現在、つくば市小田の小田城跡の復元整備工事が行われているが、工事が終わった部分が公開されている。
なお、工事は平成28年3月18日に完工する予定である。
国指定史跡 小田城跡 昭和10年6月7日指定
小田城は12世紀末に八田知家によって築かれた。
知家は常陸国の守護となり、建久4年(1193)には多気基幹を滅ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。
4代時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が滅びると、7代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。治久は延元3年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心として活躍した。
親房は城中で「神皇正統記」「職原抄」を執筆した。しかし高冬師に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は鎌倉へ移った。
戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。
小田氏治は永禄12年(1569)の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。
佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大規模に改修された。
慶長7年(1602)に佐竹氏は秋田へ国替されて廃城になった。
〔平城〕
小田城は本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約21ヘクタールに及ぶ。
本丸部分の約2ヘクタールを八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。
南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。
戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。
更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知りうる姿になって完成する。
【小田氏略系譜】
1知家 ─ 2知重 ─ 3泰知 ─ 4時知 ─ 5宗知 ─ 6貞宗 ─ 7治久 ─ 8孝朝 ─ 9治朝 ─ 10持家
─ 11朝久 ─ 12成知 ─ 13治孝 ─14政治 ─ 15氏治
本丸跡にあった出入り口
⑪の地点から①の地点(本丸経の出入り口)を見る。
本丸跡にあった3つの出入り口のうちの一つで、幅は約3.3mあり、門跡は明確には確認されていないが、柱穴や礎石の跡の可能性のある堀り込みが2つ見つかっている。
この掘り込み周辺は、小礫(しょうれき)や土器片で舗装されていた。
虎口(こぐち)跡と対岸の北曲輪(きたくるわ)の間は、堀で埋めて造られた上幅約3mの土橋になっている。
北半の盛土裾部には数段の石積みが築かれていた。
ここから本丸内部へ続く通路は両側に側溝を持ち、本丸内部へ延びている。
①の地点 出入り口
①の地点から東方向を見る。
③の地点
③の地点から⑪の地点方向を見る。
③地点北側の池
③の地点から⑥地点の方向を見る。
④の地点
③の地点付近から自転車道(鉄道線路跡)を見る。
平坦な地形、防御力を高めるためには堀を深くし障害物を併置する必要がある。
④地点の橋
③地点の南側
⑤地点から⑪地点の方向を見る。
⑩地点の景況 左手の土手が低い。
⑥地点から③地点をみる。堀の右手の地面が低い。堀に障害物を併置しないと防御力が弱い。
⑥地点から東方向を見る。
⑥地点から③、⑤地点をみる。
南西馬出跡[小田城平面図の左下部⑥、⑦、⑧出囲まれた区画]
「馬出」とは、出入り口である虎口(こぐち)の前面を堀や土塁で区画した小空間のことで、攻守を兼ねた施設である。
南西馬出跡は約50m四方で、南・東・西は上幅約10m、深さ3mの堀と下幅約5mの土塁で、北は上幅約20mの堀でそれぞれ囲まれている。
⑦、⑧地点のの景況。つくば市大穂方向を見る。平坦な地形が展開している。
⑨地点から⑩地点をみる。掘の土手は低いので堀を深くし障害物を併置しないと防御力は弱い。
⑧地点から南野方向を見る。見渡す限り平坦な地形が展開している。
小田城平面図
〔平城〕
小田城は平城であるから、防御力を向上させるためには二重、三重の堀を造成するとともに、掘りを深く掘削して障害物を併置する必要がある。
本丸と各郭は堀を深くし高い土塁で囲まれ、重要な出口は馬出しを設けて直接進入ができないようにしてある。
郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。
郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げているので、短期決戦、劣勢な敵に対しては抗戦可能であるが、大軍相手の持久戦の場合は、守る側といえども城内を自由に兵力を移動、集中させるには制約がある。
このた小区画ごと局部ごとの各個戦闘で戦力を消耗すれば、いずれ抗戦不可能、落城に至るので難攻不落の城とは言い難い。
敵を城に近づけず前方で敵戦力を叩くため郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、ここで敵戦力を消耗させざるを得ない。その外も堀と土塁で囲むのは至極当然である。
更に北側の山上から城内、城下町とも眼下に見下ろせるので、戦いに際しては攻者は守備状況、戦備、住民の動向などを容易に把握できる。
平坦で広大な平地に囲まれているので、漆黒の闇夜や風雨の強い時期、草木が繁茂している時期は攻者の徒歩接近や浸透が比較的容易であるから警戒監視は怠れない。
長期にわたる頑強な抵抗には不向きな城と観察される。
このため平素からの地域住民の離反防止と協力を得る施策が不可欠となる。
小田城の争奪戦が繰り返された背景にはこのようなことがあったものと観察される。
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