Sweet*Studio

あなたと過ごす、この瞬間は忘れない。

前を向いて

2010-06-27 | 2010年
父とわたしたちの日々が、記せた。
今日であれからちょうどひと月。
わたしなりの区切りのひとつ。

誰もが迎えなければならない終わりの時。
父にとってのこの日々は悪くなかったと、わたしは思っているけれど、どうだったかなぁ。。。


あとは、母がこれからの日々に慣れて、楽しくやってくれればいいのだけれど。
79歳、ひとり暮らし。
大丈夫なのかなあ。
近くにたくさん友達がいるようだし、いざという時は同世代の女同士、助け合っているみただし。
妹は1時間くらいの距離に住んでいるし。(母は子どもたちの相手は疲れると言うけれど)

わたしも、月の半分くらいは母のそばに滞在していきたいと思っているけれど、わたしがこんな理由で夫と離れて過ごすことと、仕事をできない状態になることは母自身望まない形だとも思う。
長期的なことは、また考えればいいかな。
とりあえずはまだ父のその後のことで手続きが残っているので、行って当たり前なのでしょう。

70代はまだまだ若いよ。80代だって、まだ楽しめる年代だよ。特に、女は、ね。
母に励ますように言っている言葉。
本当にそうであって欲しい。


闘病記録(後半)

2010-06-27 | 2010年
4月5日頃
父から携帯メール。
「おかあさんの具合が悪いです。一度来られませんか。」
急ぎ電話すると、その割に普通な母の声。
自分よりも、父があまり食べられなくてやせてしまったという。
とにかく、仕事の区切りをつけて行くことにする。

4月10日
実家到着。
確かに父はやせていた。ほとんど食べられなくなっていて、2月から缶の栄養剤を飲んで過ごしていたそうだ。
でも覚悟をしていたことと、そんなに悪いと思いたくない気持ちも働いて、まだまだ大丈夫、という風に見えた。

11-14日
夕飯に、父の好きな刺身を買って帰る。それと、母が作ったみそ汁。
みそ汁が熱く、文句を言う。ほんのわずかでもごはんを口にした。食事をしたのはこれが最後。
座椅子に座ったまま、寝ている時間が多い。

ロト6を買ってきて、換金もしてきてくれと頼まれて、銀行の場所も教えてもらった。
しかし、銀行へ行ってみると、当たっていると言われたものは週が違うものらしくはずれ、帰ってそう伝えると「悪いことしたね」とやけに気にした風に言う。「いいよ。初めての体験したから♪」と軽く流した。

毎日「僕が次に病院に行くのはいつだ」と言う。
「次は22日だからまだだよ」「うん」という会話を何回か繰り返した。

14日(水)
栄養剤を摂るのもつらそうなので、明日病院に行こうと決めた。病院に電話をし、タクシーを呼ぶ段取りを決めた。

15日(木)
朝、タクシーを手配し、父は痛み止めの薬を飲むが、それすら吐いてしまった。
パジャマの上にコートをはおり、タクシーに乗り込み40分ほどで病院に着く。
今までのペースで歩き始めようとする父に「ゆっくりでいいよ」と声をかける。
診察室に入ったとたん、吐いてしまったらしく、ストレッチャーで消化器科病棟まで運ばれる。
個室で栄養の点滴を開始。
午後。父は割合に元気で、テレビの位置などで母に文句を言う。顔が上気してきたので発熱かと熱をはかるが平熱。
4時頃、わたしと母は担当医に説明に呼ばれる。
ここまでよく頑張ってこられたけれど、あと1ヶ月か、場合によっては1週間かも…と言われ、涙が止まらなくなってしまった。今まで、のん気に構えていたわたし。来年の桜は無理かなぁなどと思っていたので、ショックだった。
小部屋に母と残り、母に抱きついて「どうしよう。どうしよう」と泣いた。
その後、あまり長くても父が怪訝に思うだろうと、母に先に帰ってもらった。
個室へ帰っても、やはりうまく報告する言葉が見つからない。そしてまだ目が赤いわたしは、父をまともに見れず、帰りのバスの時間のことなどを口にし、そそくさと帰ることにしてしまった。
※診断結果:今日のレントゲンは横になったまま撮ったこともあり、よく写っていないけれども、がんは肺の周辺に広がっていると思われる。脳への転移は大きくなってはないとのこと。

16日(金)
朝から母と見舞いへ。夜もさんざん泣いてしまったので、顔がひどい。氷水で目を冷やして、ごまかす。
大部屋に戻っていた。
「脳には転移してないって。気持ち悪いのは、本体のところのがんが育っちゃったかもしれないね。また治療するにも、まずは体力つけようね」
嘘は言えない。でも、希望はつなぎたい。しかし、父は聞きたくないように、顔を背けていた。
この日、一旦金沢へ帰る。

18日(日)
急ぎ、仕事を片付けて、実家での長期戦を覚悟して、実家へ移動。
父もまだ元気で、最後の局面が近いと気づかせたくなくて、わたしが来ていることは内緒にした。
毎日母が付き添いに出かける。痛み止めによる幻覚があらわれ、寝ている時間も増えていった。

4月後半~月末
緩和ケアの病棟に移るか否か?と病院側から言われ、悩む。
結局、そのぜいたくな設備は父には合わないし、今の担当医に信頼を寄せている上、本人に緩和ケアを受け入れさせるというのがやはり難しく、そのままということにした。
また、ゴールデンウィークということもあり、一度自宅に帰らないかという話。
宿泊は無理だが、介護タクシー利用での数時間帰宅ということが決まる。

5月1日(土)
介護タクシーで一時帰宅。妹の子供たちに会うことが一番の楽しみ。5歳と1歳の孫たち。
家では自力でトイレへ行く。3人掛かりで手を貸し、やっとの思いで布団まで帰る。
「もうだめだ~」と言う。
それでも、行き帰りの介護タクシーの中でも始終ほがらか。
「すみませんね~」「この線路は目蒲線か?」「あれは桜だな」
自宅での時間の半分近くは寝ていたが、枕元でみんなの笑い声が響く良い一日が過ごせたと思う。

15日(土)
二度目の介護タクシー。一度目とはだいぶ違う。
既におむつ利用になっていて、トイレはなし。寝ている時間も増えた。
入れ歯もはずしたまま戻せなくなっていて、話す内容も不明瞭だが、家を発つとき1歳の孫にはっきりと何度か呼びかけた。嬉しそうだった。
帰りのタクシーは寝ていた。もうこれも無理かと悲しかった。

17日(月)
肺炎を起こしたらしく、発熱。

19日(水)
大部屋から処置室へ。
点滴の針を腕から太ももへ変えた。
処置室から個室へ。夕方先生から説明。
この状態で肺炎というのは大変厳しい状況だという。
母はこの日から泊まり込みを決めた。
毎日2時間置き、夜間は3時間おきに体位変更とおむつのチェックに来てもらう。
その間に点滴の確認、痰取りも入り、一時間おきには看護士さんが覗いてくれる状態。

21日(金)
母が2泊して、とりあえず熱が下がったので、一旦帰宅してもらう。
ここから二泊わたしだけが泊まる。

23日(日)
呼吸が間遠になる。目が閉じられなくなる。どうにもつらそうなので、ふたりで泊まることにする。
それより前には、手を握れば握り返していたのが、この頃から手を握られるのがいやそうになった。

24日(月)
痛がり方がひどい。痛いという時には座薬を使っていたけれど、効かなくなってきた。
午前中、母は自宅へ。父は「いたいよ」の他に「おかあさん」と2回ほど言った。
「もうすぐ来るからね」と話かけたら、うなづいた。
20時から、太ももへのモルヒネ点滴開始。最後の手段か、と感じる。

26日(水)
20時。モルヒネ点滴2本目へ。息がさらに間遠で薄くなる。
21時。顔色が悪い。
病室内では母が泊まり、わたしは別室の控え室ソファーにいたのが、この日は夜中1時、気になって眠れず、戻ってきた。
母のベッドの足下に座り、睡眠薬を飲んで寝ている母の寝息と父の寝息、ふたつを聞いていた。
夜明けは4時29分。それまではここにいよう。

27日(木)
わたしは夜明け頃から控え室ソファーでコンタクトレンズもつけたまま仮眠していた。
母が呼びにくる。
確認をされたのはその後だったけれど、それは手続きの上の時刻であり、正確には少し前に旅立ったところだったかもしれない。

闘病記録(前半)

2010-06-27 | 2010年
2008年12月末
母からの電話。
「・・・私からはうまく言えないから、おとうさんに代わるね」
父は肺がんになったという。
年末なこともあり、急ぎ検査入院をする。そのために高齢な妻だけでなく娘の承諾が必要らしいから、悪いけど来れないか、と。
3人で総合病院へ行く。検査は二泊。
最初の晩。3人で出かけたのに、家に二人しかいないことがつらく、晩ご飯はのどを通らず。
いて当たり前だった父がいなくなるということ。
世間からは既に77歳の母だけでは認められないのかということもショックだった。

2009年1月初旬
検査結果は予定の日よりも早く聞かされたらしい。
やはり肺がんであるので、より詳細な検査のために翌日から国立がんセンターへ。
小細胞がん。手術は不可能。レベル4。
化学療法と緩和ケアが選べるが、まずは化学療法をしましょうということになり、がんセンターにて治療開始。

5月末
先のことを考え、今のマンションから引っ越しを決定。
マンションでは階段があり、また母が通う内科までも大きな国道を越えることがあり、そのふたつを避けること、それと家賃の収縮。これは昔家族4人ともが勤めに出ていたときには必要だった駅まで徒歩2分という好条件が年金暮らしの二人には不必要になったことから。
その下見は私と夫の二人で。逐一母に報告。
最後の晩、引っ越しについてあれこれ母と話していたあと、父とどなりあいをしてしまった。
その後わたしは大泣き。
わたしはわだかまりを溜め込むよりは…と思ったけれども、あとから思うと父の血圧があがったら危険だったかも…と反省。実際、翌朝父は発熱してしまった。

6月
転院。
抗がん剤が効かなくなり、次の抗がん剤にしたところ合わず、完治を目指すこの病院では診られないということで、別の病院を紹介される。
少し弱めだという抗がん剤は身体に合い、このまま翌年1月いっぱい治療が続く。
引っ越しもこの月末。この後体調も悪化せず、痛みを訴えることもなく、良い状態が続く。

2010年1月
父から電話。母がおなかをひどく壊したので、来られないかと。
翌日駆けつけ。ノロウィルスだったようで、母はかなりきつかったようだが、幸いにも父は軽く済んだ。
10日間滞在し、実家をあとにする。

2月
抗がん剤が効かなくなり、次の抗がん剤に。
しかし、合わず、抗がん剤治療やめ。

お別れ

2010-06-21 | 2010年
父が、行ってしまった。

あっけなかった。

いや、実際には、容態が悪化してからはこの時間がいつまで続くのか、治るという奇跡が望めないのならいっそ今すぐ...と願うくらい、じりじりとしていたのだけれど。
でも、少しずつ生命のちからがその身体から抜けていく様は、その速度が見えそうなくらいに速かった。通り過ぎてみるとそう思えてきた。


しっかり見送った。
たましいがいなくなってしまった身体から体温が遠ざかっていくことも、この手で受け止めた。
葬儀だってすべてを目に焼き付けたはずなのに。
なのに、なんだか父がもういないということの実感がなくなってくる。
すべてうそだったと思いたい。

時間が経過するにつれて、いろんな思い出がよみがえっては涙が出てくる。
寂しいとか、悲しいとか。
今までとは比較にならないほどの実感。
でも。
こんな状態は、誰もが乗り越えていることのようにも思う。

知人友人が、いろいろ声をかけてくれた。
そのひとつひとつの暖かさは、ひとりひとりの体験の重さだと思う。



もう少しだけ、時間が必要なのかもしれない。

別れを前にして

2010-05-20 | 2010年
ずっとその日がくることが怖かった
どれだけ恐れ、泣いたことか

けど、そのときが目の前に迫ってきた今
不思議なくらい穏やかな時間

激しい嵐の後の美しい青い空の下
家族だんらんのあたたかい休日のように