ユーラシアの風~2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

心洗われる風景

2010年06月25日 | 中国(2)呼市→西寧
国道109号を、青海湖に向けてひたすら登る。
山々は果てしなく続き、道端には見たことのない花が咲き誇り、
聞いたことのない虫の音が響く。
斜面では無数の羊たちが草を食み、それを追う民の指笛がこだまする。





風は冷たい。そして、どこまでも澄んでいる。
目の前にそびえる山はひときわ高いが、地図に名はない。
雪をいただいた白い斜面と、吐き出される白い曇が溶け合い、
かえって存在感を増している。



心洗われる風景とは、こういうものを言うのだろうか。

しかし、その風景はあまりにも現実離れしていて、
自分の中に起こる変化は何もなかった。
そして、風は容赦なく体温を奪い、変化が訪れるまで
そこにとどまることを許さなかった。

徐々に移り行く風景とともにある旅。自転車の旅。
バスから降りると、突如広がる大パノラマ…といった類の感動はない。
風景は、窓と言う画面を隔てた「景色」としてではなく、
その要素の全てが「実物」としてそこに存在する。
決してそれ以上でも、それ以下でもない。
より優れた姿を見せようとはしない。
道の隅にはうんざりするほどゴミが捨ててある。
それすら含めた全てがただ、そこにある。
今までも、これからも。

たったそれだけのことを確かめながら、ペダルを踏みしめる自転車の旅。




そもそも、「心洗われる」って、どうして言うのだろう。
心が汚れているから、洗えるのだろうか。
心は洗っても、結局また汚れていくのだろうか。
でも、心を汚すことは、そんなに悪いことなのか。

言いたくないことを言う、面白くもないのに笑う、売りたくもないものを売る。
そういうことを「汚い」と、どうして言えるのか。

大自然の中、羊を追って暮らす彼らは、平気でぼってくるし、
嘘つくし、好き勝手やってるし…そんな彼らをどうして「素朴」と言えるのか。

このどうにもならない大自然の中で、ごちゃごちゃうごめく人間どもの中で
もまれ生きていくのに、きれいも汚いもない。
ただ巡り行く日常を、少しの希望とカネと楽しみを絶やさずに過ごしていく。
今日も目の前では、それだけのことが繰り返されている。



○日月亭は、昔、皇帝の娘がチベットの王に嫁に行くために通った地。
 この峠は、黄土高原と青蔵高原を分かつ場所。




○しかし、片道しかなかった旅に思いを馳せる隙はない。
 周囲は観光地化され、物売りで溢れかえる。
 堂内まで牛乳売りが侵入。キレ気味に「不要」といっても退かない。
 不快極まりない。
 それもよそ者の感覚だから仕方ない。今、ここは「そういう場所」なのだから。


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