久しぶりに旅順要塞の帝政ロシア軍の堡塁跡をご紹介します。
大案子山堡塁は、旅順新市街に最も近い要塞のひとつです。
二〇三高地より旅順湾寄りで、歩けば30分以内に新市街の住宅地に到達しますので、日露戦争ではロシア側の最終防衛ラインだったと思われます。
(頑丈な石造りです)
(保存状態は良好です。1世紀前のものとは思えません)
昭和12年に発行された写真集に掲載されています。
これも当時の写真です。
現在の堡塁の保存状態は極めて良好です。
爆破跡や弾痕も見当たりません。
このため、とても100年以上前に建設された堡塁とは思えません。
ここが攻撃される前にロシア軍が降伏したため、この堡塁は戦闘地にはなりませんでした。
東鶏冠山や二龍山など、激しい戦闘の跡が生々しく残っている北側の堡塁と対照的です。
最前線の激戦地の守備を任されたロシア兵に比べると、ここの守備を命じられた兵隊は命拾いをしたかもしれませんね。
ところで、大案子山堡塁では、近隣住民が堡塁の屋根部分や空き地を利用して野菜の栽培に勤しんでいました。
(堡塁の上が畑になっています)
場所を選んで丁寧に耕しているようです。
こんな条件の悪い山の上で野菜の栽培をしようと考える人もすごいですが、それを黙認する行政もなかなかの度量です。
さて、僕の旅順要塞巡り歩きも3シーズン目になりました。
これまで何度も旅順の細かいところに足を運んだおかげで、だいぶロシア軍の堡塁配置の地理が頭に入りました。そうすると、当時のロシア軍がどこの守備を強化してどこを大事に思っていたのか、日本側がどこを狙っていたのかがわかるようになってきました。
(この切り通しは人工的に掘られたものと思われます)
旅順のこうした一部の堡塁では、1世紀以上の間、歴史が止まったままで当時の記憶を留めています。
(旅順口区の保護単位になっています)
大案子山堡塁は、旅順新市街に最も近い要塞のひとつです。
二〇三高地より旅順湾寄りで、歩けば30分以内に新市街の住宅地に到達しますので、日露戦争ではロシア側の最終防衛ラインだったと思われます。
(頑丈な石造りです)
(保存状態は良好です。1世紀前のものとは思えません)
昭和12年に発行された写真集に掲載されています。
これも当時の写真です。
現在の堡塁の保存状態は極めて良好です。
爆破跡や弾痕も見当たりません。
このため、とても100年以上前に建設された堡塁とは思えません。
ここが攻撃される前にロシア軍が降伏したため、この堡塁は戦闘地にはなりませんでした。
東鶏冠山や二龍山など、激しい戦闘の跡が生々しく残っている北側の堡塁と対照的です。
最前線の激戦地の守備を任されたロシア兵に比べると、ここの守備を命じられた兵隊は命拾いをしたかもしれませんね。
ところで、大案子山堡塁では、近隣住民が堡塁の屋根部分や空き地を利用して野菜の栽培に勤しんでいました。
(堡塁の上が畑になっています)
場所を選んで丁寧に耕しているようです。
こんな条件の悪い山の上で野菜の栽培をしようと考える人もすごいですが、それを黙認する行政もなかなかの度量です。
さて、僕の旅順要塞巡り歩きも3シーズン目になりました。
これまで何度も旅順の細かいところに足を運んだおかげで、だいぶロシア軍の堡塁配置の地理が頭に入りました。そうすると、当時のロシア軍がどこの守備を強化してどこを大事に思っていたのか、日本側がどこを狙っていたのかがわかるようになってきました。
(この切り通しは人工的に掘られたものと思われます)
旅順のこうした一部の堡塁では、1世紀以上の間、歴史が止まったままで当時の記憶を留めています。
(旅順口区の保護単位になっています)
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