武田耕雲斎等の墓(福井県敦賀郡松原村)
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水戸天狗党が討伐軍に降伏し処刑されるまでの経緯を島崎藤村「夜明け前」第一部第9章(三)から抜粋する。
「夜明け前」では状況の推移が時系列どおりになっていないが、記述されている順に抜粋した。
〔取調べ〕
それを半蔵が言い出すと、の百姓の口からもれて来た。浪士ら最期のことが、諏訪2月の朔日、2日は敦賀の本正寺で大将方のお調べがあり、4日になって武田伊賀守はじめ24人が死罪になった。
5日よりだんだんお呼出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は6番の土蔵にいたが、その時白洲に引き出されて、5日より10日まで惣勢かわるがわる訊問を受けた。
浪士らのうち、134人は15日に、103人は16日に打首になった。そうこうしていると、ちょうど17日は東照宮の忌日に当ったから、御籤を引いて、下廻りの者を助けるか、助けないかの伺いを立てたという。
降蔵らは本正寺に呼び出され、門前で足枷(あしかせ)を解かれ、一同書付けを読み聞かせられた。それから一旦役人の前を下り、門前で髪を結って、またまた呼び出された上で最後の御免の言葉を受けた。
読み聞かせられた書付けへは爪印(つめいん)を押して引き下った。その時、降蔵同様に追放になったものは76人あったという。
〔護送〕
順序もなく降蔵が語り出したところによると、美濃から越前へ越えるいくつかの難場のうち、最も浪士一行の困難を極めたのは国境の蠅帽子峠へかかった時であったという。
毎日雪は降り続き、馬もそこで多分に捨ておいた。
荷物は浪士ら各自に背負い、降蔵も鉄砲の玉の入った葛籠(つずら)を負わせられたが、まことに重荷で難渋した。
極極の難所で、木の枝に取りついたり、岩の間をつたったりして、ようやく峠を越えることが出来た。その辺の5カ村は焼き払われていて、人家もない。
よんどころなく野陣を張って焼跡で一夜を明かした。
兵糧は不足する、雪中の寒気は堪えがたい。
降蔵と同行した人足も多くそこで果てた。
それからも雪は毎日降り続き、峠は幾重にもかさなっていて、前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿までたどり着いて見ると、町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、人一人も残らず逃げ去っていた。
もっとも食糧だけは家の前に出してあって、何分火の用心頼むと張紙をしてあった。
その今庄を出て、さらに峠にかかるころは深い雪が浪士一行を埋めた。家数40軒ほどある新保村まで行って、一同はほとんど立往生の姿であった。
その時の浪土らはすでに加州金沢藩をはじめ、諸藩の大軍が囲みの中にあった。
降蔵の話によると彼は水戸浪士中の幹部のものが3、4人の供を連れ、いずれも平服で加州の陣屋へ趣くところを目撃したという。
加州方からも平服で周旋に来て、浪士らが京都へ嘆願の趣は叶わせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。
〔応援、差し入れ〕
それから加州方からは毎日のように兵糧の応援があった。
米、菜の物、煮豆など余るくらい送ってくれた。
降蔵らもにわかに閑暇になったから、火焚きその他の用事を弁じ、米も洗えば醤油も各隊へ持ち運んだ。
師走も10日過ぎのこと、浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということにたった時、副将田丸稲右衛門や参謀山国兵部らは武田耕雲斎を諌め、武器を渡すことはいかにも残念であると言って、
その翌日の暁八つ時を期し囲みを衝いて切り抜ける決心をせよと全軍に言い渡し、降蔵らまで九つ時ごろから起きて兵糧を炊いたが、
とうとう耕雲斎の意見で浪士軍中の鎗や刀は全部先方へ渡してしまった。
25、6日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀に移った。
そこにある3つの寺へ惣(そう)人数を割り入れられ、加州方からは朝夕の食事に肴を添え、昼は香の物、酒も毎日一本ずつは送って来た。
手拭い、足袋、その他、手厚い取扱いで、病人には薬を与え、医師まで出張して来て高価な薬品をあてがわれたが、その寺で病死した浪士も多かった。
〔引渡し〕
正月の27日は浪士らが加州侯の手を離れて幕府総督田沼玄蕃頭に引き渡された日であった。
その日は加州から浪士一同へ酒肴を贈られ、降蔵らまでそのもてなしがあった上で、加州の家老永原甚七郎が来ての言葉に、これまでだんだん周旋したいつもりで種々尽力したが、何分にも行き届かず、公辺へ引き渡すことになったからその断わりに罷り出たのであると。
それを聞いた時の隊長らの驚きはなかった。ここで切腹すべきかと言い出すものがあり、加州を恨むものがある。
一旦身柄を任せた上は是非もないことだ、いかように取り扱われるともよんどころなしと覚悟した浪士の中には辞世の詩を作り歌を読むものがあった。
11人ずつの組で、降蔵らまで駕籠で送られて行った先は16番からある暗い土蔵の中だ。
所持の巾着、または懐中物等はすべてお預けということになった。手枷、足枷がそこに降蔵らを待っていたのだった・・・・・・
〔慶喜による討伐〕
(慶応元年と改めて、大いに東照宮の250年を記念しようとしたのだ。
この街道へは尾州家から1500両の金を携えた役人が出張して来て、日によっては1,000人もの人足を買いあげた・・・・・・)
この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顧末がいろいろな形で世上に流布するようにたった。
これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。
宍戸侯(松平大炊頭) の悲惨な最期を序幕とする水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。
いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。
武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道を通過し、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとの噂がやかましく京都へ伝えられた時、それを自信に関係あることだとしてただちに江州路へ出張し鎮撫に向いたよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。
朝議もそれを容れた。
一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年12月3日のことだ。
金沢、小田原、会津、桑名の藩兵がそれに随った。そのうちに武田勢が今庄に勇着したので、諸藩の探偵は日夜織るがごとくであり、実にまれなる騒擾であったという。
12月の10日ごろには加州金沢藩の士卒二千余人が一橋申納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人・津藩の六百余人・大垣藩の千余人・水戸藩の七百入が着港した。
このほかに、間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩、丸山藩であって、その中でも監軍永原甚七郎に率いられる加州の土卒が先陣を承わったものらしい。
水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、野も山もほとんど諸藩の土卒で埋められた。
武田耕雲斎は新保宿を距(さ)る20町ほどの村に加州の兵が在陣すると聞き、そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、諸藩の兵に対して敵意のないことを述べ、一同のために道を開かれたいと願った。
その時の加州方からの返書は左のようたものであったとある。
お手紙披見致し候。されば御嘆願のおもむきこれあり候につき、滞りなく通行の儀、かつ外諸侯へ対し接戦の存じ寄り毛頭これたき旨、委曲承知致し候えども、加賀中納言殿人数当宿出張致し候儀は一橋中納青殿の厳命に侯条、是非なく一戦に及ぶべき存じ寄りに御座候。なお、後刻を期し一戦の節は御報に及ぶべく候。貴報かくのごとくに御座侯。
以上。
子(ね)12月11日 加賀中納言内
永原甚七郎
武田伊賀守殿内
安藤彦之進殿
時に雪は一丈余、浪士らは食も竭(つ)き、力も窮まった。
金沢藩ではそれを察し、こんな飢えと寒さとに迫られたものと交戦するのは本意でないとして、その日に白米200俵、漬物10樽、酒2石、するめ2千枚を武田の陣中に送った。
同時に来たる17日の暁天を期して交戦に及ぼうとの戦書をも送った。
ところが耕雲斎は藤田小四郎以下3名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣わし、永原甚七郎に面会を求めさせた。
甚七郎は帯刀までそこへ投げ捨てるほどにして誠意を示した小四郎らの態度に感じ、一統へ相談に及ぶべき旨を答えて使老をかえした。
すると今度は耕雲斎が単身で金沢藩の陣中へやって来たから、そういうことなら当方から拙者一人推参すると甚七郎は言って、ひとまず耕雲斎の帰陣を求めた。
そこで甚七郎は出かけた。
新保宿にある武田の本営では入口に柵を結いめぐらし、鎗大砲を備え、300人の銃手がおのおの火縄を消し、一礼してこの甚七郎を迎え入れた。
耕雲斎は白羅紗の陣羽織を着け、一刀を帯び、草鞋をはいて甚七郎を迎えたという。
甚七郎は白己の率いて行った兵を営外に留め、単身耕雲斎の案内で玄関に行って見ると、そこには山国兵部、田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め25人の幹部のものがいずれも大小刀を帯びないで出迎えていた。
その時だ。
甚七郎も浪士らの態度に打たれ、規律正しい陣所の光景にも意外の思いをなし、ようやくさきの戦意をひるがえした。
しからば願意を聴き届けようと言って、その旨を耕雲斎に確答し、一橋中納言に捧呈する歎願書ならびに始末書を受け取って退営した。
翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、馬を駆って江州梅津の本営に到り、2通の書面を一橋公に捧呈した。
その歎願書と始末書には、筑波挙兵のそもそもから、市川三左衛門らの謹言によって幕府の嫌疑をこうむったことに及び、
源烈公が積年の本懐も減びるようであっては臣子の情として遺憾に堪えないことを述べ、
亡き宍戸侯のために冤をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、
なお、一同が西上の心事は尊攘の精神にほか次らないことをこまごまと言いあらわしてあったという。
〔天狗党 戦うか降伏か2派あり〕
過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、半蔵にはいろいろと思い合わされた。
その時になると、浪士軍中に2つのものの流れのあったことも彼には想い当る。
最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、武田耕雲斎は将士を集めて評議を凝らしたという。
ちょうど長州藩からは密使を送って来て、若狭、丹後を経て石見の国に出、長州に来ることを勧めてよこした時だ。
山国兵部は浪士軍中の最年長者ではあるものの、その意気は壮者を凌ぐほどで、しきりに長州行きを主張した。
その時の兵部の言葉に、これから間道を通って山陰道に入り、長州に達することを得たたら、尊攘の大義を暢ぶることも難くはあるまい、今さら加州藩に歎願哀訴するごときことはいかにも残念である、むしろいさぎよく決戦したいとの意見を述べたとか。
しかし耕雲斎にして見ると、一橋公の先鋒を承わる金沢藩を敵として戦うことはその本志でなかった。
筑波組の田丸、藤田らと、館山から合流した武田との立ち場の相違はそこにもあらわれている。
「所詮、水戸家もいつまで幕府の機嫌をとってはいられまい」との反抗心から出発した藤田らと、あくまで尊攘の名義を重んじ一橋慶喜の裁断に死生を託し宍戸侯の冤罪を晴らさないことには済まないと考える武田とは、最初から必ずしも同じものではなかったのだ。
徳川慶喜(1837~1913)
石井寛治「大系日本の歴史⑫開国と維新」小学館
〔慶喜という人〕
ともあれ、水戸浪士の最後にたどり着いた運命は、半蔵にとってただただ山国兵部や横田束四郎や亀山嘉治のような犠牲者を平田同門の中から出したというにとどまらなかった。
なぜかなら、幕府の水戸における内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、水戸領内の郷校に学んだ有為た子弟の多くが減ぼし尽されたことは実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。
水戸は何もかも早かった。諸藩に魁して大義名分を唱えたことも早かった。
激しい党争の結果、時代から沈んで行くことも早かった。
半蔵はこの水戸浪士の事件を通して、いろいろなことを学んだ。
これほど関東から中国へかけての諸藩の態度をまざまざと見せっけられた出来事もない。
幕府が一橋慶喜に対する反目のはたはだしいには、これにも彼は心を驚かされた。
一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、一方は京都守護職から在京の諸藩士にまでつながっているそれらの暗闘の奥には奥のあることが、思いがけなくも水戸浪士の事件を通して、それからそれと彼の胸に浮かんで来るようになった。
もともと一橋慶喜は紀州出の家茂を将軍とする幕府方に悦ぼれている人ではない。
井伊大老在世の日、徳川世子の継嗣問題が起って来た折りに、今の将軍と競争者の位置に立たせられたのもこの人だ。
薩長2藩の京都手入れはやがて江戸への勅使下向となった時、京都方の希望をも容れ、将軍後見職に就いたのもこの人だ。
幕府改革の意見を抱いた越前の松平春嶽が説を採用して、まず全国諸大名が参勤交代制度廃止の英断に出たのもこの人だ。
禁裡守衛総督摂海防禦指揮の重職にあって、公武一和を念とし、時代の趨勢をも見る眼を持ったこの人は、何ごとにも江戸を主にするほど偏頗(へんぱ)でない。
時は慶応元年を迎え、越前の松平春嶽もすでに手を引き、薩摩の島津久光も不平を抱き、公武一和のとうてい行われがたいことを思うものの中に立って、とにもかくにも京都の現状を維持しつつあるのは慶喜の熱心と忍耐とで、朝廷とてもその誠意は認められ、加うるに会津のような勢力があって終始その後盾となっている。
どうかすると慶喜の声望は将軍家茂を凌ぐものがある。
これは江戸幕府から言って煙たい存在にはちがいない。
慶喜排斥の声は一朝一夕に起って来たことでもないのだ。
はたして、幕府方の反目は水戸浪士の処分にもその隠れた鋒先をあらわした。
慶喜は厳然たる態度をとって用意に水戸浪士を許そうとはしなかった。
そのために武田耕雲斎は浪士全軍を率いて加州の陣屋に降るの余儀なきに至った。
しかし水戸烈公を父とする慶喜は、その実、浪士らを救おうとして蔭ながら尽力するところがあったとのことである。
同じ御隠屠の庶子にあたる浜田、島原、喜連川の三侯も、武田らのために朝廷と幕府とへ歎願書を差し出し、因州、備前の二侯も、浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。
〔田沼玄蕃頭という人〕
そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼玄蕃頭だ。
田沼侯は筑波以来の顛末を奏して処置したいとの考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。
ところが朝廷では田沼侯の入京お差止めとある。
怒るまいことか、田沼侯は朝廷が幕府を辱かしめるもはなはだしいとして、兵権政権は幕府に存すると称え、あだかも一橋慶喜なぞは眼中にもないかのように、その足で引き返して敦賀に向った。
正月の26日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、28日には武田以下浪士全員の引取りを言い渡した。
この総督は、市川三左衛門らの進言に耳を傾け、慶喜が武田ら死罪赦免の儀を朝廷より御沙汰あるよう尽力中であると聞いて、にわかに浪土の処刑を急いだという。
加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命を助けることが出来なかったか。
それにつき、世間には種々な風評が立った。
あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞えて来た。
現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。
しかし半蔵はそれを穿ち過ぎた説だとし伯耆(ほうき)から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺の和尚なぞの置いて行った話の方を信じたかった。
いよいよ金沢藩が武器人員の引渡しを終った時に、敦賀本勝寺の書院に耕雲斎らを見に行って胸が塞がったという永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。
田沼侯に対する世間の非難の声も高い。
水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人塩原彦七ですらそれを言って、幕府の若年寄ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たたいことも久しいと言って、歎息したとも伝えらるる。
この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。
浪士らの勢いのさかんな時は20里ずつ距離の外に屏息し、徐行逗留してあえて近づこうともせず、いわゆる風声鶴唳にも胆が身に添わなかったほどでありながら、一旦浪士らが金沢藩に降ったと見ると、虎の威を借りて刑戮をほしいままにするとは何という卑怯さだと。
しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思いきったことの出来る性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采の人で、天狗連追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖(こんぺいとう)を席にまき、そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮をあえてさせたのだと言うものも出て来た。
〔最期〕
千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには823人だけしか生き残らなかった。
そのうちの353名が前後5日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬られた。
耕雲斎ら4人の首級は首桶に納められ、塩詰めとされたが、その他のものは三間四方の5つの土穴の中へ投げ込まれた。
残る250名は遠島を中しつけられ、180名の雑兵歩人らと数名の婦人と、15名の少年とが無罪追放となった。
武田、山国、田丸らが遺族の男の児は死罪に、女の児は永牢を命ぜられた。
そのうち、永牢を申し渡されたものの名は次のとおりであった。
武田伊賀 娘 よし 11歳
同妾 むめ 18歳
武田彦右衛門 妻いく 43歳
山国兵部 妻たつ 5 0歳
同娘 ちい 30歳
山国淳一郎 娘 みよ 11歳
娘 ゆき 7歳
同娘 くに 5歳
田丸稲右衛門 娘まつ 19歳
同娘 むめ 10歳
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