ぼう!奥さんと別れてよ!』
「ただいま。」
「あなた、ミキって誰なの?」
「実は・・」
夫は浮気を認めた。
「ミキは、昔家族ぐるみで付き合っていた女でさ・・別れようにも、子供の事で色々とあって・・」
「子供?」
「あぁ。」
「じゃぁ、わたしとの結婚は何だったの!?」
「世間体を取り繕う為のものだよ。子供が居ないんだし・・」
「もういい。」
わたしはそれ以上何も聞きたくなくて、荷物をまとめた。
「わたしなんか、居なければ良かったのね。」
「そんな・・」
「後で弁護士を通して、慰謝料は必ず貰うと、あの人達にも話しておいて。」
「おい、待てって・・千鶴!」
「さよなら。」
その日、わたし―雪村千鶴は、離婚届と結婚指輪を置いて、二年暮らした家を後にした。
(惨めだ・・惨め過ぎる・・)
このまま生きていたくない―そんな事を思いながら、千鶴はいつしか、人気のない山道へと車を運転していた。
「ここでいいかな・・」
そう言って千鶴が車を止めたのは、人気のない断崖絶壁の上だった。
彼女が車から降りて崖へと向かおうとした時、背後の茂みで大きな音がした。
(何?)
恐る恐る茂みの中を千鶴が覗いてみると、雑木林の中で、一組の男女が激しく立ったまま貪り合っている姿が、そこにはあった。
「イク、イク~!」
「出すぞ!」
男の方が腰の動きを速め、女は白いのどを仰け反らせながら男の熱い精を胎内に受け止めた。
「熱い、火傷しちまいそうだ・・」
「抜くのはまだ早いな。」
男はそう言うと、一旦己の分身を女の中から抜くと、間髪入れずに女の両足を肩に担いで持ち上げたままその中を穿った。
その時、女の紫の瞳が、妖艶な光を放ちながら千鶴を見た。
「どうした?」
「いや・・迷い猫に見られちまった・・」
「そうか。」
「中はやめてくれ・・」
「何を今更・・鬼の精をその身に受ける事を、有り難く思うがいい。」
「あぁっ!」
日が暮れ、車がガス欠になって動けなくなった千鶴は、ある旅館を見つけ、そこへ駆け込んだ。
そこは、“薄桜旅館”という看板が掲げられていた。
「すいません、誰か居ませんか?」
千鶴が宿の玄関でそう声を張り上げると、奥から赤髪の男が出て来た。
「いらっしゃい。」
「あの、お部屋空いていますか?」
「あぁ。あ、すいません、今荷物お持ちしますね。」
赤髪の男はそう言って千鶴にウィンクすると、彼女が持っていたスーツケースを手に持って部屋へと彼女を案内した。
「どうぞ、ごゆっくり。」
「ありがとうございます・・」
男が去り、千鶴は窓の外に広がる海辺の景色を眺めた後、溜息を吐いた。
(これから、どうしよう・・)
激情に駆られて家を飛び出したものの、先立つものがないと暮らせない。
離婚には、金と時間がかかる。
仕事を探すにしても、資格も何も持っていない自分を雇ってくれる所なんてあるのだろうか。
一人でそんな事を考えていると、ますます気が滅入ってしまう。
(やめよう・・)
千鶴はそう思いながら、大浴場へと向かった。
そこは、海が見えて開放的な雰囲気を演出している所だった。
熱い湯に浸かると、何処かささくれ立った心が解されていくのを感じた。
(あ、露天風呂もあるんだ・・)
千鶴がそっと露天風呂の扉を開いて入ろうとした時、湯船の中には先客が居た。
あの金髪の男と雑木林の中で激しく獣のように交わっていた黒髪の女が、そこに居た。
雪のような白い肌には、あの男がつけたであろう痣が所々に残っていた。
「あ・・」
「済まねぇ、先に上がるから、入れ。」
黒髪の女はぞんざいな口調でそう言うと、湯船から上がった。
その下半身には、男と女の象徴がそれぞれあった。
「すいません・・」
「変な女だ。」
黒髪の女―この宿の女将・土方歳三はそう言うと、露天風呂から出て行った。
「土方さん、あの娘、雇うのかい?」
「何だ左之、勝手に入ってくるんじゃねぇ。」
脱衣場のドライヤーで歳三が髪を乾かしていると、そこへ薄桜旅館番頭・原田左之助がやって来た。
「なぁ、あの娘訳アリっぽいぜ。」
「ここは自立支援施設じゃねぇんだ。雇うか、雇わねぇかは、俺次第だ。」
薄桜旅館は、別の名で呼ばれている。
“鬼の宿”と―
「はぁ~、生き返った!」
夫と結婚してから、ずっと旅行どころか外出すら一度も出来ていなかった千鶴にとって、この“家出旅”は心身共にリラックス出来た。
(これからどうしようかなぁ・・)
千鶴は家出する際に持ち出してきた自分名義の預金通帳と印鑑、そして自宅の権利書などをリュックから取り出しながらそれらをテーブルの上に広げて溜息を吐いた。
独身時代から貯めていただけあってか、通帳にはかなりの額が表示されていた。
家賃が安いアパートを借りて、貯金を切り崩して、食費を切り詰めていけば何とか生活できるかも―千鶴がそんな事を思った時、部屋のチャイムが鳴った。
『失礼致します、お料理をお持ち致しました。』
「は、はい!」
千鶴が慌てながらテーブルの上の物を片付けていると、部屋にあの赤髪の男が入って来た。
「本日の夕食は・・」
「うわぁ、美味しそう!」
「ありがとうございます。あ、お客様、これ落としましたよ。」
「ありがとうございます。もう、わたしったらそそっかしいなぁ。」
「家の権利書ですよね、これ?」
「はい。」
「訳有りなんですか?よろしければ、俺が話を聞きますよ?」
「え、いいんですか?じゃぁ・・」
千鶴は、赤髪の男にここまで来た経緯を話した。
「・・わたし、もう許せなくて、夫と一緒に暮らしたくなくて・・」
「勇気出して良かったな。あ、俺は原田左之助、この旅館の番頭をやってる。よろしくな。」
「雪村千鶴と申します。」
「なぁ千鶴さん、あんたさえ良ければここで働いてみないか?」
「え?」
「まぁ、俺の一存で従業員の採用は決められないから、一応履歴書でも書いてみたらどうだ?」
「わかりました・・」
「それじゃ、ごゆっくり。」
原田が部屋から出た後、千鶴は両手を胸の前で合わせた。
「頂きます。」
千鶴が宿の料理に舌鼓を打っている時、事務室では歳三がノートパソコンにキーボードを忙しなく叩いていた。
「土方さん、はい。」
「ありがとう。」
「土方さん、なぁ・・」
「駄目だ。」
「俺は何も言ってねぇぞ?」
「人を雇うつもりはねぇ。」
「なぁ、この旅館を俺達五人でまわしていくのはかなりキツイぜ。それに仲居が一人や二人増えたら、あんたの負担も減るぜ。」
「そうか。」
「見たところ、あの娘悪い子じゃねぇんだし、大丈夫そうだ。」
「あぁ、そうか。じゃぁ、明朝九時に面接するから時間厳守だと言っておけ。」
「わかった。」
千鶴が夕飯を食べ終えると、膳を取りに来た原田が部屋にやって来た。
「面接は明朝九時、時間厳守だそうだ。」
「わかりました。」
「綺麗な食べ方だな。」
「心を込めて作って頂いたお料理ですから、最後まで美味しく食べないと失礼かなって・・」
千鶴は原田にそう話しながら、夫からモラル=ハラスメントを受けていた頃の事を思い出していた。
夫は、毎日千鶴の手料理を彼女の目の前で捨てた。
それなのに、母親の手料理は全て平らげるのだ。
いつしか千鶴は夫に手料理を作る事が苦痛となり、洗濯物も夫とは別に洗うようになっていった。
もし、子供が居たら、簡単に家出なんて出来なかっただろう。
夫の浮気や隠し子の存在がわかって良かったのかもしれない。
「ま、色々訳有りなんだろうけどさ、ここで働きながらゆっくりしていればいい。」
「わかりました・・」
「それじゃ、お休み。」
「お休みなさい・・」
その日の夜、千鶴は夢を見ずに眠った。
彼女の部屋から少し離れた場所では、歳三が金髪の男に組み敷かれながら喘いでいた。
「もう、やめ・・」
「何を言っている、昼間のものでは足らんから、こうして夜這いに来てやっているのではないか・」
「盛り過ぎなんだよ、てめぇは!」
「良いではないか。」
そう言って金髪の男―風間千景は、歳三を抱き締めた。
「まだ子は出来ぬか?」
「そんなに上手く出来る訳ねぇだろ?」
「排卵日にこうして抱いてやっているのだ、出来ぬ訳がない!」
「てめぇ、何で俺の月経周期を知っていやがる?」
「貴様の事は全て知っている。」
翌朝、千鶴が朝風呂に入る為に大浴場へと向かうと、脱衣籠の中には誰かの浴衣が入れられていた。
(誰か先に入っているのかな?)
千鶴がそんな事を思いながら大浴場に入ると、洗い場では黒髪の美女―歳三が身体を洗っていた。
「俺に何か用か?」
「あの・・朝早くにお風呂入られるなんて珍しいなって・・」
「ここは従業員も入る。別に珍しくも何ともねぇよ。」
「そ、そうですか・・」
「原田からお前ぇの事情は少し聞いている。接客業の経験はあるか?」
「はい。実家が、ホテルを経営しているので大丈夫です。」
「そうか。」
歳三はそう言うとシャワーを止め、露天風呂へと向かった。
「おはようございます!」
「うるせぇ・・」
「あ、すいません・・」
「済まねぇな、千鶴。土方さんは低血圧だから機嫌悪いんだよ。」
「そうなのですか。」
「まず、ここへ働きたいと思った志望動機は・・」
「ここで働かせて下さい!」
「わかったから、その理由を聞いている・・」
「ここで働きたいんです!」
「うるさいし、しつこい!雪村千鶴、採用だ!」
「ありがとうございます!」
「言っておくが、俺ぁ特別扱いはしねぇ。仕事が出来ない奴には辞めて貰う、いいな?」
「はい、わかりました。」
「面接は、これで終わりだ。山南さん、こいつを仲居の休憩室へ連れて行け。」
「わかりました。では雪村君、こちらへ。」
仲居頭・山南敬助に案内された千鶴は、仲居専用の休憩室で普段着の洋服から浅葱色の着物へと着替えた。
「着付けに慣れていますね。何か習い事でもしていたのですか?」
「はい。お茶とお花とお箏を結婚前に習っていました。」
「そうなのですか。」
「あの、山南さんは男なのにどうして仲居頭に?」
「人手不足だからですよ。うちは女将が気難しいので、雇ってもすぐに辞めてしまうのです。」
「そうなのですか・・」
「はじめに言っておきますが雪村君、今日から君は“お客様”ではなく、この旅館の“従業員”です。その事を忘れないで下さいね。」
「はい!」
「おい、まだ着付けに時間かかってんのか!さっさと客が来る前に自分の持ち場へつきやがれ!」
その日は、朝から忙しかった。
珍しく団体客がやって来たので、千鶴は朝から晩まで休む暇がなかった。
「はぁ、疲れた・・」
漸く千鶴が一息つけたのは、その日の午後八時の事だった。
旅館に隣接している独身寮の部屋で彼女が着物から部屋着に着替えていると、玄関先のチャイムが鳴った。
「はい、どちら様ですか?」
『俺だ。』
インターフォンの画面には、歳三が映っていた。
「い、今開けますね!」
千鶴は慌ててドアを開け、歳三を部屋へと招き入れた。
「どうしたんですか、急に?」
「仕事の手際が良かったから、山南さんにお前ぇの事を聞いたぜ。何でも、実家はホテルを経営しているそうじゃねぇか?」
「ホテルといっても、小さなものですけど・・民宿みたいなもので。」
「経験者はうちの即戦力になるから、今後とも宜しく頼む。」
「はい、わかりました・・」
「話はそれだけだ。」
歳三はそう言っておもむろに椅子から立ち上がると、千鶴に背を向けて部屋から出て行った。
(何だったのかしら?)
「土方君、彼女はどうですか?」
「悪くねぇな。客あしらいもいいし、接客や仕事ぶりもいい。今までの奴よりは使える。」
「そうですか、それは良かった。」
「山南さん、何笑ってんだ?」
「いいえ。君がそんな風に人を褒めるなんて珍しいので・・」
「ふん・・」
「では、わたしはこれで失礼します。」
山南が部屋から出て行った後、歳三は首に提げているロケットネックレスを取り出した。
エメラルドが嵌め込まれた金のハートを開けると、そこには歳三と一人の男性の結婚式の時の写真が入っていた。
何処か照れ臭そうに、それでいて嬉しそうに笑って紋付き黒羽織姿の新郎の姿を見た歳三は、溜息を吐いた。
「勝っちゃん、また俺を抱き締めてくれよ・・」
歳三はそう呟くと、敷いていた布団に横たわった。
「おはようございます、山南さん。」
「おはようございます、雪村君。」
「あの、女将さんはどちらに?」
「あぁ、女将は、今日は、病院に行っていますよ。」
「病院に?」
「えぇ、ある人を見舞いに。」
「君にはいずれ女将が色々と話してくれる事でしょうが、その前にわたしの方からこの旅館が抱えている“事情”とやらをお話し致しましょう。」
「は、はい・・」
朝食後、山南に連れられ千鶴が彼と共に向かったのは、旅館の離れにある部屋だった。
そこには、子供用の勉強机やランドセル、体操服などが置かれていた。
「あの、女将さんにはお子さんが・・」
「えぇ、居ましたよ。数年前までは。でも彼は不幸な事故に遭い、十年という若い歳で、その“時計”を止めてしまったのです、永遠に。」
山南はそう言葉を切った後、勉強机の上に置かれている写真立てを手に取った。
そこには、満面の笑みを浮かべている少年の姿が映っていた。
「この子が、女将の息子の、義昌君です。」
「義昌君は、どうして亡くなってしまったのですか?」
「女将さんと今の御主人・・近藤さんと結婚したのは今から十年前、二人共再婚同士でした。」
山南は、静かに歳三の悲しい過去を語り始めた。
歳三と勇は、互いに離婚歴がありながら、歳三が妊娠した事により再婚した。
二人には前夫と前妻との間にそれぞれ子供が居た。
再婚同士という事もあり、結婚式は身内と友人のみで行われた。
結婚式といっても、ごく簡素なもので、写真館で結婚写真を撮り、レストランで食事会をするだけのものだった。
結婚式から八ヶ月後、歳三は元気な男児を出産した。
二人は互いの諱からそれぞれ一字取り、息子に「義昌」と名付けた。
義昌は健やかに逞しく成長し、一家は幸せな生活を送っていた。
だが―
「事故の日は、義昌君の十歳の誕生日でした。その日は家族三人で遊園地に遊びに行き、その帰りに・・」
悪天候の中、歳三達の車は見通しの悪いカーブを曲がった後、トラックと正面衝突した。
助手席を乗っていた歳三は奇跡的に無傷だったが、勇は脳に激しい損傷を受けて意識不明の重体、そして義昌は肺挫傷で事故の三日後に亡くなった。
「我が子を亡くした女将は、まるで生ける屍のようでした。でも、旦那さんの存在を心の支えに生きているようなものだと言っていました。」
「そうなのですか。」
「えぇ。雪村君、今日の事は誰にも話してはいけませんよ。」
「はい、わかりました。」
「よろしい、では仕事に戻りましょう。」
「いらっしゃいませ。」
昨日の混雑ぶりとは打って変わって、今日の旅館のロビーは人気がまだらで、チェックインする宿泊客も個人客で数組位だった。
「今日はゆっくり出来そうね。」
「えぇ、そうですね。」
千鶴がそんな事を同僚とロビーで話していると、そこへキャラクターのイラストが描かれたリュックサックを背負った一人の少年が現れた。
「いらっしゃいませ。」
「あの、女将さんはいらっしゃいますか?」
「申し訳ありません、女将は本日所用で出掛けておりまして・・」
「いつ戻られるのですか?」
「それは、こちらではわかりかねます。申し訳ございません。」
「じゃぁ、ここで待ちます。」
「ちょっと、あの子どうするのよ?」
「そんな事言われても・・」
千鶴達がロビーのソファに寝そべっている少年の反応に困っていると、そこへ山南が通りかかった。
「二人共、どうかしましたか?」
「山南さん・・」
「おや、あの子は・・」
「山南さん、あの子を知っているんですか?」
「えぇ。あの子はわたしに任せて、あなた達は仕事に戻りなさい。」
「はい・・」
千鶴達がロビーから離れるのを確めた後、山南は溜息を吐きながらゆっくりとソファに寝転がってゲームをしている少年に向かって声を掛けた。
「失礼ですがお客様、ここは他のお客様もご利用されますので、どうぞ他のお客様のご迷惑となられるような行為はお控え下さいませ。」
口調こそは丁寧なものだったが、山南は少年に有無を言わさず、彼の手からゲーム機を取り上げた。
「何すんだ、返せよ!」
「そうはいきません、わたくしは従業員としてあなた様を見逃す訳には参りません。」
「返せ!」
「おい、一体何の騒ぎだ!表までてめぇらの声が聞こえているぞ1」
「申し訳ございません、女将。この子がどうしても女将にお会いしたいと・・」
「ママ~!」
「龍太郎、何でここに来たんだ?」
タクシーから降りた歳三が、ロビーで自分に突然抱き着いて来た少年を見てそう言うと、少年は次の言葉を継いだ。
「おうちに帰って来てよ、ママ!またパパと三人で暮らそうよ!」
「悪いは、それは出来ねぇ。だから、お前ぇはパパの元へ帰れ。」
「嫌だ、ママと一緒におうちに帰る!」
そう叫んだ少年は、ロビーの中央に仰向けに寝転んだ。
「山南さん、あの子は・・」
「前に話したでしょう、女将が前のご主人との間にお子さんが居た事を。」
「それじゃぁ、あの子が・・」
「龍太郎君です。女将と前のご主人の子供です。ですが、二人が別れてもうかなり経っているのに、何故今更・・」
「龍太郎、こんな所に寝転がっていたら、他の人の迷惑になるから、やめなさい。」
「わかったよ。」
「それに、ロビーはお前ぇだけのものじゃねぇ。どうしてもゲームしたければ、奥の俺の部屋でしろ。」
「わかった。」
「さぁお客様、奥の間へどうぞ。」
山南と少年がロビーから居なくなった後、歳三は他の宿泊客達に迷惑を掛けた事を謝罪した。
「女将さん、あの・・」
「雪村、六時からの宴会の準備に取り掛かれ、時間がねぇぞ。」
「は、はい!」
女将とあの少年の関係が気になりながらも、千鶴は同僚達と共に宴会の準備に追われた。
「あ~、忙しい!」
「仕方ないわよ、今日は国会議員の先生の古希を祝うパーティーがあるんだから、忙しくなるのは当り前よ~」
「それもそうね。」
「その先生は、ここでは有名な方なのですか?」
「雪村さんは外から来たから、知らないのは当然よね。石田龍太先生、ここだと有名人なの。」
「そうそう、息子さんも将来政界進出間違い無しですって!」
「へぇ~」
「さてと、そろそろ時間になると思うから、少し休憩室でお茶でも飲みましょうか?」
「はい。」
千鶴達が休憩室で一息ついていると、そこへ山南がやって来た。
「あなた達、そろそろ時間ですよ。」
「は~い!」
午後六時、薄桜旅館の宴会場「桜の間」で、地元の国会議員・石田龍太の古希を祝うパーティーが開かれた。
『それでは、石田先生のさらなるご活躍を祈って、乾杯~!』
『乾杯~!』
パーティーは盛況で、千鶴達は忙しく招待客達の合間を縫いながら彼らに給仕していた。
その頃、歳三は奥の部屋で泣き疲れて眠っている龍太郎の寝顔をじっと見つめていた。
「女将、山南です。」
「入れ。」
「失礼致します。」
山南が部屋に入ると、歳三はじっと“我が子”の寝顔を眺めていた。
「何故、今更になってこの子が・・」
「さぁな。」
「山田先生の秘書が、あなたにお会いしたいそうですよ。」
「わかった。」
「一体、向こうの家で何が起きているのでしょうね?」
「さぁな。」
「それよりも、あの人の容態は?」
「その事なんだが・・後で話す。」
「わかりました。」
無事に山田議員の古希祝いのパーティーが終わり、千鶴達がその片づけに追われていると、そこへ一人の男性がやって来た。
「失礼。女将に会いたいのですが、どちらに?」
「女将は只今・・」
「おや、あなたは・・」
男性はそう言うと、千鶴を見た。
「このお嬢さんと、知り合いか?」
「えぇ・・」
「わたしは先に部屋へ戻っているよ。」
「わかりました。」
「申し訳ありません、仕事がありますのでわたしはこれで失礼致します。」
「おい、君!」
「大丈夫?」
「はい・・」
「あの人、あなたの知り合いなの?」
「いいえ、あの人とは今日初めて会ったばかりです。」
「そう。何かあったら、あたしか仲居頭に知らせて、いいわね?」
「はい、わかりました。」
「ここはもういいから、あなたはもうあがってもいいわ。」
「はい・・お疲れ様でした。」
「お疲れ様~」
休憩室で着物から私服へと着替えた千鶴が裏口から旅館の外に出て独身寮へと向かっていた時、旅館の中庭の方から誰かが言い争っているかのような声がした。
「早くあの子に会わせろ!」
「一体向こうで何が起きているんだ!」
「もう君には関係のない事だ!」
茂みに隠れて女将と言い争っていた相手の顔はわからなかったが、あの子供の事で揉めているのはわかった。
(“あの子”って、誰なのかしら?)
「久しぶりだな。」
「あぁ。」
「君とこうして会うのは、離婚が成立して間もない頃だから、五年前か。」
「それがどうした?俺はまわりくどい話は嫌いなんだ。」
「あぁ、そうだったね。」
青年―山田龍太の私設秘書であり長男・山田龍一郎は、そう言うと歳三を見た。
「あの子に・・龍太郎に会わせてくれ。ここに居るのはわかっているんだ!」
「あの子は、お前ぇの家で幸せに暮らしている筈じゃなかったのか?」
「いいから、早くあいつに会わせろ!」
「そんな事を言われても、事情がわからねぇ限りあいつをお前ぇに会わせる訳にはいかねぇな。」
「わかった。じゃぁ、明日の昼、ここへ来て欲しい。」
龍一郎は、そう言って駅前にある純喫茶の名前が入ったマッチ箱を渡すと、中庭から去っていった。
翌日の昼、歳三が龍一郎に指定された喫茶店へと向かうと、彼は一人ではなかった。
「お久しぶりね。」
「どうも。」
龍一郎の隣には、彼の現在の妻・由美子が座っていた。
「こうして、あなたとちゃんと話し合うのははじめてね。」
「えぇ・・」
「話というのは、あの子の事よ。実はわたし達、来月渡英する事になったの。そこで、あなたの、あの子の親権を放棄して欲しいの。」
「それは・・つまり、あなた達があの子の事を・・」
「当然でしょう?大体この国は単独親権なのに、この人とあなたがあの子の親権を共同に持っていたのがおかしいのよ。それに、あなたとこの人はもう赤の他人なんだから、いいわよね?」
「それは・・」
「とにかく、そういう事ですから、あの子は連れて帰ります。」
「待ってください!」
歳三は慌てて龍一郎達の後を追おうとしたが、その時バッグにしまっていたスマートフォンが病院からの着信を告げた。
それは、勇の容態が急変したというものだった。
「先生、夫は・・」
「大変申し上げにくいのですが、もうそろそろ覚悟を決めて下さい。」
「それは・・」
「もう、ご主人の意識は戻る事はありません。残念ですが・・」
いつか、こんな日が来ると思っていた。
だがそれはまだ、遠い日の事だと思っていた。
病院から連絡を受け、歳三はすぐさま車で病院へと向かった。
「近藤勇の妻です。」
「奥様ですか、どうぞこちらへ!」
歳三が勇の病室に入ると、丁度医師が彼の死亡宣告をしている時だった。
「奥様・・」
「先生、今まで夫を治療して下さり、ありがとうございました。」
「奥様、お話があります。」
「はい・・」
歳三は医師から、勇が生前臓器移植ドナーに登録していた事を告げられた。
「奥様、この同意書にサインして下さい。」
そう言って医師は、臓器移植手術同意書を歳三に見せた。
「わかりました・・」
歳三は同意書にサインした後、勇の臓器移植手術が終わるのを待った。
「女将さん、知りませんか?」
「女将なら、病院です。旦那さんが・・」
「そうですか。」
「雪村君、パーティーお疲れ様でした。これは、ボーナスです。」
「ありがとうございます。」
山南から金が入った袋を受け取ると、千鶴は彼に一礼して事務室から出て行った。
「明日はゆっくりと休んで下さいよ。」
「お疲れ様です。」
千鶴が旅館から出ると、山田議員のパーティーで自分に話しかけて来た男の姿に気づいた。
「待って下さい、あなたに話があるんです!」
「これ以上付きまとうと、警察を呼びますよ!」
「わたしは、こういう者です。」
男はそう言うと、一枚の名刺を彼女に手渡した。
“弁護士 兵藤大助”
「弁護士さんが、わたしに何の用ですか?」
「旦那様から、このような物を預かって参りました。」
兵藤弁護士から差し出された封筒の中には、あの日千鶴が置いていった離婚届が入っていた。
「明日、旦那さんと駅前の喫茶店でお待ちしております。」
「わかりました・・」
「では、わたしはこれで。」
兵藤弁護士と独身寮の前で別れた千鶴は、溜息を吐いた。
(あの人が今更、わたしに何の用なのかしら?)
翌日、千鶴が駅前の喫茶店へと向かうと、そこには何処か浮かない顔をした夫が兵藤弁護士とテーブル席に座っていた。
「お久しぶりね、あなた。」
「あぁ・・」
「今日は、“彼女”は一緒じゃないのね?」
千鶴がそう言って夫を見ると、彼は俯いた。
それからの話し合いは、兵藤弁護士のペースで進んだ。
夫とその不倫相手は慰謝料としてそれぞれ百万、合わせて二百万円ずつ千鶴に支払う事になった。
「千鶴・・」
「もうわたしに話しかけないで。あなたの顔なんて二度と見たくない。」
千鶴はそう言って自分の分のコーヒー代だけ払うと、喫茶店から出て行った。
「ただいま戻りました。」
「おう、お帰り千鶴ちゃん。今日は色々とあったみたいだから、ゆっくり休め。」
「はい・・」
原田に温かく出迎えられて、千鶴は思わず笑顔になった。
「そう、その顔だ。お前には笑顔が一番似合う。」
「はい。」
「人生色々とあると思うけれど、辛くて悲しい事が待っているぜ。」
「原田さん、女将さんは?」
「女将さんなら、前の旦那さんが亡くなったから、その葬儀の準備で暫く東京に行っているって、さっき連絡があったから。」
「そうですか。」
「まぁ、観光シーズンはまだまだ先だから、いつも通りにちゃんと仕事をしていれば大丈夫さ。」
「雪村君、お帰りなさい。」
「ただいま戻りました。」
「女将は今、東京に居ます。」
「はい、知っています。」
「それは良かった。女将が留守の間、少しゆっくり出来そうですね。」
「えぇ。あの、山南さん・・」
「どうしましたか?」
「あの方達は、一体・・」
千鶴がそう言ってロビーのソファに座っている厳つい顔をした男達の方を見た。
「あぁ、あの方達は県警の方達ですよ。何でも、この近辺で殺人事件が起きて、犯人は未だ逃亡中だとか・・」
「怖いですね。」
「夜の一人歩きはしない方がいいでしょう。暫くわたしがあなたを車で独身寮まで送り迎えします。」
「ありがとうございます。」
山南と千鶴が旅館でそんな事を話している頃、東京では歳三が勇の葬儀を終えて一息ついていた。
「トシさん、お疲れ様。」
「済まねぇ、八郎。」
「いいんだよ。」
歳三の幼馴染兼親友・伊庭八郎はそう言うと喪服姿の歳三を抱き寄せた。
「何する・・」
「ずっと、こうしたかったんだ。」
八郎は歳三の唇を塞ぐと、それを激しく貪った。
「何で、こんな事を?」
「言ったでしょう、ずっとトシさんとこういう事をしてみたかったって。」
そう言った八郎は、欲望で潤んだ緑の瞳で歳三を見た。
「勇さんの代わりには決してなれないけれど、僕は・・」
「それ以上言うな。」
歳三はそう言って八郎を突き飛ばすと、そのまま部屋から出て行った。
「トシ・・」
「姉貴、見ていたのか?」
「ねぇトシ、こんな時にこんな事を言うのはどうかと思うけれど・・」
「俺には、あの人しか居ねぇんだ。」
歳三はそう言うと、姉・信子を見た。
「どん底の生活を送っていた俺を救ってくれたのは、勇さんだけなんだ。」
「トシ・・」
「あの子も、勇さんも、俺を置いて逝っちまった・・ひとりぼっちになっちまった・・」
「独りじゃないわよ。あたし達が居るでしょう。」
「あぁ、そうだったな・・」
歳三はそう言った後、酷い眩暈に襲われてその場に蹲った。
「ちょっと、大丈夫!?」
「疲れが溜まっただけだ・・」
「向こうで休んでいなさい。」
「わかった。」
その日から、歳三は食欲不振や眩暈、酷い眠気などに襲われるようになった。
それに加え、米が炊かれた匂いを嗅ぐだけで激しい吐き気に襲われた。
(もしかして・・)
歳三は、トイレで今朝食べた物を全て吐いた後、ある可能性に気づいた。
風間に抱かれた後、いつも自分を煩わせていた月経が、ここ二ヶ月程位遅れている事位わかっていた。
だが月経不順なのは初潮を迎えた頃からだったので、余り気にする事はなかった。
(一度、調べてみるか・・)
歳三は実家の近くにあるドラックストアで妊娠検査薬を購入し、帰宅後すぐに試した。
「嘘だろ・・」
検査薬には、赤い日本の縦線―すなわち陽性という結果を示していた。
「トシ、どうしたの?」
「姉貴、俺・・」
歳三の様子がおかしい事に気づいた信子は、歳三を近所の産婦人科クリニックへと連れていった。
「おめでとうございます、現在七週目に入っていますよ。」
「そうですか・・」
もしかしてと思っていたが、いざ現実を突きつけられ、歳三は急に目の前が真っ暗になった。
「トシ、大丈夫!?」
「そうですか、わかりました。」
土方家からの電話を受けた山南は、溜息を吐いた。
「山南さん、どうかしましたか?」
「女将が、妊娠したそうです。安定期を迎えるまで、実家で静養するそうです。」
「そうですか。」
「女将が留守にしている間、何もなければいいのですが・・」
「そうですね・・」
山南と千鶴が溜息を吐きながらそんな事を話していると、事務所の内線電話が鳴った。
「もしもし・・」
『仲居頭、大変です!』
山南が“菊の間”へ向かうと、そこにはいかつい顔をしている男が不機嫌そうに両腕を組んで立っていた。
「お客様、どうかされましたか?」
「これ。」
男はそう言うと、皿の上に載っているフライドポテトを指した。
「俺は揚げたてのものを頼んだ筈だ、すぐに作り直せ!」
「申し訳ありません・・」
山南は男に向かって頭を下げると、調理場へと向かった。
「山南さん、どうしたんだい?」
「源さん、申し訳ないのですが・・」
「例のお客さんか。」
「ええ。」
薄桜旅館には毎年、クレーマーの男がやって来る。
彼は三日間この旅館に滞在し、クレームをつける事で有名だった。
「数日の辛抱だよ。」
「えぇ・・」
クレーマーは、数日後旅館から去っていった。
「雪村君、お仕事にはもう慣れましたか?」
「はい・・」
「旅館やホテルの仕事は、一筋縄ではいきません。人手不足ですが、仕事がキツくてすぐに辞める人が多いのですよ。」
「そうなのですか。」
「まぁ、うちは女将が厳しいので、雪村さんのようにテキパキと働ける人は気に入られますよ。」
「そうですか・・あ、山南さん、明日お休みを頂いてもいいですか?実家で法事がありまして・・」
「わかりました。」
千鶴は、実家に二年振りに帰省した。
「ただいま。」
「千鶴ちゃん、お帰りなさい。」
「千鶴、お帰り。」
「お祖母ちゃん、お兄ちゃん・・ただいま。」
「長旅ご苦労様。お風呂入れたから、ゆっくりとなさい。」
「はい・・」
婚家では休む暇も無かった千鶴は、実家で久しぶりに風呂に入り、リラックスした。
「千鶴ちゃん、いいかしら?」
「はい、お祖母ちゃん。」
夕食の後、千鶴は祖母・千鶴子の部屋に呼ばれた、
「薫から聞いたわ。色々辛かったでしょう。」
「うん・・」
「まぁ、今は結婚が女の幸せという時代じゃないからね。」
「おばあちゃん、薄桜旅館って知ってる?わたし、今そこで仲居をしているの。」
「知っているわ。わたし、そこの先代の女将さんとは知り合いだったのよ。確か彼女には、二人お子さんが居たわねぇ。男の子と、女の子。」
「へぇ、そうだったの。」
「まぁ、男の子の方は、女将さんの前の旦那さんの連れ子なのよ。先代の女将さんは、躾に厳しい人でね、食事の作法なんかお箸のあげおろしまで厳しくしていて、・・悪さをすると罰として食事抜きとか、酷いものだったわよ。」
「その話、詳しく聞かせて?」
「男の子の方・・トシちゃんは、先代の女将さんからいつも目の敵にされていてね、テレビのリモコンの位置がずれたとか、そんな些細な事で殴ったりしていたわよ。」
「酷い・・」
「まぁ、あの人は旦那さんの前妻さんと比べられて色々とストレスが溜まっていたからね。」
「それで、その子はどうなったの?」
「先代の女将さんの虐待が児童相談所に通報されてね。旦那さんの方に引き取られていったわ。先代の女将さんは、精神的に病んでいたみたいで、トシちゃんが旦那さんに引き取られた直後に崖から飛び降り自殺したそうよ。」
「そんな事があったんだ・・」
「まぁ、赤字経営で廃業寸前だった旅館を一年で再建させたんだから、今の女将さんは相当やり手なのね。」
「女将さん、厳しいけれど優しい人よ。わたしもいつか、あんな風になりたいなぁ。」
「まぁ千鶴ちゃん、とうとうお店を継ぐ決心をしてくれたのね!」
「うん・・今まで、遠回りして来たけれど、漸く原点に戻って来たかなって・・」
「まぁ、頑張りなさい。」
千鶴が家業を継ぐ決意をした頃、東京の実家に居る歳三は、異母姉・信子と今後の事を話し合った。
「そう・・産むのね。」
「あぁ、授かった命は大切にしてぇんだ。」
「旅館はどうするの?」
「それが、今考えているんだが・・旅館は、俺の代で廃業しようと思う。」
「まぁ・・」
「今はただ、この子を産む事だけに集中したい。」
「あんたがそう決めたのなら、わたしは何も言わないわ。」
「ありがとう、姉貴。」
歳三が自室で寛いでいると、そこへ八郎がやって来た。
「トシさん!」
「八郎、俺に何の用だ?」
「僕と結婚して、トシさん!」
「キツイ冗談は止せ。」
「冗談じゃない、本気だよ!」
八郎はそう言うと、歳三の両手を握り締めた。
「お腹の子は、風間さんの子なのでしょう?僕が、その子の父親になってあげる!」
「八郎、お前・・」
「ねぇトシさん、お願いだから“イエス”と言ってよ!」
そう叫んだ八郎の瞳は、虚ろになっていった。
「八郎は何だってあんな事を・・」
「八郎君、縁談があるみたいなの。だから・・」
「俺は、誰とも結婚しねぇ。」
歳三はそう言うと、まだ膨らんでいない下腹を擦った。
そう豪語していた歳三だったが、酷い悪阻に襲われ、入院する事になった。
「は?」
検査の後、歳三が一般病棟へと戻ろうとすると、彼女は慌てて看護師に止められた。
「土方様は、こちらです。」
そう言われ看護師に案内されたのは、病院の特別室だった。
「何で・・」
「お前の腹に宿っているのは、我が風間家の子なのだからな。」
「お前ぇ、いつの間に・・」
「さぁ我妻よ、ゆっくりと休むがいい。」
「あぁ・・」
安定期を迎えても、歳三は入院していた。
「女将、どうですか体調の方は?」
「医者が言うには、精神的なストレスが原因で腹が良く張るそうだ。」
「ストレスは万病の元ですから、ゆっくり休んで下さいね。」
「あぁ、わかった。だが、寝てばかりじゃなぁ・・」
「無理は禁物ですよ。」
「山南さん、あいつはどうしている?」
「雪村君は、実家の家業を継ぐようですよ。」
「そうか。」
「まぁ、風間さんが少し大人しくして下さればいいのですがね。」
「そうしてくれる事を願うぜ。」
歳三がそう言いながらテレビをつけると、画面には風間の顔の右上に、“風間CEO婚約!?お相手は有名老舗旅館の女将か!?”というテロップが表示されていた。
「あいつ・・」
「おやおや、大変な事になりそうですね。」
「山南さん、あんた少し楽しんでいないか?」
「いいえ。」
テレビの報道を見たマスコミが、連日薄桜旅館に押しかけて来た。
「こんな状態じゃ、商売上がったりだよな。」
「何とかしねぇと・・」
「お前ら、俺が留守している間、旅館を守ってくれてありがとうな。」
「土方さん!」
「後は俺に任せろ。」
作者様・出版社様とは一切関係ありません。
土方さんが両性具有設定です、苦手な方はご注意ください。
二次創作・BLが嫌いな方は読まないでください。
性描写が含まれます、苦手な方はご注意ください。
「それじゃぁ、行って来るわね。」
「行ってらっしゃいませ、お義母様。」
「夕飯は外で食べて来るから、用意しなくていいわよ。」
「はい・・」
「ちゃんと戸締りはして頂戴ね。」
姑はそう言うと、わたしに背を向けてさっさと家から出て行ってしまった。
「はぁ・・」
結婚して、夫の実家に住む事になってもう二年も経つが、中々子宝が授からず、勇気を振り絞って不妊外来クリニックの門を夫と共に叩いたら、夫が男性不妊症である事が判った。
それ以来、夫はわたしとベッドを共にするどころか、キスすらしてくれなくなった。
(これから、どうしよう・・)
わたしがそんな事を考えながら掃除機をかけていると、リビングのテーブルに置きっ放しだった夫のスマホが鳴った。
その画面には、“ミキちゃん”という女の名が表示されていた。
『ねぇ、今度また遊ぼう!奥さんと別れてよ!』
「ただいま。」
「あなた、ミキって誰なの?」
「実は・・」
夫は浮気を認めた。
「ミキは、昔家族ぐるみで付き合っていた女でさ・・別れようにも、子供の事で色々とあって・・」
「子供?」
「あぁ。」
「じゃぁ、わたしとの結婚は何だったの!?」
「世間体を取り繕う為のものだよ。子供が居ないんだし・・」
「もういい。」
わたしはそれ以上何も聞きたくなくて、荷物をまとめた。
「わたしなんか、居なければ良かったのね。」
「そんな・・」
「後で弁護士を通して、慰謝料は必ず貰うと、あの人達にも話しておいて。」
「おい、待てって・・千鶴!」
「さよなら。」
その日、わたし―雪村千鶴は、離婚届と結婚指輪を置いて、二年暮らした家を後にした。
(惨めだ・・惨め過ぎる・・)
このまま生きていたくない―そんな事を思いながら、千鶴はいつしか、人気のない山道へと車を運転していた。
「ここでいいかな・・」
そう言って千鶴が車を止めたのは、人気のない断崖絶壁の上だった。
彼女が車から降りて崖へと向かおうとした時、背後の茂みで大きな音がした。
(何?)
恐る恐る茂みの中を千鶴が覗いてみると、雑木林の中で、一組の男女が激しく立ったまま貪り合っている姿が、そこにはあった。
「イク、イク~!」
「出すぞ!」
男の方が腰の動きを速め、女は白いのどを仰け反らせながら男の熱い精を胎内に受け止めた。
「熱い、火傷しちまいそうだ・・」
「抜くのはまだ早いな。」
男はそう言うと、一旦己の分身を女の中から抜くと、間髪入れずに女の両足を肩に担いで持ち上げたままその中を穿った。
その時、女の紫の瞳が、妖艶な光を放ちながら千鶴を見た。
「どうした?」
「いや・・迷い猫に見られちまった・・」
「そうか。」
「中はやめてくれ・・」
「何を今更・・鬼の精をその身に受ける事を、有り難く思うがいい。」
「あぁっ!」
日が暮れ、車がガス欠になって動けなくなった千鶴は、ある旅館を見つけ、そこへ駆け込んだ。
そこは、“薄桜旅館”という看板が掲げられていた。
「すいません、誰か居ませんか?」
千鶴が宿の玄関でそう声を張り上げると、奥から赤髪の男が出て来た。
「いらっしゃい。」
「あの、お部屋空いていますか?」
「あぁ。あ、すいません、今荷物お持ちしますね。」
赤髪の男はそう言って千鶴にウィンクすると、彼女が持っていたスーツケースを手に持って部屋へと彼女を案内した。
「どうぞ、ごゆっくり。」
「ありがとうございます・・」
男が去り、千鶴は窓の外に広がる海辺の景色を眺めた後、溜息を吐いた。
(これから、どうしよう・・)
激情に駆られて家を飛び出したものの、先立つものがないと暮らせない。
離婚には、金と時間がかかる。
仕事を探すにしても、資格も何も持っていない自分を雇ってくれる所なんてあるのだろうか。
一人でそんな事を考えていると、ますます気が滅入ってしまう。
(やめよう・・)
千鶴はそう思いながら、大浴場へと向かった。
そこは、海が見えて開放的な雰囲気を演出している所だった。
熱い湯に浸かると、何処かささくれ立った心が解されていくのを感じた。
(あ、露天風呂もあるんだ・・)
千鶴がそっと露天風呂の扉を開いて入ろうとした時、湯船の中には先客が居た。
あの金髪の男と雑木林の中で激しく獣のように交わっていた黒髪の女が、そこに居た。
雪のような白い肌には、あの男がつけたであろう痣が所々に残っていた。
「あ・・」
「済まねぇ、先に上がるから、入れ。」
黒髪の女はぞんざいな口調でそう言うと、湯船から上がった。
その下半身には、男と女の象徴がそれぞれあった。
「すいません・・」
「変な女だ。」
黒髪の女―この宿の女将・土方歳三はそう言うと、露天風呂から出て行った。
「土方さん、あの娘、雇うのかい?」
「何だ左之、勝手に入ってくるんじゃねぇ。」
脱衣場のドライヤーで歳三が髪を乾かしていると、そこへ薄桜旅館番頭・原田左之助がやって来た。
「なぁ、あの娘訳アリっぽいぜ。」
「ここは自立支援施設じゃねぇんだ。雇うか、雇わねぇかは、俺次第だ。」
薄桜旅館は、別の名で呼ばれている。
“鬼の宿”と―
「はぁ~、生き返った!」
夫と結婚してから、ずっと旅行どころか外出すら一度も出来ていなかった千鶴にとって、この“家出旅”は心身共にリラックス出来た。
(これからどうしようかなぁ・・)
千鶴は家出する際に持ち出してきた自分名義の預金通帳と印鑑、そして自宅の権利書などをリュックから取り出しながらそれらをテーブルの上に広げて溜息を吐いた。
独身時代から貯めていただけあってか、通帳にはかなりの額が表示されていた。
家賃が安いアパートを借りて、貯金を切り崩して、食費を切り詰めていけば何とか生活できるかも―千鶴がそんな事を思った時、部屋のチャイムが鳴った。
『失礼致します、お料理をお持ち致しました。』
「は、はい!」
千鶴が慌てながらテーブルの上の物を片付けていると、部屋にあの赤髪の男が入って来た。
「本日の夕食は・・」
「うわぁ、美味しそう!」
「ありがとうございます。あ、お客様、これ落としましたよ。」
「ありがとうございます。もう、わたしったらそそっかしいなぁ。」
「家の権利書ですよね、これ?」
「はい。」
「訳有りなんですか?よろしければ、俺が話を聞きますよ?」
「え、いいんですか?じゃぁ・・」
千鶴は、赤髪の男にここまで来た経緯を話した。
「・・わたし、もう許せなくて、夫と一緒に暮らしたくなくて・・」
「勇気出して良かったな。あ、俺は原田左之助、この旅館の番頭をやってる。よろしくな。」
「雪村千鶴と申します。」
「なぁ千鶴さん、あんたさえ良ければここで働いてみないか?」
「え?」
「まぁ、俺の一存で従業員の採用は決められないから、一応履歴書でも書いてみたらどうだ?」
「わかりました・・」
「それじゃ、ごゆっくり。」
原田が部屋から出た後、千鶴は両手を胸の前で合わせた。
「頂きます。」
千鶴が宿の料理に舌鼓を打っている時、事務室では歳三がノートパソコンにキーボードを忙しなく叩いていた。
「土方さん、はい。」
「ありがとう。」
「土方さん、なぁ・・」
「駄目だ。」
「俺は何も言ってねぇぞ?」
「人を雇うつもりはねぇ。」
「なぁ、この旅館を俺達五人でまわしていくのはかなりキツイぜ。それに仲居が一人や二人増えたら、あんたの負担も減るぜ。」
「そうか。」
「見たところ、あの娘悪い子じゃねぇんだし、大丈夫そうだ。」
「あぁ、そうか。じゃぁ、明朝九時に面接するから時間厳守だと言っておけ。」
「わかった。」
千鶴が夕飯を食べ終えると、膳を取りに来た原田が部屋にやって来た。
「面接は明朝九時、時間厳守だそうだ。」
「わかりました。」
「綺麗な食べ方だな。」
「心を込めて作って頂いたお料理ですから、最後まで美味しく食べないと失礼かなって・・」
千鶴は原田にそう話しながら、夫からモラル=ハラスメントを受けていた頃の事を思い出していた。
夫は、毎日千鶴の手料理を彼女の目の前で捨てた。
それなのに、母親の手料理は全て平らげるのだ。
いつしか千鶴は夫に手料理を作る事が苦痛となり、洗濯物も夫とは別に洗うようになっていった。
もし、子供が居たら、簡単に家出なんて出来なかっただろう。
夫の浮気や隠し子の存在がわかって良かったのかもしれない。
「ま、色々訳有りなんだろうけどさ、ここで働きながらゆっくりしていればいい。」
「わかりました・・」
「それじゃ、お休み。」
「お休みなさい・・」
その日の夜、千鶴は夢を見ずに眠った。
彼女の部屋から少し離れた場所では、歳三が金髪の男に組み敷かれながら喘いでいた。
「もう、やめ・・」
「何を言っている、昼間のものでは足らんから、こうして夜這いに来てやっているのではないか・」
「盛り過ぎなんだよ、てめぇは!」
「良いではないか。」
そう言って金髪の男―風間千景は、歳三を抱き締めた。
「まだ子は出来ぬか?」
「そんなに上手く出来る訳ねぇだろ?」
「排卵日にこうして抱いてやっているのだ、出来ぬ訳がない!」
「てめぇ、何で俺の月経周期を知っていやがる?」
「貴様の事は全て知っている。」
翌朝、千鶴が朝風呂に入る為に大浴場へと向かうと、脱衣籠の中には誰かの浴衣が入れられていた。
(誰か先に入っているのかな?)
千鶴がそんな事を思いながら大浴場に入ると、洗い場では黒髪の美女―歳三が身体を洗っていた。
「俺に何か用か?」
「あの・・朝早くにお風呂入られるなんて珍しいなって・・」
「ここは従業員も入る。別に珍しくも何ともねぇよ。」
「そ、そうですか・・」
「原田からお前ぇの事情は少し聞いている。接客業の経験はあるか?」
「はい。実家が、ホテルを経営しているので大丈夫です。」
「そうか。」
歳三はそう言うとシャワーを止め、露天風呂へと向かった。
「おはようございます!」
「うるせぇ・・」
「あ、すいません・・」
「済まねぇな、千鶴。土方さんは低血圧だから機嫌悪いんだよ。」
「そうなのですか。」
「まず、ここへ働きたいと思った志望動機は・・」
「ここで働かせて下さい!」
「わかったから、その理由を聞いている・・」
「ここで働きたいんです!」
「うるさいし、しつこい!雪村千鶴、採用だ!」
「ありがとうございます!」
「言っておくが、俺ぁ特別扱いはしねぇ。仕事が出来ない奴には辞めて貰う、いいな?」
「はい、わかりました。」
「面接は、これで終わりだ。山南さん、こいつを仲居の休憩室へ連れて行け。」
「わかりました。では雪村君、こちらへ。」
仲居頭・山南敬助に案内された千鶴は、仲居専用の休憩室で普段着の洋服から浅葱色の着物へと着替えた。
「着付けに慣れていますね。何か習い事でもしていたのですか?」
「はい。お茶とお花とお箏を結婚前に習っていました。」
「そうなのですか。」
「あの、山南さんは男なのにどうして仲居頭に?」
「人手不足だからですよ。うちは女将が気難しいので、雇ってもすぐに辞めてしまうのです。」
「そうなのですか・・」
「はじめに言っておきますが雪村君、今日から君は“お客様”ではなく、この旅館の“従業員”です。その事を忘れないで下さいね。」
「はい!」
「おい、まだ着付けに時間かかってんのか!さっさと客が来る前に自分の持ち場へつきやがれ!」
その日は、朝から忙しかった。
珍しく団体客がやって来たので、千鶴は朝から晩まで休む暇がなかった。
「はぁ、疲れた・・」
漸く千鶴が一息つけたのは、その日の午後八時の事だった。
旅館に隣接している独身寮の部屋で彼女が着物から部屋着に着替えていると、玄関先のチャイムが鳴った。
「はい、どちら様ですか?」
『俺だ。』
インターフォンの画面には、歳三が映っていた。
「い、今開けますね!」
千鶴は慌ててドアを開け、歳三を部屋へと招き入れた。
「どうしたんですか、急に?」
「仕事の手際が良かったから、山南さんにお前ぇの事を聞いたぜ。何でも、実家はホテルを経営しているそうじゃねぇか?」
「ホテルといっても、小さなものですけど・・民宿みたいなもので。」
「経験者はうちの即戦力になるから、今後とも宜しく頼む。」
「はい、わかりました・・」
「話はそれだけだ。」
歳三はそう言っておもむろに椅子から立ち上がると、千鶴に背を向けて部屋から出て行った。
(何だったのかしら?)
「土方君、彼女はどうですか?」
「悪くねぇな。客あしらいもいいし、接客や仕事ぶりもいい。今までの奴よりは使える。」
「そうですか、それは良かった。」
「山南さん、何笑ってんだ?」
「いいえ。君がそんな風に人を褒めるなんて珍しいので・・」
「ふん・・」
「では、わたしはこれで失礼します。」
山南が部屋から出て行った後、歳三は首に提げているロケットネックレスを取り出した。
エメラルドが嵌め込まれた金のハートを開けると、そこには歳三と一人の男性の結婚式の時の写真が入っていた。
何処か照れ臭そうに、それでいて嬉しそうに笑って紋付き黒羽織姿の新郎の姿を見た歳三は、溜息を吐いた。
「勝っちゃん、また俺を抱き締めてくれよ・・」
歳三はそう呟くと、敷いていた布団に横たわった。
「おはようございます、山南さん。」
「おはようございます、雪村君。」
「あの、女将さんはどちらに?」
「あぁ、女将は、今日は、病院に行っていますよ。」
「病院に?」
「えぇ、ある人を見舞いに。」
「君にはいずれ女将が色々と話してくれる事でしょうが、その前にわたしの方からこの旅館が抱えている“事情”とやらをお話し致しましょう。」
「は、はい・・」
朝食後、山南に連れられ千鶴が彼と共に向かったのは、旅館の離れにある部屋だった。
そこには、子供用の勉強机やランドセル、体操服などが置かれていた。
「あの、女将さんにはお子さんが・・」
「えぇ、居ましたよ。数年前までは。でも彼は不幸な事故に遭い、十年という若い歳で、その“時計”を止めてしまったのです、永遠に。」
山南はそう言葉を切った後、勉強机の上に置かれている写真立てを手に取った。
そこには、満面の笑みを浮かべている少年の姿が映っていた。
「この子が、女将の息子の、義昌君です。」
「義昌君は、どうして亡くなってしまったのですか?」
「女将さんと今の御主人・・近藤さんと結婚したのは今から十年前、二人共再婚同士でした。」
山南は、静かに歳三の悲しい過去を語り始めた。
歳三と勇は、互いに離婚歴がありながら、歳三が妊娠した事により再婚した。
二人には前夫と前妻との間にそれぞれ子供が居た。
再婚同士という事もあり、結婚式は身内と友人のみで行われた。
結婚式といっても、ごく簡素なもので、写真館で結婚写真を撮り、レストランで食事会をするだけのものだった。
結婚式から八ヶ月後、歳三は元気な男児を出産した。
二人は互いの諱からそれぞれ一字取り、息子に「義昌」と名付けた。
義昌は健やかに逞しく成長し、一家は幸せな生活を送っていた。
だが―
「事故の日は、義昌君の十歳の誕生日でした。その日は家族三人で遊園地に遊びに行き、その帰りに・・」
悪天候の中、歳三達の車は見通しの悪いカーブを曲がった後、トラックと正面衝突した。
助手席を乗っていた歳三は奇跡的に無傷だったが、勇は脳に激しい損傷を受けて意識不明の重体、そして義昌は肺挫傷で事故の三日後に亡くなった。
「我が子を亡くした女将は、まるで生ける屍のようでした。でも、旦那さんの存在を心の支えに生きているようなものだと言っていました。」
「そうなのですか。」
「えぇ。雪村君、今日の事は誰にも話してはいけませんよ。」
「はい、わかりました。」
「よろしい、では仕事に戻りましょう。」
「いらっしゃいませ。」
昨日の混雑ぶりとは打って変わって、今日の旅館のロビーは人気がまだらで、チェックインする宿泊客も個人客で数組位だった。
「今日はゆっくり出来そうね。」
「えぇ、そうですね。」
千鶴がそんな事を同僚とロビーで話していると、そこへキャラクターのイラストが描かれたリュックサックを背負った一人の少年が現れた。
「いらっしゃいませ。」
「あの、女将さんはいらっしゃいますか?」
「申し訳ありません、女将は本日所用で出掛けておりまして・・」
「いつ戻られるのですか?」
「それは、こちらではわかりかねます。申し訳ございません。」
「じゃぁ、ここで待ちます。」
「ちょっと、あの子どうするのよ?」
「そんな事言われても・・」
千鶴達がロビーのソファに寝そべっている少年の反応に困っていると、そこへ山南が通りかかった。
「二人共、どうかしましたか?」
「山南さん・・」
「おや、あの子は・・」
「山南さん、あの子を知っているんですか?」
「えぇ。あの子はわたしに任せて、あなた達は仕事に戻りなさい。」
「はい・・」
千鶴達がロビーから離れるのを確めた後、山南は溜息を吐きながらゆっくりとソファに寝転がってゲームをしている少年に向かって声を掛けた。
「失礼ですがお客様、ここは他のお客様もご利用されますので、どうぞ他のお客様のご迷惑となられるような行為はお控え下さいませ。」
口調こそは丁寧なものだったが、山南は少年に有無を言わさず、彼の手からゲーム機を取り上げた。
「何すんだ、返せよ!」
「そうはいきません、わたくしは従業員としてあなた様を見逃す訳には参りません。」
「返せ!」
「おい、一体何の騒ぎだ!表までてめぇらの声が聞こえているぞ1」
「申し訳ございません、女将。この子がどうしても女将にお会いしたいと・・」
「ママ~!」
「龍太郎、何でここに来たんだ?」
タクシーから降りた歳三が、ロビーで自分に突然抱き着いて来た少年を見てそう言うと、少年は次の言葉を継いだ。
「おうちに帰って来てよ、ママ!またパパと三人で暮らそうよ!」
「悪いは、それは出来ねぇ。だから、お前ぇはパパの元へ帰れ。」
「嫌だ、ママと一緒におうちに帰る!」
そう叫んだ少年は、ロビーの中央に仰向けに寝転んだ。
「山南さん、あの子は・・」
「前に話したでしょう、女将が前のご主人との間にお子さんが居た事を。」
「それじゃぁ、あの子が・・」
「龍太郎君です。女将と前のご主人の子供です。ですが、二人が別れてもうかなり経っているのに、何故今更・・」
「龍太郎、こんな所に寝転がっていたら、他の人の迷惑になるから、やめなさい。」
「わかったよ。」
「それに、ロビーはお前ぇだけのものじゃねぇ。どうしてもゲームしたければ、奥の俺の部屋でしろ。」
「わかった。」
「さぁお客様、奥の間へどうぞ。」
山南と少年がロビーから居なくなった後、歳三は他の宿泊客達に迷惑を掛けた事を謝罪した。
「女将さん、あの・・」
「雪村、六時からの宴会の準備に取り掛かれ、時間がねぇぞ。」
「は、はい!」
女将とあの少年の関係が気になりながらも、千鶴は同僚達と共に宴会の準備に追われた。
「あ~、忙しい!」
「仕方ないわよ、今日は国会議員の先生の古希を祝うパーティーがあるんだから、忙しくなるのは当り前よ~」
「それもそうね。」
「その先生は、ここでは有名な方なのですか?」
「雪村さんは外から来たから、知らないのは当然よね。石田龍太先生、ここだと有名人なの。」
「そうそう、息子さんも将来政界進出間違い無しですって!」
「へぇ~」
「さてと、そろそろ時間になると思うから、少し休憩室でお茶でも飲みましょうか?」
「はい。」
千鶴達が休憩室で一息ついていると、そこへ山南がやって来た。
「あなた達、そろそろ時間ですよ。」
「は~い!」
午後六時、薄桜旅館の宴会場「桜の間」で、地元の国会議員・石田龍太の古希を祝うパーティーが開かれた。
『それでは、石田先生のさらなるご活躍を祈って、乾杯~!』
『乾杯~!』
パーティーは盛況で、千鶴達は忙しく招待客達の合間を縫いながら彼らに給仕していた。
その頃、歳三は奥の部屋で泣き疲れて眠っている龍太郎の寝顔をじっと見つめていた。
「女将、山南です。」
「入れ。」
「失礼致します。」
山南が部屋に入ると、歳三はじっと“我が子”の寝顔を眺めていた。
「何故、今更になってこの子が・・」
「さぁな。」
「山田先生の秘書が、あなたにお会いしたいそうですよ。」
「わかった。」
「一体、向こうの家で何が起きているのでしょうね?」
「さぁな。」
「それよりも、あの人の容態は?」
「その事なんだが・・後で話す。」
「わかりました。」
無事に山田議員の古希祝いのパーティーが終わり、千鶴達がその片づけに追われていると、そこへ一人の男性がやって来た。
「失礼。女将に会いたいのですが、どちらに?」
「女将は只今・・」
「おや、あなたは・・」
男性はそう言うと、千鶴を見た。
「このお嬢さんと、知り合いか?」
「えぇ・・」
「わたしは先に部屋へ戻っているよ。」
「わかりました。」
「申し訳ありません、仕事がありますのでわたしはこれで失礼致します。」
「おい、君!」
「大丈夫?」
「はい・・」
「あの人、あなたの知り合いなの?」
「いいえ、あの人とは今日初めて会ったばかりです。」
「そう。何かあったら、あたしか仲居頭に知らせて、いいわね?」
「はい、わかりました。」
「ここはもういいから、あなたはもうあがってもいいわ。」
「はい・・お疲れ様でした。」
「お疲れ様~」
休憩室で着物から私服へと着替えた千鶴が裏口から旅館の外に出て独身寮へと向かっていた時、旅館の中庭の方から誰かが言い争っているかのような声がした。
「早くあの子に会わせろ!」
「一体向こうで何が起きているんだ!」
「もう君には関係のない事だ!」
茂みに隠れて女将と言い争っていた相手の顔はわからなかったが、あの子供の事で揉めているのはわかった。
(“あの子”って、誰なのかしら?)
「久しぶりだな。」
「あぁ。」
「君とこうして会うのは、離婚が成立して間もない頃だから、五年前か。」
「それがどうした?俺はまわりくどい話は嫌いなんだ。」
「あぁ、そうだったね。」
青年―山田龍太の私設秘書であり長男・山田龍一郎は、そう言うと歳三を見た。
「あの子に・・龍太郎に会わせてくれ。ここに居るのはわかっているんだ!」
「あの子は、お前ぇの家で幸せに暮らしている筈じゃなかったのか?」
「いいから、早くあいつに会わせろ!」
「そんな事を言われても、事情がわからねぇ限りあいつをお前ぇに会わせる訳にはいかねぇな。」
「わかった。じゃぁ、明日の昼、ここへ来て欲しい。」
龍一郎は、そう言って駅前にある純喫茶の名前が入ったマッチ箱を渡すと、中庭から去っていった。
翌日の昼、歳三が龍一郎に指定された喫茶店へと向かうと、彼は一人ではなかった。
「お久しぶりね。」
「どうも。」
龍一郎の隣には、彼の現在の妻・由美子が座っていた。
「こうして、あなたとちゃんと話し合うのははじめてね。」
「えぇ・・」
「話というのは、あの子の事よ。実はわたし達、来月渡英する事になったの。そこで、あなたの、あの子の親権を放棄して欲しいの。」
「それは・・つまり、あなた達があの子の事を・・」
「当然でしょう?大体この国は単独親権なのに、この人とあなたがあの子の親権を共同に持っていたのがおかしいのよ。それに、あなたとこの人はもう赤の他人なんだから、いいわよね?」
「それは・・」
「とにかく、そういう事ですから、あの子は連れて帰ります。」
「待ってください!」
歳三は慌てて龍一郎達の後を追おうとしたが、その時バッグにしまっていたスマートフォンが病院からの着信を告げた。
それは、勇の容態が急変したというものだった。
「先生、夫は・・」
「大変申し上げにくいのですが、もうそろそろ覚悟を決めて下さい。」
「それは・・」
「もう、ご主人の意識は戻る事はありません。残念ですが・・」
いつか、こんな日が来ると思っていた。
だがそれはまだ、遠い日の事だと思っていた。
病院から連絡を受け、歳三はすぐさま車で病院へと向かった。
「近藤勇の妻です。」
「奥様ですか、どうぞこちらへ!」
歳三が勇の病室に入ると、丁度医師が彼の死亡宣告をしている時だった。
「奥様・・」
「先生、今まで夫を治療して下さり、ありがとうございました。」
「奥様、お話があります。」
「はい・・」
歳三は医師から、勇が生前臓器移植ドナーに登録していた事を告げられた。
「奥様、この同意書にサインして下さい。」
そう言って医師は、臓器移植手術同意書を歳三に見せた。
「わかりました・・」
歳三は同意書にサインした後、勇の臓器移植手術が終わるのを待った。
「女将さん、知りませんか?」
「女将なら、病院です。旦那さんが・・」
「そうですか。」
「雪村君、パーティーお疲れ様でした。これは、ボーナスです。」
「ありがとうございます。」
山南から金が入った袋を受け取ると、千鶴は彼に一礼して事務室から出て行った。
「明日はゆっくりと休んで下さいよ。」
「お疲れ様です。」
千鶴が旅館から出ると、山田議員のパーティーで自分に話しかけて来た男の姿に気づいた。
「待って下さい、あなたに話があるんです!」
「これ以上付きまとうと、警察を呼びますよ!」
「わたしは、こういう者です。」
男はそう言うと、一枚の名刺を彼女に手渡した。
“弁護士 兵藤大助”
「弁護士さんが、わたしに何の用ですか?」
「旦那様から、このような物を預かって参りました。」
兵藤弁護士から差し出された封筒の中には、あの日千鶴が置いていった離婚届が入っていた。
「明日、旦那さんと駅前の喫茶店でお待ちしております。」
「わかりました・・」
「では、わたしはこれで。」
兵藤弁護士と独身寮の前で別れた千鶴は、溜息を吐いた。
(あの人が今更、わたしに何の用なのかしら?)
翌日、千鶴が駅前の喫茶店へと向かうと、そこには何処か浮かない顔をした夫が兵藤弁護士とテーブル席に座っていた。
「お久しぶりね、あなた。」
「あぁ・・」
「今日は、“彼女”は一緒じゃないのね?」
千鶴がそう言って夫を見ると、彼は俯いた。
それからの話し合いは、兵藤弁護士のペースで進んだ。
夫とその不倫相手は慰謝料としてそれぞれ百万、合わせて二百万円ずつ千鶴に支払う事になった。
「千鶴・・」
「もうわたしに話しかけないで。あなたの顔なんて二度と見たくない。」
千鶴はそう言って自分の分のコーヒー代だけ払うと、喫茶店から出て行った。
「ただいま戻りました。」
「おう、お帰り千鶴ちゃん。今日は色々とあったみたいだから、ゆっくり休め。」
「はい・・」
原田に温かく出迎えられて、千鶴は思わず笑顔になった。
「そう、その顔だ。お前には笑顔が一番似合う。」
「はい。」
「人生色々とあると思うけれど、辛くて悲しい事が待っているぜ。」
「原田さん、女将さんは?」
「女将さんなら、前の旦那さんが亡くなったから、その葬儀の準備で暫く東京に行っているって、さっき連絡があったから。」
「そうですか。」
「まぁ、観光シーズンはまだまだ先だから、いつも通りにちゃんと仕事をしていれば大丈夫さ。」
「雪村君、お帰りなさい。」
「ただいま戻りました。」
「女将は今、東京に居ます。」
「はい、知っています。」
「それは良かった。女将が留守の間、少しゆっくり出来そうですね。」
「えぇ。あの、山南さん・・」
「どうしましたか?」
「あの方達は、一体・・」
千鶴がそう言ってロビーのソファに座っている厳つい顔をした男達の方を見た。
「あぁ、あの方達は県警の方達ですよ。何でも、この近辺で殺人事件が起きて、犯人は未だ逃亡中だとか・・」
「怖いですね。」
「夜の一人歩きはしない方がいいでしょう。暫くわたしがあなたを車で独身寮まで送り迎えします。」
「ありがとうございます。」
山南と千鶴が旅館でそんな事を話している頃、東京では歳三が勇の葬儀を終えて一息ついていた。
「トシさん、お疲れ様。」
「済まねぇ、八郎。」
「いいんだよ。」
歳三の幼馴染兼親友・伊庭八郎はそう言うと喪服姿の歳三を抱き寄せた。
「何する・・」
「ずっと、こうしたかったんだ。」
八郎は歳三の唇を塞ぐと、それを激しく貪った。
「何で、こんな事を?」
「言ったでしょう、ずっとトシさんとこういう事をしてみたかったって。」
そう言った八郎は、欲望で潤んだ緑の瞳で歳三を見た。
「勇さんの代わりには決してなれないけれど、僕は・・」
「それ以上言うな。」
歳三はそう言って八郎を突き飛ばすと、そのまま部屋から出て行った。
「トシ・・」
「姉貴、見ていたのか?」
「ねぇトシ、こんな時にこんな事を言うのはどうかと思うけれど・・」
「俺には、あの人しか居ねぇんだ。」
歳三はそう言うと、姉・信子を見た。
「どん底の生活を送っていた俺を救ってくれたのは、勇さんだけなんだ。」
「トシ・・」
「あの子も、勇さんも、俺を置いて逝っちまった・・ひとりぼっちになっちまった・・」
「独りじゃないわよ。あたし達が居るでしょう。」
「あぁ、そうだったな・・」
歳三はそう言った後、酷い眩暈に襲われてその場に蹲った。
「ちょっと、大丈夫!?」
「疲れが溜まっただけだ・・」
「向こうで休んでいなさい。」
「わかった。」
その日から、歳三は食欲不振や眩暈、酷い眠気などに襲われるようになった。
それに加え、米が炊かれた匂いを嗅ぐだけで激しい吐き気に襲われた。
(もしかして・・)
歳三は、トイレで今朝食べた物を全て吐いた後、ある可能性に気づいた。
風間に抱かれた後、いつも自分を煩わせていた月経が、ここ二ヶ月程位遅れている事位わかっていた。
だが月経不順なのは初潮を迎えた頃からだったので、余り気にする事はなかった。
(一度、調べてみるか・・)
歳三は実家の近くにあるドラックストアで妊娠検査薬を購入し、帰宅後すぐに試した。
「嘘だろ・・」
検査薬には、赤い日本の縦線―すなわち陽性という結果を示していた。
「トシ、どうしたの?」
「姉貴、俺・・」
歳三の様子がおかしい事に気づいた信子は、歳三を近所の産婦人科クリニックへと連れていった。
「おめでとうございます、現在七週目に入っていますよ。」
「そうですか・・」
もしかしてと思っていたが、いざ現実を突きつけられ、歳三は急に目の前が真っ暗になった。
「トシ、大丈夫!?」
「そうですか、わかりました。」
土方家からの電話を受けた山南は、溜息を吐いた。
「山南さん、どうかしましたか?」
「女将が、妊娠したそうです。安定期を迎えるまで、実家で静養するそうです。」
「そうですか。」
「女将が留守にしている間、何もなければいいのですが・・」
「そうですね・・」
山南と千鶴が溜息を吐きながらそんな事を話していると、事務所の内線電話が鳴った。
「もしもし・・」
『仲居頭、大変です!』
山南が“菊の間”へ向かうと、そこにはいかつい顔をしている男が不機嫌そうに両腕を組んで立っていた。
「お客様、どうかされましたか?」
「これ。」
男はそう言うと、皿の上に載っているフライドポテトを指した。
「俺は揚げたてのものを頼んだ筈だ、すぐに作り直せ!」
「申し訳ありません・・」
山南は男に向かって頭を下げると、調理場へと向かった。
「山南さん、どうしたんだい?」
「源さん、申し訳ないのですが・・」
「例のお客さんか。」
「ええ。」
薄桜旅館には毎年、クレーマーの男がやって来る。
彼は三日間この旅館に滞在し、クレームをつける事で有名だった。
「数日の辛抱だよ。」
「えぇ・・」
クレーマーは、数日後旅館から去っていった。
「雪村君、お仕事にはもう慣れましたか?」
「はい・・」
「旅館やホテルの仕事は、一筋縄ではいきません。人手不足ですが、仕事がキツくてすぐに辞める人が多いのですよ。」
「そうなのですか。」
「まぁ、うちは女将が厳しいので、雪村さんのようにテキパキと働ける人は気に入られますよ。」
「そうですか・・あ、山南さん、明日お休みを頂いてもいいですか?実家で法事がありまして・・」
「わかりました。」
千鶴は、実家に二年振りに帰省した。
「ただいま。」
「千鶴ちゃん、お帰りなさい。」
「千鶴、お帰り。」
「お祖母ちゃん、お兄ちゃん・・ただいま。」
「長旅ご苦労様。お風呂入れたから、ゆっくりとなさい。」
「はい・・」
婚家では休む暇も無かった千鶴は、実家で久しぶりに風呂に入り、リラックスした。
「千鶴ちゃん、いいかしら?」
「はい、お祖母ちゃん。」
夕食の後、千鶴は祖母・千鶴子の部屋に呼ばれた、
「薫から聞いたわ。色々辛かったでしょう。」
「うん・・」
「まぁ、今は結婚が女の幸せという時代じゃないからね。」
「おばあちゃん、薄桜旅館って知ってる?わたし、今そこで仲居をしているの。」
「知っているわ。わたし、そこの先代の女将さんとは知り合いだったのよ。確か彼女には、二人お子さんが居たわねぇ。男の子と、女の子。」
「へぇ、そうだったの。」
「まぁ、男の子の方は、女将さんの前の旦那さんの連れ子なのよ。先代の女将さんは、躾に厳しい人でね、食事の作法なんかお箸のあげおろしまで厳しくしていて、・・悪さをすると罰として食事抜きとか、酷いものだったわよ。」
「その話、詳しく聞かせて?」
「男の子の方・・トシちゃんは、先代の女将さんからいつも目の敵にされていてね、テレビのリモコンの位置がずれたとか、そんな些細な事で殴ったりしていたわよ。」
「酷い・・」
「まぁ、あの人は旦那さんの前妻さんと比べられて色々とストレスが溜まっていたからね。」
「それで、その子はどうなったの?」
「先代の女将さんの虐待が児童相談所に通報されてね。旦那さんの方に引き取られていったわ。先代の女将さんは、精神的に病んでいたみたいで、トシちゃんが旦那さんに引き取られた直後に崖から飛び降り自殺したそうよ。」
「そんな事があったんだ・・」
「まぁ、赤字経営で廃業寸前だった旅館を一年で再建させたんだから、今の女将さんは相当やり手なのね。」
「女将さん、厳しいけれど優しい人よ。わたしもいつか、あんな風になりたいなぁ。」
「まぁ千鶴ちゃん、とうとうお店を継ぐ決心をしてくれたのね!」
「うん・・今まで、遠回りして来たけれど、漸く原点に戻って来たかなって・・」
「まぁ、頑張りなさい。」
千鶴が家業を継ぐ決意をした頃、東京の実家に居る歳三は、異母姉・信子と今後の事を話し合った。
「そう・・産むのね。」
「あぁ、授かった命は大切にしてぇんだ。」
「旅館はどうするの?」
「それが、今考えているんだが・・旅館は、俺の代で廃業しようと思う。」
「まぁ・・」
「今はただ、この子を産む事だけに集中したい。」
「あんたがそう決めたのなら、わたしは何も言わないわ。」
「ありがとう、姉貴。」
歳三が自室で寛いでいると、そこへ八郎がやって来た。
「トシさん!」
「八郎、俺に何の用だ?」
「僕と結婚して、トシさん!」
「キツイ冗談は止せ。」
「冗談じゃない、本気だよ!」
八郎はそう言うと、歳三の両手を握り締めた。
「お腹の子は、風間さんの子なのでしょう?僕が、その子の父親になってあげる!」
「八郎、お前・・」
「ねぇトシさん、お願いだから“イエス”と言ってよ!」
そう叫んだ八郎の瞳は、虚ろになっていった。
「八郎は何だってあんな事を・・」
「八郎君、縁談があるみたいなの。だから・・」
「俺は、誰とも結婚しねぇ。」
歳三はそう言うと、まだ膨らんでいない下腹を擦った。
そう豪語していた歳三だったが、酷い悪阻に襲われ、入院する事になった。
「は?」
検査の後、歳三が一般病棟へと戻ろうとすると、彼女は慌てて看護師に止められた。
「土方様は、こちらです。」
そう言われ看護師に案内されたのは、病院の特別室だった。
「何で・・」
「お前の腹に宿っているのは、我が風間家の子なのだからな。」
「お前ぇ、いつの間に・・」
「さぁ我妻よ、ゆっくりと休むがいい。」
「あぁ・・」
安定期を迎えても、歳三は入院していた。
「女将、どうですか体調の方は?」
「医者が言うには、精神的なストレスが原因で腹が良く張るそうだ。」
「ストレスは万病の元ですから、ゆっくり休んで下さいね。」
「あぁ、わかった。だが、寝てばかりじゃなぁ・・」
「無理は禁物ですよ。」
「山南さん、あいつはどうしている?」
「雪村君は、実家の家業を継ぐようですよ。」
「そうか。」
「まぁ、風間さんが少し大人しくして下さればいいのですがね。」
「そうしてくれる事を願うぜ。」
歳三がそう言いながらテレビをつけると、画面には風間の顔の右上に、“風間CEO婚約!?お相手は有名老舗旅館の女将か!?”というテロップが表示されていた。
「あいつ・・」
「おやおや、大変な事になりそうですね。」
「山南さん、あんた少し楽しんでいないか?」
「いいえ。」
テレビの報道を見たマスコミが、連日薄桜旅館に押しかけて来た。
「こんな状態じゃ、商売上がったりだよな。」
「何とかしねぇと・・」
「お前ら、俺が留守している間、旅館を守ってくれてありがとうな。」
「土方さん!」
「後は俺に任せろ。」