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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

旧クレディ・アグロコル銀行天津支店

2021-11-27 | 天津を歩く
旧クレディ・アグロコル銀行(東方匯理銀行)は、天津の開放北路と赤峰道の交差点に残る近代建築です。



クレディ・アグロコル銀行(Crédit Agricole Corporate and Investment Bank)とは、フランス農業信用銀行傘下の投資銀行でした。
1875年にパリで設立されました。

天津支店は1898年に設立され、貿易、為替、外貨売買を主な業務としていました。

このレンガ造りのビルは1912年の竣工です。
パリの本店から提供された設計図に従って建築されたそうです。



建築から100年を越える割には劣化が感じられません。きっと最近、修復が行われたものと思います。
屋上に立つあずまやのような装飾は、後から付けられたようです。

銀行は天津の解放後、中国銀行天津支店から外貨専門銀行に指定され、経営を続けました。その後1956年に業務を停止しました。
天津では最も遅く閉鎖された外国銀行でした。

天津市重点保護建築です。
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天津 清国駐屯軍司令部の跡地

2021-11-24 | 天津を歩く
天津の日本軍の拠点だった清国駐屯軍司令部と兵営があった跡地を歩いてみました。

かの日本騎馬兵の父・秋山好古が司令官として駐在した場所です。

現在は中国医学科科学院血液病医院と海光新邨という住宅になっています。
旧日本租界の南西角です。



何か遺構が残っていないでしょうか。

元々ここには海光寺という寺がありました。

寺は19世紀に移転して今はここにはありませんが、今も地名として地下鉄の駅名や交差点名にその名を残しています。

海光寺は康煕帝時代の1705年に建立された名刹で、康熙帝も1719年にこの寺を訪れたと伝えられています。

その後海光寺が移転し、清国政府はここに軍の施設を置きました。

そして1898年、この地は日本租界となりました。
清国駐屯軍司令部が置かれたのは、義和団の乱を経た1901年です。

1901年4月、歩兵、騎士兵、砲兵、工兵、野戦病院などを含む日本軍1700人が入営したそうです。

初代司令官は大島久直でした。秋山好古は1901年10月から1903年4月まで司令官を務めています。

駐屯軍はその後変遷を経て支那駐屯軍、北支那駐屯軍と名前を変え、日中戦争に入ると、大本営は駐屯軍を北京の北支那支援軍に編入しました。

中国語の文献によると、跡地には、日本の駐屯軍の兵舎だった建物が改修された状態で2か所残っているといいます。



この黒レンガでできた3階建ての建物がその一つだそうです。

病院の施設の一部として使われています。





最近外装をリフォームしたのか新しく見えますが、建築の様式やレンガのひとつひとつをよく観察すると、たしかに戦前の建物のようです。
1階部分が半地下のようになっているもの当時らしいです。



この平屋建ての建物も相当古そうです。





これも当時の建物ではないでしょうか。



この老木も駐屯軍の頃からあったかもしれません。



日本租界のあったこの辺りは土地が低く、ひと雨降ると水があちこちにたまり、夏になると湿地帯になるような条件の悪い場所だったそうです。

たしかに、1920年代や30年代の天津日本租界の古写真を探すと、洪水で浸水した街の写真がよく出てきます。

ここに日本の駐屯軍が置かれた1901年頃の話です。

日本租界は南隣が英国租界、北東側はフランス租界に接していましたが、これら欧州列強に遅れて租界地を置いたこともあり、こういう場所を選ばざるを得なかったのだと思います。

小説「坂の上の雲」では、この頃の日本租界は後発組だったこともあって街づくりが遅れていて、道幅も狭く全体が猥雑で、欧州人の目から見ればスラムのような風景ではなかったか、と説明しています。

小説では、秋山は、海光寺司令部を訪ねてきた伊集院彦吉在天津領事から「どうも、秋山君、日本租界はきたないですな」と話しかけられ、「欧州各国の租界にくらべて、肩身のせまいことです」と応じています。

日本は貧しかったのです。

さらに秋山は「日本とは、つらい国ですな」と語りつつ、辛さをぼやくだけでなく、「せめて、道普請でもしましょうか」と、自らつるはしを持ち、工兵を率いて道路を広げます。

現在、海光寺周辺の道路はきれいに整備されています。
下水道も整備されていますので、湿地帯だったころの面影はまったくありません。

120年前に秋山が整備した道はどの辺りだったのか、想像しながら歩いてみます。

また、NHKドラマの方では、秋山が司令部を訪ねてきた袁世凱と白酒の飲み比べをしながら丁々発止のやりとりをするシーンが描かれていましたが、それもここです。





跡地は病院や集合住宅なので、自由に入ることができます。
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天津 旧百福大楼

2021-11-09 | 天津を歩く
天津の旧百福大楼は解放橋の南詰、海河に面して建つ歴史建築です。



竣工は1926年です。
敷地面積は3020㎡、建築面積は3913㎡です。5階鉄筋コンクリート造りです。



解放橋からは河岸に沿って美しいオレンジ色の尖頂が並んでおり、さながら豪華な客船のようです。

百福大楼はフランス人技術者のメンデルソンが設計した商業、オフィス、マンションが一体化された複合ビルでした。

ビルの名前となった「百福」とは、フランス語名「BELFRAN」の音訳です。BELFRANとはベルギー「Belgique」とフランス「France」を組み合わせた単語です。
当時の百福大楼を所有し、貸し付けていた会社(CREDIT FONCIER D“EXTREME-ORIENT)は、フランスに直接統治されていたベルギー財団グループに属し、拠点をパリに設置していたため、ベルギーやフランスと繋がりを持っていました。

1976年の唐山大地震で屋根の一部が破損しましたが、2007年、天津市政府は設計当時の図面や古写真を参照して修復工事を施したそうです。

建物の目線の高さに、こんな刻印がありました。



フランス語でしょうか?

こう書かれています。

1927
PROPRIETE
DU
CREDIT-FONCIER
D"EXTREME ORIENT


この刻印は、実はビルの修復工事が行われていた2009年に発見されたそうです。それまでは厚い塗料で覆われていたのだと。これは大発見ですね。

現在はレストランとして利用されているようです。

天津租界時代に残された重要な建築の一つです。



天津市文物保護単位です。
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天津 旧フランス租界工部局

2021-10-24 | 天津を歩く
天津のフランス租界工部局は、フランス租界内の警察、消防道路、衛生などの行政を掌った機関でした。





解放北路の旧フランス租界の中心付近です。

天津にフランス租界が設立された当初、租界地は在天津フランス領事館が直接管轄していました。しかし、その後租界内で暮らす住民が徐々に増加し、行政管理権がフランス本国の移民局に移管され、自らの行政機関を設立しました。



この旧工部局ビルは1934年に建設されました。
4階建てです。
警察業務を担っていましたので、中には拘置所もありました。





1階のエントランスはこんな凝った作りになっています。

今は複数の会社や機構が入居しているようでした。

天津市文物保護単位です。
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天津 旧大陸銀行本店

2021-10-18 | 天津を歩く
大陸銀行とは中華民国時代に存在した銀行です。

銀行の設立は1919年です。本店はこの天津旧フランス租界に置かれました。



この旧本店ビルが完成したのは1921年です。
北京、上海、青島、ハルビン、済南、石家荘、鄭州、漢口など多くの支店を作り、民国の民族ビジネスを下支えしました。

1933年頃になると、トップ人事の交代や日中戦争の影響を受けて銀行業務は次第に収縮するようになり、主要業務は不動産に移っていきました。



大陸銀行は1943年8月に本店を上海に移し、この天津本店は天津支店に変わりました。
その後、1952年に他の銀行と合併することで銀行名は消滅しました。

中何大陸銀行は、当時「北四行」とよばれた中国北方の4大商業銀行の一つでした。
ちなみに、他の3行とは、塩業銀行、金城銀行、中南銀行です。

北四行は1922年から共同営業事務所を設立し、共同で紙幣発行などの経営を行いました。
中国の民営銀行の先駆けであり、工業化、近代化を支えた銀行です。

玄関には交通銀行の文字が掲げられていますが、現在、建物は使われていないようです。
玄関の黄色い塗装が目立ちますが、これは最近塗装されたものだと思います。



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旧イタリア中国銀行本店

2021-09-27 | 天津を歩く
イタリア中国銀行(華義銀行、The Banca Italo-Cinese)は天津和平区のフランス租界にあった中国とイタリアの合弁銀行でした。



解放北路の金融街です。

1920年に設立されました。

第二次世界大戦は始まるまではアジアで重要なイタリアの金融仲介者でした。
天津が本店で、北京と上海に支店が置かれました。

中伊双方が資金を出し合い、双方から総裁を出しました。
一般の商業銀行業務を経営したほか、兌換券も発行したそうです。



1924年にはイタリアの独資経営に転換し、本店も上海に移転します。
その後、大戦が始まる1940年まで経営を続けました。

2階建てのかわいらしい建築です。
現在は使われていないようです。

エントランスに興業銀行のロゴを外した形跡がありますので、最近までは興業銀行が使っていたようです。
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天津 旧フランスクラブ

2021-09-15 | 天津を歩く
天津の旧フランスクラブは、フランス居留民のための娯楽場でした。



1931年の建設です。フレンチ風モダニズム建築と呼べばいいでしょうか。

場所は解放北路と濱江道の交差点で、旧フランス租界のほぼ中心です。

フランスクラブはフランス公議局が出資して建てられました。

施設にはバー、劇場、ダンスホール、ビリヤード場などが置かれ、裏庭には小さな中庭がありました。
建築面積は2941 m²です。
一見すると平屋建てに見えますが、半地下室があります。正面玄関の透かし彫りの豪華な花飾りがとても目立っていますが、これは当時のままでしょうか。



当時、フランス商会の事務局もここにあったため、フランス人ビジネスマンが集う場所でもありました。



戦後しばらくは天津青年宮として利用されたようです。現在は天津金融博物館として開放されています。

天津市文物保護単位です。

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旧武徳殿 - 天津で最も日本らしい建築物か

2021-09-06 | 天津を歩く
武徳殿は、かつて天津の日本租界に建てられた日本人向けの武道場です。



いかがでしょうか。今も完全な形で残っています。

切妻の装飾や鬼瓦、日本の神社仏閣の建築そのものです。
交通量の多い南京路沿いですので、とても目立ちます。忽然とこの姿が現れると、日本人なら驚くと思います。





文献によると、武徳殿は1941年に財団法人大日本武徳会の主導で建設されました。
一階は宿舎、二階が練武場として利用されていたようです。



大日本武徳会は1946年にGHQによって解散を命じられたので、実際に武徳殿として使用されたのはほどしかありませんでした。
この頃の大日本武徳会は陸軍と海軍が共同所管政府部門に名を連ねるなど戦争翼賛団体の色が濃く、1942年には東条英機が会長に就任しています。

大日本武徳会は解散後、任意団体として再興し、現在は一般社団法人大日本武徳会として活動を続けています。









この建物は2009年に放送されたNHKの「世界ふれあい街歩き」天津編で紹介されました。

そこから12年が経っていますので、現存しているか少し心配していましたが、しっかり保護されていました。

現在は天津医科大学附属図書館として利用されているようです。

天津にはかつて9か国が租借していただけあって、当時の建築群を万国建築博物館と呼んだりますが、武徳殿は博物館らしい特色ある建築物といえるでしょう。



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天津 旧米国海軍クラブ

2021-08-31 | 天津を歩く
天津の米国海軍クラブは、租借時代の金融街である解放北路にありました。



英国の商人ナニスよって1924年に建設された英国古典主義様式の2階建てです。

場所は横浜正金銀行の東隣りで、営口道と交わります。英国租界とフランス租界の境界に当たる場所です。

建築面積は2460平方メートルです。



内部にはバー、ボールルーム、カフェ、レストラン、ダンスフロアなどがあり、外国駐屯軍員のための娯楽施設でした。

1階部分がやけに高いことが分かります。
これは1階にボールルームやダンスフロアの設えが考慮されたからでしょうか。

交差点に面した平面は半弧状で、アーチ式の窓を大きな窓が並んでいます。

2階部分は十数本の円柱が軒先を支え、外廊式ベランダを設えています。
2階の窓の上部には凝った花飾りやレリーフで装飾されていて、優雅な雰囲気を持たせています。

当時はこのベランダから欧米の駐屯軍セーラーマンたちが交差点を見下ろしながら憩いの時間を楽しんだのでしょうか。様々な国籍の人たちが行き交うこの場所は独特な雰囲気に包まれた天津ならではのコロニアルな空間だったのではないでしょうか。

今でも当時の残り香が鼻腔をくすぐってくるようです。

今は使われていないのか、僕が訪問したときには閉鎖されていました。
外から見ただけですが、保存状態はかなり良好な様子ですので、再利用は十分可能だと思われます。一度入ってみたいものです。

きっと米国には当時の施設内部の写真が残っているのではないかと思います。

天津市文物保護単位です。
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天津旧英国租界 旧天津印字館

2021-08-22 | 天津を歩く
天津の租界時代のレトロ建築が並ぶ和平区解放北路の旧英国租界で、こんないかにも英国っぽいチューダー様式の建築物を見かけました。



これは、天津印字館と呼ばれた建物で、なんと竣工は1886年だそうです。

旧天津印字館は、英国人商品ケントによって設立された英国人が天津で創設した初の活字印刷工場だったそうです。
1894年から京津タイムズ英語版、海外の科学技術書や各種の精巧な英語書籍などを印刷出版したそうです。

竣工から135年が経過していますが、何度か補修が重ねてきたのでしょうか、保存状態は良好です。

天津市文物保護単位です。
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天津利順徳飯店 - 中国最古の外資ホテル

2021-08-10 | 天津を歩く
古い銀行建築が並ぶ和平区解放北路の旧英国租界を歩いていると、何様式とも言い難い独特の存在感をたたえるレンガ積みの歴史建築が目に入ってきました。



これは天津利順徳飯店(アスタープラザ)という中国初の外資系ホテルとして建てられた宿泊・会議施設だったそうです。



英国のメソジスト派宣教師ジョン・イノセントによって1863年に建てられました。
開業当時から自家発電、電話や電報の設備を備えていたラグジュアリーホテルでした。

19世紀半ばに建造したホテルが残っているとは貴重です。
建築当初は平屋建てで、その後拡張が繰り返されて今の姿になったようです。



清がデンマーク、オランダとそれぞれ結んだ天津条約(いずれも1863年)はここで締結されるなど、様々な外交の舞台として利用されてきました。日本も最初に領事館を設置したのはこのホテル内だったそうです。



全国重点文物保護単位に指定されていますが、ホテルとして指定を受けているのは全国でここだけです。

宿泊した著名人は孫文、米国のフーバー大統領、英国のエドワード八世国王、チャップリンと、そうそうたる顔ぶれです。当時の世界のセレブがここを利用したのですね。
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旧華露道勝銀行 天津支店

2021-07-30 | 天津を歩く
旧華露道勝銀行天津支店は、和平区解放北路の銀行街に残る近代歴史建築です。





華露道勝銀行は1895年に露清銀行としてフランスとロシアが立ち上げた銀行でした。
本店はサンクトペテルブルクで、中国国内では20か所あまりに支店がありました。

旅順支店はこれ(2014年1月15日の日記)です。

天津支店は1896年に開業し、発行されたルーブルを主な取引単位にして投機売買を行いました。
この建築物は1900年の建築です。





2階建てのレンガ造りで、曲線を取り入れた窓やの装飾やバロック風のドームなど、典型的なロシア風の古典様式です。
いかにも旅順やハルビンでみかけそうな建築物です。
窓枠は木枠が嵌め込まれているようですが、これは建築当時のままでしょうか。



1926年、華露道勝銀行は外国為替投機に失敗して経営が行き詰まり、業務を終了しました。
建物は最近まで中国人民銀行として利用されていたようですが、僕が訪問したときには閉鎖されていました。
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天津 旧中国フランス工商銀行

2021-07-24 | 天津を歩く
旧中国フランス工商銀行天津支店です。



解放北路の金融街の中心に位置しています。旧フランス租界と英国租界の境目、旧横浜正金銀行の北隣です。

中国フランス工商銀行は中国フランス実業銀行として立ち上がった中仏合弁の金融機関でした。
本社はパリにありました。
天津支店は1925年に開業しました。

この4階建てビルはブロサール・モパン(Brossard & Mopin)というフランスの建設会社による設計だそうです。





解放北路に数多ある金融機関群の中でも、存在感は随一です。

解放北路と営口道に面したファサードの1、2階部分には10本のコリント様式の柱が円弧状に対称に並んでいます。3階部分と4階部分は後から増築されたようです。
4階部分は回廊になっていて、屋根を支える柱廊が1、2階部分の柱とコントラストを成しています。

ファサードを円弧状にして交差点の角にエントランスを配置したのは、解放北路と営口道の交差点が斜めに交わっていて、この建物が鈍角(地図で確認すると110度ぐらい)になっている特徴を生かしたようです。



今の時代にフランス人がこの建物を見たら、一体どういう感想を持つものでしょうか。
100年前に租借地で自国の建築家が設計して建てたビルです。

きっと僕のような日本人の感じ方とはまったく違うのだと思います。
日本の場合、19世紀末から1930年代にかけては西洋建築の黎明期で、西洋に追いつき追い越すことを目指して西洋に学び、日本国内や租借地に競って西洋建築を建てました。
日本の伝統的な建築様式ではありませんし、今はそんな建築物は作られません。
その時代だけのものです。しかも、日本国内にはほとんど残っておらず、残っているのはこうした場所です。

そこには当時の日本人の実験やチャレンジがあるから、時代の空気を感じることができるから興味を惹かれます。

しかし、西洋人にとっては元々母国にあった文化で、今も母国にあるものです。
母国と租借地の建築にどれだけの違いがあるのかは僕には分かりません。

一度西洋人とこういう話題で話すことがあったら、この日記で報告します。

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香港上海銀行天津支店旧趾

2021-07-17 | 天津を歩く
香港上海銀行(HSBC、匯豊銀行)の天津支店は、和平区解放北路の旧英国租界、旧横浜正金銀行の南隣に残る近代歴史建築です。



香港上海銀行の設立は1865年です。本店は香港でした。
天津支店は1880年に開設された初の外国銀行でした。



このビルが竣工したのは1925年ですので、最初は違う場所にあったようです。
3階建ての混構造です。英国の建築会社による設計だそうです。



解放北路側には1階から3階部分に至る4本の迫力あるイオニア式円柱が客を迎えます。



南側の大同道沿いには7本が並んでいます。

現在は中国銀行として利用されています。

天津市文物保護単位です。
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天津 キースリンク本店 - 溥儀が通った西洋料理店?

2021-07-14 | 天津を歩く
天津の旧ドイツ租界にあるキースリンク本店は、近代史を伝える老舗西洋料理店です。



キースリンクは1901年創業とされていますので、今年で120年になります。天津初の西洋料理店だそうです。
キースリンクとは創業者であるドイツ人アルベルト・キースリンクの名前です。

キースリンクは北京議定書で天津に駐留することになったドイツ軍とともにこの地にこの地を訪れ、事業を始めました。
中国語では起士林(qishilin)、1930年代の日本の古地図にはキッスリンと表記されています。



ドイツ租界にドイツ人が開いたレストランということであれば、ドイツ料理を提供したのだろうと思いきや、ドイツ料理のみならずフランス料理や自家製パンや洋菓子を提供したそうです。
場所も最初からここではなく、最初はフランス租界にあって、数度の移転を経て、1953年にここに移転してきたそうです。

現在の建物は1940年の竣工で、当初はヴィクトリアレストランと呼ばれた西洋料理店だったようです。

ヴィクトリアレストラン時代の写真が残っています。







4階建てですが、すべてレストランとして利用されているようです。

当時と経営者は変わっていますが、2度の世界大戦という激動の時代を経て今も同じ店名で同じ西洋料理店として経営が続いているというのは非常に珍しいケースではないでしょうか。





なお、いくつかのガイドブックには、溥儀がキースリンクを度々利用したという記述を見かけますが、溥儀が通った店舗はここではありません。
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