また、あの時みたいに傷つけあって、関係が壊れてしまうのではないかと恐れている自分がいる。
職場の混乱は続いていて、移籍に応じる応じないで三者三様、面談も悲喜こもごもで、怒りと嘆きで満ちている。仕事が元受けに戻るだけなのだけれど、どのように委譲されていくのかスケジュールは未定で、働く人間の移籍先の条件についても、仕事の進め方についても、これから擦り合わせていくことになる、こんな状態で移籍するかしないかを決めるのは難しい判断なのだが、会社は個々の感情にはもちろんお構いなしだ。
関連付けるべきでないことは分かっているが、縺れた糸をほぐすためにあえてこの問題を深く捉えている、自分を助けるために。
震災前、皆それぞれ自己や家族の膠着した問題を抱えていた。ごまかしていた問題に震災によって直面せざるを得なくなった時、混乱の中で故郷の人たちは傷つけあったように思う。それまで隠していた本心、気付いていなかった憤懣に直面し、自己処理できずに他者を攻撃したように思う。「親や故郷を捨てた」「家族を蔑ろにした」「逃げた」と他者を悪者にすれば、自分の問題に目を向けずに済むから。
それらと同じように、職場でも移籍に応じるもの残留を決めたものとで温度差が生まれている。しらっとした空気感の中で普通に振舞うのはなかなか胆力のいる技で、そんな中私は不安で怯えている、またあの時みたいに傷つけられるのではないかと怖くてたまらない。
震災後、問題を表面化させないよう務めて頑張った、問題山積なのに何でもないように振舞って幸せであると糊塗していた。自分の感情にすら蓋をして「これぐらいで音を上げてはいけない」と怒りや悲しみさえ感じないようにしていた。ぶつけられた他者の感情さえ自分が悪いのだからと飲み込んでいた。これまでずっと苦しかった、自分を悪い人間だと感じるのは、泣き出したかった、辛くて哀しかった。
もう間違えたくない、自分の為にするべきは、この悲しみや怒りをきちんと感じることだ、腹立たしいと正直に感じることだ。
そして「震災」であれ今回の「他社移籍問題」であれ、皆「自分の判断で自分を決定したのだ」と認識することだ。境界線をはっきりさせること、そして自分の決定に「自信と責任」を持つことだ。
もし、責められたとしても罪悪感を感じなくていい、その罪悪感は誰のものなのだろうか、その怒りは誰のものなのだろうか。自分でいるという事は他者の防衛反応を自分のものにしなくていいという事だ。他者の心の問題は他者のもの、私はもう誰かの悩みを受け持たない、肩代わりしない。他者の苦しみに気づいたり、悩みに寄り添うことはあっても、間違ってはいけないのは「自分の感情」では無いという認識なのだ。
ではどうするか、私は皆が思うようになれればいいねと思う。そしてこれまで職場でやってこれたのも、心の問題に取り組む切っ掛けをもらえたのも、話を聞いてもらえたのも、知り合えたおかげだと感謝することだと思う。
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