旅順新市街の太陽溝に、記録映画監督の羽田澄子さんが暮らした家が残っています。
この一帯には、同じ規格の建物がたくさん残っており、どれも保存状態は良好です。
装飾を省いたシンプルなレンガ積みの作りです。
建てられたのは1930年前後でしょうか。
羽田さんの著書「私の記録映画人生」によると、羽田さんは1926年1月に大連で生まれ、一旦日本に戻った後、1936年(小学5年生時)に旅順に戻り、旅順で小学校と女学校(旅順高等女学校)に通いました。
女学校の卒業(1942年)後は単身で東京に戻り、自由学園に通ったとあります。
したがって、羽田さんがここで暮らしたのは10歳から16歳までの6年間だったということになります。
もっとも多感な時期です。
羽田さんは著書の中で旅順で暮らした家について、次のように説明しています。
「家は港を見下ろす高台にあって、並木のアカシヤが葉を落とすと、坂の下の方まで見通せた。石炭を積んだ馬車は、その坂道をごとごとと登ってくるのである」
たしかに玄関先は坂道になっています。
この表現から推測すると、この写真の2階左側が羽田さんが暮らした子ども部屋だったのでしょう。
羽田さんは、旅順での暮らしで、ロシア軍が作った大案子山永久堡塁(2015年5月28日の日記)や旅順博物館(2014年1月19日の日記)で遊んだと語っています。
小学6年時は、旧関東都督府の庁舎(2013年12月20日の日記)が小学校の校舎になったそうです。
当時、旅順は聖地として日本人に人気の観光スポットでした。
旅順の日露戦跡といえば、1世紀以上を経た今でも手つかずのまま生々しい姿を留めているところが少なからずありますが、羽田さんが暮らした当時はさらにリアルだったことでしょう。
羽田さんは、著書の中で、旅順の街について
「美しいアカシアの並木に囲まれ、広々とした土地に、優雅なロシア建築が点在する街の姿を、私は忘れられない」
と讃えています。
また、羽田さんにとって旅順での生活は
「私の家族にとって、最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だった」
と紹介しています。
羽田さんは、東京が大空襲を受けた1945年3月に卒業し、焼け野原となった東京から大連に戻りました。
その後、戦時動員として満鉄中央試験所(2013年12月5日の日記)に配属されて研究の助手を務めているうち、大連で終戦を迎えます。
日本への引き揚げは1948年7月、到着地は京都の舞鶴港だったそうです。
羽田さんのお父さんは教師で、羽田さんの出生時は弥生高等女学校に勤務していたそうです。
いったん帰国して三重県津市の女学校で勤務した後、1936年に再び遼東半島に戻り、旅順高等女学校で教鞭を取ったあと、1942年から大連実業学校の校長を務めたそうです。
記録映画の監督として名を成した羽田監督にとって、多感な時期を過ごした租借地旅順の暮らしはとりわけ大きな影響を与えたようです。
願わくば、一度ご本人にお目に掛かってみたいものです。
今回の写真も、東東京うさぎのモヒーさんに提供していただきました。
モヒーさん、ありがとうございました。
この一帯には、同じ規格の建物がたくさん残っており、どれも保存状態は良好です。
装飾を省いたシンプルなレンガ積みの作りです。
建てられたのは1930年前後でしょうか。
羽田さんの著書「私の記録映画人生」によると、羽田さんは1926年1月に大連で生まれ、一旦日本に戻った後、1936年(小学5年生時)に旅順に戻り、旅順で小学校と女学校(旅順高等女学校)に通いました。
女学校の卒業(1942年)後は単身で東京に戻り、自由学園に通ったとあります。
したがって、羽田さんがここで暮らしたのは10歳から16歳までの6年間だったということになります。
もっとも多感な時期です。
羽田さんは著書の中で旅順で暮らした家について、次のように説明しています。
「家は港を見下ろす高台にあって、並木のアカシヤが葉を落とすと、坂の下の方まで見通せた。石炭を積んだ馬車は、その坂道をごとごとと登ってくるのである」
たしかに玄関先は坂道になっています。
この表現から推測すると、この写真の2階左側が羽田さんが暮らした子ども部屋だったのでしょう。
羽田さんは、旅順での暮らしで、ロシア軍が作った大案子山永久堡塁(2015年5月28日の日記)や旅順博物館(2014年1月19日の日記)で遊んだと語っています。
小学6年時は、旧関東都督府の庁舎(2013年12月20日の日記)が小学校の校舎になったそうです。
当時、旅順は聖地として日本人に人気の観光スポットでした。
旅順の日露戦跡といえば、1世紀以上を経た今でも手つかずのまま生々しい姿を留めているところが少なからずありますが、羽田さんが暮らした当時はさらにリアルだったことでしょう。
羽田さんは、著書の中で、旅順の街について
「美しいアカシアの並木に囲まれ、広々とした土地に、優雅なロシア建築が点在する街の姿を、私は忘れられない」
と讃えています。
また、羽田さんにとって旅順での生活は
「私の家族にとって、最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だった」
と紹介しています。
羽田さんは、東京が大空襲を受けた1945年3月に卒業し、焼け野原となった東京から大連に戻りました。
その後、戦時動員として満鉄中央試験所(2013年12月5日の日記)に配属されて研究の助手を務めているうち、大連で終戦を迎えます。
日本への引き揚げは1948年7月、到着地は京都の舞鶴港だったそうです。
羽田さんのお父さんは教師で、羽田さんの出生時は弥生高等女学校に勤務していたそうです。
いったん帰国して三重県津市の女学校で勤務した後、1936年に再び遼東半島に戻り、旅順高等女学校で教鞭を取ったあと、1942年から大連実業学校の校長を務めたそうです。
記録映画の監督として名を成した羽田監督にとって、多感な時期を過ごした租借地旅順の暮らしはとりわけ大きな影響を与えたようです。
願わくば、一度ご本人にお目に掛かってみたいものです。
今回の写真も、東東京うさぎのモヒーさんに提供していただきました。
モヒーさん、ありがとうございました。
一昨年、羽田さんにお会いすることができました。
ガイドブックの取材でした。色々お伺いしていますとご記憶が曖昧な箇所は、ご自身のびっしり書かれた記録ノートをめくって、伝えてくださいました。
またお会いできたらと思っています。
今回は特に提供した写真を何枚も使っていただき,坂道の描写と写真が相まっている感じが素敵だなと思いました。同旧居は太陽溝の中でも比較的大きい交差点でした。わかりやすい立地ですね。
私も同じく羽田澄子監督にお会いしてみたいという気持ちは強いです。
旅順の堡塁跡を全部制覇したいと思っております。
是非お力添えいただけましたらと思っております。
もし差し支えなければ、メールにご連絡いただければ幸いでございます。
yingye2014@163.com
ご検討よろしくお願いします。
旅順の堡塁跡を全部制覇したいと思っております。
是非お力添えいただけましたらと思っております。
もし差し支えなければ、メールにご連絡いただければ幸いでございます。
yingye2014@163.com
ご検討よろしくお願いします。
もちろん、必要があれば喜んでご説明します。
街歩きのお供にしていただければ幸いです。
はじめまして。
私は大連開発区に駐在しております、56太丸と申します。私も日本史や中国史に興味があり、中国の色々な史跡を回っております。日露戦争関係の遺跡を回りたい思っておりましたところ、こちらのブログを見つけました。
中々見つけれない所を回られていてすごいですね。
ブログ楽しく読まさせていただきました。
私も旅順の日露戦争関係の堡塁を是非回りたいと思っております。
差し支えなければ、色々ご教授いただけないでしょうか。どうぞ宜しくお願いします。
56太丸