「御三家」の威光と弊害〔御三家としての権威〕 副将軍説がたとえ確かなものではなかったとしても、御三家としての権威は諸大名とは格段の違いがあり、水戸藩の武士や領民までも、他家に対して御三家の威光を振りまわす気風が強かった。たとえば、御三家の通行のときは、先払いの者が、「シタニロ、シタニロ」(下に居ろ、下に居ろ)と制止声を掛け、往来の士民は道脇に土下座する習わしであった。
そのため . . . 本文を読む
水戸光圀 光圀は1661(寛文元)年8月、初代頼房のあとを継いで2代藩主となり、1690(元禄3)年10月、養子綱條(つなえだ)に職を譲って退くまでの約30年 藩主として勤め、その後も1700(元禄13)年12月に死去するまで太田の西山荘で「大日本史」の編纂にあたった。 光圀は「大日本史」を編纂をはじめに各種の文化事業にかかわり、日本の学問の発展に大きな貢献をした。また水戸城は石 . . . 本文を読む