心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

母にしかできない仕事

2022-12-17 11:46:40 | 新しい心持へ

母に「あなたを一番愛してる」と言われたかった。

困った時に助けてくれて苦しむ時には寄り添うような、保護や無償の愛情や慈しみが伝わっていたら、無力な幼小期に「私は母親に愛されている」と信じることができていたなら、今こんなにも苦しんでいなかったのではないかという気付きがある。母親からの子供への肯定は「子供自身の自己肯定感」には不可欠だと思う、母親にしかできない仕事があると思うのだ。もちろん他の誰でもいいのだけれど、母にしかできない肯定というものは世の中に存在するのではないだろうか。

今も健在な私の母は、私の過去と現在の苦悩を知っても私に寄り添う事はしない。できないやらないではなくて、見たくない知りたくない対応したくないという回避が近い気がしている、生きていても得られない現在進行形の愛着の喪失感、母親と話すたびに心の傷が疼く。

そして世の中の「仲のいい母子」を正視できない、愛情を受け取っている人間に嫉妬と苦しみの感情が湧く。息子と夫の男同士の感情の交流は信頼関係を含め好ましく感じるが、私に娘がいたら夫から愛情を受けている娘を正視できないだろうと思う、憎しみと怒りとで娘を混乱させ傷つけるだろう。もしかしたら私の母親も、愛情を受けとる私に憎しみや怒りや未消化の想いがあったのかもしれない。

だからこそあえて、私は唯一の息子に「あなたを一番愛している」と伝える、この世の中で「私ががあなたの一番の味方だ」と言葉にして伝える。彼の母である私にしかできない仕事だと思うから、私のように「自己の肯定を得られず」苦しむような人生送らせたくないから。そして「母のような愛情を伝えられない可哀想な母」になりたくないから。

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自分以外の人間が正しいという思い込み

2022-12-07 19:00:16 | モヤモヤする事

自分以外の人間が正しいという思い込みがある。他者から何か言われた時「相手が正しい」と無意識に思い込み、無意識に対処している自分に気づいた。

「私が間違っていたから相手が怒っている」相手の言葉の内容を精査し対応しなければならない。「たった一つの真実=世の中の正義=相手の言葉」という思い込み、そして「私はできないが相手はできる」という思い込み、「だからこそ私を糾弾するんだろう」という思い込みだ。

指摘や非難は何のためにしてくるのか?

失敗した時に非を認め謝罪しても怒りを収めない人、大きく関係しない立場なのに責めるような言葉をかけてくる人、利害がない立場のはずなのに高圧的に人間性を貶めてくる人。謝罪しても許されないなら、下を向いて自分を責め続けるしかできない。消えてなくなりたい死ねば許されるのか「どうしていいかわからない」という大きな不安感に押しつぶされ、投げやりな気持ちになる。

以前カウンセラーに言われた言葉「何故鵜吞みにするのか?鵜呑みにしなくていい」

夫には「何故そう思うんだ?おかしな奴がおかしなことを言ってるだけだろう!済んでしまった事やどうしようもできない事を話し合っても無駄。どうしようもできない事を追及したところで無駄。おかしなことを言ってくる奴とは建設的な話し合いなどできない。反省する面は大いに反省し、善悪ではなく合理的な答えを導き出すのが正解だ。もしもそれ以上の事をグダグダ言ってくる奴がいたとしたら、それは合理的な人間ではないということなので、ああそうですか済みませんでした、それでいいじゃないか!なんでわからないんだ、前にも言っただろう!」

理由を問う必要のないもの、否は認め真摯に向き合う必要はあるが、貶めてくる言葉をかけられたとしたら受け入れる必要のないもの。それは「本当の意味では私の世界にはなかった」そんなことは知らなかった。喧嘩は買わないこと売らないこと。責め立てられたら対抗しなければ自分を守れない「それは違う!」と怒りを示すしか方法は知らなかった、しかしそれでさらに攻撃されたら最後は沈黙するしか手はなかった。

×→「自分以外が正しい」で、〇→「どちらが正しいかではなく、感情を交えず合理的に問題を解決する」これが最適解なら私は最初から誤っていたという事になるが、とりあえず取り入れてみることにする。認知の歪みがあるし、統合的に応用が下手なので何度も繰り返し覚え込ませる必要がある。こんな自分に失望がある、何故うまくいできないのか何故こんな思考回路なのか、受け入れるのは辛いけれどこれが私の現実で意識的にやっていくしかない、しかしそれは「本当はとても悔しい事」なのだと思う。

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アイスの蓋事件

2022-12-07 17:34:19 | かなしい記憶

中学生の時、アイスクリームの蓋で一つ違いの兄と揉めたことがあった。

兄妹が多いと食べ物の取り合いになる。冷凍庫にアイスクリームがあったので食べることにした、2種類2個あった、皮算用するとこのアイスクリームは兄と私のものになる。通常なら2個あったら三人兄弟の場合ヒエラルキーの関係で私の分は無い予定だ、しかし先着二名様なら証拠は隠滅される、後でごみ箱を見て妹に糾弾されるだろうが、現物が無ければどうしようもない。

妹の帰宅は遅い予定だった兄はそろそろ帰宅する、先着二名様だ、兄も私も好きではないアイスを選んで蓋を開けた。しかしふと思った「何故、私は好きなアイスを選んではいけないのだろうか?」兄の為に「なぜいつも自分が損をしなければならないのだろうか?」いつもいつも嫌な役目は嫌だった。強い立場の者に損切りすればよかったのだが、家族の中でいつも虐げられることに嫌気がさしていた。思い直して嫌いなアイスの蓋を戻し好きなシャーベットを選んで食べた。革新的な気分だった。

兄はどうやら二個あったアイスの存在を昨夜のうちにチェックしていたようだ。帰宅後遊んでいたファミコンの手を止め冷凍庫に向かう、そして好きではないアイスしか存在しないことに憤慨し怒り出した。時間的に食べたのは私だと思い至り私の胸倉をつかんで問答になった。「俺のアイスを食べたな!」「俺のではないでしょ」いつも先着順という通り文句で好き勝手していた兄に、私が冷静に答えたら話の矛先が変わった。

「蓋を開けた形跡がある元に戻せ」「好きじゃないアイスだから戻したんだろう」「いったん手を付けたのなら責任を持って嫌いなアイスを食べるべきだった」正論ではある。しかしもう食べてしまったものは戻せない、アイスの蓋も然りだ。「いったん開けた蓋は開けただけだし、開けた蓋を無かった状態に戻すなど不可能だ、ならば買い直してくればいいのか?」「自分が食べたくないアイスだったから腹が立っただけでしょう」兄は激昂し胸倉をつかんだまま私を床に押し倒した、怖くなって必死に喋った「じゃあ、どうすればいいのよ!」兄は黙った、そして「自分で考えろ」と言った。

私は兄に組み敷かれて今にも殴られそうだ、睨み合いながらこのシュールな状況を遠くから眺めている感覚と、どうしたらこの状況が改善されるのか必死に考える自分がいた。謝っても許されない場合、どうしたらいいのか私には今もわからない。今思えば、これは兄が「思い通りにならなかった憤懣」を私に向けただけなのかなと思う。

私は「理解に困る=怖かった=暴力」回避したんだろうと思う、そして発達的な特性の為に記憶の整理が上手にできず、断片的に記憶した結果が今の「いいようのない不安」に繋がったのかもしれない。「誤った認知=自分が悪いから」に繋がったのかもしれない。

 

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たった一つの真実なんて存在しない

2022-12-04 21:17:39 | 新しい心持へ

私が感じている真実、私が判断の基盤にしている本能的な感覚は「実は極端な思考」らしい。私の感覚は大多数とは違うものらしい。気づきによって根底から変わる私の世界への認識「真実は一つじゃない」

人間は多重で多層だから、いろいろな思考があるという事、自分を妥協して生きていくことも正しいことの一つ。私の思う「たった一つの真実」の正体は「白黒思考」だったのかもしれない。だから私は苦しかったのかもしれない。「たった一つの真実のはずなのに」「これが正しい事なのに」と、上手くいかない度に悔しい思いをしてきた、多分そういう思い込みを抱えていたから苦しかったのだろうと思う。

真実は人それぞれであり、それが正解であり現実だなんて知らなかった。ずっと「たった一つの真実=私が認識する世界観=皆が求める正義」だと考えてきた、皆がそのたった一つの真実を目指して生きているんだと思っていた。だから上手くできない私を皆が責めているんだと思っていた、至らないから糾弾されるんだろうと考えてきた、努力してもできない私は駄目な人間なんだろうと考えてきた。

思い込みを手放して楽になりたい、今は他者からも押し付けられて苦しいけれども。人はそんな間違いを間違いと知らず生きているのだろう、これまでの私のように。今回の私の失敗は済んだことであり変えようがないから、脇の甘さが招いた敵意を受け入れることにする。嫌われた事実を受け入れる、彼女にとって私が信頼できない人になったように、私にとっても同義となったということだ。

至らぬ自分を受け入れることにする。怒りも衝動性もひらめきもいったん保留して、本能に従わないこと俯瞰的に考えること。その上で楽観的な気持ちを大切にして人生に挑むこと。きっと変われると自分を信じてみることにする。

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きっぱりと不安と依存を切り捨てる

2022-12-04 15:55:03 | 不安な時の

「不安と依存をやめることにした」「思い切って不安や依存を切り捨てる」のだ。きっぱりと彼女たちや他人を諦める、わかってほしいを諦める。

これまで新しい価値観を学んできた、受け入れるにはシンドイ私の現実に向き合い、気づきと対応法の学びを繰り返してきた。「何故わかってほしいと強く思うのか」「何故衝動性が押さえ難いのか」理由は一つではなくて特性やトラウマや誤った認知や喪失など多層、図りかねている部分もあるけれど、ある程度まとまってきた感覚や技術を実践に移す時が来たように思う。

意地悪な人間が脱価値化してくる、成功しても私の価値を値引いてくる。悪意を持った人間がグループ内をかき回しさりげなく焚きつけている。ずっと傷ついてきたし今も苦しいけれど、実はこれからだってこんな出来事は起こる可能性がある。

この苦しさの根本に私の認知が影響していたように思う、自己理解や他者理解が足りなかった。目を伏せてきた「自分の特性からの強い思い込み」自分にとって自然な行為だから違和感なんて感じなかった。それが「何故うまくできないのか」の答えだったと思う。今後は踏まえたうえで、新しい価値観に進もうと思う。

自分の中の見捨てられ不安や白黒志向と距離を取る。人から得る自己肯定を食料にしないことに決めた。自己責任で私は私にOKを出すことに決めた。もう他人からの評価で自分の行動や生き方を変えないことにした。考え方を柔軟にするのだ。アピールせずに無関心な存在になる、反応は薄くする真面目に受けない、相手にしない気にしない。浅くてライトな関りニュートラルに、多くの横やりは受け流す。慎重に行動する警戒心を強化する。

私はどうなりたいの?それで実際はどうなのかな?自分に問いかけながら進めていきたい。

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