Sweet*Studio

あなたと過ごす、この瞬間は忘れない。

闘病記録(後半)

2010-06-27 | 2010年
4月5日頃
父から携帯メール。
「おかあさんの具合が悪いです。一度来られませんか。」
急ぎ電話すると、その割に普通な母の声。
自分よりも、父があまり食べられなくてやせてしまったという。
とにかく、仕事の区切りをつけて行くことにする。

4月10日
実家到着。
確かに父はやせていた。ほとんど食べられなくなっていて、2月から缶の栄養剤を飲んで過ごしていたそうだ。
でも覚悟をしていたことと、そんなに悪いと思いたくない気持ちも働いて、まだまだ大丈夫、という風に見えた。

11-14日
夕飯に、父の好きな刺身を買って帰る。それと、母が作ったみそ汁。
みそ汁が熱く、文句を言う。ほんのわずかでもごはんを口にした。食事をしたのはこれが最後。
座椅子に座ったまま、寝ている時間が多い。

ロト6を買ってきて、換金もしてきてくれと頼まれて、銀行の場所も教えてもらった。
しかし、銀行へ行ってみると、当たっていると言われたものは週が違うものらしくはずれ、帰ってそう伝えると「悪いことしたね」とやけに気にした風に言う。「いいよ。初めての体験したから♪」と軽く流した。

毎日「僕が次に病院に行くのはいつだ」と言う。
「次は22日だからまだだよ」「うん」という会話を何回か繰り返した。

14日(水)
栄養剤を摂るのもつらそうなので、明日病院に行こうと決めた。病院に電話をし、タクシーを呼ぶ段取りを決めた。

15日(木)
朝、タクシーを手配し、父は痛み止めの薬を飲むが、それすら吐いてしまった。
パジャマの上にコートをはおり、タクシーに乗り込み40分ほどで病院に着く。
今までのペースで歩き始めようとする父に「ゆっくりでいいよ」と声をかける。
診察室に入ったとたん、吐いてしまったらしく、ストレッチャーで消化器科病棟まで運ばれる。
個室で栄養の点滴を開始。
午後。父は割合に元気で、テレビの位置などで母に文句を言う。顔が上気してきたので発熱かと熱をはかるが平熱。
4時頃、わたしと母は担当医に説明に呼ばれる。
ここまでよく頑張ってこられたけれど、あと1ヶ月か、場合によっては1週間かも…と言われ、涙が止まらなくなってしまった。今まで、のん気に構えていたわたし。来年の桜は無理かなぁなどと思っていたので、ショックだった。
小部屋に母と残り、母に抱きついて「どうしよう。どうしよう」と泣いた。
その後、あまり長くても父が怪訝に思うだろうと、母に先に帰ってもらった。
個室へ帰っても、やはりうまく報告する言葉が見つからない。そしてまだ目が赤いわたしは、父をまともに見れず、帰りのバスの時間のことなどを口にし、そそくさと帰ることにしてしまった。
※診断結果:今日のレントゲンは横になったまま撮ったこともあり、よく写っていないけれども、がんは肺の周辺に広がっていると思われる。脳への転移は大きくなってはないとのこと。

16日(金)
朝から母と見舞いへ。夜もさんざん泣いてしまったので、顔がひどい。氷水で目を冷やして、ごまかす。
大部屋に戻っていた。
「脳には転移してないって。気持ち悪いのは、本体のところのがんが育っちゃったかもしれないね。また治療するにも、まずは体力つけようね」
嘘は言えない。でも、希望はつなぎたい。しかし、父は聞きたくないように、顔を背けていた。
この日、一旦金沢へ帰る。

18日(日)
急ぎ、仕事を片付けて、実家での長期戦を覚悟して、実家へ移動。
父もまだ元気で、最後の局面が近いと気づかせたくなくて、わたしが来ていることは内緒にした。
毎日母が付き添いに出かける。痛み止めによる幻覚があらわれ、寝ている時間も増えていった。

4月後半~月末
緩和ケアの病棟に移るか否か?と病院側から言われ、悩む。
結局、そのぜいたくな設備は父には合わないし、今の担当医に信頼を寄せている上、本人に緩和ケアを受け入れさせるというのがやはり難しく、そのままということにした。
また、ゴールデンウィークということもあり、一度自宅に帰らないかという話。
宿泊は無理だが、介護タクシー利用での数時間帰宅ということが決まる。

5月1日(土)
介護タクシーで一時帰宅。妹の子供たちに会うことが一番の楽しみ。5歳と1歳の孫たち。
家では自力でトイレへ行く。3人掛かりで手を貸し、やっとの思いで布団まで帰る。
「もうだめだ~」と言う。
それでも、行き帰りの介護タクシーの中でも始終ほがらか。
「すみませんね~」「この線路は目蒲線か?」「あれは桜だな」
自宅での時間の半分近くは寝ていたが、枕元でみんなの笑い声が響く良い一日が過ごせたと思う。

15日(土)
二度目の介護タクシー。一度目とはだいぶ違う。
既におむつ利用になっていて、トイレはなし。寝ている時間も増えた。
入れ歯もはずしたまま戻せなくなっていて、話す内容も不明瞭だが、家を発つとき1歳の孫にはっきりと何度か呼びかけた。嬉しそうだった。
帰りのタクシーは寝ていた。もうこれも無理かと悲しかった。

17日(月)
肺炎を起こしたらしく、発熱。

19日(水)
大部屋から処置室へ。
点滴の針を腕から太ももへ変えた。
処置室から個室へ。夕方先生から説明。
この状態で肺炎というのは大変厳しい状況だという。
母はこの日から泊まり込みを決めた。
毎日2時間置き、夜間は3時間おきに体位変更とおむつのチェックに来てもらう。
その間に点滴の確認、痰取りも入り、一時間おきには看護士さんが覗いてくれる状態。

21日(金)
母が2泊して、とりあえず熱が下がったので、一旦帰宅してもらう。
ここから二泊わたしだけが泊まる。

23日(日)
呼吸が間遠になる。目が閉じられなくなる。どうにもつらそうなので、ふたりで泊まることにする。
それより前には、手を握れば握り返していたのが、この頃から手を握られるのがいやそうになった。

24日(月)
痛がり方がひどい。痛いという時には座薬を使っていたけれど、効かなくなってきた。
午前中、母は自宅へ。父は「いたいよ」の他に「おかあさん」と2回ほど言った。
「もうすぐ来るからね」と話かけたら、うなづいた。
20時から、太ももへのモルヒネ点滴開始。最後の手段か、と感じる。

26日(水)
20時。モルヒネ点滴2本目へ。息がさらに間遠で薄くなる。
21時。顔色が悪い。
病室内では母が泊まり、わたしは別室の控え室ソファーにいたのが、この日は夜中1時、気になって眠れず、戻ってきた。
母のベッドの足下に座り、睡眠薬を飲んで寝ている母の寝息と父の寝息、ふたつを聞いていた。
夜明けは4時29分。それまではここにいよう。

27日(木)
わたしは夜明け頃から控え室ソファーでコンタクトレンズもつけたまま仮眠していた。
母が呼びにくる。
確認をされたのはその後だったけれど、それは手続きの上の時刻であり、正確には少し前に旅立ったところだったかもしれない。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 闘病記録(前半) | トップ | 前を向いて »
最新の画像もっと見る

2010年」カテゴリの最新記事