心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

母親への複雑な今の心境

2022-11-26 00:50:28 | モヤモヤする事

母からの荷物が届いた、前日に電話もあった。便りには友人との楽しかった青森旅行と顛末、自信作である吊り柿についてもしたためられていた。

一個人としてなら、楽しく過ごせてよかったねと言ってあげられるが、娘としての母との関係には複雑な心境があり、素直に喜べない。母への嫌悪感を自己嫌悪はもうしないけれど、母にとって私の苦悩は理解できないものであり、過去のものなのだ。

前日の電話で私の近況を聞いてきた、勇んで話す私の話の内容に返事もそぞろで、直ぐに末尾の挨拶に向かう母、問いかけで義理は済んだというのだろうか。

私の愛されたいという欲求、母との一方的な嚙み合わない会話、昔から彼女は自分の世界で生きていて、そこに一人の人間としての私個人の感情は存在しないのだ。彼女は私には私の世界観がある事を理解できない、だからただ「なぞらえる様に」会話を進める。彼女が思っている世界は「彼女だけのものでしかない」ということを知らない。だから娘の感情や世界観は彼女の世界には存在しない、話しても理解できないのだ。

母と過ごす時間は子供の頃から何時もむなしい、感情の交流がないのだ。私が困っても悩んでも相談しても彼女には他人事のよう、理解できないと示し、母とは切り離したものとして実のない一般論を口にし、最後はうまくできない私を叱責する。

彼女は今幸せなのだろうか?

私はどうしたらいいのだろうか。母との関りを最低限に断っても、関りへの虚しさは消えない。

自分を振り向かない母への失望と執着、心理的離乳、母からもらえなかった無償の愛への渇望と、私個人の自立と成熟と愛着。何度でも取り組む課題なんだろうと感じている。

コメント

失敗を嗤わないでほしい

2022-11-26 00:26:23 | モヤモヤする事

失敗を嗤う人がいる、手を叩いて笑う、それは場を和ますため?

嗤われることへのトラウマがあるのだと思う。失敗の多かった子供時代、虐められていた時の同級生の談笑。今の職場で新人の頃のミスに「笑わないで」と初めて伝えた、それを言葉に出すのは勇気のいる作業だった。その時の相手の面くらった顔を思い出す。

同じ空間で失敗した人を嘲笑うのは、やはりおかしいことだと思う。優しくない世界、品位、人間性とかいう理論武装よりも、私が笑われるのが嫌なんだと思う、トラウマなんだろう。

人にもよるし状況にもよるし、人の失敗を嗤うのは人間だからでもあるから、社会性優位の為の方策な訳だし、場を和ますために人の失敗があった時笑うのはあっても仕方が無いのかもとは思う。

しかしその口で私は今日、他人の些細なミスを関係ない人と笑い合った。「あなたも笑ったよ」と言われてハッとした。当人を前にして笑わなければいいのか?同じ口で矛盾していると自己嫌悪した。

人間だから失敗も、優位性を図って笑ってしまうのもあるんだなと感じた。もう少し分解が必要な心の動きとトラウマ。私はどうなりたい?嫌悪じゃなくそんな自分を受け入れることから始めようと思う。

コメント

好かれたいの愛されたいの

2022-11-26 00:11:06 | モヤモヤする事

よく思われたいんだね、違うよ愛されたいんだ。

誰に愛されたいの?多分母に愛されたい。

仕事でも家庭でも関わる人のちょっとした顔色の変化に、嫌われたかな?と不安になる。

何故不安なの?よく思われたいというよりは、好かれたい愛されたいのだと思う。

嫌われたくないと思うから好かれたいと思うから、恐れから不安が生まれる。だから自分から奴隷になる、自分で勝手に縛られて苦しくなる。今日だって「嫌われたっていい、好かれなくたっていい」と思えていれば不安も疲弊も少しで済んだのかもしれない。

あなたが好かれたいと感じる人はあなたを大事にしていますか?

愛されなくたっていい、自分には自分がいて、自分を認めてくれる人もいる、それでいい。

愛してくれない人に期待しない、好かれたいと恐れなくてもいいのかもしれない。

コメント

私の世界観が幼く未熟だったという盲点

2022-11-23 22:28:24 | 新しい心持へ

私にとっての当たり前が、実は思い込みの激しい未熟な世界観だったとは思いもしなかった、それは盲点で、実は第三者には明らかなものだという事を最近知った。

「努力すれば正しくなれる、いつかできるようになる」妖怪人間ベムのようにいつか人間になりたいと、上手くいかない時に漠然と考えていた。未熟さを嘆く切っ掛けであり、また更に精進邁進するか、うらぶれた気持ちになるか、最後には立ち上がるしか道が思いつかなくて、またそんな体当たり路線である自分を嘆くのだ。

自分が育つ中の私の認知にある世界観や「私」という実感が「思い込み」だなんて自然に気が付くことなどできるのだろうか?各々が自分の世界観を信じてやり抜くものだが、存在する社会は一つで、それに近づくために皆頑張るし、そこから外れているからこそ虐められた糾弾されたりするんだろうと思っていた。

「みんな違う」という認知自体が皆ぞれぞれに「認知している世界観自体も違うのだ」というのなら、自分と違うからと正義感ぶって糾弾したりすること自体がおかしなことだ。私は知らなかったけれど皆もわかってないということだ。

「みんな違ってそれでいい」自体が、「千差万別の受け取り方をされている」だなどと気が付いている人などいるのだろうか?わかっていない人も多いんだろうなと思った。そしてそれでも生きていけるのだ。

コメント

自分がどういう人間でありたいか

2022-11-23 22:10:31 | 気づかされた言葉

 

「自分がどういう人間でありたいかを人生を通しての目標にしている」

雑誌で見た女優さんのインタビュー、さりげないけれど大事なこと。琴線に触れた言葉、私もどういう人間になりたいかを自分に問う。困難に直面した時、哀しい時、傷ついた時、ショックな時、自分に向き合う、もう自分ではない人生を送りたくない、誰かの為の人格を演じたくないから。あなたはどうなりたいの?これが私のモヤモヤの突破口だった気がする。

 

コメント