HBD in Liaodong Peninsula

北京でのぶらぶら街歩き日記です。

通州 「満洲電電社員殉職記念碑」と「通州事件綿花関係殉職者慰霊之碑銘」

2021-11-15 | 北京を歩く
北京市通州区の公道沿いに、1938年に日本関係者が建立した2つの石碑が並んで立っています。



地下鉄1号線八通線土橋駅のすぐ近く、京津公路沿いの緑地帯です。

ひとつは「満洲電電社員殉職記念碑」、もうひとつは「通州事件棉花関係殉職者慰霊之碑銘」です。

いずれも通州事件(1937年7月)の犠牲者を慰霊するために建てられたものです。



石碑の「満洲電電社員」とは、満洲電信電話株式会社のことです。満洲電電は1933年、長春に設立され、満洲国と関東州での通信・放送網を掌握しました。この日記でも何度かご紹介しています(2016年2月22日の日記)、(2015年5月30日の日記)、(2016年7月10日の日記))。

満洲電電はこの辺りまで進出していたことがわかります。

石碑は漢白玉です。







満洲電電の石碑の裏面には碑文が刻まれていたようですが、文化大革命で文字が破壊されてしまったため、読み取ることができません。
なんとか「鈴木」、「古井(吉井?)」、「昭和十二年」、「嗚呼可以」という書かれていたと思しき箇所が確認できます。

過去のニュース記事によると、この石碑は通州城内の精密機械工場を改修していたときに発見されたそうです。
すなわち、発見された場所が満洲電電の拠点だった放送局のあった場所だったということだと思われます。今の新華南路34号院の辺りです。

いつ頃ここに移設されたのかはよく分かりません。



綿花の石碑です。

こちらは花崗岩です。

これは通州事件で殉職した11名の綿花関係者を慰霊するために設立された石碑だそうです。



「綿花関係」とはなんのことでしょうか。殉職した11人はどういう人たちだったのでしょうか。

中国の文献によると、日本は中国北部(満洲)を支配した後、人と物資の輸送路を確保するため、北京と天津を結ぶ京津公路の建設を始めました。この区間は通州から武清(現在の天津市武清区)に至るルートです。

この道路建設に当たり、日本関係者は中国の軍関係者や市民が道路の両側で待ち伏せして略奪してくることを恐れ、トウモロコシや高粱などの背丈の高い作物を道路の両側で栽培することを認めず、綿花のような低い農産物の栽培を推奨しました。

また、日本軍は地元農民に対する綿花栽培を促進するため、日本から専門家を派遣しました。
やがて綿花の栽培が広がると、農民から収穫された綿花を買い上げ、この売り上げを勢力拡張のための資金にしました。

殉職した11人というのは、この綿花栽培に関わっていた日本人専門家だったというわけです。





碑文がやや浅く彫られているので非常に読みにくいのですが、事件が起きた時期とみられる「中華民国廿六年 昭和十二年七月」や、石碑を設立した時期とみられる「中華民国廿七年 昭和十三年」や、設立者とみられる「通州事件棉花関係殉職者慰霊碑建設委員会敬建 建設署署長殷同撰書」という文字が確認できます。
殷同とは、当時臨時政府建設署長だった殷同とみられます。



この中央の人物が殷同です。

「濱口良二」、「安田秀一」という名前も見えますが、彼らは殉職者でしょうか。

拓本を取ればすべての文字が判読できるかもしれません。





裏側と横側には文字は見当たりません。最初からなかったのでしょうか。

この綿花の碑は最初からここにあったそうです。
現在、京津公路(この辺りは九棵樹東路)沿いは延々と住宅が連なっていて農地は見当たりませんが、当時は綿花畑が広がっていたということだと思います。

こんな古写真がありました。1937年頃の北京です。



他の文献によると、実際に畑の中で待ち伏せをされて襲われたような事例があったそうです。

この2つの石碑は、通州区の文物保護単位に指定されています。





建立から83年の時を経て、よくぞ今まで破壊されずに残ってきたものだと思います。
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