ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

筑波山地域をジオパークに !

2015-02-20 | 筑波山地域ジオパーク

ジオパークとは? 
 「大地の公園」とも言われ、大地のことを学び、楽しむことを通して地域の魅力をより実感することができる、地層・岩石・地形・火山・断層など地球科学的に見て貴重な見どころを地域の資産として有機的に結び付けた場所である。

 ジオ(地球・大地)に関わる遺産を保護し研究に活用するとともに、自然と人間との関わりを理解する場所と」して整備し科学教育や防災教育の場として、また新たな観光資源として地域の振興に活かすことができる。 
      「筑波山地域ジオパーク」の対象地域   
       
 まず、地元にある すばらしい地球の自然環境に気付き、それらを知ることから始まる。その意味や重要性を理解し、保護して、活用していこうという意識が地域住民の間に芽生え、発展させる地域こそが、ジオパークにふさわしいと言われている。 

 ジオパークのブランドを得ると、国内はもとより世界に向けて、この地域特有の魅力を発信する機会が増える。ジオツアーや各種関連イベントの開催、ジオパーク関連商品の開発などを地域が積極的に推し進めることで、ジオパークの魅力をさらに高めることができる。

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 日本列島は、太平洋などの海域にたまった堆積物が西へ移動するプレートの沈み込みとともに当時の目本列島の源が位置していたユーラシア大陸東縁(現在の中国東部)に付加した岩石が、さらに中生代白亜紀以降に幾多の火成・変成作用を受けた複雑な地史を有している。 

 筑波山から霞ケ浦にかけた地域には、生活に恵みを与えてくれる森や山、湖などの自然に支えられた営みであり、生き物、歴史と文化、風土や民俗、そして信仰など、多くのジオサイトが集まっている。「目本百名山」のひとつで「西の富士、東の筑波」と並び称される筑波山は、信仰の対象として保護され、学術的にも珍しい植物や昆虫、野鳥も数多く見られる貴重な“自然の宝庫"である。 

 筑波山のおよそ7千万年の時間を経た稲田石や筑波石が、氷河時代から現在にいたる山と平野と海の歴史を見下ろしてきた。現在の関束平野と束京湾の生い立ちが残されている霞ケ浦のまわりには、夕陽を受けた筑波山の'“紫峰"を見上げながら刻まれた、地形と風土、そして文化の記憶が多く残されている。
 
      
 本地域には筑波山や加波山、愛宕山等の山々で構成される筑波山塊がある。また、その周りには台地や低地からなる関東平野が広がっている。そして、筑波山塊に源を発し、平野部を流れる河川は南束部にある霞ケ浦へと注いでいる。 

  茨城放送 スクーピーレポート 
 「大自然を身近に感じよう!筑波山地域ジオパーク構想」  

「筑波山地域」の成り立ち
 地下10kmのダイナミズム ~ 筑波山ができるまで ~

 海の底の時代 (約2.5億年~1.5億年前)  
     
中生代三畳紀~ジュラ紀頃、この一帯は深い海の底でした。そこでは泥や砂などが積み重なって厚い地層ができた。 

地下マグマの時代 1 (約7500万年前)  
     
 恐竜がいた時代である中生代白亜紀の後期になると、地下の堆積岩層のなかにマグマが入り込み、ゆっくりと冷えて斑れい岩ができた。 

地下マグマの時代 2 (6000万年前) 
     

 恐竜が絶滅したあとの白亜紀末から新生代古第三紀のはじめにかけて、地下に再びマグマが大規模に入り込んだ。このマグマはやがて冷えて花南岩になった。 

隆起と侵食の時代 (約5000万年前~現在) 
     
 筑波山塊一帯が隆起しはじめた。地表では侵食が進み、やがて新生代中頃になると斑れい岩や花崗岩が地表に露出し、後に筑波山になった。 

【関連記事】 筑波山の生い立ち 筑波山は噴火しない安全な山  

海抜0mの神秘 ~海水準変動と海岸線の変遷~ 

 古東京湾の時代  
     
 旧石器時代の関東平野 
     
 縄文海進と海の流入 
     
 現在
 (利根川流路変更、霞ケ浦淡水化などの入工的改変もなされた)  
      

 最終間氷期には海水面が上昇して古東京湾とよばれる浅海が広範囲に広がり、当時の海岸線は筑波山麓に達していた。

やがて氷期を迎えて海水準が下がると、河川が台地を下刻して谷が形成された。当時の地層からはナウマンゾウの化石などが産出している。

 縄文時代前期には、温暖な気候のもとで谷に海水が入り込み、やがて土砂が深い谷間を埋めて、低地が形成された。当時の海岸線付近には貝塚が多数残されており、人々の生活の様子がうかがえる。
 霞ケ浦は近世になって海の入り江から汽水湖、そして淡水湖へと姿を変えてきた。 

(参照資料)
『めざせ! 筑波山地域ジオパーク』(筑波山地域ジオパーク推進協議会)
『筑波山地域ジオパーク構想』(筑波山地域ジオパーク推進協議会事務局)

     

 

 


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