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◆文化 言葉

2018-07-05 17:55:27 | 文化

◆雪村庵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/雪村庵
雪村庵(せっそんあん)は、郡山市西田町大田字雪村(三春町に隣接)にある庵。室町時代の画僧雪村が晩年、当地を活動の処としたとされる。
歴史
建築年不詳。現存する建物は、後世に再建されたもの。
1658年(明暦4年)、三春藩主秋田氏の菩提寺の僧侶一元紹碩が当時の古老から雪村が晩年に隠棲していた地であることを聞き、庵の扁額に書き残している。また、三春藩主秋田盛季に願い出て、雪村の死後に荒れ果てていた庵を再建し、桜梅山 雪村庵と名づけた。
なお、当地周辺は元々「李田」(すすもだ)という地名だったが、後に「雪村」と改称されている。
1968年(昭和43年)、本尊とされていた木造大日如来坐像(仏師乗円の作と考えられる)が県指定重要有形文化財に指定される。しかし、1980年(昭和55年)に盗難に遭う。
境内
正面にはそれぞれ、「雪村桜」、「雪村梅」と名づけられたシダレザクラと梅の古木があり、桜の名所の一つに数えられている。また、庵の左手にある小道は裏の竹林の中にある、雪村の墓と伝えられる花崗岩の大きな石に通じている。
 
◆◆雪村庵 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/
雪村(せっそん、永正元年(1504年)? - 天正17年(1589年)頃)は、室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称す。
略歴
常陸国部垂(茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族の長男として生まれる。
近くの下村田には雪村が筆を洗ったと伝えられる池がある。
本来なら長男として家を継ぐはずだが、雪村の父は他の妻の子を跡取りとしたため(『本朝画史』)、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に入って修行する。雪村周継の「周」の文字は夢窓派の通字で、雪村も同系統の僧の下で禅僧の修行を積んだと考えられる。
同寺は佐竹氏の菩提寺で絵画をはじめとした多くの寺宝を所蔵し、これらの作品は雪村の画風にも影響を与えたという。
 
◆切子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/切子
切子(切り子)(きりこ、キリコ).
・立方体の角を落としたもの。
・紙等で作られる仏前用・お盆向けの灯籠(灯篭)のこと。切子灯籠。
・ガラス加工・工芸の工法であるカットグラスの和名。切子ガラス。江戸切子、薩摩切子など。
・金工・鉄工・プラスチック・金型製作などの旋盤加工時に発生する、切れ・削りクズ・粉のこと。 → スクラップ#ダライ粉を参照。
 
◆薩摩切子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/薩摩切子
薩摩切子(さつまきりこ)は、薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)である。薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれた。現在は復刻生産されている。
 
◆「薩摩切子」斉彬が育て島津興業が復刻した美
http://fujimaki-select.com/ext/artisan/015.html
江戸時代、篤姫の養父であった島津家28代当主・島津斉彬が育てた美術工芸品「薩摩切子」。一時は幻となっていたその匠の技が、島津家の末裔である島津興業によって復元したのが1985年。再び動き出した歴史の中で、伝統を継承しつつさらなる進化、発展を遂げる「島津薩摩切子」が描く色彩美とは――。
 
◆江戸切子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸切子
江戸切子(えどきりこ)とは江戸末期に江戸(現在の東京)で始まったカットグラス工法のガラス工芸・ガラス細工である。伝統工芸に認定されているガラス工芸品・地域ブランドの一つ。
 
◆江戸切子協同組合 | 江戸切子公式 |
https://www.edokiriko.or.jp/
江戸切子協同組合は、江戸切子をはじめとするガラス加工業に従事する事業所・職人の振興と発展をはかり、美しさと品質を追求したガラス工芸品として江戸切子の伝統を長く継承、育むことを目的としている協同組合です。江戸切子公式。
 
Q
薩摩切子との違いは何ですか
A
どちらもカットグラス(切子)技法ですが、歴史的な背景を受けて表現が異なりなります。
 
「江戸切子」
天保5年(1834)江戸で始まる。途絶えず現在に続いております。素材は透明なガラスと色を薄く被せたも色被(いろきせ)ガラス。カットは深く鮮明で正確であり仕上がりがはっきりとして華やかである。
 
「薩摩切子」
幕末に薩摩藩で始まり、明治初めには途絶えてしまいました。現在は昭和後期に始まった復刻復元生産によるものです。主に色被ガラスを用いたカットガラス。厚い素材に切子をしており、色被せガラスへの加工部分が「ぼかし」と呼ばれるグラデーションの仕上がりとなる。
 
Q
切子の色はどうやってつけますか
A
表面の色は、色被せ(いろぎせ)といって色を成形時に付けて頂いています。 二重構造になっていて、外側は厚みの薄い色ガラス、内側に透明などの厚みのあるガラスとなっています。このため後から塗っている物ではありません。ガラスの色は、ルリはコバルト・濃い赤は銅・明るい赤は金など溶かしている金属に由来します。
 
Q
ソーダガラス製とクリスタルガラス製の違いはなんですか
A
ソーダガラスとは主原料の珪砂にソーダ灰と石灰等を混ぜて作られたガラスで、軽くて丈夫という特徴があります。一方、クリスタルガラスは酸化鉛等が混ぜられたガラスで、屈折率が高く、透き通るような透明感があり、 重厚感のある重みも特徴のひとつです。ただ、キズがつきやすいので取扱に注意が必要です。
 
◆集成館事業 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/集成館事業
集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)は、薩摩藩第28代当主島津斉彬によって起こされた日本最初の洋式産業群の総称をさす。
時代背景
島津斉彬が集成館事業を開始するに至るまでの時代背景として、その当時、中国でのアヘン戦争(1840~1842年)などでイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国がアジア各地で植民地化を進めていた事が挙げられる。
アヘン戦争については、魏源が著した海国図志(1843年初版)などの書籍が日本に輸入されていたため、日本でもその実情はかなり正確に知られていた。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていった事に、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。
そのアヘン戦争前後から、当時薩摩藩の支配下にあった琉球へ異国船が度々来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。島津斉彬が藩主に就任する1851年には、しきりに異国船が琉球に来航するようになっていた。
藩政改革とお由羅騒動
そうした時代状況の中で、藩主就任前の島津斉彬は、日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵、殖産興業をスローガンに藩政改革を主張していたが、藩内では資金が掛かり過ぎることが問題視され、財政再建論と富国強兵論で藩論が二分される状況となって、藩主交替の際のお家騒動(お由羅騒動)に発展した。
斉彬の藩主就任と集成館事業
このお家騒動を経て1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。
特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、殖産興業の分野まで広がっている点が他藩と一線を画す。
1858年に斉彬が亡くなった後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、1863年の薩英戦争においてイギリス海軍と交戦した薩摩藩は、集成館事業の重要性を改めて認識し、集成館機械工場(現尚古集成館)、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の近代化に貢献した。
主な事業
雲行丸(日本初となる蒸気船の建造)
産業遺産
鹿児島市内における3資産の配置図
集成館事業のうち、製鉄・造船に関わる機械工場、反射炉跡など3資産が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されている。
旧集成館
旧集成館反射炉跡(仙巌園内)
旧集成館機械工場(尚古集成館)
旧鹿児島紡績所技師館(鹿児島異人館)
寺山炭窯跡
関吉の疎水溝
関連項目
尚古集成館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%8F%A4%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8
尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)は、鹿児島県鹿児島市吉野町にある博物館である。薩摩藩第28代当主島津斉彬によって始められた集成館事業の一環として、1923年5月22日に開館した。現在は島津興業によって運営され、島津家に関する史料や薩摩切子、薩摩焼などを展示する。本館は1865年に建てられたもので、国の重要文化財である。仙巌園に隣接する。日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物。
2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する「旧集成館」の機械工場として世界遺産に登録されている。
 
◆ウランガラス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウランガラス
ウランガラス(Uranium glass)とは、極微量のウランを着色材として加えたガラスである。美しい蛍光緑色を呈する。ヨーロッパが発祥で、食器やさまざまな日常雑貨が作成された。
 
◆長谷川利行 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/長谷川利行
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
1891年に京都府京都市山科区で伏見警察署の警察官であった長谷川利其(としその)、テルの五人兄弟の三男として生まれる。家族構成や出生日はいくつかの説があり、はっきりとしていない。和歌山県有田郡広村(現広川町)の私立耐久中学校(現県立耐久高校)に入学し、文学を志し同人誌などを発行するも、1909年に中学校を中退し、当時は歌や詩に興味を持ち、1919年には「長谷川木葦集」という私家版の歌集を発行している。1921年に上京するも、しばらくは大衆小説などを書いていた。

いつ頃に絵を始めたか不明であるが、独学ながら非常に速筆で、1~2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまう。自身の「アトリエ」を持たず、「思い立ったら絵を描く」スタンスを生涯続けた。帝展や二科展に落選を重ね、1923年の第1回新光洋画会展にて「田端変電所」が初入選する。
 
◆瑛九 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/瑛九
瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、日本の画家、版画家、写真家。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。本名、杉田秀夫。QEiとも自署した。浦和画家として有名。
 
◆飛脚 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛脚
飛脚(ひきゃく)は、信書や金銭、為替、貨物などを輸送する職業またはその職に従事する人のことである。佐川急便の商標でもある。単純な使い走りとは違い、事業が組織化されているのが特徴である。
 
◆大昔の通信手段・飛脚は速かったの? 東京から大阪まで飛脚になって手紙を届ける
https://time-space.kddi.com/kddi-now/tsushin-chikara/20170710/2034
2017/07/10
飛脚というものがある。江戸時代頃から活躍した、今でいう郵便屋さんのような存在だ。
新幹線も飛行機もない時代に東京ー大阪間を最短3日で手紙を届けていたという。
棒の先に箱をくくりつけた、妙に前傾姿勢な飛脚の絵などは誰もが見たことがあるのではないだろうか。
ただ、果たして本当にそんなに早く手紙を届けることが可能だったのだろうか?
東京から大阪まで、たったの3日間で到着するなんて考えられない。絶対にキツいはずだ。
 
◆江戸~大坂間の飛脚の料金は最高で140万円だった!? - 江戸時代
http://www.edojidai.info/kurashi/hikyaku.html
江戸時代には郵便物を運ぶのは飛脚の仕事でしたが、江戸から大坂までの速達料金が驚きの金額だったのです。当時の郵便事情をお話します。
 
◆竜切手 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/竜切手
竜切手(りゅうきって)とは日本で最初に発行された郵便切手である。1871年(明治4年)旧暦3月1日に発行されたが、この日は現在の太陽暦では4月20日であるため、この日を含む一週間を現在では切手趣味週間と指定している。「竜切手」という呼称は、図案が雷紋と七宝の輪郭文様の中に向かい合った竜が描かれていることにちなんでいる。
 
◆切手 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/切手
切手(きって)は、郵便事業で行われる諸々のサービスの、料金前納を証明する証紙である。郵便物に貼って差し出されることが多いため、郵便切手とも呼称する。また宣伝媒体として用いられたり、古銭・紙幣や骨董品と同様に趣味の収集対象(切手収集、郵便趣味)となったりする。
日本における切手
日本で最初に発行された切手は、1871年(明治4年)4月20日に発行された竜文切手であり、48文、100文、200文、500文の計4種である。この当時はまだ通貨改革が行われていなかったため、江戸時代の通貨による額面表示がなされていた。翌年の1872年(明治5年)には「銭」の単位に変更された竜銭切手が発行(ちなみに同切手は日本初の目打付切手である)された。なお、前者2つを併せて竜切手と呼称する。1883年(明治16年)には「円」の単位が表記された切手が発行された。
 
◆[PDF]日本最初の切手 竜文切手 - 郵政博物館
http://www.postalmuseum.jp/publication/description/docs/kaisetsu_ryumon.pdf
日本最初の切手に郵便切手が発行されのは、
 
◆日本で1番最初の切手はいつ発行されたの? | ゆうびん.jp
https://yu-bin.jp/kitte/trivia/04/
切手にまつわるちょっと気になる雑学や知識をご紹介します。
明治4(1871)年4月に発行された『竜文切手』が最初です。この切手は図柄に太政官札(日本で初めての全国通用の政府紙幣)で用いたのと同じ竜をあしらってあったので『竜文切手』と呼ばれています。
 
◆郵便 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/郵便
郵便(ゆうびん)とは、郵便物を送達する(送り届ける)制度のことである。また、郵便物のこと。
日本の郵便の歴史

日本において通信制度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した「大化の駅制」とされる。この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚の出現となり、戦国時代には大名の書状送付に飛脚が利用されるなどを経て、徳川時代(江戸時代)に幕府の整備により武家や町人が利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達した。その後明治時代に入り、飛脚は郵便に移行してゆく。

1858年の日米修好通商条約により、締結国が開港地に領事館を設置した。各国は公文書を蒸気船や軍艦に運搬させたが、自国民の手紙も便乗させた。いわゆる領事館郵便である。やがて中には業容を拡大し、独立の局舎を設けて専任の従業員を抱えたものもある。そのような在日外国郵便局を、英米仏三国が横浜・兵庫・長崎にもっていた。在日局は各国の郵便ルールに従っていた。切手販売、手紙引受、押印という基本的な機能は十分に果した。横浜の居留地ではサザーランド切手が使われた。

1870年(明治3年)5月、駅逓権正となった前島密は、太政官に郵便制度の創設を建議した。しかし、同年6月に前島が上野大蔵大丞に差添し渡英したことから、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲と各地の官史に引き継がれた。

1871年(明治4年)1月24日に「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」、「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公布され、4月20日(旧暦3月1日)、東京〜京都〜大阪間に現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設された。布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じたものであった。
 
◆前島密‐日本郵政
https://www.japanpost.jp/corporate/founder/
前島密(1835年から1919年)
越後国(現在の新潟県)に生まれ。享年84歳。「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という信条どおり、近代化が進む日本でまさしく陰ながらより便利でより快適な暮らしの方法を提案し続けた。肖像画は、明治末ころのもの。向かって右えりに勲二等瑞宝章のバッジ、左えりには当時の貴族院議員記章が描かれています。

明治のはじめ、日本に郵便の仕組みを築いた前島密(まえじまひそか)。「日本近代郵便の父」と呼ばれ、現在でも1円切手の肖像として有名です。

前島密は郵便の創業者としてその名を不動のものとしていますが、郵便関連のほか、江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたります。
 
◆九谷焼 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/九谷焼
九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器である。
古九谷
「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである。
 
◆志野焼 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/志野焼
志野焼(しのやき)は、美濃焼の一種で、美濃(岐阜県)にて安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物。赤志野や鼠志野などいくつかの種類があり、同じく美濃焼の一種である瀬戸黒とともに重要無形文化財に指定されている技法や、岐阜県の重要無形文化財に指定されている技法がある。
 
◆椿椿山 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/椿椿山
椿 椿山(つばき ちんざん、享和元年6月4日(1801年7月14日) - 嘉永7年7月13日(1854年8月6日))は江戸時代後期の日本の文人画家である。江戸小石川天神に生まれる。主に花鳥画、人物画を得意とした。 名は弼(たすく)。字は篤甫(とくほ)、通称を忠太、亮太。号は椿山の他に、琢華堂(たくげどう)、休庵、四休庵(しきゅうあん)、春松軒、碧蔭山房(へきいんさんぼう)、羅渓、琢華道人(たくかどうじん)。
 
◆洛中洛外図小屏風
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/ua/publication/pdf/ml_02_02.pdf
【洛中洛外図小屏風らくちゅうらくがいずこびょうぶ). 3. 洛中洛因小屏風風. 成立 江戸前期. 大きさ たて106cm, 横281cm. せき). きりはく. 「たなび. せん. 本図は、右隻に三十三間堂から知恩院に至る東山一帯を、左. 隻に金閣寺から松尾大社に至る北山・西山を配 ...
 
◆レオナール・フジタ (藤田嗣治) | ポーラ美術館
http://www.polamuseum.or.jp/collection/highlights4/
レオナール・フジタ (藤田嗣治) 《姉妹》. 1950年 油彩/カンヴァス 60.8 x 45.3 cm、85.5 x 69.0 cm(額寸). 展示中 フジタ自身の手による八角形の額縁に納められた本作品は、画家が戦後パリに戻ってまもなく描いたものです。画面の大半を占めるベッドの上 ...
 
◆藤田嗣治
http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm
藤田嗣治(レオナール・フジタ)
Leonard(Tsuguharu) Foujita(1886-1968)

私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。
私は世界に日本人として生きたいと願う。
それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。
 
晩年フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名をとった)となった。あえてニ国籍を残さずフランスのみとし、「嗣治」の日本名を捨て去ったことには、日本との訣別の意味があっただろうことは想像に難く ...
 
◆上村松園 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/上村松園
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年(明治8年)4月23日 - 1949年(昭和24年)8月27日)は、日本画家。 本名は上村 津禰(うえむら つね、「禰」は「示」ヘンに「爾」)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 明治の京都下京に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた。1948年(昭和23年)女性として初めて文化勲章を受章。

子の上村松篁、孫の上村淳之と三代続く日本画家である。
 
◆古代中国の青銅器|開運!なんでも鑑定団|テレビ東京
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20101214/03.html
2010/12/14
世界的なお宝。
今から3400年くらい前の殷王朝の青銅器に間違いない。「斝(か)」といって酒を入れたもの。
三脚二柱一把手という基本形。
火の上に置いて酒を温めた。
依頼品はやや肉薄の銅質で、全体を埋め尽くす饕餮文(とうてつもん)は ...
 
◆聖徳太子絵伝 - e国宝
http://www.emuseum.jp/detail/100205/000/000
国宝
指定名称:綾本著色聖徳太子絵伝
秦致貞筆
はたのちてい
10面
綾本著色
189.2~190.5×137.2~148.2
平安時代・延久元年(1069)
東京国立博物館
N-1
 聖徳太子絵伝は、奈良時代に始まった太子への信仰をもとに、太子の事績を描いたもの。この絵は、もと法隆寺東院の絵殿を飾っていた障子絵で、江戸時代、屏風に改装され、さらに近年10面のパネル装にされた。記録によって、延久1年(1069)2月から5月にかけて、摂津国(現在の大阪府)の絵師、秦致貞が描いたことがわかる。当初の綾地や彩色が残る部分は少ないが、上代の大画面説話画の形式を十分に伝えている。
 画面は、太子の生涯の60近い事蹟を選び、それぞれに、銘文を記した色紙形が貼ってある。右方に飛鳥地方、中央に大きく斑鳩宮(いかるがのみや)での場面、左端に四天王寺、難波、中国を描いた壮大な構図に、太子の事蹟と背景の山水とが融けあっている。
 現存する聖徳太子絵伝では、本絵伝が最古で最大の遺品である。
 
◆『六角堂』 紫雲山 頂法寺|聖徳太子創建、いけばな発祥の地 - 池坊
https://www.ikenobo.jp/rokkakudo/
京都の街中に佇むお寺、六角堂のホームページです。紫雲山頂法寺『六角堂』は、聖徳太子創建の寺であり、いけばな池坊発祥の地でもあります。西国三十三所と洛陽三十三所それぞれの巡礼地にもなっており、六角堂には日々たくさんの参拝者が訪れます。
 
◆京都府にある紫雲山頂法寺(西国三十三所第18番札所)の別名。
 
◆頂法寺 (紫雲山頂法寺から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA
頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。西国三十三所第十八番札所。正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。
 
◆炉縁(ろぶち)
http://verdure.tyanoyu.net/robuchi.html
http://verdure.tyanoyu.net/img/robuti.jpg
炉縁(ろぶち)とは、炉の炉壇の上にかける木の枠のことです。
炉縁は大別して木地縁と塗縁があります。
木地の炉縁は、一般的に小間に用いられます。
初期の炉縁は、木地の「沢栗(さわぐり)」で、利休時代の名工として、「久以(きゅうい)」、「長以(ちょうい)」、「半入(はんにゅう)」などの名が知られており、それぞれに刻印を用いています。
当時の木地縁は、使うたびに洗ったので「洗い縁」とも呼ばれ、水に強い沢栗材が用いられました。
他に、黒柿、縞柿、桑、桜、紅梅、松、桐、杉などさまざまで、北山丸太や皮付丸太等の丸太物や、鉄刀木(たがやさん)、花梨などの唐木、社寺の古材を仕立てることあります。
木以外に竹を使用することもあり、角竹を使ったもの、木地に胡麻竹や煤竹を貼りつけたものもあります。
炉縁に漆を塗った「塗縁」は、無地と蒔絵にわかれ、塗縁は一般的に広間(四畳半以上)で使用し、桧材真塗を正式としますが、あらゆる漆加工が使用されています。
塗には、真塗、溜塗、掻合塗、朱塗、青漆、布摺、春慶、荒目などがあります。
蒔絵も、好みによって各種の文様が施されます。
炉縁の寸法は、外法で一尺四寸四方、高さ二寸二分五厘、天端一寸二分五厘、面取二分五厘を原則とし、田舎間の場合一尺三寸四方、また好みにより違いがあります。

『南方録』に「草庵の炉は、初は炉の寸法定まらず、紹鴎、利休、くれぐれ相談の上、大台子の法を以て万事をやつし用て、向炉一尺四寸に定めらるるなり」 「紹鴎、四畳半に炉ありといへども、いまだ炉の広狭定らず、釜の大小に随て切しなり。休公と相談ありて、二畳敷出来、向炉隅切に台子のカネを取て、一尺四寸の炉を始られ、その後四畳半にも、いなか間四畳半には一尺三寸、京畳には一尺四寸なり」とあり、千利休が永禄12年(1560)の堺の茶会で用いています。
『茶道要録』に「春は洗縁を用ゆ、陽気〓(ほこり)を挙る故に見て悪し、故に用、客毎に洗ひて用べし。沢栗の目通を以て作る。冬は塗縁を用ゆ、洗縁の古びたるを掻合に漆塗て用。是侘なり。又不侘人は真塗を用。是は檜地也。径一尺四寸四方、幅一寸一分、高さ二寸也」とあります。
『茶道筌蹄』に「炉縁 炉の寸法、往古は一尺五寸六分もあれども紹鴎より一尺四寸に定む、利休も此方を用ゆ、今は此寸法也、六尺三寸の畳の九つ割二つ分也」「真塗 利休形、檜木地、台目四畳半にもちゆ」「木地 利休形、沢栗也、当時ははだつをもちゆ、台目向切時により四畳半にもちひても不苦」「掻合 昔のわび人は木地をかき合にぬり用たれども原叟西脇氏の席にて初めて好れしより形のものとなる、木地さは栗也、四畳半台目に限る」「丸太 利休妙喜庵炉に好む、すぎの丸太面を皮にて残すこと六分しめて一尺三寸四分也、炉壇は七分也」「松の木 啐啄斎好、溜すりうるし、何の色にても用ゆ」「利休堂 仙叟このみ、すぎ木地あらめ黒掻合せ左さし、利休堂は二畳中台目也」「高台寺 このみなし、太閤御用にて高台寺にありしを浪花の板屋へ伝来す、今津田氏所持、黒菊桐蒔絵あり」とあります。
『茶道古事談』に「炉緑、利休時代迄は四畳半の炉には真の塗縁、四畳半よりせまき座敷には栗のあらひ縁を用ひて、冬春の分ちなりし由、然に中比より冬はぬり縁、春は洗ひ縁といひ、又一説には片口・面桶もあたらしく、木地を用れは、口切には洗ひ縁、春に及んてはぬり縁を用ゆともいふ、一概には諭しかたしとなん 」「炉縁の作者は久以と云もの、利休時代の上手にて、今に称し用ゆ、代々同名なり」「秀吉公御好みの炉ふちに、真塗に金粉にて菊桐の御紋をちらし書にせし縁もありしとなん」「紹鴎の比まては炉の広さ一尺五寸七歩半四方なりしか、余りひろ過て見苦しとて紹鴎一尺四寸四方に切初しより、今に其寸法を用ゆとなん」「伏見の御城出来せしうち、山里の御すきや、四役半と二畳(半)とは一切の木みな沈香にて作らせられ、炉ふち迄も外の木は用ひさりしとなん」とあります。
『茶式湖月抄』に「炉縁の事 沢栗、利休。桑、遠州。丸太(杉はかり)、宗旦。あらめ、仙叟(玄室方利休堂に有)。洗縁、好不知(木地縁ずいぶん古方よし)。四畳半以上は塗縁を用(木地新敷は四畳半以上広座敷に春大ふくなどに用ひてよし)。右以下は木地縁を用、冬春の差別なし」「利休炉縁 大さ一尺四寸。高さ二寸二分 よはし。厚一寸二分。めん巾三分半。うら入は四分に二分。一寸八りん」とあります。
 
◆茶道具の種類 - 炉縁(ろぶち)とは | 茶道具辞典
http://chadougu.net/robuchi/
2014/05/30
炉縁(ろぶち)とは
さりげない「おもてなしの心」を表す炉縁

炉縁とは、炉の上にはめ込む枠物で、茶道具の一種です。
炉縁の役割は畳に炉の火気が伝わらないようにはめ込まれているものですが、炉周りの装飾としての役割もあります。
どの茶道具もそうですが、茶道具一つ一つには道具としての役割があり、場を引き立たせ、茶道という世界を作り上げて客人をもてなそうとする装飾としての役割があります。
炉縁というほんの些細な枠の部分にさえ、茶道の心意気を感じる事が出来るのです。
炉縁を観賞するのはもちろんの事、一つ一つの茶道具によって作り上げられている茶の湯の世界も感じてみましょう。
骨董品でも丈夫な作りの炉縁

骨董品というと脆くなっていたり、傷んでいたりと劣化が気になる事が多いのですが、炉縁であれば、例え木地タイプ骨董品であっても安心して購入する事が出来る為、骨董品初心者にもお勧めです。
もともと、炉縁は使うたびに洗われていましたので、洗う事を前提とした丈夫な素材選びと作りになっているのです。
木地の炉縁にはたくさんの種類があり、黒柿に桑、桜に紅梅に松、桐や杉、さらに唐木や社寺の古材木など様々な仕立てがありますが、どれも水で洗えます。
例え骨董品であっても、飾る為ではなく使う為に購入出来るとして、炉縁はとても人気があるのです。
炉縁は木地よりも塗縁の方が扱い難い

炉縁には木地タイプのものだけではなく、塗縁のものもたくさんあります。
塗縁タイプの炉縁には無地と蒔絵が施されているものと二種類あり、塗には春慶や荒目、溜塗に掻合塗、さらに朱塗に真塗と、木地と同様に塗縁にもたくさんの種類があります。
塗縁タイプの炉縁は木地よりも扱いが難しく、紫外線や乾燥によって劣化が進みますので、きちんと保管しておかなければ使い物にならなくなってしまいます。
特に骨董品の塗縁を購入した場合は、保管と扱いには十分注意しておきましょう。
 
◆粟生屋源右衛門(あおや げんえもん)
http://wwr7.ucom.ne.jp/and-taku2629/kutani-guide-aoyagenuemon.html
粟生屋源右衛門(あおや げんえもん、寛政9年~文久3年(1797~1863))は、若杉窯において本多貞吉の指導を受け、「青九谷」と呼ばれる九谷焼の様式を研究し続け、古九谷の再興に大いに貢献をした陶工であった。
 
◆粟生屋源右衛門 あおやげんえもん
http://turuta.jp/story/archives/561
九谷焼の陶工。
加賀国小松(石川県小松市)の陶工粟生屋源兵衛の子。
陶法を若杉窯の本多貞吉に学び、1822年(文政五)に小松で製陶を始めました。
また江沼郡吉田屋窯および松山窯の主工でありました。
天保(1830-44)の末、能美郡蓮代寺(小松市蓮代寺町)および吉竹村(同吉竹町)に窯を開いましました。
また別に一種の楽陶をつくりその巧妙な技術は独特でありました。
作品の種類は硯箱・炉縁・机・長板・箪笥・組重などで、これらはちょうど木工品のような趣があります。
この種の作品のほとんどは銘がありませんが、まれに父の陶号である「東郊」の押印を用いたものもあります。
また物理を応用した自動噴水器・水時計などの作品があります。
1863年(文久三)没、七十三歳。
門下から松屋菊三郎・北市屋平吉・板屋甚三郎・九谷庄三らが出て近代九谷第一の名工といわれました。
その子栄五郎は青木の姓を名乗り、父の様式を学んで楽焼を巧みにしました。
なお源右衛門の生まれた年を1789年(寛政元)、没年を1858年(安政五)とする説もあります。
『大成陶誌』『九谷陶磁史』
 
◆アンディ・ウォーホル - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンディ・ウォーホル
アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月6日 - 1987年2月22日)はアメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。本名はアンドリュー・ウォーホラ(Andrew Warhola)。
 
◆シルクスクリーン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/シルクスクリーン
シルクスクリーン(Screen printing)は、孔版画の技法の一種であり、インクが通過する穴とインクが通過しないところを作ることで版画の版を製版し、印刷する技法である。シルクを使うかどうかにかかわらず、孔版画の技法のうちメッシュを使うものは全て、この項目で説明する。
 
◆高麗青磁 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/高麗青磁
高麗青磁(こうらいせいじ)は、朝鮮半島の高麗時代(918年 - 1391年)に製作された青磁釉を施した磁器である。
 
◆高麗青磁 - 世界史の窓
https://www.y-history.net/appendix/wh0403-031_4.html
朝鮮の高麗で発達した陶磁器。
 こうらいせいじ。高麗の代表的な工芸品である青磁は11世紀頃に宋の青磁の影響で製造が始まり、13世紀の元の支配下の高麗で発達した。青磁の青は朝鮮の空の青さを写したものだとも言われ、その独特な美しさは他に例を見ない。それは高麗の陶工が、原料の土、うわぐすり、焼き方を工夫して生み出したものである。前期のものは模様がほとんど無いが、後期になると象嵌で風物を描いたものが主流になる。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.112> → 陶磁器

参考 柳宗悦の朝鮮陶磁器論
 朝鮮の民芸に深い愛着をもっていた柳宗悦の文に次のような高麗青磁と李朝の陶磁器を比較した一文がある。

(引用)朝鮮ものは大体から言って二つに分れる。高麗のものと、李朝のものと。前者の美しさは早くも宋の時代に支那でも認めたものである。青磁の秘色はまたとない麗しさがある。技術の方を見る人々は、誰もこの時代の青磁を一番だという。それに細かな象嵌の手法や美しい鉄絵等が進んできて、その歴史を賑やかに飾った。高麗のものは繊細である。線の微妙さは讐えようもない。それほどに進んだものだと言える。だがこれにつれて弱みが加わってくる。遂には果しない情まで誘う。国の弱さや無常の教えがここまで導いたのだと思える。高麗の品は女性的である。
 だがこれに比べると李朝のものは幅(ひろ)さかおる。時代が変ると共に教えも仏教から儒教にうつる。曲線が直線へと転じてくる。際立った対立である。種類の変化は李朝に来るとずっと多い。ある人はこの時期で、焼物が下落したかの様にいう。繊細な技巧だけを見る人々にこの見方が多い。だが美しさの方から見ればそう簡単には言えない。<柳宗悦『朝鮮とその芸術』所収「朝鮮陶磁号序」1932>
 
◆菱田春草 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/菱田春草
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。明治以降の日本画家としては一番重要文化財が多く指定されており、最も人気の日本画家の一人。
 
◆横山大観 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/横山大観
横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。
 
◆下村観山 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/下村観山
下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。
1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市に生まれる。8歳のとき東京へ移住。最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業後、同校で教えていたが、1898年に岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。
1906年、天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し画業を深めた。1917年6月11日、帝室技芸員となる。
1930年 死去。
 
◆岡倉天心 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/岡倉天心
岡倉 天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。
横浜の本町5丁目(現・本町1丁目、横浜開港記念会館付近)に生まれる。福井藩出身の武家。
 
◆朦朧体 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/朦朧体
朦朧体(もうろうたい)または、縹緲体(ひょうびょうたい)は、明治時代に確立された没線彩画の描絵手法。
名称の由来
日本画の新しい表現の試みであったが、明瞭な輪郭をもたないなど理解されず評論家からは悪意をもって呼ばれた。
岡倉覚三(天心)の指導の下、横山大観、菱田春草等によって試みられた没線描法である。洋画の外光派に影響され、東洋画の伝統的な線描技法を用いず、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した。絵の具をつけず水で濡らしただけの水刷毛を用いて画絹を湿らせ、そこに絵の具を置き、空刷毛で広げる技法、すべての絵の具に胡粉を混ぜて使う技法、東洋画の伝統である余白を残さず、画絹を色彩で埋め尽くす手法などが用いられた[1]。
影響
西洋絵画の浪漫主義的風潮を背景とした造形と正面から対峙し、日本画に近代化と革新をもたらしその影響は大きい。
 
◆没骨/朦朧体 | 現代美術用語辞典ver.2.0 - Artscape
http://artscape.jp/artword/index.php/%E6%B2%A1%E9%AA%A8%EF%BC%8F%E6%9C%A6%E6%9C%A7%E4%BD%93
没骨(もっこつ)は東洋絵画の技法のひとつで、筆線でくくった輪郭を用いずに、モチーフの形態を直接に彩色または水墨で描くもの。 朦朧体は明治期の日本で試行された日本画の画風で、空気や光線などを表現するために、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いるもの。
没骨は中国北宋の花鳥画家・徐崇嗣の作品を特徴づける技法として評されたのが語の初出とされる。この技法は、当時の宮廷画院の主流であった鈎勒(モチーフの形態の輪郭を筆線でくくる技法)による花鳥画とは対照的な、新しい造形表現として成功を収めた。没骨はその後、常州花鳥画と呼ばれる地方流派、藻魚図や蓮池水禽図などで用いられるようになる。明末には、六朝の張僧繇や唐の楊昇が没骨の着色山水を描いていたとする認識に基づき、倣古作として没骨の着色山水が描かれた。清初には惲寿平が、没骨を駆使して自然主義的な花鳥画の制作を行なった。 一方で朦朧体は、岡倉天心の指導のもと、横山大観や菱田春草ら日本美術院の画家たちが、西洋画風の大気描写を日本画の新しい表現として実現させるために始めた実験。こうした試みは、混濁した色彩による曖昧模糊とした画風や、当時は日本画を東洋絵画たらしめる前提と認識されていた墨線を否定したことが批判され、日本では非難と揶揄も込めて「朦朧体」「縹緲体(ひょうびょうたい)」などと評された。しかし大観らは、琳派などの古美術研究や、欧米滞在中の西洋絵画学習などを契機に、水彩的表現をとることで朦朧体の色彩混濁を解決し、その後は筆線よりも色彩を重視する方向性を洗練させ、明治末頃には琳派的な新画風を創出していった。朦朧体の典型的な作品には、横山大観《菜の葉》(1900)、菱田春草《王昭君》(1902)などがある。

著者: 太田智己
 
◆せきひん【赤貧】
何一つ所有物がないほどの、ひどい貧乏。
 「―洗うがごとし」

●方言 ちゃんめろ など その他言葉

2018-06-28 20:28:54 | 文化

◆ちゃんめろ=ふきのとう
小谷ではそう呼びます。 業界用語ではメロチャンです。
 
◆方言で”ちゃん”は雪を割る。”めろ”は一番先に食べられるという意味があり、それでちゃんめろと語源がついた。
 
◆長野県北安曇郡小谷村
http://www.vill.otari.nagano.jp/www/menu.html
 
◆小谷村 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/小谷村
小谷村(おたりむら)は、長野県の村。「特別豪雪地帯」で大規模スキー場を多く抱え、冬はスキー客で賑わう。

日本の旗 日本
地方
中部地方、甲信越地方、信越地方
都道府県
長野県

北安曇郡
 
◆カネボウヒューマンスペシャル ちゃんめろの山里で 市原悦子 菅原文太
https://youtu.be/dsrFb4Vb4eA
Austin Haruka
2018/04/28 に公開
1993/02 柳生博、風間トオル; 脚本 松原敏春; 原作 山岸昭枝
 
◆もん‐なし【文無し】.
1 《「一文無(いちもんな)し」の略》所持金が全くないこと。また、そのさま。無一文。「競馬で負けて 文無し になる」
2 《それ以上の文数はないところから》並み外れて大きな足袋(たび)。12文(約28.8センチ)以上の大きな足袋。
 
◆2017年8月09日11時29分 ~ - 阿修羅
http://www.asyura2.com/archives/17/08/09/other/1129.html
2017/08/09
多分芋だろう(それも国産で無く安い海外もんと思うけどね). でもこれを福島近隣の栽培許可ギリギリ地帯から ..... 中村狢 ムジナはずんぐりしていて手足が短い、コトバンクの説明通りの写真です。狸の一族は人を騙すと昔からの定説です。
 
◆はずれ はづれ [0] 【外れ】
①はずれること。 ? あたり
②中心から離れている所。また,ある範囲を出た所。 「村の-」
③言葉や動作のはしばし。物腰。様子。 「 -ゆたかに細く/浮世草子・一代男 6」
◆は ずれ [0] 【葉擦れ】
草や木の葉が,風などですれあうこと。また,その音。 「 -の音」
 
◆刀剣用語解説集
・文(もん)
金工作品においては、赤銅魚子地などの地板に、金無垢地などで別彫りした図像や家紋を据文象嵌した彫像を指す。時代の上る小柄笄の地板が破損した場合には文の部分のみを取り外し、新たに造った地板に据え直すことがあり、これに伴って極め銘が刻された例も多くみられる。この場合には紋□□と原作者の名称が刻され、さらに地板の作者あるいはこれを極めた者の署名と花押が〇〇(花押)と刻される。後藤家の作品を中心として多くみられる。据文部分が金無垢地の場合には、特にこれを金文と称する。
・紋(もん)
茎の上部に、銘文に添えて刻する紋は、古くは後鳥羽上皇が自らの作刀に記した菊紋(菊御作)にみられるが、新刀期に入ってから紋を刻する刀工は増え、その種類も急増した。井上真改や伊賀守金道の菊紋、康継の葵紋、主水正正清及び一平安代の一葉葵紋、幕末では烈公の菊紋(変わり菊紋あるいは時計紋ともいわれる)の他、枝菊紋・裏菊紋・牡丹紋等、多くの紋がある。
・紋(もん)
太刀拵に装着されている鐔や縁頭等の金具に高彫あるいは据文された紋は、所持者の家紋のみならず葵紋・桐紋・菊紋が多い。これは糸巻太刀拵が天皇家や将軍家からの恩賞品として用いられたり、贈答品とされたことによるもの。金具類の紋の数は定められてはいないが、総計百二十前後が最も多く、鞘に描かれた紋は奇数、また鞘には紋を入れない例も多い。
 
◆隠語大辞典
・もん
1.巡査部長以上ノ警察官吏。〔第二類 人物風俗〕
2.巡査部長以上の警察官を云ふ。
3.巡査部長以上の警察官。
 
・もん [1]
〔「もの(物)」の転〕
物。つねに連体修飾語を伴って用いられる。 「そんな-早く捨ててしまえ」 「人の言うことは素直に聞く-だ」 「冷や汗-だ」 〔近世江戸語以降の語〕
・もん [1]
〔「もの(者)」の転〕
人。つねに連体修飾語を伴って用いられる。 「店の若い-」 「誰かおれについて来る-はいないか」 〔近世江戸語以降の語〕
・もん [1] 【文】
〔呉音〕
①昔の貨幣の単位。一貫の千分の一。
②〔もと、一文銭を並べてはかったことから〕 足袋や靴の大きさの単位。一文は約2.4センチメートル
③字。文字。 「常住といふ二つの-を聞くに、即ち天に生まる/三宝絵詞 下」
④文章。文句。 「紫の朱うばふことを悪むと云ふ-を御覧ぜられたき事ありて/徒然 238」

呪文じゆもん。経文。 「活々の-を唱へ/狂言・磁石」
・もん 【門】

[1] ( 名 )
①家の外構えやある敷地に設けた出入り口。かど。 「 -を閉める」 「 -をくぐる」 「公園の-のところで待っている」
②物事が出入り、また経由する所。 「入試の狭き-を突破する」 「登竜-」
③ある師をとりまく学問・芸道などの一派。また、その系譜。 「漱石-の俊秀」
④生物分類上の一段階。界の下、綱の上。脊椎動物門など。 → 亜門
⑤「門限」の略。 「いやもう、直に帰らう、-がやかましい/洒落本・辰巳之園」
二( 接尾 )
助数詞。大砲を数えるのに用いる。 「四六センチ砲九-」
[句項目]
門に入る ・ 門を叩く
・もん [1] 【悶▼】
ひどく苦しみ悩むこと。もだえ。 「心に快とし-とするの感覚は/日本開化小史 卯吉」
 
◆だわもん (福井の方言) とは。だわもんを標準語に変換。面倒くさがり。 ちっとも仕事せんと、だわもんやな(ちっとも仕事をしないで、面倒くさがりだなあ)
 
◆だわもん | ジャパ国語福井 | 方言、新語、造語なら | げんごや.com~使える ...
http://gengoya.com/hukui/item_3843.html
ざいご :: ちゃまる/... ≫ げんごや.com > ジャパ国語福井 > ジャパ国語辞典 > だわもん. 皆様から投稿頂いた全国各地の方言を一挙大公開! ... だわもん. 意味. 怠け者. 用例. 用例の訳. ひとこと. 「だわこく」は怠ること.
 
◆げんごや.com > ジャパ国語福井
http://gengoya.com/hukui/
◆皆様から投稿頂いた方言と地方CMを都道府県ごとに公開中!◆
 
◆標準語風福井弁
https://youtu.be/ndkCYUqFQ_0
am2am2am2
2007/11/02 に公開
「竹人形殺人事件」津田寛治の標準語風福井弁
 
津田さん、標準語と地元の方言のせめぎあい。つらかったろうなぁ(^o^;)?
 
◆「幸福度」ランキング発表 1位は福井県、最下位は大阪府 2011.11.9
https://youtu.be/wqRRiA05Xt8
OntheWind1
2011/11/16 に公開
47都道府県の「幸福度」ランキング発表 1位は福井県、最下位は大阪府



「安全性」や「福祉の充実」などを数値化して、日本で最も幸せに暮らせる都道府県の順位が発表された。

法政大学の坂本光司教授が、47都道府県の「幸福度」ランキングを発表した。

「幸福度」は、生活や安全性、医療の充実度など40の指標で、1点から10点で評価したもの。

それを、47都道府県別に見てみると、栄えある1位は「福井県」だった。

福井県は人口およそ80万3,000人、東尋坊や越前ガニで有名。

2位は富山県、3位は石川県と、北陸3県が上位を独占した。

この結果に、調査を行った坂本教授は「正直驚いた。大都市圏の周辺が一番になるかなと思っていたから。

北陸の寒い県ですし、小さい県だし、出てくるのはすごく驚いた」と語った。

さらに驚いたのは、日本一幸せな県民となった福井県の人々だった。

福井県民は「わたし自身、幸せです。温かいところですね、やっぱり。ほかの人がいても親切です」、「環境がいいでしょう。食べ物おいしいでしょう。なるほどと思いますけど、1位になったのは」、「選ばれて当然だと思います。超幸せです!」などと語った。

福井県の幸福度が一番高くなった理由について、坂本教授は「子育てに関する指標が、ことごとく上位にランクされた」と語った。

「充実した子育ての環境」。

なんと福井県では、保育所の待機児童はゼロなうえ、一時保育も充実している。

一時保育を利用する福井県民は、「すごく助かっている。安心して預けられるので」、「仕事の合間とかに預けられるので、いいなと思います」などと語った。さらに、優れているのは、福祉だけではなかった。

坂本教授は「もう1つは、働くという指標です。企業に関する、労働に関する指標が、みんな高かった」と語った。

福井県には、世界に誇る企業がたくさんある。

ゴルフクラブのシャフトの装飾で世界ナンバーワンを誇る会社「アイテック」。

アイテックは、メッキ技術などで世界の最先端を走っている。

福井県は、犯罪や火災、事故なども少なく、安心して暮らせるところとなっている。

しかし、その一方、原子炉の数も日本一だった。

坂本教授は「原発に関するデータは、残念ながら、今回は取っていない。(原発が)あることによる、生活、将来の不安とか、そういうデータを入れれば、順位が変わるかもしれない」と語った。

優れた福祉などは、原発からの恩恵も少なくない様子。

そのほかの順位は、4位・鳥取、5位・佐賀、熊本、7位・長野、8位・島根、9位・三重、10位・新潟と、

トップ10は人口の少ない県が目立った。

続いて20位までは、11位・滋賀、12位・香川、13位・岐阜、14位・山梨、大分、16位・山口、徳島、18位・広島、

19位・山形、静岡。

岐阜県は、福利厚生はよかったが、安心・安全部門が低く13位だった。

30位までは、21位・愛知、22位・岩手、長崎、24位・岡山、25位・群馬、26位・栃木、27位・福島、愛媛、

宮崎、30位・茨城。

25、26位で、首都圏の群馬県、栃木県がお目見えした。

群馬県は、幸福度が全国平均となった。

40位までは、31位・奈良、32位・和歌山、33位・千葉、神奈川、35位・鹿児島、36位・宮城、37位・秋田、

38位・東京、39位・福岡、40位・青森。

下位の30位以下で千葉、神奈川が登場し、東京都はなんと38位だった。

41位以下は、41位・沖縄、42位・京都、43位・北海道、44位・埼玉、45位・兵庫、46位・高知だった。

下位グループでは、沖縄、京都、北海道などの人気観光地が並んだ。

そして、47都道府県中、最下位となったのは大阪府。

大阪府民は、「大阪1番違うかな? (最下位だが?)うっそー、なんで? 失礼やわ」、「ちょっと不満。

なんで最下位なん? ショックー」と怒り爆発。

最下位になった理由について、坂本教授は「安全、安心面で、例えば犯罪とか、この数字も非常に悪い数字が出ていました。このへんが全体を引っ張って、47番になった」と語った。
(2011/11/09 18:18)
http://www.fnn-news.com/news/headline...
 
コシヒカリは福井発祥。なんで新潟県が発祥って言われているかと言うとPRの力で負けました?
 
たしかに、コシヒカリは福井が発祥ですね。
しかし、新潟といえば、コメの生産量ナンバー1ですし、やっぱり、米=新潟と
いうイメージがあるんでしょうね。
北陸の地方分権、コメの生産量1位を新潟に譲ってもコシヒカリだけは、譲りたくありませんww?
 
最下位群に観光地が多いって事はちょうど魅力ある都道府県ランキングと逆になっていて面白い。要は遊ぶにはいいが住むのには適さないって事なのか。最下位群の近畿は京都兵庫大阪は在日外国人が多いところも関係していそうだ。
1?福井県 
2??富山県 
3??石川県
4??鳥取県
5??佐賀県
6??熊本県
7??長野県
8??島根県
9??三重県
??新潟県?
 
◆ちょっと怖?い福井弁!?狙うは秘密のケンミンSHOW福井県代表w
視聴回数 62,923 回
https://youtu.be/wgcWQ9xPpR0
かずえちゃん
2017/05/02 に公開
福井生まれ福井育ちYoutuberかずちゃん・えりちゃん・かずえちゃんの3人で福井弁講座をやってみました!
普段何気なく使ってた言葉が実は方言だった(笑)
標準語を話してるつもりでもなまってた(笑)
ゆる~い動画お楽しみ下さい^^

カズチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCVPz...

かずえちゃんのTwitter?
https://twitter.com/kazuchan1982
かずえちゃんのInstagram?
https://www.instagram.com/kazutabi/?h...
 
大阪でもお仏壇に向かって 「まんまんちゃんあん。」 って言うよ?。(´∀`)
香川県でも言うてたわ。 (*^_^*) 西日本では結構通用するのかも。(´∀`)?
 
父は東京都墨田区産まれです。伯父伯母も ぎっちょ、使っていましたね。
古語、かな??
 
福井に住んでるからめっちゃわかる笑 しかも普段使う?(笑)かずえちゃん!
"おちょきん"とか"内ズック"も福井弁なんだよ?(笑)?
 
訛っている、というのは「言葉」もありますが、主に「イントネーション」の事ではないでしょうか。
自覚しないイントネーションの違いって本当にかなり多くて、なかなか自覚できないうえに修正難しいみたいなんですよね。
けど、私はカズさんやかずえちゃんやえりちゃんのイントネーションすごく好きですし、変わってほしくないです!
とっても空気がほんわかする福井のイントネーション素敵だと思います。
ずっとそのままで居て欲しいなって思います!?
 
まんまんちゃんは滋賀でも言いますよー(^ー^)鯖街道でつながっているからかな??
 
嶺南が福井県になったのは、1881年から、明治以降、敦賀藩→鞠山藩→小浜藩→小浜県→敦賀県→滋賀県→福井県?
 
福井弁かわいい??和みます(笑)?
 
◆福井弁講座第二弾!彼氏とデートだとこんなのだよ編
https://youtu.be/6utTqPCjCmg
視聴回数 2,058 回
fukublo
2017/08/18 に公開
めちゃくちゃ緊張してますねww
■関連動画
「フクブロでアクセスの多い「福井弁」の記事を動画化!~カフェでの再会編~」https://www.youtube.com/watch?v=zuvtO...

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福井県でも、奥越に(ちなみに私は大野ですが)なるとちょっとイントネーションが変わってくるし、敦賀とかになると関西弁が入ってきますよね???
 
◆福井の方言をマスターしよう!福井弁講座vol.1
https://youtu.be/DbiVy39Zmu0
村上姉妹
2018/06/10 に公開
福井県出身のインスタグラマー、村上姉妹です♪

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俺も福井なんやって!
はじめましてやの!!
俺、福井で動画投稿やっつんてるんでーー、お互いがんばろっさ!!
ため口すみません。福井弁だとため口になっちゃいました?
 
◆福井の方言て可愛いの?福井弁講座vol.2
https://youtu.be/4UKhmGWO5fY
村上姉妹
2018/06/12 に公開
 
◆風情 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/風情
風情(ふぜい)は、日本古来存在する美意識の1つ。一般的に、長い時間を経て大自然によりもたらされる物体の劣化や、本来あるべき日本の四季が造り出す、儚いもの、質素なもの、空虚なものの中にある美しさや趣や情緒を見つけ、心で感じるということ。
またそれを感じ、心を平常に、時には揺さぶらせ豊かにするということ。
しかしながら「風情」とは個々人の生い立ちや教養や美意識の問題でもあり、一概にこれであると定義することはできない曖昧な言葉である。
また近年、典型例を挙げれば日本人が紳士の国イギリスに憧れを抱く如く、世界的ジャポニスムの流れによって「風情」に憧れを抱き日本を好きになる外国人も少なくない。
1. 独特の趣。味わい。また単に、けはい。様子。
 「―のあるたたずまい」
2. 《体言を受けて》 …のようなもの。
 「私―」
関連項目
わび・さび(侘・寂)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3
日本の美意識の1つ。
一般的に、質素で静かなものを指す。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。
 
◆日本の美意識 アーカイブ - 野村美術
http://nomurakakejiku.jp/lesson/japanese-aesthetics
掛け軸を学ぶ・日本の美意識
1. 概要
日本の美意識
「日本の美意識」は非常に多くの要素から成り立っており、それらが個々に独立しているのではなくお互いに関わりあって形成されている複雑なものである。自然観や風土、宗教などにも影響を受けており、日本人自身でもこれをはっきりと定義・認識する事は容易ではない。本章では「日本の美意識」の各要素を紹介し、少しでも理解するのに役立てるよう解説している。
日本の美意識: 各要素
TOP
日本の自然観

無常
もののあはれ
風情
風流

幽玄
禅と悟り
侘び寂び
渋い

かわいい

2. 日本の自然観
3. 和とおもてなし
4. 無常
5. もののあはれ
6. 風情
7. 風流
8. 雅
9. 幽玄
10. 禅と悟り
11. 侘び寂び
12. 渋い
13. 粋
14. かわいい
 
◆日本人の美意識
http://www.geocities.jp/oiroy61okeus/newpage27.htm
日本人の美意識   末木剛博氏 抜粋
は一般に「あはれ」といわれ『見るもの聞くこと、なす業に触れて、情の深く感じることをいうなり』と定義されている。またあわれは芸術全般の源であり、日本人の感情的、ものの考え方、美しく感じようとすることであり、日本の独特で特徴的なものである。平安時代には「あはれ」は多く哀の味に使われ,哀感が美意識の主位をしめていた。
この哀感に余情が加わると「幽玄」という宗教的な深い沈潜の情となり、ここに芸術の理想を見出そうとしてきた。一切の無駄や贅沢を排除した冷たく寂びた状態のなかに無限を感じるのである。「さび」は繊細な感覚でもののあはれを知ると同時に、事実への執着を離れて心を軽くしする。寂びは哀感の一つの淋しさからから生じる美意識で、淋しさを通して無限を感じ無限感で淋しさを癒す、そうした解放された軽さを楽しむ状態である。
 
◆美意識 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/美意識
美意識(びいしき、英: aesthetic consciousness、独: asthetisches Bewusstsein)とは、人が美しいと感じる心の働き。
美しいと感じる対象は個体差が大きく、時代、地域、社会、集団、環境などによっても大きく異なる。例えば、整然と並ぶものに美を感じるものもいれば、ランダムに並ぶさまに美を感じるものもいる。左右対称を美しいと感じるものもいれば非対称に美を見出すものもいる。無調を心地よいと感じるか否かなども美意識に関連している場合がある。
西欧では華美な装飾や対称の美しさを核とした人工の美をその美意識の中心においているが、日本人の美意識はむしろ自然と対立せず、寺社、庭園に見るように、自然に溶け込むこと、朽ちては再生するプロセスそのものへの馴染み、死をも敵対するものとしては捉えず、侘(わび)、寂(さび)に見るように朽ち果てゆくものへの素朴な同調などが基調になっている。
粋は江戸時代後期の文化文政期の町人の間に生まれた美意識である。
建築において、コンクリート打ち放しを美しいと感じるか否かなどは、近年問いかけられたテーマである。
世阿弥が「秘すれば花」と表現したが、日本人には全体的調和を重んじ自己主張を抑制し隠蔽することによって却って受け手の想像力を刺激し、日本人特有の奥深い表現を成しえるといった側面があるように、その国特有の文化、生活、歴史観などに大きく左右される部分が多い。あるいは、住んでいる環境・自然から受ける影響も大きいと考えられる。自然と対峙するか、自然と調和するかによって美意識は大きく異なる。
 
◆借景 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/借景
借景(しゃっけい)は、日本庭園や中国庭園における造園技法のひとつ。
概要
庭園外の山や森林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させて景観を形成する手法。
庭園外の自然物等についても庭園景観の重要な構成要素とするため、近年の都市開発に際して借景とする山そのものの開発やビルなどの高層建築の建設による景観の変化などについて、借景の破壊という面で紛争が生じることがある。
○.著名な借景庭園と借景とする背景
・修学院離宮(比叡山)
・円通寺の枯山水庭園(比叡山)
・天龍寺の曹源池庭園(嵐山・亀山)
・依水園(東大寺南大門・若草山)
・栗林公園(紫雲山)
・玄宮園(彦根城天守)
・足立美術館枯山水庭(勝山)
・仙巌園(桜島)
 
◆堪え性とは - 難読語辞典 Weblio辞書
「堪え性(こらえしょう)」を「たえしょう」と読んだ誤読に基づく、漢字間違いと見られる。
堪え性とは、苦しいことを我慢することのできる性質を意味する語である。
 
◆堪え性のない社会 - 学際知の地平
http://tribnia.hatenablog.com/entry/2015/12/11/120000
2015/12/11
僕自身を含めて、最近は堪え性のない社会になったように感じる。
注文してすぐに届く宅配などは、その過剰なサービスの代表的なものと思う。
インターネットを通じた会話でもすぐの返事を期待したり、「既読」になったのに返事がないと精神をを病み始めたり、鉄道が遅延すると公共の場でイライラを全開にしたり、駅員に食って掛かったりというシーンを見かける頻度も高くなった。
乗客の急病・転落や荷物挟まりなどで電車の遅延が発生したのは鉄道会社の責任ではないが、車掌は車内アナウンスで執拗なまでに「深いお詫び」を繰り返す。
これも下手に出て対応することで、リスク回避をしているのだろう。
体調がすぐれないのに電車に乗り続けたり、閉まりかけたドアに突っ込んで荷物を挟んだりという現象にもまた、堪え性のなさという原因があるのだろう。
 
◆堪え性がない人の特徴・鍛える方法・おすすめの仕事|若者 - TapBiz
https://tap-biz.jp/tap_cat_100402/tap_cat_100407/1050738
2018/04/13
堪え性がない人が増えていると言われていますが、本当のことでしょうか。
自分の子どもを見て、堪え性のある大人に育てたいと考えてしまうのでしょう。
それは難しいことですが、いろいろな対処法を考えることで状況を変えることができます。

◆こけおどし【虚仮威し】

2018-06-24 11:20:42 | 文化

◆こけおどし【虚仮威し】
[名・形動]愚か者を感心させる程度のあさはかな手段。
また、見せかけはりっぱだが、中身のないこと。
また、そのさま。「虚仮威しの文句を並べる」
 
◆【語源・由来・成り立ち】.
【意味】. 虚仮威し(こけおどし)とは、見せかけだけの脅し。
【語源・由来・成り立ち】.
虚仮威しの語源・名前の由来について、仏教では「虚仮」は外面と心の中が違うこと、いつわりの意。
一般に、思慮が浅い、愚かなこと、さらにばかの意となり、人をばかにすることを「虚仮にする」のようになった。
【使い方・。実例・用例】
*日韓を射程内とするノドンは、すでに実戦配備され「ソウルを火の海にする」という従来からの北朝鮮の主張は虚仮威しではない。
 
◆こけら落し - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%82%89%E8%90%BD%E3%81%97
こけら落し(こけらおとし、杮落し)とは、新たに建てられた劇場で初めて行われる催しのことである。
ただし、こけら落し公演は来場者数が多くなり、出演者も大物であることが多いことから、実際には公演に当たっての
手順を確認するなどといった名目でオープン後に複数の準備公演を実施してから正式なこけら落し公演をするケースが多い。
演目はそれぞれの劇場の特性に合わせた内容で、おおむね慶事の内容であることが多い。
「こけら(杮)」とは材木を削った際の木片のことであり、建設工事の最後に屋根などの木片を払うことが語源になっている。
転じて体育館、陸上競技場、球技場、野球場などのスポーツ施設が開場する際にも報道などで「こけら落し」と
表現される場合があるが、本来は劇場に用いる言葉であるため特に屋根のない屋外施設などでは誤用とされる。
歌舞伎発祥の言葉に、「こけら落しを見ると寿命が延びる」というものがある。
「杮(こけら)」という字は「柿(かき)」と同じに見えるが、「柿(かき)」は「木部五画(旁が「亠+巾」)」
なのに対し、「杮(こけら)」は「木部四画(縦棒がつながる)」である。
しかし、過去の文献によれば、両者は明確には区別されておらず、例えば『康熙字典』では逆になっており、
両方とも「柿(木部五画)」とするものや、両字は同じ字の別字体と説明するものもある。
これを根拠にして、JIS規格では「柿(木部五画)」が両方の字を包摂するものとしている。
これに対し、字典で区別されていないのは後の混同によるものであり、字義を考えれば「こけら」は「杮(木部四画)」で書くべきとする説もある。
 
◆杮落とし(こけらおとし) - 語源由来辞典
【意味】 こけら落としとは、新築または改築した劇場や映画館などで行われる初めての興行。こけら落し。
【こけら落としの語源・由来】
こけら落としの「こけら」とは、材木を削った時に出る切り屑のことである。
新築や改装の工事の最後に、屋根などの「こけら」を払い落としたことから、完成後の初めての興行を「こけら落とし」と言うようになった。
なお、「こけら」の漢字「杮」は「柿」と似ているが別字で、「柿」の旁(つくり)は鍋蓋に「巾」、「杮」は旁の縦棒が一本で貫かれており鍋蓋ではない。
過去には同一文字として扱われたり、逆になっていたこともあったが、現在は「柿落とし(かきおとし)」と表記するのは間違いである。
 
◆こけ
【虚仮】
1.心の中とうわべとが一致しないこと。偽り。
2.思慮の浅いこと。深みのないこと。ばか。 「人をこけにするな」
 
◆虚仮にする(こけにする) - 語源由来辞典
【意味】 虚仮にするとは、馬鹿にすること。あなどること。コケにする。
【虚仮にするの語源・由来】
虚仮にするの「虚仮」は、仏教用語。
「虚」は「虚妄(きょもう)」「偽り(いつわり)」を意味し、「仮」は「真」や「実」などに対して実体のないことを意味する。
つまり、虚仮とは「実の伴わないこと」「心や行為が真実でないこと」という意味で、転じて人を馬鹿にする言葉となった。

◆今日は何の日 6月24日は

2018-06-24 08:54:59 | 文化

◆今日は何の日 6月24日は「ドレミの日」 - INSIGHT NOW!
https://www.insightnow.jp/article/9332
2016/06/24
音階と楽譜の生まれた日を記念する「ドレミの日」です。11世紀初頭、
イタリアの修道士が讃美歌を覚えるために考えだしたのがはじまりでした。
11世紀の初頭、イタリアの音楽教師グイード・ダレッツォが、音階とそれを記録する楽譜の原型を作ったと伝わっています。
グイードはもと修道士だったため、聖歌隊がグレゴリオ聖歌を暗記するのに苦労しているのを見て、
音楽を覚えやすくする方法を考えたそうです。
彼は音楽教師向けのテキストを作り、五線紙の原型である四線上に音符を並べる記譜法や、
音階にド、レ、ミという覚えやすい名前をつけて、これを広めました。
 
◆6月24日
記念日
6月24日
・UFO記念日,空飛ぶ円盤記念日
1947年のこの日、アメリカで初めてUFOが目撃された。
アメリカの実業家ケネス・アーノルドが飛行機で移動中に、時速2700kmもの速度で急降下や急上昇を行っている
9機の見慣れない飛行物体を発見した。
アーノルド氏はこの物体を「空飛ぶ円盤(flying saucer)」と呼び、全米で報道されると、同様の目撃証言が相次いだ。
事態を重視したアメリカ空軍が、これを「UFO(Unidentified Flying Object:未確認飛行物体)」と名づけ、
調査に乗り出したが、正体はつかめず、1969(昭和44)年に「目の錯覚の類」との報告を出した。
この日、世界中のUFOマニアが一斉に観測を行う。
 
・ドレミの日
1024年のこの日、イタリアの僧侶ギドー・ダレッツオがドレミの音階を定めた。
この日に開かれる「洗礼者ヨハネの祭」の日の為に、ギドーが合唱隊に「聖ヨハネ賛歌」を指導し、
その曲の各小節の最初の音がドレミの音階ができる元になった。
 
・革命記念日 [タイ]
1932年のこの日、「立憲革命」と呼ばれるクーデターが起こり、絶対君主制から立憲君主制へ移行した。
 
・カラボボ戦勝記念日 [ベネズエラ]
1821年のこの日、「カラボボの戦い」でシモン・ボリバル率いる反乱軍がスペイン軍に勝利し、ベネズエラ独立が決定した。
 
・林檎忌,麦の日
歌手・美空ひばりの1989年の忌日。
ヒット曲『リンゴ追分』から「林檎忌」、「ひばり」という名前に因み、
麦畑が鳥のひばりの住処となることが多いことから「麦の日」と呼ばれている。
[Wikipedia]wikipedia - 美空ひばり
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
 
・五月雨忌
歌手・村下孝蔵の1999年の忌日。
ヒット曲『初恋』の歌詞と、五月雨(梅雨)の時期であることから「五月雨忌」と呼ばれる。
[Wikipedia]wikipedia - 村下孝蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8B%E5%AD%9D%E8%94%B5

ことば 方位関係

2018-06-20 13:14:14 | 文化
 
・吉方位
◆吉方(キッポウ)とは - コトバンク
デジタル大辞泉 - 吉方の用語解説 - 「恵方(えほう)」に同じ。
 
◆恵方(吉方)(えほう)とは - コトバンク
えほう【恵方(吉方)】
陰陽道(おんみようどう)で歳徳神(としとくじん)がいる方角。兄方,得方などとも書き,〈明きの方(あきのかた∥あきのほう)〉ともいう。その年の〈よろず良し〉という大吉の方角である。歳徳神はその年の干(かん)に当たる方角にいるとされるが,五行説では十干を陰陽に分け,甲丙戊庚壬を陽,乙丁己辛癸を陰とし,陽の干は陽徳といって徳があり,陰干は徳がないとする。そこで陰干はそれぞれ陽の干に割りあてられ,たとえば己(つちのと)の年は甲(きのえ)の方角,すなわち寅卯の間に歳徳神がいるとされる(図)。
 
◆節分(2018)の方角など恵方巻き派にも豆まきに派も役立つ情報大網羅
https://dash-dash-dash.jp/archives/5761.html
https://dash-dash-dash.jp/wp-content/uploads/2017/01/45aca0b88bc4dbb534dda4acab3c8d71.jpg
 
◆方位(ほうい)とは - コトバンク
方位   ほうい
地表上において,基準とした方向に対して,ある方向がどう向くかを示すこと。
通常,基準として子午線の方向を北・南とし,
これに垂直に東・西を定め (4方位) ,
中間に北東,南東,南西,北西をとる (8方位) 。
地上風向の観測に用いられる 16方位は,8方位の中間にさらに,
北北東,東北東,東南東,南南東,南南西,西南西,西北西,北北西の8方位を加えたもの。
古くは,
五行による
中央 (土〈黄〉) と
四方 (水〈黒〉=北,
木〈青〉=東,
火〈赤〉=南,
金〈白〉=西) ,
易による八方または八卦方位 (坎〈かん。北〉,
艮〈ごん。北東〉,
震〈しん。東〉,
巽〈そん。南東〉,
離〈り。南〉,
坤〈こん。南西〉,
兌〈だ。西〉,
乾〈けん。北西〉) ,
十二支による十二方,八卦と十干との一部を加えた二十四方など,
多くの分け方があり,それらに人事の吉凶を関連させた迷信もあった。
磁石によって南北を知ることは漢代の中国で始った。
古代の日本でも,地面に立てた垂直な棒の影が同長になる点を知って正確な南北を決める方位決定法が行われていた。
 
◆え〔へ〕【▽方】
[接尾]おおよその位置・方向・時間などを表す。…のあたり。…のころ。「行(ゆく)方」「古(いに)し方」→へ(方)
・がた【方】
[接尾]
1 人を表す名詞に付いて、複数の人々を尊敬していう意を表す。「先生方」「奥様方」
2 時に関する名詞や動詞の連用形に付いて、だいたいその時分という意を表す。「暮れ方」「明け方」
3 「かた(方)5・6」に同じ。
→達(たち)[用法]
・けた【▽方】
[名・形動ナリ]《「けだ」とも》四角な形。方形。また、かどばったさま。
「―なる形に作りたる円柱の廊」〈鴎外訳・即興詩人〉
・ほう〔ハウ〕【方】
1 方向。方角。方位。「西の方」「駅の方へ歩く」「声のする方を見る」「九州の方に行く」
2 部門・分野を漠然と指す語。その方面。また、指し示すものをあいまいにするために使う語。「将来音楽の方へ進みたい」「その方では有名な人だ」「父は防衛省の方に勤めています」「近ごろおうちの方はいかがですか」「薬の効果の方はいかがなものでしょう」
3 二つ以上あるもののうちの一つをとりあげてさす語。「黒い方が好きだ」「もっと味を濃くした方がいい」「こちらの方が悪かった」
4 どちらかといえばこちらだという部類。「性質は臆病な方だ」
5 物のやり方。しかた。方法。また、処方。
「あの場合ああでも為(し)なければ―が付かないんだもの」〈漱石・門〉
6 四角。また、正方形の一辺の長さ・距離を示す語。「方形」「方100里」
「―三間ばかりの狭き法廷」〈木下尚江・良人の自白〉
[補説]2から派生して、表現をあいまいするためやぼかすために付ける、意味のない語としても用いる。「お料理のほうをお持ちしました」「お荷物のほう、お預かりします」
1990年代半ばくらいから若者の間にはやりだした。多用する話し方を「ほう弁」という。→とか →的
 
◆方違え(カタタガエ)とは - コトバンク
陰陽道おんようどうの説により平安時代以降行われた風習。外出の際、目的地が禁忌の方角に当たる場合、前夜に別の方角に行って泊まり、方角を変えてから出発したこと。また、作事などが禁忌の方角に当たる場合に、いったん他に宿泊してその忌を他所に移したりした。院政期に最も盛んに行われた。かたいみ。かたたがい。 → 方塞かたふたがり
 
◆方角(ホウガク)とは - コトバンク
1 ある地点をもとにして、東西南北で表した方向。「北の方角」
2 吉凶にかかわる方位。「方角が悪い」
3 そのもののある方向。「火事は家の方角だ」
4 考え方の方向。見当。「違った方角から考えてみる」
5 事をする方法。やり方。てだて。「和解させる方角が立たない」
→方向[用法]
 
◆恵方・吉方・兄方(えほう)とは - コトバンク
陰陽道おんようどうで、その年の干支えとに基づいてめでたいと定められた方角。その年の歳徳神としとくじんのいる方角。明きの方。きっぽう。 ⇔ ふさがり [季] 新年。
 
◆吉(キチ)とは - コトバンク
縁起がよいこと。めでたいこと。きつ。「吉か凶(きょう)かを占う」⇔凶。
 
◆恵方参り(エホウマイリ)とは - コトバンク
元旦に恵方にあたる社寺に参詣して、その年の幸福を祈ること。恵方詣で。《季 新年》「めでたさや―の酔ひ戻り/秋桜子」
 
◆恵方(えほう)とは - コトバンク
甲(きのえ), 寅卯の間、甲の方位, およそ東北東, 下一桁が4の年. 乙(きのと), 申酉の間、庚の方位, およそ西南西, 下一桁が5の年. 丙(ひのえ), 巳午の間、丙の方位, およそ南南東, 下一桁が6の年. 丁(ひのと), 亥子の間、壬の方位, およそ北北西, 下一桁が7の年.
 
◆生気(ショウゲ)とは - コトバンク
1 陰陽道(おんようどう)でいう吉の方角。正月を子(ね)として十二支を順次に12か月に配当し、これを八卦(はっけ)の方位に当てて、その人のその年の吉凶を定める。生気の方(かた)。
2 「生気の色」の略。
 
・三方良し(サンボウヨシ)とは - コトバンク
《「さんぽうよし」とも》
「売り手良し」
「買い手良し」
「世間良し」の三つの「良し」。
売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。
近江商人の心得をいったもの。
 
・干(カン)とは - コトバンク
横笛の指孔の一。6指孔の笛では1番先端に近い穴、7指孔の笛では先端から2番目の穴。
 
・毘沙門天(びしゃもんてん)とは - コトバンク
仏像の四天王の1つで,北方の守護神。四天王がそろっているときは多聞天といい,独尊のものを毘沙門天という。
インド神話のクベーラが仏教に取入れられたもの。
須弥山の第4階層に住し,可畏,天敬,衆帰の3城の城主。密教では十二天の1つ。
形像は普通武将の姿で,2鬼を踏み,忿怒相をとり七宝荘厳の甲冑を着用する。
片手に宝叉,片手に宝塔を持つ。四天王像としては法隆寺金堂の『多聞天像』が古く,
単独では鞍馬寺本堂の『毘沙門天像』 (平安時代後期) ,高知雪蹊寺の『毘沙門天像』 (湛慶作,鎌倉時代) などが著名。
日本の民間信仰では七福神の1つでもあり,福徳を司る神として広く信仰されている。
 
◆歳徳/年徳(トシトク)
1 「歳徳神」の略。
2 歳徳神のいる方角。明きの方。恵方(えほう)。
 
・鬢曽木(びんそぎ)とは - コトバンク
古くから、
乳児は誕生直後に髪を剃(そ)り、
2、3歳になって髪を伸ばし始めたのであるが(これを髪置(かみおき)という)、
女子の場合は4歳ごろになって髪の末をそぎ、美しい髪を願う深(ふか)曽木(髪(かみ)曽木)という儀式を行うことがあった。
その後、女子の年齢が16歳に達したとき、鬢の先を切って成年に達したことを示す儀式が鬢曽木である。
年齢の変化とともに髪形を改めて成年のくぎりとする点は、男子でいえば近世の元服に対応するものがあるが、
史料上も室町時代以前にはみえないようである(古くは着裳(ちゃくも)が成年の儀式として重要だった)。
碁盤の上に女子が吉方(えほう)を向いて立つことなど、
大略は深曽木の儀に同じであるが、6月16日に行うものとし、許嫁(いいなずけ)の夫や、父兄が鬢親を務めた。
その際、饅頭(まんじゅう)に孔(あな)をあけ、そこから月を見る儀式があったため、月見という異称もある。[杉本一樹]
 
・歳徳神(トシトクジン)
陰陽道(おんようどう)でその年の福徳をつかさどるとされる神。
この神のいる方角を、明きの方(かた)・恵方(えほう)といい、万事に吉という。
年によって方角が違う。
年神(としがみ)。
《季 新年》「あばらやも―の御宿かな/一茶」→恵方
 
・八方位(ハッポウイ)とは - コトバンク
八つの方位。東・西・南・北と、北東・北西・南東・南西。
 
・ほん‐めい【本命】
1 競馬・競輪などで、優勝の第1候補。「本命馬」⇔穴馬。
2 選挙戦などの最有力候補。「次期社長の本命」
3 俗に、その人にとっての第1候補。最も望んでいる対象。「本命の大学に合格する」「本命チョコ」
4 ⇒ほんみょう(本命)⇔生まれた年の干支(えと)。ほんめい【本命】。
 
・祐気取り(ゆうきとり)
「祐気」とは良い気のことで、開運のために「祐気」を取り入れること。
 太極(自宅)からみて、吉方位に引越しや旅行などをすると良いとされている。
「砂取り」・「水取り」・「花買い」などが、「裕気取り」の一種として挙げられる。
 
・方殺(ほうさつ)の言及
【方位】より
金神(こんじん)も凶方で遊行するとされ,その方位への旅行や普請などを忌む。
九星術(九星)や気学に由来する本命,的殺,五黄殺,暗剣殺,歳破,月破は方殺といい,日の吉凶の判断などに使用された。
方位には禁忌が伴うので,吉方に位置を変えて行事をする方違(かたたがえ)も行われている。
 
・三奇六儀(さんきりくぎ)
十干の奇門遁甲での呼び名。三奇とは乙奇・丙奇・丁奇のことを指し、六儀とは戊儀・己儀・庚儀・辛儀・壬儀・癸儀のことを指す。通常、三奇が付く方位を吉方位と考える。
 
・良し/善し/好し(エシ)
[形ク]《「よし」の古形》よい。「さ雄鹿の伏すや草むら見えずとも児(こ)ろが金門(かなと)よ行かくし―・しも」〈万・三五三〇〉
 
・陽徳(ヨウトク)
1 万物を生成発展させる宇宙の徳。
2 あらわに人に知られる徳行。⇔陰徳。
 
・しん【×辰】
1 十二支の第五。たつ。「戊辰(ぼしん)」
2 とき。「佳辰・吉辰・生辰・誕辰・良辰」
㋐時刻。
㋑日。日がら。
㋒朝。早朝。
3 天体。日と月と星。「辰宿/三辰・星辰・北辰」
4 二十八宿の一。蠍座(さそりざ)。
 
・玉埋め【たまうめ】占い用語集
祐気採りの一つ。開運を呼び込むために、丸い石(水晶など)を特定の日時に特定の吉方位の場所に埋めること。
 
・八将神   はっしょうじん
陰陽道(おんみょうどう)における牛頭天王(ごずてんのう)の王子で四季の土用の行疫神。
太歳(たいさい)、
大将軍、
太陰(たいおん)、
歳刑(さいけい)、
歳破(さいは)、
歳殺(さいさつ)、
黄幡(おうばん)、
豹尾(ひょうび)の八神で、
方位の吉凶をつかさどる。
太歳神の方位はその年の十二支の方位で、他の七神の方位はそれによって決まる。
太歳方は福のある最吉方でこれに向かっての移転普請は吉。
この方位に向かっての訴訟・争論・伐木などは忌む。
歳破は太歳の反対方位で、この方位に向け移転等は凶。歳殺は殺伐の気があり万事に忌まれる。
大将軍は、俗に、三年塞(ふさ)がりといわれる凶神である。[吉野裕子]
 
・吉方位計算機 - Magic Wands - - マジックワンズ
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◆お水取りの由来とは?どんな行事なの?東大寺2018年の日程も!
http://ii-nippon.net/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A5%AD/3796.html
春がすぐそこまで来ているとはいえ、深夜にもなると、決して暖かくはない3月半ば・・・
東大寺二月堂では、お水取りの行事が行われます。
シンと静まりかえった時間に、篝火(かかりび)と奏楽(そうがく)の中で厳か進められるこの行事は、お水取りが終わらなければ春が来ないと言われるほど。
 
◆お水取り(東大寺)(おみずとり(とうだいじ))
知恵蔵
奈良県にある東大寺二月堂で毎年行われる行の一つ。正確には「修二会(しゅにえ)」という。
例年、3月1日から14日まで本行が行われ、終わるころには冬が明けていることから、春を告げる行事ともいわれる。
奈良時代から続く伝統行事で、752年以来、途絶えたことがない。
お水取りは、東大寺を開山した良弁(ろうべん)の高弟、実忠が始めたとされている。
旧暦の時代は2月1日から実施されていたため、二月に修する法会「修二会」と名付けられた。二月堂の名もこれに由来する。
人々に代わって罪を懺悔(ざんげ)し、天下泰平や五穀豊穣を祈るこの大規模な行事は、
まず行を執り行う11人の「練行衆(れんぎょうしゅう)」を決めるところから始まる。
良弁の命日である12月16日に練行衆の発表があると、翌年2月20日に前行である別火(べっか)が始まり、
練行衆は泊まりこみで本行の準備に当たる。
そして3月1日、練行衆は行列を組んで二月堂へ向かい、本行が開始される。
本行中、練行衆は毎夜高さ約6メートルの巨大松明(たいまつ)に火をともし、
二月堂へ入り深夜まで祈りをささげる。そのときに唱えられるのが、独特な節回しの「声明(しょうみょう)」。
音楽的で幽玄な響きがあり、CD発売もされている。
練行衆がお堂入りしたあと、燃えさかる松明は舞台の欄干に掲げられるが、
これがお水取りの中で最も有名な「おたいまつ」と呼ばれる場面。
降り落ちる火の粉が無病息災をもたらすと言われていることから、たくさんの参拝客が集まる。
本行のクライマックスは12日深夜。籠松明(かごたいまつ)がたかれ、練行衆は祈りの合間に、
二月堂下にある若狭井(わかさい)に水をくみにいく。
これがいわゆるお水取りの儀式だ。
くみあげた水は「香水」と呼ばれ、本尊である十一面観音に供えられる。
また本行が終了した15日には、行事に使われた金襴(きんらん)の帽子を幼児にかぶせる儀式が行われ、
これをかぶせてもらうと健やかな子が育つと言われていることから、子供連れが大勢二月堂を訪れる。
(高野朋美 フリーライター / 2009年)
 
◆お水取りの効果
http://www.keiyuukai.net/omizu.htm
お水取りの効果
お水取りは開運方法の一つです。しかも非常に簡単な開運方法です。
続けて行うことによって、効果がはっきりと分かります。
色々な方位へお水を取りに行くことによって、様々な効果が期待出来ます。
また、お水取りに行った方位に廻っている九星の違いで効果が違います。
「人生が思ったように上手くいかない。」「実力を理解してもらえない。」という人は、人生が好転するきっかけとなります。
「人生は順調に進んでいるが、将来は心配だ。」という人には、そのまま順調な人生を歩めるようになります。
自分に力がつくために、嫌なことが少なくなります。

お水取りは神社に行きますが、神社へ行くだけで気分が良いという声も聞きます。
そういう意味での気分転換にもなります。
実際にお水取りをしてみて、効果を実感して下さい。
 
◆東大寺修二会(お水取り)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E4%BA%8C%E4%BC%9A#%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E4%BF%AE%E4%BA%8C%E4%BC%9A%EF%BC%88%E3%81%8A%E6%B0%B4%E5%8F%96%E3%82%8A%EF%BC%89
東大寺修二会(お水取り)
「お水取り」として知られている東大寺の修二会は、十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)だが、8世紀半ばからの
悔過作法だけでなくその後に古密教や神道や修験道民間習俗や外来の要素まで加えて大規模で多面的なものとして行われている。
その本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われる。
二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により
興隆仏法、
天下泰安、
万民豊楽、
五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。関西では「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。

起源
伝説では、『二月堂縁起絵巻』(天文14年1545年)によると、天平勝宝3年(751年)東大寺の
開山、良弁の弟子の実忠が笠置山で修行中に、竜穴を見つけ入ると、天人の住む天界(兜率天)に至り、
そこにある常念観音院で天人たちが十一面観音の悔過を行ずるのを見て、これを下界でも行いたいと願った。
しかし兜率天の一日は人間界の四百年にあたるので到底追いつかないと天人の1人に言われた。
それで、少しでも兜率天のペースに合わせようと走って行を行うと念願したという。

『東大寺要録』(嘉承元年1106年)によると、実忠和尚が二月堂を創建し、
初めての東大寺の十一面悔過が天平勝宝4年(752年)2月1日から14日間行われたと伝えられる。
堀池春峰は、実忠はまだ20代で役職も低く行は寺全体のものではありえないと指摘し、
さらに正倉院宝物の創建初期の「東大寺四至図」(天平勝宝8年756年6月9日作成)に、
「二月堂」記載が無いと実忠の創始と二月堂の創建を否定し、紫微中台の「十一面悔過所」の行に実忠は関与しただけであり、
光明皇后の天平宝字4年760年の没後移設して二月堂になったとする説を唱えた。
だが建築史家山岸常人により、「東大寺四至図」には若狭井の位置に既に「井」の印があり現在の二月堂敷地の南西角付近に
あたる場所に□印が記載され、3間2面の小堂だったため堂名を記さず記号で表記したと実忠創建と創始を補強し、
実忠と弟子たちの行が、実忠が要職に上がるとともに寺全体のものとなったという見解も反論された