春を売る商売
仏教では、女人の出家は、正しい法を乱す恐れがあるところから、女子の出家を許さなかったが、時代がくだるにつれ、女子の出家が許されるようになり、比丘尼のために特別の戒の書ができ、尼の戒壇や尼寺がおかれた。
貴族の子女の出家が多く、それらが住む寺をとくに比丘尼御所と称した。
女子の剃髪入道(ていはつにゅうどう)には男子と同様厳重な制禁が定められていたが、綱紀のゆるむとともにしだいに自由になり、在家のまま髪を短くした(そぎ尼)が多くなったほか、中世には熊野比丘尼、善光寺比丘尼等諸国を遊行して念仏勧進するものが多くなった。
彼らは多く地獄極楽の絵解きをおこなったが、歌をうたうものもあり、近世では歌比丘尼(うたびくに)と称して賎民の一つに数えられるものも現われた。
歌比丘尼は、江戸時代には尼の姿で売春をした下級の私娼をさすこともあった。僧形に黒帽子・薄化粧でひそかに色を売った街娼を歌比丘尼(うたぴくに)といった。
また、江戸で中期ころ小舟に乗って河岸(かし)の客を誘った船饅頭(ふなまんじゅう)と称する水上売春婦もこの類である。
平凡社 『世界大百科事典 18』 (1968年9月10日)
街娼は、平安時代(8~12世紀)に江口、神崎などの川に船を浮かべた遊女も一戸を構えずにみずから誘客した点で街娼のといえるが、夜間路上で客を誘う売春婦は室町時代(15~16世紀)からあらわれ《七十一番歌合》に立君(たちぎみ)の名で描かれている。
のちには.立君のことを辻君(つじぎみ)と通称したが、「つじぎみ」とはほんらい通次君で、後年の切見世(きりみせ)のように小路の娼家にいて客を引くもののことであった。それが辻に立って春をひさぐとの意に転じて街娼の通称となったものである。
江戸時代後期なると、異国船の出没、大飢饉などで江戸社会が動揺するようになってきた。
文政・天保年間(1818~40年代)になると、強訴・一揆・打ち毀しが激増した。
その背景には農村の窮乏はもちろん、天保4(1833)年から数年間続いた天保の大飢饉の深刻な影響があった。都市でも米価高騰が激しく大阪では大塩平八郎の乱が起こった。
このため老中水野忠邦は厳しい緊縮政治にもとづく封建支配の再建に乗り出し、質素倹約令は、享保・寛政の改革と同じであったが、一層徹底して日常生活の統制まで及んだ。
風俗営業、芸能娯楽、出版までも統制された。
女髪結い、富くじ、質屋、祭礼や贅沢な衣装、料理、建築、庭園などの禁止や制限から、7代目市川団十郎のような人気役者の追放、芝居小屋の強制移転もおこなった。
これらの政策は、三都だけでなく農村にも及び、粗服の着用、藁で髪を結ぶこと、合羽を買わず蓑笠を用いよなどこと細かく統制した。これは、自給自足の農村を取り戻すためであり、農民の副業の禁止、転業の禁止、帰農の奨励などとも関連している。
天保14(1843)年の人返し令は、農民の江戸流入を禁じ、江戸人別に入らない出稼人の強制帰郷を目指したものである。
世の中、生活が厳しくなれば、春を売ってどん底生活を生きる人が出てくるのも道理、街娼の出没である。街娼はその性質上、都市の発達と関連をもち、江戸時代にはいって三都を中心に辻君の数は増した。
江戸の辻君は本所割下水、四谷鮫ガ橋をそのたまり場とし、日暮れころから、化粧を 手ぬぐいをかぶり、敷物の莚(むしろ)をかかえて堀端、川岸、材木置場などの暗がりに出没した。
その風体は取締りの目をかすめるためしだいに常態の女人と変わらぬようになるが、たいていそまつなもので、40~50歳にもなる者もあり、顔かたちみにくく、梅毒を病む者も少なくなかった。
安く遊べる街娼が増えると高いカネを払って吉原で遊ぶものが減り、売上減になる。
そこで吉原は江戸幕府に頼み、岡場所の夜鷹の数を一定数におさえた。上品、中品、下品とは、夜鷹の等級である。若い者は15,6歳から夜鷹になった。
天保15年頃の、江戸の夜鷹の平均年齢は、下の表の通りである。
平均寿命が短い時代の50代である、死ぬまで夜鷹とは大変なことだ。生きていくのが大変な時代だったのだろう。
夜鷹の花代はいくら?
『落語に見る 江戸の悪文化』(旅の文化研究所編 2001年7月20日、95頁)に次の記述がある。
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江戸では本所吉田町・吉岡町より多く出るとあるが、『藤岡屋日記』(弘化2(1845)年4月)では、古来より護持院ヶ原・石町河岸床見世うしろ・数寄屋河岸・浅草御門内・物干場明地・柳原床見世後ろ・下谷広小路・木挽町釆女ヶ原に出没した。
近年では本所吉田町・鮫ヶ橋・下谷山崎町が稼ぎ場とし、「本所辺・日本橋辺所々に夜る夜る出てはしばしにおいて古今珍しき鳥の出候次第をごろうじろ」と記している。
本所に夜鷹が出没するようになったのは、元禄2(1698)年9月6日、数寄屋橋より出火し、千住まで焼失、その焼跡へ小屋掛けし、本所より夜々女が来て小屋に泊まったことが始まりだった。
『藤岡屋日記』に弘化2(1845)年10月の記事に、2日夜より深川八幡表門前、川向アヒル居見世跡に「すわり夜鷹」7人出るとある。吉原の切見世の真似で、「すわり夜鷹」という。
花代は京・大坂では32文、江戸は24文と決まっていたが、京・大坂では定価のみで、江戸では24文となっていても、実際には50銭または100文を与えることになっていた。
この時の花代は124文、ただし勤めは24文、他に100文は客より相対でもらうとあり、これより先の4月の記事にも花代金24文とあるので、相場は金24文ときまりがあり、祝儀を弾むことによってより多くの収入を得る方法であったことがわかる。」とある。
(転用ここまで)
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上の写真、天保通宝の価額が展示されている。天保通宝は天保6年(1835年)から明治24年(1891年)まで通用した貨幣である。天保通宝1枚100文=2500円、従って1文=25円。
花代は江戸時代末期、江戸の場合、24文プラス100文、124文であるからは3100円ということになる。
江戸の町、がまの油の値段、一貝約300円程度か
筑波山ガマの油売り口上では「200文を半額の100文」と言っているので2500円。
江戸の花代、定価は24文、チップとして渡すのが50銭または100文。計124文で3100円。
筑波山ガマの油売り口上では現在販売している価格の5倍近い値段で売ったことになる。がまの油が夜鷹の花代に近い額、そんなに高価な薬だったのか。
これには訳がある。筑波山ガマの油売り口上は古典落語の「ガマの油」を軸に筑波山の風物を加味して18代名人が ”創作” したものである。口上の表現が全体にユーモアを感じさせるように”誇大広告”的になっているので歴史公証的には妥当な表現ではない。
がまの油売り口上に「がまの油の膏薬なに効くというなれば、先ずは疾に癌瘡、火傷に効く。瘍・梅毒・皴に霜焼・皸だ」とある。まだある「虫歯の痛み」、まだある「赤ん坊のあせも爛れ、かぶれ」、「一切に効く」等々何でもかんでも効く万能薬のごとく表現している。”誇大広告”である。
古典落語では「ガマの油一貝が十二文だが、今日は小貝を添えて二貝で十二文」となっている。 仮に一文を25円とすると12文は300円、この程度の値段で売っていたとみるのが妥当ではないか、況や大道で売る商品、一貝が100文×25円、2500円では、いくら香具師が売ると言っても ”ボッタくり”ではないか。
江戸の町での販売額は、今の価格でいえば300円程度が妥当な額と考えられる。
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