チャワーリン・サウェッタナン(Chavalin SVETANANT) チュラーロンコーン大学 専任講師
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn203.html
はじめに
東洋人は感性的な面において繊細であるとよく評価されます。日本語とタイ語との間には、敬語の発達、男女間の言葉の違い、あるいは「気・こころ」を用いる多数の表現などといった感性的な面における共通性が多く見られます。それにもかかわらず、それぞれの思考や情緒を表出する時に、両言語の「心のあり方」によって微妙に違ったニュアンスが見られるのです。本発表は、そういう考えを踏まえ、歴史的・対照的分析を通して、両者の心的態度や意識構造を明らかにするとともに、それぞれの国民がどのように物事を感じ取るのか、どのように外界に接して物事を理解するのか、日本人とタイ人の「国民性」の一面を客観的に考察していきたいと思います。
「こころの文化」とは
「こころにも文化なんてあるのか?」と疑う方もいるかもしれません。確かに「こころの文化」ということをあまり耳にする機会はありませんね。しかし、「食文化」、あるいは「生活文化」などはよく聞いたりしていませんか? 「食文化」や「生活文化」という言葉があるように、実は人間の知的・情意的な精神活動を果たす「こころ」にも、ある国の独特の食・衣装・住まい・生活などと同じように、それぞれの国民のモノの捉え方・感じ方、または表出の仕方によるいくつかの違いがあります。 たとえば、「恥」・「笑い」・「愛情」または「怒り」というような情緒について考えてみましょう。それぞれの国の人は、同じような捉え方・感じ方、または表出の仕方をするのでしょうか? 日本人は、「旅の恥は、かき捨て」というほど、他の国の人より普段の生活では他人の目を気にしながら行動すると言われています。ですから、たとえ同じ場面で同じようなことをしようとしても、「恥」というものに対する、日本人と外国人の捉え方・感じ方、そして表出の仕方、つまり「こころの文化」が違ってきます。
他の情緒に対する「こころの文化」も同様です。私はこの前二時間のスペシャルドラマを見ましたが、そこでは実の息子を亡くした母親が悲しみで号泣していたのに、急に大声で笑い出してきて、テレビの前の私には、本当にカルチャーショックでどう受け止めればいいか分かりませんでした。きっと悲しみが溢れてきて言葉にできないぐらいどうしようもないのだろうと思いました。私が馴染んでいるタイ文化には、「怒り」から「復讐心」に変わって、それを抑えられなくて笑い出したりすることがあり、たまにはそれを小説やドラマなどで見ることがありますが、こういう「悲嘆」から「笑い」に展開していく事例についてはなかなか経験したことがありません。そういう様々な現象を文化の一つとして、ここで「こころの文化」または「それぞれの国民のこころのあり方」と呼ぶことにしておきます。
人間の感受性と言葉との密接な関係
では、次に皆さんにこの絵をよくご覧になっていただきましょう。どのように見えるのでしょうか? 機嫌よさそうな顔に見えた方、機嫌悪そうな顔に見えた方、そのどちらもいるのではないかと思います。 そして、次の絵はどうでしょう? どんなふうに見えるでしょうか? こちらの方は、全体として合わせて見る大まかな見方と、部分的に細やかに見る見方がありますね。
この二つの絵は、江戸時代の「遊び絵」と呼ばれるものでよく知られています。最初の絵は、上下逆さまにして、それぞれ違う顔を表わす絵ですから「上下絵」と言いますが、後の絵は、複数の物を寄せ集めて別の物体を表現した絵なので「寄せ絵」と言います。 実は、これらの絵は、私が先ほどお話した「こころの文化」、あるいは「こころのあり方」を模擬したものであります。人間という生き物は、ある一つの能力を共有しているのですが、それは世界中のあらゆる物事に接した時に、それらによって様々な感情を生み出そうとする感性豊かな能力です。そういう優れた能力は、国籍を問わずすべての人間にあって、「感受性」における「普遍性」とも呼ばれています。
しかし、そういう人間の「感受性」における「普遍性」は、ある範囲、あるいは、あるフレームによって抑えられています。それはどういうものかというと、これからのお話の主題となる「言葉」という範囲の問題なのです。 先ほどお見せした二つの絵のように、同じものを体験していても、左の方から見るのに慣れている方と、右から見るのに慣れている方の両方がいらっしゃると思います。同様に、絵の構成の細やかな部分を把握できるという方もいらっしゃれば、大まかなものしか見えないという方もいらっしゃると思います。普遍的な人間の感情のようなものを「絵」にたとえるとしたら、皆さんの「それぞれの見方」は、それぞれのこころの文化の受け入れ方と同じようなものになります。今回の小さな実験では、少し自分の見方を変えてみれば違ったものがすぐ見えてくるのですが、実際にはその見方、あるいは世界観こそが、それぞれの言葉によって制約されているので、決して簡単には変えることができません。
少し哲学っぽくなってしまいましたが、言語学的に言い換えてみれば、人間は「言葉」という「フィルター」を通して、常にある決まっている方向に導かれ、人間の本来の感受性の能力があるにも関わらず、自分が毎日使っている「言葉」、いわば「文法」なり「単語」なり「表現」なり、それらの「フィルター」を通して、外界を当たり前のように感じ取るのです。
ですから、たとえ同じような物事を体験していても、人間はそれぞれの時代・それぞれの民族によって捉え方も違いますし、かりに同じような捉え方をしていても、その物事に対する表現・表出の仕方も違うものですから、それぞれの時代及び国民性という「フィルター」によって、「こころの文化」あるいは「こころのあり方」も違ってくるわけであります。
High Context Cultureとしての日本文化
Edward T. Hallというアメリカの人類学者は、あらゆる感情を明白に言葉や行動に出すLow Context Cultureの西洋文化に対して、日本文化を始めとして、東洋文化をHigh Context Cultureに分類しています1。なぜならば、後者の文化には「言葉を使いたがらず、状況などの文脈を重視する」という傾向が見られるからです。私自身は日本にはかれこれ一〇年以上も関係してきましたが、日本人には確かに「言葉」より「雰囲気」の方が好まれているように思います。
これについては、国語学者の阪倉篤義先生も言っておられます。つまり、物理を抽象的な理屈として理解するよりは、むしろ感覚的にとらえるということの方が日本人に向いているということです2。それを先ほど単純に「雰囲気」と言ってしまいましたが、正確に言えば、その「雰囲気」というのは、「その時のコンテクスト」「その瞬間の状況」ということで、たとえばこういう場面ならある決まった言葉を使う、こういう状況ならある決まった行動を取る、あるいはこういう流れであればある決まった感情を抱くというように、日本文化ではそれぞれのコンテクストによってやるべきことが既にほぼ決まっているのです。そういう「感覚的な捉え方」のやり取りにおいては、特に互いに言葉を交わす必要もなく、日本人同士であれば分かり合えるという日本人の誰もが共有している常識のようなものです。
言葉の面から見ても同じです。たとえば、こういう言葉は、ある決まった場面ではある決まった意味をもつけれども、それと違った場面で使うとまた違った意味になるという、一つの言葉の裏に複雑な意味を含める日本語も実に多いです。私は以前「やさしい」という語源と用法について研究しましたが、それにも日本人のHigh Context文化が表われていて、使う場面によって「思いやりのある人」という褒め言葉の「やさしい」もあれば、どれもこれもイマイチというような人に対しても、「やさしい人ですね」と言って、実は見下しているというような「やさしい」もあります。そういう意味のニュアンスの違いは、ただひたすら日本語を勉強して言葉の意味を暗記するだけでは、なかなか理解しがたいですね。
日本人の感情の表出とタイ人の感情の表出
実は私が生まれた故郷の「タイ」も、日本と同じように「こころ」を非常に大切にする文化を持ち、感性的な面においても大変繊細であるとよく言われています。ただし、長い間日本語を使って日本に住んできたタイ人の私に言わせれば、両国の文化は感情に対して繊細ないし鋭敏でありながらも、日本人とタイ人の間には外界との接し方や物事の感じ取り方、または理解の仕方などについてはずいぶん違っているように思います。
まず、タイ人は日本人のように自分の中に溢れる情緒を堪え、自閉的な態度を取って感情を表に出さないようなことはしません。もちろん、公共の場で西洋人のように率直に意見や感情を何もかもぶつけるという習慣もありませんが、自分の仲間同士であれば、うれしいならうれしいというし、悲しいなら悲しいと言葉にします。怒る場合にはちゃんと相手に伝わるように、率直な表現や行動で表わしてできるだけ自分が感じているものすべてを打ち明けることがタイ人の一般的な態度です。
それゆえに、タイ語の感情表現も非常に数が多いのです。日本人が怒る時に、たとえば「怒る、腹が立つ、頭にくる」など様々な表現が取り上げられるのですが、実際に怒る時には日本人はそれらの言葉を口にするより「沈黙」で表わすことが多いのではないでしょうか。その「沈黙」という表現は、日本文化においてHigh Context Cultureを表わす心のあり方の一つです。邦画のシーンにもよく出てくるように、「怒り」だけではなく、「愛情」や「憎しみ」などの表現としても決して少なくないでしょう。
しかし、タイ人の怒っている時は違います。タイ人はほとんどの場合、感情を堪えたりしないから、タイ語の怒り表現はそういうタイ人の怒りの程度に応じて、怒りの「度合い的」にも(どれぐらい怒っているのか?)「種類的」にも(どういう原因で怒っているのか?」、または「対象的」にも(誰を怒っているのか?)使い分けられているのです。たとえば、親や恋人など大切な人に自分の誕生日を忘れられた場合には、「ゴーン」と言って、機嫌をとってもらうために小さな怒りを自分の大切な人だけにわざと可愛く見せたり、仲のいい友達に仲間はずれにされたような場合には、「ノイジャイ」(心を縮める)と言って、寂しさを伴う少しの怒りを表わしたり、会議などで職場の同僚と議論が少しかみ合わない時には「クウアン」と言って、ちょっと気に障るという意味の感情表現を使ったりします。
このように、「言葉」というものは、感情を表わす「心のあり方」に、密接に絡んでいるということがお分かりになったかと思います。そこで、日本人がどういう世界観を持って物事を理解するかを知りたい時には、日本人を装って日本人らしい「日本語」という「フィルター」をかけて、世界を眺めることしかありません。逆に、自分が育った当たり前のような世界観から、一瞬でも抜け出そうとすれば、普段自分が使っている言葉の「フィルター」を取りはずして、たまにそれと違った「フィルター」をかけて、外国語などを通して世界を眺めることが良いでしょう。
ということで、これからタイムスパンが違った遥かな昔の日本語と、文化的にも思想的にも違ったタイ語という二つの「フィルター」をかけてみて、もしも自分が昔の日本人になったら、もしも自分がタイ人になったらと想像していただきながら、物事に対する新たな「心のあり方」を体験していきましょう。
「心のあり方」を表わすHeart Words─その(1)・・「気」の意味・概念
まず、皆さんに覚えていただきたい用語があります。人間の知的・情意的な精神を表わす言葉、つまり人間の「心のあり方」を表わす言葉を、ここでは「Heart Words」と呼びます。「Heart」または「ハート」というのは、皆さんもご存じの通り、日本語で言うと「気」または「こころ」という言葉に当てはまりますが、細かくみれば日本語における「Heart Words」は「魂」「霊魂」「情」「精神」それから、情意を表わす「感情」「心情」「気持ち」など数多く挙げられます。今回は、「チャイ」というタイ語の「Heart Words」と比較するために、日本語の「Heart Words」の代表として、日本人がもっともよく使う「気」と「こころ」の実体とそれぞれの用法を取り上げていきます。
では、「気」という語彙から見ていきましょう。日本人は「気」を使わずに一日過ごすことができないほど「気」を好んでいるとよく言われています。前林清和先生の『気の比較文化3』という本にはこういう面白い文章が書いてあります。「気」が何回登場したのか、どうぞ皆さんも数えてみてください。
「元気よく家を出たが、満員電車で気分が悪くなり、会社について気を取り直して仕事を始めたが、お客さんに気を使い、上司の気まぐれで怒られ気を落とし、夕方いつも気が合う同僚に飲みに行こうと誘われたが気が乗らず、家に帰れば気が休まる暇もなく、子供の遊び相手、近いうちに気ままな旅にでも出ないと病気になってしまうと気遣う妻と晩酌し、いい雰囲気になって気分転換。」
これほど頻繁に使う人はいないと思いますが、実際に毎日このような表現のどれかを使って日常生活を送っている人もきっと少なくないでしょう。
では、「気」とは一体何ものなのか、まず典型的な言語学の方法で国語辞典の記述を参考にしてみましょう。
『角川古語大辞典』
《名》 漢語。森羅万象の生命力発動の源泉となる、目に見えない自然の活力。また、人間その他、有情のものの肉体的、精神的な活動のみなもとをなす、内在的な心の働きをいう。
『日本国語大辞典』
《名》 一 変化、流動する自然現象。または、その自然現象を起こす本体。
二 生命、精神、心の動きなどについていう。自然の気と関係があると考えられていた。
三 取引所で、気配(きはい)の事。人気。
辞書の記述をさっと理解しようと思えば、とりあえず、「気」とは、はっきりと表わすことのできない実体不明の何かだというイメージが強いですね。そんな実体不明なモノではありますが、私もここにいらっしゃる皆さんも、きっとそんな目に見えない極めて曖昧な「気」の存在を感じることができるはずです。
以上の国語辞典における「気」の定義をまとめてみれば、「気」そのものの存在する場所によって二つの意味が説かれています。その一つは「自然に漂う気」で、もう一つは「人間の身体内部に生きる気」です。ご存じの通り、日本人は「気」という文字を中国から借り、その文字によって数多くの言葉を作り出しました。浅野裕一4は気の原義について次のように述べています。
『気』の原義は、水蒸気を指すと考えられる。このことは、『気』の概念について、様々な示唆を与える。水は温度差に応じ、氷(固体)→水(液体)→水蒸気(気体)と、性質を変化させる。そこで気の概念は、一定の形状に固定されぬ変化の性格を内在させている。すなわち、『気』は、固体にでも液体にでも気体にでも、自在に姿を変えられるのである。また水蒸気は、水面や地面から立ち昇り、雲になったり、雨や雪になったり、さらには河川の水となったり、湖沼の水となったり、地下水や土中の水分になったりと、姿を変えながら、天地の間を往来・循環する。そこで気の概念は、循環の性格をも内在させることになる。
一方、現代日本語においては、心理的作用としての「気」が多く用いられています。「気が重い」、「気がする」、「気が立つ」、「気が多い」、「気が置けない」、「気になる」などのような慣用的表現をいくつも思い浮かべられますが、たとえば「天気」、「気象」、「気化」、「換気」などのように、「気」が人間の精神的作用以外の、いわば物質的なものを指す語彙はあまり出てこないようです。ただし、「気」がこうした二面性を持つことは、現代日本語に限ってのことではないと竹田健二5は分析しています。
次に示すように、古くは『日本書紀』における「気」の中には、周王室の史官や陰陽流兵学が行った「気」の観測を彷彿とさせる形で説かれているものがある。
天に赤き気有り。長さ一丈余。形雉尾に似たり。(推古二十八年十二月)
天の暖なること春の気の如し。(皇極元年十一月)
『日本書紀』には、一方で気息を意味する「気」など、人間に関わる「気」もしばしば説かれている。「気」は日本でも古くから、人間の身体に関するいわば精神的なものであると同時に、天地自然の間に存在するいわば物質的なものでもあったのである。
なお、現代日本語においては、精神的なものの「気」が特に多いと見られます。また、そうした「気」の表現は実に多様であるのに対して、「気」がもつ天地自然の間に存在するものとしての面はあまり強く意識されていないのです。竹田は、近世以降の日本語で多様な形で説かれている「気」は、主として精神的なものとしての「気」であると記しています。人間の心の動きという意味に関しては、言うまでもなく、本来の意味を拡大発展させ、独自な意味として定着したものです。確かに、「気」という文字を中国から輸入したとはいえ、日本語としての「気」に加えられていった独自な部分は日本的な用法だと言えるでしょう。さらに、日本語に定着した「気」の大部分が精神を表示する事例で占められる現象は、心情を好む日本人の体質を見事に反映していると思われます。 『気の不思議6』では、日本人が使っている「気」の意味とそれぞれの例が次のように取り上げられています。1~4は一見して中国からの直輸入であることがすぐお分かりになるかと思いますが、7と8はもっと細かく分けることも可能で、日本語の「気」の使われ方の特徴を示しているものです。
万物の根本・・天地正大の気
1 自然の現象・・天気、気象、気候
2 物質、ガス体・・空気、水蒸気、気体、気化
3 生命力・・元気がある、精気あふれる
4 呼吸・・気息、気がつまる
5 意識・・気を失う、気が遠くなる
6 精神・・(1)(全般)気を静める、気がめいる (2)(傾向)気が短い、気が長い
7 心理・・(1)(全般)気がきく、気が散る (2)(意志)気をいれる、どうする気か (3)(関心)気がある、気を持たせる (4)(心配)気をもむ、気に病む (5)(感情)気まずい、気を悪くする (6)(注意)気をつける (7)(心地)生きた気がしない
8 全体的なムード・・山の気、火の気、その気
9 その物の特徴・・酒気、気のぬけたビール
「心のあり方」を表わすHeart Words─その(2)・・「こころ」の意味・概念
次に、「こころ」の方を検討していきましょう。「こころ」という語は、先ほど述べてきた「気」と異なって、中国から受容した言葉ではなく、もともと大和言葉であって、後から「心」という漢字に当てられた言葉です。 では、先ほどの「気」と同じように、まず国語辞典における「こころ」の意味から見てみましょう。
『角川古語大辞典』
《名》(1)人間の精神活動の根本となる、知・情・意の本体。精神。「身」「体」の対。(2)心の中。表面に現れない考えや気持。その時その時における心的状態。(3)思慮。心構え。分別。(4)なさけ。思いやり。親しみの情。ある個人に対して向けられる感情。(5)内々に心を寄せること。ひそかに情を通ずること。浮気をしたり内通したりする場合にいう。二心(ふたごころ)(6)つもり、下心。行動の基底に潜む意思。(7)性質。生れつき。(8)心底。本心。(9)意味。事のわけ。「なぞ」や「しやれ」の真意。(10)事情。内情。(11)風情。情趣。趣向。(12)物の道理。(13)たしなみ。(14)物の中心。手の中心を「たなごころ」というなど。特に池の中心をいうことが多い。(15)歌学用語。和歌の内容。(16)心臓。胸。胸先。
『日本国語大辞典』
【心・情・意】
《名》人間の知的、情意的な精神機能をつかさどる器官、また、その働き。「からだ」や「もの」と対立する概念として用いられ、また、比喩的に、いろいろな事物の、人間の心に相当するものにも用いられる。精神。魂。
一 人間の精神活動を総合していう。
二 人間の精神活動のうち、知・情・意のいずれかの方面を特にとり出していう。
三 人間の行動の特定の分野に関わりの深い精神活動を特にとり出していう。
四 事物について、人間の「心」に相当するものあを比喩的にいう。
五 人体または事物について「心」にかかわりのる部位や「心」に相当する位置をいう。
このように様々な国語辞典を調べてみても、非常に抽象的な性質を持つ「こころ」の実体をなかなかつかむことができません。とはいっても、私たちの解釈の問題だけではないようです。夏目漱石のあの有名な小説、「こころ」というタイトルも、タイ語訳版も含めて、様々な外国語版においては、明確な訳がつけられず、ローマ字で書いた「K-O-K-O-R-O」がそのまま使用されているのです。
『広辞苑』では、「こころ」が動詞の「凝る」、または「ココル」といった語源から来ているのではないかと推定されています。動詞の「凝る」はまた「ココル」ともいうのですが、その「凝る」という意味は、分散しているものが寄り集まってかたまるということです。たとえば、水から凝ったものを「こおり(氷)」というし、魚の煮汁などを冷やして凝固したものを「煮こごり」と呼んだり、さらには、日本の神話では日本のことを「自凝島」と言ったりして、「おのずから凝った島」という意味を表わしています。 それに従って、日本の「こころ」も「凝ってかたまったもの」として把握され、人間の「たましい」は、そもそも空気のようにふわふわと浮動していたのですが、それが次第に凝りかたまって、「こころ」の形が作られたのではないかと考えられます。
思想史では、「こころ」を問題にして、「純粋と無私のこころ」・「人の真心」というような様々な「良心論」が取り上げられていますが、その一つの例として、本居宣長(一七三〇―一八〇一)の「物の哀れを知る心」について少し触れておきたいと思います。
本居宣長によれば、「こころ」というのは、「物の哀れを知る」ものとして把握されています。要するに、宣長にとって「こころ」とは、ただ物事の「理性と智恵」を知るだけではなく、全的な認識で、「知ると感ずる」機能を果たしているものだと解釈されています。それこそが、「良くも悪くもただ生まれたままの心」・「自然のあるがままの心」あるいは「人間の生まれながらの真心」でもあると述べられています。
これは確かに現代日本人の「こころ」とは多少のズレがあるかもしれませんが、これから話していくタイ語の「チャイ」というタイ人の「心」に非常に似ている概念なのではないかと思われます。
「心のあり方」を表わすHeart Words─その(3)・・「チャイ」の意味・概念
「チャイ」という言葉は、日本語の「気」に負けないくらいタイ人に大変好まれています。私もタイ人の一人なので断言できますが、「チャイ」という言葉を使わずに、タイで一日過ごすことは本当に困難であるに違いありません。タイ人に不可欠なその物体は、現代日本語において「質的に」扱われている「気」と「こころ」とはかなりの違いが見られ、頭や胸・手足などという「身体の一部」と同じように「量的に」生き生きと把握できるものです。
「チャイ」が初めて登場したのは、タイ文字ができた十三世紀スコータイ時代からですが、その意味は長い間固定されていて、それから七〇〇年ぐらい経ちましたけれども、今でもほとんどの意味が変わっていません。タイでは十三世紀に「石に彫り付けた碑文」というものがいっぱい残っていますが、その十三世紀に刻まれたスコータイ時代の碑文に現れる「チャイ」の意味と、現在インターネットのブログやメール、またはチャットの世界に現れる「チャイ」の意味とは、ほぼ一〇〇%同じ意味を持っているのです。
タイの国語辞典を調べたところ、「チャイ」という語には次のような意味が取り上げられています。 人間の一部を成し、思ったり、考えたり、認識したりするもの。心臓。呼吸。(動物にも人間にもある)精神的な動き・情緒・感情・気持ちを感じるもの。(転義で)霊魂。または、物事の中心や重要部や心臓部 などという意味が説明されています。
要するに、「チャイ」というのは、日本語の「気」と「こころ」と異なって、「気持ち」、「感情」、「一時的な気分」という意味合いがまったく見受けられず、むしろ「それらの精神的な動きを感じ取るもの」、「人間と動物といった生き物の、すべての感情や思考を担う主体」であり、すなわち、宣長の言う「物の哀れを知る心」に近い性質を持っていると思われます。
生き物の身体の中で一番大切に扱われる「心臓」から派生した「チャイ」は、このように、「心臓病」や「深呼吸」という医学の専門用語から、「理解する」、「関心を持つ」などという理性的な認識を通って、「悲しむ」や「喜ぶ」などという感情表現まで、知的にも感情的にも幅広く使われています。
さらに、ぴったり相当する訳語が見当たらない日本語の「わび」「さび」と同じように、独特の文化の概念や、社会的な価値観を表わす用語としても用いられています。たとえば、「カムランチャイ」(=チャイの力)と言うと、「意志力」・「精神力」というような意味で、「ナムチャイ」(=チャイの水)と言えば、「人間らしい思いやり・心意気」という意味であったり、さらに、「クレーンチャイ」と言えば、「誰かに対して押し付けるのは気が進まない、または配慮しながら行動する」という意味で、日本語の「遠慮」や「気兼ね」というような意味に近いのです。
要するに、「チャイ」という言葉は、「理性より感情を重視するタイ文化」にとっても、仏教徒のタイ人にとっても、すべての人間に欠かせない要素で、人間の善意・悪意の元や、悟りの元など、一番重要な役割を果たしているものに他なりません。
英語の「Heart」、「Mind」との比較
そのついでに、英語のHeart Wordsにも触れておきたいと思います。英語の場合、Heart Wordsと言えば、「Heart」及び「Mind」という二つの言葉が思い浮かんでくると思います。日本語と同じように、精神状態を表わす時に、ほとんどの場合、この二つの言葉が使い分けられているのですが、英語の「Heart」と「Mind」は、日本語と異なって、それぞれの用法はかなりはっきりと区別されているようです。たとえば、「Heart」は、「broken heart」(=失恋する)や「kind-hearted」(=心優しい)などというような感情的で非論理的な意味を表わしているのですが、「Mind」は「make up your mind」(=決断する)、または「keep in mind」(=頭に入れる)という論理や分析的な意味を表現しているのです。こういった欧米人のHeart Wordsの分類は、どうやら十七世紀のThe Age of Reasonという「理性の時代」辺りから、左右に分かれる脳の分類とともに続けられてきたそうですが、そういう感情を果たす部分と論理を果たす部分にはっきり分かれる人間の精神的な働きというような思想は、日本人とタイ人の概念にはないようですね。その上、欧米の人々は東洋人である日本人やタイ人ほど、「Heart Words」の表現を幅広く、そしていろんな場面で精神活動を表わすこともあまり見られません。そういったことも、おそらく「感情より理性を重視する欧米社会」の一面を反映していると言えるのでしょう。
後半に入る前に、一旦「気」「こころ」そして、タイ語の「チャイ」という概念について、簡単にまとめておきたいと思います。まずは、単純なタイ語の「チャイ」に対して、日本語には、少なくとも二つの言葉の選択があります。つまり、「ハート」そのものが、日本語的な用法によって「気」と「こころ」に分けられています。ただし、日本語の「気」と「こころ」は、語源的な由来の違いがあるため、ある程度、機能的に分担して働いている英語の「Heart」及び「Mind」と異なり、その二つの語の境界線は非常に漠然としています。
それぞれのHeart Wordsの用法
では、日本人とタイ人の心のあり方をもう少し具体的に把握できるように、次にそれぞれのHeart Wordsの実例を検討していきたいと思います。
まず「気」と「こころ」をめぐる表現ですが、私は、今回古代から使われてきた「こころ」と中世頃に和語化された「気」を対象にして、十四世紀「室町時代」から「江戸時代」までの間に、複合語を除いて、「気」と「こころ」を使う表現のデータベースを作りました。その結果、「気」を使う表現は、合計二〇七例、「こころ」を使う表現は合計一五二例でかなり多数の例が見つかりました。
一方、「こころ」をめぐる表現は、古代・中世から近現代までの間に、あまり意味に変わりはなく、たとえば感情を動かすことや説得して相手の気を変えようとすることを「心を動かす(古代/中世)」と言ったり、心にしっかり覚えておくということを「心に留める(古代)」と言ったり、お互いに心の底まで知り合っている友達を「心の友(近世)」と呼んだりして、現代人の我々にとっても、字義通りに解釈することが可能であって、たいへん分かりやすい用法です。
それに対して、「気」をめぐる表現は、意味の拡大及び意味の変化がかなり激しくて、中世辺りでは、「気を伸ばす」、「気を直す」というように、極めて具体的で生き生きとした表現が多かったのですが、近世に入ると、そういう生き生きとした表現が徐々に消えてしまって、「気もそぞろ」、「気の毒」、「気になる」、「気は心」、「気が気でない」、「気で気が分からない」などという固定性が高い慣用句が増えてきました。 なお、本発表では「字義通りだから解釈しやすい」や「具体的で生き生きとした表現」など、言語学用語を時々使っていますが、それはどういう意味なのか、ここで一旦説明したいと思います。
たとえば、「気を伸ばす」という表現ですが、まず皆さんに「伸ばす」という動詞を想像していただきたいと思います。「伸ばす」と言えば、「足を伸ばす」・「手を伸ばす」というように、「足や手をまっすぐにして体を楽にする」という動作を思い浮かべますね。そこで、今ではもう使わなくなりましたが、室町時代によく使われていた「気を伸ばす」という表現の意味を当ててみてください。どういうことを指すのでしょうか。「気を伸ばす」ということは体の一部である「足」や「手」と同じように、「気をまっすぐにして気持ちを楽にする」という意味なのです。こういう意味を理解する過程が、「字義通りだから解釈しやすい」、あるいは「具体的で生き生きとした表現」などということなのです。少しお分かりいただけたでしょうか。
それでは、もう一つの例を挙げてみましょう。中世に使われた「気を直す」というのもまったく同じです。「テレビを直すこと」や「パソコンを直すこと」と同様に、「乱れた状態の気を何とかして、元の望ましい状態にする」という意味を表わします。こういう「気を伸ばす」や「気を直す」という動詞は、残念ながら現在にはもう使われていませんが、それぞれの表現がかなり具体的に感じられるから、現代人の我々にとっても、確かに分かりやすいですね。
しかし、近世から現代になっていくうちに、「気」という表現が少しずつ慣用的になってきてしまいました。たとえば、「気の毒」や「気もそぞろ」など、そして現在でもよく使われる「気になる」、「気にする」というように、かなり慣用度が高くて、字義通りに理解しようとしてもなかなかできません。たとえば、「気」にある「毒」がなぜ「かわいそう」という意味になるのか、あるいは「気」というものに「なる」ことでなぜ「心配する」というような意味になるのか、などなど、それぞれの語の意味と、全体的な意味とのつながりがあまりはっきり見られなくなりました。そういう表現は、言語学では、「慣用句」あるいは「イディオム」と呼びます。 一方、タイ語の方の「チャイ」というHeart Wordsはどのように使われているのでしょう。十三世紀のスコータイ時代からの歴史的な用法をすべて探ってしまうと、これもまたかなり長い話になりますので、その要点だけ述べておきます。
「チャイ」をめぐる表現は、七〇〇年前においても、現在においても、たいへん生き生きとしたもので、「質的な」性質を持つ現代日本語の「気」と「こころ」と異なって、その「チャイ」という実体は、「量的な」性質を持ち、かなり具体的に感じられるし、字義通りでも解釈しやすいものです。このような性質は、先ほど述べた古代及び中世の日本語における「気」と「こころ」に非常に似ていますね。
実際に使っている用例を見てみますと、たとえば、「チャイが膨らむ」と言えば「非常にうれしい」という意味であり、反対に「チャイが縮まる」、「チャイが枯れる」、「チャイが溶ける」というと、「非常に落ち込んでいる」、「非常に憂鬱になる」、「死にそうになるぐらい悲しい」という意味になります。
また、「チャイを固める」ということで、「むりやりに頑張る」という精神状態ですが、逆に「チャイを和らげる」というと、「やる気をなくす」という精神状態です。 「チャイ」とその感温性についても、いくつかの表現が挙げられます。たとえば、「チャイを焼いたり、熱くしたりする」と「心配したり焦ったり」する状態を表わすものが多いのですが、逆に「チャイを涼しくする」と「落ち着く」様子になったり、「チャイを暖める」と「安心する」という状態を表わしたり、「チャイにうるおいを与える」と「心配事から解放されてほっとした」という心理状態を表わします。 それに、積極的な動作を表わす「チャイ」もあります。たとえば、「チャイを緩める」とのびのびしたり、「チャイを寝かせる」と安心したりします。さらに、「チャイを洗う」と「辛い過去を忘れてリフレッシュな気分にする」というような意味で、「チャイを立てる」と「意志を立てる」ことになり、「チャイに入る」と「理解する」という知的な動作を表わす表現もあります。
また、「チャイ」という主体に、いろんな人の性質を表わすことも多いのです。たとえば、「壊れたチャイ」と言えば、「悪に染まって、元の良い性格に戻れない人」、「硬いチャイ」というと「頑固な人」、さらに、比喩的に、「ダイヤモンドのチャイ」と言うと「意志が強い人」、「石のチャイ」というと「思いやりのない人」というように、人の長期的な性質を表わすこともあります。
このように、タイ人に属している「チャイ」は、様々な精神活動によって、時には膨らんだり縮まったり、濁ったり湿ったり震えたり、さらに、対象語として熱くされたり冷たくされたり、和らげられたり固められたり、焼かれたりしているものだとお分かりになりますね。
では、ここでこれまで述べてきた「気」・「こころ」そして、「チャイ」という日本人とタイ人の言語学的な思想をもう一度まとめておきましょう。
中国から受容した「気」は、「こころ」そのものでもなく、体そのものでもありません。「気が合う」・「気が重い」というような「人間のこころの状態」を含めて、「万物の本源」、「生命のエネルギー」、「感情」、「気持ち」、「一時的な気分や機嫌」、「気質」など、実に多義性にあふれた言葉です。曖昧でありながらも、これほど幅広い意味をカバーできる「気」は、会話や文章において自分が感じることや、考えることなどを表わす時に、できるだけ自分を避けて客観的に表現したいという日本人の国民性には、非常に使いやすくてぴったりとした機能的な言葉なのではないかと思われます。
そういった機能的で使いやすい「気」に対して、もともと和語である「こころ」という言葉は、比較的に固定した意味で使われてきて、ほとんどの場合には「喜怒哀楽などの感情が宿るところ」、あるいは、「人間の道徳心」を表わしています。その固定性の強い性質のせいか、曖昧な表現が大好きな現代日本人にはあまり好まれていないようであり、古代から中世までは「気」より大いに使われましたが、近代になってからあまり表現として使われなくなり、現代日本語においては逆に曖昧に定義された「気」の表現の方がずっと多いようです。そういう傾向は、ある意味では、日本がHigh Context Cultureになっていく、つまり「言葉通りに理解できること」以上に「空気が読めること」も求めている現代社会を反映しているのかもしれません。
一方、タイ語の「チャイ」は、身体の中で一番大切に扱われる「心臓」という語源から派生したため、身体的な表現となって、「気持ち」、「感情」、「一時的な気分や機嫌」を表わすのではなく、むしろ「その精神的な動きを感じるもの」という意味が昔から明らかになっています。それにしたがって、タイ人が使っている「チャイ」というのは、先ほど取り上げた用例のように、「気」と「こころ」よりも具体的に感じられ、「チャイが疲れる」や「チャイが寂しい」という表現のように、体から別のものとして完全に動いている「内部の生命」あるいは「本当の自分」がそうであることを表わしたり、さらに、人間や動物の生命の元となる「霊魂」という転義まで使用されたりするのです。
おわりに
感情にあふれた日本人とタイ人には、感性的な面においてお互い情緒も豊富であるし、Heart Wordsを使った表現も実に豊かであると見られるにもかかわらず、これまで見てきたようにそれぞれの思考や情緒を表わす時、両言語の「心のあり方」あるいは「こころの文化」によって経験の仕方も表現の仕方も違ってきます。
ただし、皆さんに一つ大切なことを忘れないでいただきたいのです。それは、体験の仕方であれ表現の仕方であれ、そういう外界に接して物事を理解することが違うからと言って、感じていることそのものが違うわけではありません。「表現が違うのだから、感情や気持ちも当然違うのだろう」という考えは大間違いです。「Human nature is the same everywhere」(人情はどこの国も同じ)というように、それぞれの文化によって経験の仕方や表現の仕方が違っているとは言っても、人の感情そのものの根本的な要素、いわゆる人間の「感受性」というのはまったく普遍的なものであります。私は先ほど皆さんにタイ語の「チャイ」という感情表現の用例をたくさんお話しましたが、そういうような表現を今まで使ったことのない日本人の皆さんには、少し変わった表現だなと感じられるかもしれませんが、こういう表現をどういった情緒に使うのか、または用法の説明を聞いたら、そういう表現を使ったことのない会場の皆さんでも「なるほどな~」とよくうなずいていただけるでしょう。
要するに、タイ語の表現に現れる感情そのものはタイ人だけでもなく、日本人だけでもなく、人間の誰もが感じられるものであって、ただ自分が育てられてきた文化には、別の文化と違ってそういうような感情を言葉にする習慣がないということもあるし、あるいは、そういう感情を違ったような表現で表わすことも考えられるのです。たとえば、先ほど私は「チャイが縮まる」・「チャイが枯れる」という表現を取り上げましたが、日本語には確かに「気が枯れる」や「心が枯れる」などという表現が一般的に使われていないのですね。それはただ表現のことであって、日本人だって落ち込んだりやる気がなかったりするというような気分もあるし、そういう気持ちを表わしたい時だってもちろんありますね。そんな感情を表わすために、日本語では「しょんぼりする」または「気落ちする」と言います。もちろん、その両言語の表現の間には、様々なニュアンスがあったり表現に対する使用頻度や好みの差があったりするのかもしれませんが、同じものを違った角度からどのようにとらえようとするかという問題だけで、最初にお見せした江戸時代の二つの遊び絵と同じようなものです。細かいところまで見えてもあまり関心がないから、わざと大きな絵としかとらえようとしない方もきっといらっしゃるでしょうね。これは、「遠慮する」という言葉が存在しないという欧米社会のようなものです。何でも率直にぶつけることを大事にする西洋文化は、「遠慮しない」から、そういう言葉がないというよりは、むしろ「遠慮する」概念自体に、関心が届いていないから、言葉にする必要もないのでしょう。まったく雪が降らない暑いタイにおいて、「粉雪」や「ボタン雪」それに「吹雪」などといったような細かい言い方を使い分ける必要もないことと同じような現象です。
どの国の言葉も人間の「こころ」によって、お互いの「こころ」がある程度伝わるように作られたものであります。ですから、人間及び動物も含まれる生き物たちは、道具として作られた言葉と言葉で結ばれるというより、それぞれのあるがままの「こころ」と「こころ」で結ばれていると、私は信じています。そのような根本的なつながりによって、人間と人間においても、人間と動物においても、どんなに言葉の壁があっても、お互いの「こころ」に溢れている気持ちや思考は何らかの方法で通じ合えるはずです。
また、人間は確かに「言葉」という抽象的な「フィルター」を利用して、感情や思考を交わしている生き物ではありますが、決して「言葉」ばかりに頼っているわけではありません。もちろん、ある程度決まっている規範でコミュニケーションを取らなければ誰も分かってくれませんが、先ほど述べたように「人情はどこの国も同じ」ということに基づいて、ぞれぞれの心のあり方が文化によって違うけれども、「こころ」そのものは、人間として共通しているものですから、自分の「こころ」から気持ちや思考を積極的に相手に伝えようとする意志さえあれば、「こころ」と「こころ」の文化がどんなに違っていても、きっと相手の「こころ」に伝わると思います。
他者のこころを大事にする「思いやりの文化」、それに自分のこころを大事にする「自尊心の文化」、それこそが経済や政治の発展よりも、「美しい国」に向けて、日本が目指すべき国のあり方なのではないでしょうか。そんな願いを込めて、今日の講演を終わりにしたいと思います。
ご清聴、ありがとうございました。
注
1 Edward T. Hall (1976) Beyond Culture. Anchor Books.
2 阪倉篤義(一九七八)『日本語の語源』講談社。
3 前林清和、佐藤貢悦、小林寛(二〇〇〇)『〈気〉の比較文化│中国・韓国・日本』昭和堂。
4 浅野裕一(一九九六)「中国における「気」の概念」『日本語学』第15巻7月号。
5 竹田健二(一九九六)「『気』の原義と「気」の思想の成立」『日本語学』第15巻、7月号。
6 池上正治(一九九一)『「気」の不思議』講談社現代新書。
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn203.html
はじめに
東洋人は感性的な面において繊細であるとよく評価されます。日本語とタイ語との間には、敬語の発達、男女間の言葉の違い、あるいは「気・こころ」を用いる多数の表現などといった感性的な面における共通性が多く見られます。それにもかかわらず、それぞれの思考や情緒を表出する時に、両言語の「心のあり方」によって微妙に違ったニュアンスが見られるのです。本発表は、そういう考えを踏まえ、歴史的・対照的分析を通して、両者の心的態度や意識構造を明らかにするとともに、それぞれの国民がどのように物事を感じ取るのか、どのように外界に接して物事を理解するのか、日本人とタイ人の「国民性」の一面を客観的に考察していきたいと思います。
「こころの文化」とは
「こころにも文化なんてあるのか?」と疑う方もいるかもしれません。確かに「こころの文化」ということをあまり耳にする機会はありませんね。しかし、「食文化」、あるいは「生活文化」などはよく聞いたりしていませんか? 「食文化」や「生活文化」という言葉があるように、実は人間の知的・情意的な精神活動を果たす「こころ」にも、ある国の独特の食・衣装・住まい・生活などと同じように、それぞれの国民のモノの捉え方・感じ方、または表出の仕方によるいくつかの違いがあります。 たとえば、「恥」・「笑い」・「愛情」または「怒り」というような情緒について考えてみましょう。それぞれの国の人は、同じような捉え方・感じ方、または表出の仕方をするのでしょうか? 日本人は、「旅の恥は、かき捨て」というほど、他の国の人より普段の生活では他人の目を気にしながら行動すると言われています。ですから、たとえ同じ場面で同じようなことをしようとしても、「恥」というものに対する、日本人と外国人の捉え方・感じ方、そして表出の仕方、つまり「こころの文化」が違ってきます。
他の情緒に対する「こころの文化」も同様です。私はこの前二時間のスペシャルドラマを見ましたが、そこでは実の息子を亡くした母親が悲しみで号泣していたのに、急に大声で笑い出してきて、テレビの前の私には、本当にカルチャーショックでどう受け止めればいいか分かりませんでした。きっと悲しみが溢れてきて言葉にできないぐらいどうしようもないのだろうと思いました。私が馴染んでいるタイ文化には、「怒り」から「復讐心」に変わって、それを抑えられなくて笑い出したりすることがあり、たまにはそれを小説やドラマなどで見ることがありますが、こういう「悲嘆」から「笑い」に展開していく事例についてはなかなか経験したことがありません。そういう様々な現象を文化の一つとして、ここで「こころの文化」または「それぞれの国民のこころのあり方」と呼ぶことにしておきます。
人間の感受性と言葉との密接な関係
では、次に皆さんにこの絵をよくご覧になっていただきましょう。どのように見えるのでしょうか? 機嫌よさそうな顔に見えた方、機嫌悪そうな顔に見えた方、そのどちらもいるのではないかと思います。 そして、次の絵はどうでしょう? どんなふうに見えるでしょうか? こちらの方は、全体として合わせて見る大まかな見方と、部分的に細やかに見る見方がありますね。
この二つの絵は、江戸時代の「遊び絵」と呼ばれるものでよく知られています。最初の絵は、上下逆さまにして、それぞれ違う顔を表わす絵ですから「上下絵」と言いますが、後の絵は、複数の物を寄せ集めて別の物体を表現した絵なので「寄せ絵」と言います。 実は、これらの絵は、私が先ほどお話した「こころの文化」、あるいは「こころのあり方」を模擬したものであります。人間という生き物は、ある一つの能力を共有しているのですが、それは世界中のあらゆる物事に接した時に、それらによって様々な感情を生み出そうとする感性豊かな能力です。そういう優れた能力は、国籍を問わずすべての人間にあって、「感受性」における「普遍性」とも呼ばれています。
しかし、そういう人間の「感受性」における「普遍性」は、ある範囲、あるいは、あるフレームによって抑えられています。それはどういうものかというと、これからのお話の主題となる「言葉」という範囲の問題なのです。 先ほどお見せした二つの絵のように、同じものを体験していても、左の方から見るのに慣れている方と、右から見るのに慣れている方の両方がいらっしゃると思います。同様に、絵の構成の細やかな部分を把握できるという方もいらっしゃれば、大まかなものしか見えないという方もいらっしゃると思います。普遍的な人間の感情のようなものを「絵」にたとえるとしたら、皆さんの「それぞれの見方」は、それぞれのこころの文化の受け入れ方と同じようなものになります。今回の小さな実験では、少し自分の見方を変えてみれば違ったものがすぐ見えてくるのですが、実際にはその見方、あるいは世界観こそが、それぞれの言葉によって制約されているので、決して簡単には変えることができません。
少し哲学っぽくなってしまいましたが、言語学的に言い換えてみれば、人間は「言葉」という「フィルター」を通して、常にある決まっている方向に導かれ、人間の本来の感受性の能力があるにも関わらず、自分が毎日使っている「言葉」、いわば「文法」なり「単語」なり「表現」なり、それらの「フィルター」を通して、外界を当たり前のように感じ取るのです。
ですから、たとえ同じような物事を体験していても、人間はそれぞれの時代・それぞれの民族によって捉え方も違いますし、かりに同じような捉え方をしていても、その物事に対する表現・表出の仕方も違うものですから、それぞれの時代及び国民性という「フィルター」によって、「こころの文化」あるいは「こころのあり方」も違ってくるわけであります。
High Context Cultureとしての日本文化
Edward T. Hallというアメリカの人類学者は、あらゆる感情を明白に言葉や行動に出すLow Context Cultureの西洋文化に対して、日本文化を始めとして、東洋文化をHigh Context Cultureに分類しています1。なぜならば、後者の文化には「言葉を使いたがらず、状況などの文脈を重視する」という傾向が見られるからです。私自身は日本にはかれこれ一〇年以上も関係してきましたが、日本人には確かに「言葉」より「雰囲気」の方が好まれているように思います。
これについては、国語学者の阪倉篤義先生も言っておられます。つまり、物理を抽象的な理屈として理解するよりは、むしろ感覚的にとらえるということの方が日本人に向いているということです2。それを先ほど単純に「雰囲気」と言ってしまいましたが、正確に言えば、その「雰囲気」というのは、「その時のコンテクスト」「その瞬間の状況」ということで、たとえばこういう場面ならある決まった言葉を使う、こういう状況ならある決まった行動を取る、あるいはこういう流れであればある決まった感情を抱くというように、日本文化ではそれぞれのコンテクストによってやるべきことが既にほぼ決まっているのです。そういう「感覚的な捉え方」のやり取りにおいては、特に互いに言葉を交わす必要もなく、日本人同士であれば分かり合えるという日本人の誰もが共有している常識のようなものです。
言葉の面から見ても同じです。たとえば、こういう言葉は、ある決まった場面ではある決まった意味をもつけれども、それと違った場面で使うとまた違った意味になるという、一つの言葉の裏に複雑な意味を含める日本語も実に多いです。私は以前「やさしい」という語源と用法について研究しましたが、それにも日本人のHigh Context文化が表われていて、使う場面によって「思いやりのある人」という褒め言葉の「やさしい」もあれば、どれもこれもイマイチというような人に対しても、「やさしい人ですね」と言って、実は見下しているというような「やさしい」もあります。そういう意味のニュアンスの違いは、ただひたすら日本語を勉強して言葉の意味を暗記するだけでは、なかなか理解しがたいですね。
日本人の感情の表出とタイ人の感情の表出
実は私が生まれた故郷の「タイ」も、日本と同じように「こころ」を非常に大切にする文化を持ち、感性的な面においても大変繊細であるとよく言われています。ただし、長い間日本語を使って日本に住んできたタイ人の私に言わせれば、両国の文化は感情に対して繊細ないし鋭敏でありながらも、日本人とタイ人の間には外界との接し方や物事の感じ取り方、または理解の仕方などについてはずいぶん違っているように思います。
まず、タイ人は日本人のように自分の中に溢れる情緒を堪え、自閉的な態度を取って感情を表に出さないようなことはしません。もちろん、公共の場で西洋人のように率直に意見や感情を何もかもぶつけるという習慣もありませんが、自分の仲間同士であれば、うれしいならうれしいというし、悲しいなら悲しいと言葉にします。怒る場合にはちゃんと相手に伝わるように、率直な表現や行動で表わしてできるだけ自分が感じているものすべてを打ち明けることがタイ人の一般的な態度です。
それゆえに、タイ語の感情表現も非常に数が多いのです。日本人が怒る時に、たとえば「怒る、腹が立つ、頭にくる」など様々な表現が取り上げられるのですが、実際に怒る時には日本人はそれらの言葉を口にするより「沈黙」で表わすことが多いのではないでしょうか。その「沈黙」という表現は、日本文化においてHigh Context Cultureを表わす心のあり方の一つです。邦画のシーンにもよく出てくるように、「怒り」だけではなく、「愛情」や「憎しみ」などの表現としても決して少なくないでしょう。
しかし、タイ人の怒っている時は違います。タイ人はほとんどの場合、感情を堪えたりしないから、タイ語の怒り表現はそういうタイ人の怒りの程度に応じて、怒りの「度合い的」にも(どれぐらい怒っているのか?)「種類的」にも(どういう原因で怒っているのか?」、または「対象的」にも(誰を怒っているのか?)使い分けられているのです。たとえば、親や恋人など大切な人に自分の誕生日を忘れられた場合には、「ゴーン」と言って、機嫌をとってもらうために小さな怒りを自分の大切な人だけにわざと可愛く見せたり、仲のいい友達に仲間はずれにされたような場合には、「ノイジャイ」(心を縮める)と言って、寂しさを伴う少しの怒りを表わしたり、会議などで職場の同僚と議論が少しかみ合わない時には「クウアン」と言って、ちょっと気に障るという意味の感情表現を使ったりします。
このように、「言葉」というものは、感情を表わす「心のあり方」に、密接に絡んでいるということがお分かりになったかと思います。そこで、日本人がどういう世界観を持って物事を理解するかを知りたい時には、日本人を装って日本人らしい「日本語」という「フィルター」をかけて、世界を眺めることしかありません。逆に、自分が育った当たり前のような世界観から、一瞬でも抜け出そうとすれば、普段自分が使っている言葉の「フィルター」を取りはずして、たまにそれと違った「フィルター」をかけて、外国語などを通して世界を眺めることが良いでしょう。
ということで、これからタイムスパンが違った遥かな昔の日本語と、文化的にも思想的にも違ったタイ語という二つの「フィルター」をかけてみて、もしも自分が昔の日本人になったら、もしも自分がタイ人になったらと想像していただきながら、物事に対する新たな「心のあり方」を体験していきましょう。
「心のあり方」を表わすHeart Words─その(1)・・「気」の意味・概念
まず、皆さんに覚えていただきたい用語があります。人間の知的・情意的な精神を表わす言葉、つまり人間の「心のあり方」を表わす言葉を、ここでは「Heart Words」と呼びます。「Heart」または「ハート」というのは、皆さんもご存じの通り、日本語で言うと「気」または「こころ」という言葉に当てはまりますが、細かくみれば日本語における「Heart Words」は「魂」「霊魂」「情」「精神」それから、情意を表わす「感情」「心情」「気持ち」など数多く挙げられます。今回は、「チャイ」というタイ語の「Heart Words」と比較するために、日本語の「Heart Words」の代表として、日本人がもっともよく使う「気」と「こころ」の実体とそれぞれの用法を取り上げていきます。
では、「気」という語彙から見ていきましょう。日本人は「気」を使わずに一日過ごすことができないほど「気」を好んでいるとよく言われています。前林清和先生の『気の比較文化3』という本にはこういう面白い文章が書いてあります。「気」が何回登場したのか、どうぞ皆さんも数えてみてください。
「元気よく家を出たが、満員電車で気分が悪くなり、会社について気を取り直して仕事を始めたが、お客さんに気を使い、上司の気まぐれで怒られ気を落とし、夕方いつも気が合う同僚に飲みに行こうと誘われたが気が乗らず、家に帰れば気が休まる暇もなく、子供の遊び相手、近いうちに気ままな旅にでも出ないと病気になってしまうと気遣う妻と晩酌し、いい雰囲気になって気分転換。」
これほど頻繁に使う人はいないと思いますが、実際に毎日このような表現のどれかを使って日常生活を送っている人もきっと少なくないでしょう。
では、「気」とは一体何ものなのか、まず典型的な言語学の方法で国語辞典の記述を参考にしてみましょう。
『角川古語大辞典』
《名》 漢語。森羅万象の生命力発動の源泉となる、目に見えない自然の活力。また、人間その他、有情のものの肉体的、精神的な活動のみなもとをなす、内在的な心の働きをいう。
『日本国語大辞典』
《名》 一 変化、流動する自然現象。または、その自然現象を起こす本体。
二 生命、精神、心の動きなどについていう。自然の気と関係があると考えられていた。
三 取引所で、気配(きはい)の事。人気。
辞書の記述をさっと理解しようと思えば、とりあえず、「気」とは、はっきりと表わすことのできない実体不明の何かだというイメージが強いですね。そんな実体不明なモノではありますが、私もここにいらっしゃる皆さんも、きっとそんな目に見えない極めて曖昧な「気」の存在を感じることができるはずです。
以上の国語辞典における「気」の定義をまとめてみれば、「気」そのものの存在する場所によって二つの意味が説かれています。その一つは「自然に漂う気」で、もう一つは「人間の身体内部に生きる気」です。ご存じの通り、日本人は「気」という文字を中国から借り、その文字によって数多くの言葉を作り出しました。浅野裕一4は気の原義について次のように述べています。
『気』の原義は、水蒸気を指すと考えられる。このことは、『気』の概念について、様々な示唆を与える。水は温度差に応じ、氷(固体)→水(液体)→水蒸気(気体)と、性質を変化させる。そこで気の概念は、一定の形状に固定されぬ変化の性格を内在させている。すなわち、『気』は、固体にでも液体にでも気体にでも、自在に姿を変えられるのである。また水蒸気は、水面や地面から立ち昇り、雲になったり、雨や雪になったり、さらには河川の水となったり、湖沼の水となったり、地下水や土中の水分になったりと、姿を変えながら、天地の間を往来・循環する。そこで気の概念は、循環の性格をも内在させることになる。
一方、現代日本語においては、心理的作用としての「気」が多く用いられています。「気が重い」、「気がする」、「気が立つ」、「気が多い」、「気が置けない」、「気になる」などのような慣用的表現をいくつも思い浮かべられますが、たとえば「天気」、「気象」、「気化」、「換気」などのように、「気」が人間の精神的作用以外の、いわば物質的なものを指す語彙はあまり出てこないようです。ただし、「気」がこうした二面性を持つことは、現代日本語に限ってのことではないと竹田健二5は分析しています。
次に示すように、古くは『日本書紀』における「気」の中には、周王室の史官や陰陽流兵学が行った「気」の観測を彷彿とさせる形で説かれているものがある。
天に赤き気有り。長さ一丈余。形雉尾に似たり。(推古二十八年十二月)
天の暖なること春の気の如し。(皇極元年十一月)
『日本書紀』には、一方で気息を意味する「気」など、人間に関わる「気」もしばしば説かれている。「気」は日本でも古くから、人間の身体に関するいわば精神的なものであると同時に、天地自然の間に存在するいわば物質的なものでもあったのである。
なお、現代日本語においては、精神的なものの「気」が特に多いと見られます。また、そうした「気」の表現は実に多様であるのに対して、「気」がもつ天地自然の間に存在するものとしての面はあまり強く意識されていないのです。竹田は、近世以降の日本語で多様な形で説かれている「気」は、主として精神的なものとしての「気」であると記しています。人間の心の動きという意味に関しては、言うまでもなく、本来の意味を拡大発展させ、独自な意味として定着したものです。確かに、「気」という文字を中国から輸入したとはいえ、日本語としての「気」に加えられていった独自な部分は日本的な用法だと言えるでしょう。さらに、日本語に定着した「気」の大部分が精神を表示する事例で占められる現象は、心情を好む日本人の体質を見事に反映していると思われます。 『気の不思議6』では、日本人が使っている「気」の意味とそれぞれの例が次のように取り上げられています。1~4は一見して中国からの直輸入であることがすぐお分かりになるかと思いますが、7と8はもっと細かく分けることも可能で、日本語の「気」の使われ方の特徴を示しているものです。
万物の根本・・天地正大の気
1 自然の現象・・天気、気象、気候
2 物質、ガス体・・空気、水蒸気、気体、気化
3 生命力・・元気がある、精気あふれる
4 呼吸・・気息、気がつまる
5 意識・・気を失う、気が遠くなる
6 精神・・(1)(全般)気を静める、気がめいる (2)(傾向)気が短い、気が長い
7 心理・・(1)(全般)気がきく、気が散る (2)(意志)気をいれる、どうする気か (3)(関心)気がある、気を持たせる (4)(心配)気をもむ、気に病む (5)(感情)気まずい、気を悪くする (6)(注意)気をつける (7)(心地)生きた気がしない
8 全体的なムード・・山の気、火の気、その気
9 その物の特徴・・酒気、気のぬけたビール
「心のあり方」を表わすHeart Words─その(2)・・「こころ」の意味・概念
次に、「こころ」の方を検討していきましょう。「こころ」という語は、先ほど述べてきた「気」と異なって、中国から受容した言葉ではなく、もともと大和言葉であって、後から「心」という漢字に当てられた言葉です。 では、先ほどの「気」と同じように、まず国語辞典における「こころ」の意味から見てみましょう。
『角川古語大辞典』
《名》(1)人間の精神活動の根本となる、知・情・意の本体。精神。「身」「体」の対。(2)心の中。表面に現れない考えや気持。その時その時における心的状態。(3)思慮。心構え。分別。(4)なさけ。思いやり。親しみの情。ある個人に対して向けられる感情。(5)内々に心を寄せること。ひそかに情を通ずること。浮気をしたり内通したりする場合にいう。二心(ふたごころ)(6)つもり、下心。行動の基底に潜む意思。(7)性質。生れつき。(8)心底。本心。(9)意味。事のわけ。「なぞ」や「しやれ」の真意。(10)事情。内情。(11)風情。情趣。趣向。(12)物の道理。(13)たしなみ。(14)物の中心。手の中心を「たなごころ」というなど。特に池の中心をいうことが多い。(15)歌学用語。和歌の内容。(16)心臓。胸。胸先。
『日本国語大辞典』
【心・情・意】
《名》人間の知的、情意的な精神機能をつかさどる器官、また、その働き。「からだ」や「もの」と対立する概念として用いられ、また、比喩的に、いろいろな事物の、人間の心に相当するものにも用いられる。精神。魂。
一 人間の精神活動を総合していう。
二 人間の精神活動のうち、知・情・意のいずれかの方面を特にとり出していう。
三 人間の行動の特定の分野に関わりの深い精神活動を特にとり出していう。
四 事物について、人間の「心」に相当するものあを比喩的にいう。
五 人体または事物について「心」にかかわりのる部位や「心」に相当する位置をいう。
このように様々な国語辞典を調べてみても、非常に抽象的な性質を持つ「こころ」の実体をなかなかつかむことができません。とはいっても、私たちの解釈の問題だけではないようです。夏目漱石のあの有名な小説、「こころ」というタイトルも、タイ語訳版も含めて、様々な外国語版においては、明確な訳がつけられず、ローマ字で書いた「K-O-K-O-R-O」がそのまま使用されているのです。
『広辞苑』では、「こころ」が動詞の「凝る」、または「ココル」といった語源から来ているのではないかと推定されています。動詞の「凝る」はまた「ココル」ともいうのですが、その「凝る」という意味は、分散しているものが寄り集まってかたまるということです。たとえば、水から凝ったものを「こおり(氷)」というし、魚の煮汁などを冷やして凝固したものを「煮こごり」と呼んだり、さらには、日本の神話では日本のことを「自凝島」と言ったりして、「おのずから凝った島」という意味を表わしています。 それに従って、日本の「こころ」も「凝ってかたまったもの」として把握され、人間の「たましい」は、そもそも空気のようにふわふわと浮動していたのですが、それが次第に凝りかたまって、「こころ」の形が作られたのではないかと考えられます。
思想史では、「こころ」を問題にして、「純粋と無私のこころ」・「人の真心」というような様々な「良心論」が取り上げられていますが、その一つの例として、本居宣長(一七三〇―一八〇一)の「物の哀れを知る心」について少し触れておきたいと思います。
本居宣長によれば、「こころ」というのは、「物の哀れを知る」ものとして把握されています。要するに、宣長にとって「こころ」とは、ただ物事の「理性と智恵」を知るだけではなく、全的な認識で、「知ると感ずる」機能を果たしているものだと解釈されています。それこそが、「良くも悪くもただ生まれたままの心」・「自然のあるがままの心」あるいは「人間の生まれながらの真心」でもあると述べられています。
これは確かに現代日本人の「こころ」とは多少のズレがあるかもしれませんが、これから話していくタイ語の「チャイ」というタイ人の「心」に非常に似ている概念なのではないかと思われます。
「心のあり方」を表わすHeart Words─その(3)・・「チャイ」の意味・概念
「チャイ」という言葉は、日本語の「気」に負けないくらいタイ人に大変好まれています。私もタイ人の一人なので断言できますが、「チャイ」という言葉を使わずに、タイで一日過ごすことは本当に困難であるに違いありません。タイ人に不可欠なその物体は、現代日本語において「質的に」扱われている「気」と「こころ」とはかなりの違いが見られ、頭や胸・手足などという「身体の一部」と同じように「量的に」生き生きと把握できるものです。
「チャイ」が初めて登場したのは、タイ文字ができた十三世紀スコータイ時代からですが、その意味は長い間固定されていて、それから七〇〇年ぐらい経ちましたけれども、今でもほとんどの意味が変わっていません。タイでは十三世紀に「石に彫り付けた碑文」というものがいっぱい残っていますが、その十三世紀に刻まれたスコータイ時代の碑文に現れる「チャイ」の意味と、現在インターネットのブログやメール、またはチャットの世界に現れる「チャイ」の意味とは、ほぼ一〇〇%同じ意味を持っているのです。
タイの国語辞典を調べたところ、「チャイ」という語には次のような意味が取り上げられています。 人間の一部を成し、思ったり、考えたり、認識したりするもの。心臓。呼吸。(動物にも人間にもある)精神的な動き・情緒・感情・気持ちを感じるもの。(転義で)霊魂。または、物事の中心や重要部や心臓部 などという意味が説明されています。
要するに、「チャイ」というのは、日本語の「気」と「こころ」と異なって、「気持ち」、「感情」、「一時的な気分」という意味合いがまったく見受けられず、むしろ「それらの精神的な動きを感じ取るもの」、「人間と動物といった生き物の、すべての感情や思考を担う主体」であり、すなわち、宣長の言う「物の哀れを知る心」に近い性質を持っていると思われます。
生き物の身体の中で一番大切に扱われる「心臓」から派生した「チャイ」は、このように、「心臓病」や「深呼吸」という医学の専門用語から、「理解する」、「関心を持つ」などという理性的な認識を通って、「悲しむ」や「喜ぶ」などという感情表現まで、知的にも感情的にも幅広く使われています。
さらに、ぴったり相当する訳語が見当たらない日本語の「わび」「さび」と同じように、独特の文化の概念や、社会的な価値観を表わす用語としても用いられています。たとえば、「カムランチャイ」(=チャイの力)と言うと、「意志力」・「精神力」というような意味で、「ナムチャイ」(=チャイの水)と言えば、「人間らしい思いやり・心意気」という意味であったり、さらに、「クレーンチャイ」と言えば、「誰かに対して押し付けるのは気が進まない、または配慮しながら行動する」という意味で、日本語の「遠慮」や「気兼ね」というような意味に近いのです。
要するに、「チャイ」という言葉は、「理性より感情を重視するタイ文化」にとっても、仏教徒のタイ人にとっても、すべての人間に欠かせない要素で、人間の善意・悪意の元や、悟りの元など、一番重要な役割を果たしているものに他なりません。
英語の「Heart」、「Mind」との比較
そのついでに、英語のHeart Wordsにも触れておきたいと思います。英語の場合、Heart Wordsと言えば、「Heart」及び「Mind」という二つの言葉が思い浮かんでくると思います。日本語と同じように、精神状態を表わす時に、ほとんどの場合、この二つの言葉が使い分けられているのですが、英語の「Heart」と「Mind」は、日本語と異なって、それぞれの用法はかなりはっきりと区別されているようです。たとえば、「Heart」は、「broken heart」(=失恋する)や「kind-hearted」(=心優しい)などというような感情的で非論理的な意味を表わしているのですが、「Mind」は「make up your mind」(=決断する)、または「keep in mind」(=頭に入れる)という論理や分析的な意味を表現しているのです。こういった欧米人のHeart Wordsの分類は、どうやら十七世紀のThe Age of Reasonという「理性の時代」辺りから、左右に分かれる脳の分類とともに続けられてきたそうですが、そういう感情を果たす部分と論理を果たす部分にはっきり分かれる人間の精神的な働きというような思想は、日本人とタイ人の概念にはないようですね。その上、欧米の人々は東洋人である日本人やタイ人ほど、「Heart Words」の表現を幅広く、そしていろんな場面で精神活動を表わすこともあまり見られません。そういったことも、おそらく「感情より理性を重視する欧米社会」の一面を反映していると言えるのでしょう。
後半に入る前に、一旦「気」「こころ」そして、タイ語の「チャイ」という概念について、簡単にまとめておきたいと思います。まずは、単純なタイ語の「チャイ」に対して、日本語には、少なくとも二つの言葉の選択があります。つまり、「ハート」そのものが、日本語的な用法によって「気」と「こころ」に分けられています。ただし、日本語の「気」と「こころ」は、語源的な由来の違いがあるため、ある程度、機能的に分担して働いている英語の「Heart」及び「Mind」と異なり、その二つの語の境界線は非常に漠然としています。
それぞれのHeart Wordsの用法
では、日本人とタイ人の心のあり方をもう少し具体的に把握できるように、次にそれぞれのHeart Wordsの実例を検討していきたいと思います。
まず「気」と「こころ」をめぐる表現ですが、私は、今回古代から使われてきた「こころ」と中世頃に和語化された「気」を対象にして、十四世紀「室町時代」から「江戸時代」までの間に、複合語を除いて、「気」と「こころ」を使う表現のデータベースを作りました。その結果、「気」を使う表現は、合計二〇七例、「こころ」を使う表現は合計一五二例でかなり多数の例が見つかりました。
一方、「こころ」をめぐる表現は、古代・中世から近現代までの間に、あまり意味に変わりはなく、たとえば感情を動かすことや説得して相手の気を変えようとすることを「心を動かす(古代/中世)」と言ったり、心にしっかり覚えておくということを「心に留める(古代)」と言ったり、お互いに心の底まで知り合っている友達を「心の友(近世)」と呼んだりして、現代人の我々にとっても、字義通りに解釈することが可能であって、たいへん分かりやすい用法です。
それに対して、「気」をめぐる表現は、意味の拡大及び意味の変化がかなり激しくて、中世辺りでは、「気を伸ばす」、「気を直す」というように、極めて具体的で生き生きとした表現が多かったのですが、近世に入ると、そういう生き生きとした表現が徐々に消えてしまって、「気もそぞろ」、「気の毒」、「気になる」、「気は心」、「気が気でない」、「気で気が分からない」などという固定性が高い慣用句が増えてきました。 なお、本発表では「字義通りだから解釈しやすい」や「具体的で生き生きとした表現」など、言語学用語を時々使っていますが、それはどういう意味なのか、ここで一旦説明したいと思います。
たとえば、「気を伸ばす」という表現ですが、まず皆さんに「伸ばす」という動詞を想像していただきたいと思います。「伸ばす」と言えば、「足を伸ばす」・「手を伸ばす」というように、「足や手をまっすぐにして体を楽にする」という動作を思い浮かべますね。そこで、今ではもう使わなくなりましたが、室町時代によく使われていた「気を伸ばす」という表現の意味を当ててみてください。どういうことを指すのでしょうか。「気を伸ばす」ということは体の一部である「足」や「手」と同じように、「気をまっすぐにして気持ちを楽にする」という意味なのです。こういう意味を理解する過程が、「字義通りだから解釈しやすい」、あるいは「具体的で生き生きとした表現」などということなのです。少しお分かりいただけたでしょうか。
それでは、もう一つの例を挙げてみましょう。中世に使われた「気を直す」というのもまったく同じです。「テレビを直すこと」や「パソコンを直すこと」と同様に、「乱れた状態の気を何とかして、元の望ましい状態にする」という意味を表わします。こういう「気を伸ばす」や「気を直す」という動詞は、残念ながら現在にはもう使われていませんが、それぞれの表現がかなり具体的に感じられるから、現代人の我々にとっても、確かに分かりやすいですね。
しかし、近世から現代になっていくうちに、「気」という表現が少しずつ慣用的になってきてしまいました。たとえば、「気の毒」や「気もそぞろ」など、そして現在でもよく使われる「気になる」、「気にする」というように、かなり慣用度が高くて、字義通りに理解しようとしてもなかなかできません。たとえば、「気」にある「毒」がなぜ「かわいそう」という意味になるのか、あるいは「気」というものに「なる」ことでなぜ「心配する」というような意味になるのか、などなど、それぞれの語の意味と、全体的な意味とのつながりがあまりはっきり見られなくなりました。そういう表現は、言語学では、「慣用句」あるいは「イディオム」と呼びます。 一方、タイ語の方の「チャイ」というHeart Wordsはどのように使われているのでしょう。十三世紀のスコータイ時代からの歴史的な用法をすべて探ってしまうと、これもまたかなり長い話になりますので、その要点だけ述べておきます。
「チャイ」をめぐる表現は、七〇〇年前においても、現在においても、たいへん生き生きとしたもので、「質的な」性質を持つ現代日本語の「気」と「こころ」と異なって、その「チャイ」という実体は、「量的な」性質を持ち、かなり具体的に感じられるし、字義通りでも解釈しやすいものです。このような性質は、先ほど述べた古代及び中世の日本語における「気」と「こころ」に非常に似ていますね。
実際に使っている用例を見てみますと、たとえば、「チャイが膨らむ」と言えば「非常にうれしい」という意味であり、反対に「チャイが縮まる」、「チャイが枯れる」、「チャイが溶ける」というと、「非常に落ち込んでいる」、「非常に憂鬱になる」、「死にそうになるぐらい悲しい」という意味になります。
また、「チャイを固める」ということで、「むりやりに頑張る」という精神状態ですが、逆に「チャイを和らげる」というと、「やる気をなくす」という精神状態です。 「チャイ」とその感温性についても、いくつかの表現が挙げられます。たとえば、「チャイを焼いたり、熱くしたりする」と「心配したり焦ったり」する状態を表わすものが多いのですが、逆に「チャイを涼しくする」と「落ち着く」様子になったり、「チャイを暖める」と「安心する」という状態を表わしたり、「チャイにうるおいを与える」と「心配事から解放されてほっとした」という心理状態を表わします。 それに、積極的な動作を表わす「チャイ」もあります。たとえば、「チャイを緩める」とのびのびしたり、「チャイを寝かせる」と安心したりします。さらに、「チャイを洗う」と「辛い過去を忘れてリフレッシュな気分にする」というような意味で、「チャイを立てる」と「意志を立てる」ことになり、「チャイに入る」と「理解する」という知的な動作を表わす表現もあります。
また、「チャイ」という主体に、いろんな人の性質を表わすことも多いのです。たとえば、「壊れたチャイ」と言えば、「悪に染まって、元の良い性格に戻れない人」、「硬いチャイ」というと「頑固な人」、さらに、比喩的に、「ダイヤモンドのチャイ」と言うと「意志が強い人」、「石のチャイ」というと「思いやりのない人」というように、人の長期的な性質を表わすこともあります。
このように、タイ人に属している「チャイ」は、様々な精神活動によって、時には膨らんだり縮まったり、濁ったり湿ったり震えたり、さらに、対象語として熱くされたり冷たくされたり、和らげられたり固められたり、焼かれたりしているものだとお分かりになりますね。
では、ここでこれまで述べてきた「気」・「こころ」そして、「チャイ」という日本人とタイ人の言語学的な思想をもう一度まとめておきましょう。
中国から受容した「気」は、「こころ」そのものでもなく、体そのものでもありません。「気が合う」・「気が重い」というような「人間のこころの状態」を含めて、「万物の本源」、「生命のエネルギー」、「感情」、「気持ち」、「一時的な気分や機嫌」、「気質」など、実に多義性にあふれた言葉です。曖昧でありながらも、これほど幅広い意味をカバーできる「気」は、会話や文章において自分が感じることや、考えることなどを表わす時に、できるだけ自分を避けて客観的に表現したいという日本人の国民性には、非常に使いやすくてぴったりとした機能的な言葉なのではないかと思われます。
そういった機能的で使いやすい「気」に対して、もともと和語である「こころ」という言葉は、比較的に固定した意味で使われてきて、ほとんどの場合には「喜怒哀楽などの感情が宿るところ」、あるいは、「人間の道徳心」を表わしています。その固定性の強い性質のせいか、曖昧な表現が大好きな現代日本人にはあまり好まれていないようであり、古代から中世までは「気」より大いに使われましたが、近代になってからあまり表現として使われなくなり、現代日本語においては逆に曖昧に定義された「気」の表現の方がずっと多いようです。そういう傾向は、ある意味では、日本がHigh Context Cultureになっていく、つまり「言葉通りに理解できること」以上に「空気が読めること」も求めている現代社会を反映しているのかもしれません。
一方、タイ語の「チャイ」は、身体の中で一番大切に扱われる「心臓」という語源から派生したため、身体的な表現となって、「気持ち」、「感情」、「一時的な気分や機嫌」を表わすのではなく、むしろ「その精神的な動きを感じるもの」という意味が昔から明らかになっています。それにしたがって、タイ人が使っている「チャイ」というのは、先ほど取り上げた用例のように、「気」と「こころ」よりも具体的に感じられ、「チャイが疲れる」や「チャイが寂しい」という表現のように、体から別のものとして完全に動いている「内部の生命」あるいは「本当の自分」がそうであることを表わしたり、さらに、人間や動物の生命の元となる「霊魂」という転義まで使用されたりするのです。
おわりに
感情にあふれた日本人とタイ人には、感性的な面においてお互い情緒も豊富であるし、Heart Wordsを使った表現も実に豊かであると見られるにもかかわらず、これまで見てきたようにそれぞれの思考や情緒を表わす時、両言語の「心のあり方」あるいは「こころの文化」によって経験の仕方も表現の仕方も違ってきます。
ただし、皆さんに一つ大切なことを忘れないでいただきたいのです。それは、体験の仕方であれ表現の仕方であれ、そういう外界に接して物事を理解することが違うからと言って、感じていることそのものが違うわけではありません。「表現が違うのだから、感情や気持ちも当然違うのだろう」という考えは大間違いです。「Human nature is the same everywhere」(人情はどこの国も同じ)というように、それぞれの文化によって経験の仕方や表現の仕方が違っているとは言っても、人の感情そのものの根本的な要素、いわゆる人間の「感受性」というのはまったく普遍的なものであります。私は先ほど皆さんにタイ語の「チャイ」という感情表現の用例をたくさんお話しましたが、そういうような表現を今まで使ったことのない日本人の皆さんには、少し変わった表現だなと感じられるかもしれませんが、こういう表現をどういった情緒に使うのか、または用法の説明を聞いたら、そういう表現を使ったことのない会場の皆さんでも「なるほどな~」とよくうなずいていただけるでしょう。
要するに、タイ語の表現に現れる感情そのものはタイ人だけでもなく、日本人だけでもなく、人間の誰もが感じられるものであって、ただ自分が育てられてきた文化には、別の文化と違ってそういうような感情を言葉にする習慣がないということもあるし、あるいは、そういう感情を違ったような表現で表わすことも考えられるのです。たとえば、先ほど私は「チャイが縮まる」・「チャイが枯れる」という表現を取り上げましたが、日本語には確かに「気が枯れる」や「心が枯れる」などという表現が一般的に使われていないのですね。それはただ表現のことであって、日本人だって落ち込んだりやる気がなかったりするというような気分もあるし、そういう気持ちを表わしたい時だってもちろんありますね。そんな感情を表わすために、日本語では「しょんぼりする」または「気落ちする」と言います。もちろん、その両言語の表現の間には、様々なニュアンスがあったり表現に対する使用頻度や好みの差があったりするのかもしれませんが、同じものを違った角度からどのようにとらえようとするかという問題だけで、最初にお見せした江戸時代の二つの遊び絵と同じようなものです。細かいところまで見えてもあまり関心がないから、わざと大きな絵としかとらえようとしない方もきっといらっしゃるでしょうね。これは、「遠慮する」という言葉が存在しないという欧米社会のようなものです。何でも率直にぶつけることを大事にする西洋文化は、「遠慮しない」から、そういう言葉がないというよりは、むしろ「遠慮する」概念自体に、関心が届いていないから、言葉にする必要もないのでしょう。まったく雪が降らない暑いタイにおいて、「粉雪」や「ボタン雪」それに「吹雪」などといったような細かい言い方を使い分ける必要もないことと同じような現象です。
どの国の言葉も人間の「こころ」によって、お互いの「こころ」がある程度伝わるように作られたものであります。ですから、人間及び動物も含まれる生き物たちは、道具として作られた言葉と言葉で結ばれるというより、それぞれのあるがままの「こころ」と「こころ」で結ばれていると、私は信じています。そのような根本的なつながりによって、人間と人間においても、人間と動物においても、どんなに言葉の壁があっても、お互いの「こころ」に溢れている気持ちや思考は何らかの方法で通じ合えるはずです。
また、人間は確かに「言葉」という抽象的な「フィルター」を利用して、感情や思考を交わしている生き物ではありますが、決して「言葉」ばかりに頼っているわけではありません。もちろん、ある程度決まっている規範でコミュニケーションを取らなければ誰も分かってくれませんが、先ほど述べたように「人情はどこの国も同じ」ということに基づいて、ぞれぞれの心のあり方が文化によって違うけれども、「こころ」そのものは、人間として共通しているものですから、自分の「こころ」から気持ちや思考を積極的に相手に伝えようとする意志さえあれば、「こころ」と「こころ」の文化がどんなに違っていても、きっと相手の「こころ」に伝わると思います。
他者のこころを大事にする「思いやりの文化」、それに自分のこころを大事にする「自尊心の文化」、それこそが経済や政治の発展よりも、「美しい国」に向けて、日本が目指すべき国のあり方なのではないでしょうか。そんな願いを込めて、今日の講演を終わりにしたいと思います。
ご清聴、ありがとうございました。
注
1 Edward T. Hall (1976) Beyond Culture. Anchor Books.
2 阪倉篤義(一九七八)『日本語の語源』講談社。
3 前林清和、佐藤貢悦、小林寛(二〇〇〇)『〈気〉の比較文化│中国・韓国・日本』昭和堂。
4 浅野裕一(一九九六)「中国における「気」の概念」『日本語学』第15巻7月号。
5 竹田健二(一九九六)「『気』の原義と「気」の思想の成立」『日本語学』第15巻、7月号。
6 池上正治(一九九一)『「気」の不思議』講談社現代新書。
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