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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

天津 金城銀行旧址

2022-04-11 | 天津を歩く
天津の旧英国租界、解放北路沿いの旧金城銀行です。



3階建てで地下1階があります。

1937年の建設で、設計者は中国人技術者の瀋理源です。

瀋理源といえば、あの凝りに凝った天津塩業銀行ビルを設計した人ですが(2021年6月2日の日記)、こっちの方は実験をしている感じはありません。

当初は2階建てだったという文献があるので、3階部分や赤い瓦は後年に増築されたものと思われます。

1976年の唐山地震で損傷を受けましたが、2006年から古い図面に従って修復が行われ、2008年に今の姿を取り戻したうです。

金城銀行は中華民国時代に影響力を持った民間商業銀行で、1917年の設立です。
北四行(民国時代の北方の4大大型商業銀行の総称。金城銀行、塩業銀行、大陸銀行、中南銀行)の一つでした。

銀行の創業者だった周作民(1884-1955)は日本留学経験者(1906年、京都第三高等学校)です。



今は天津農商銀行が使っています。

天津市文物保護単位です。
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天津 旧紫竹林教会

2022-03-24 | 天津を歩く
旧紫竹林教会は、旧フランス租界の営口道沿い、海河のすぐ近くにあります。

1872年に設立されたローマカトリックの礼拝堂でした。
英語名は漢字をそのまま訳したPurple Bamboo Grove Churchです。当時はセントルイス教会ともよばれたそうです。



当時入場が許されたのは租界で暮らした欧米人や身分の高い中国人がほとんどで、一般の信徒はなかなか入れなかったといいます。

1870年に起きた天津大虐殺によって大きな被害を受けたノートルダム・デ・ヴィクトワール教会(1869年)の代わりとして居留民によって建設されました(当時の様子)。

紫竹林のという名前は、当時フランス租界にあった紫竹林にという村の名前に由来しています。

紫竹林は列強の租界の初期段階では非常に重要で、英仏米が最初に占拠した場所と言われています。このため、租界初期に中国に渡った外国人の著作には、何度もPurple Bamboo Groveの名が登場するそうです。

ルネサンス様式を取り入れた調和のとれた優美なデザインです。

現在は入場できませんが、礼拝堂の中には、祭壇の西壁にある白い大理石の象眼細工に、この建物のために寄付をした人々の名前がフランス語で刻まれているそうです。

義和団事件では、西洋の教会が攻撃の対象となりましたが、この教会は租界の中にあったためか難を逃れました。

裏側にはイエズス会の小さな墓地もあったそうですが、今はありません。

紫竹林教会としての役目を終えた戦後は数十年にわたって廃墟だったようですが、2013年に修復され、今の姿に甦りました。

修復前の姿はこちらです。

訪問時はコロナ対策のためか閉鎖されていましたが、収束したら入場できるようになるでしょうか。
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旧美豊洋行天津支店

2022-03-03 | 天津を歩く
天津の解放北路に面する歴史のありそうな3階建てのしゃれた建築です。



保護建築を示すプレートには、元美豊洋行と記されています。

美豊洋行とは何でしょうか。



1922年に米国のワシントンDCに本社を設立した自動車と自動車関連関連部の部品の貿易や修理を行う会社でした。この天津支店は1925年を設立しました。このビルは翌1926年に建てられています。





つまり米国資本の自動車会社というわけですが、米国ではどんな会社だったのでしょうか。
プレートに記されている「American-Chinese Company Federal Inc」という文字で検索しても情報にヒットしません。

最近大掛かりな修復が行われたようです。今は漫心酒店というホテルとして利用されています。
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天津 旧中央銀行天津分行

2022-02-25 | 天津を歩く
旧中央銀行天津分店は旧英国租界の解放北路にあります。



中央銀行は1928年に国民党政府が南京に設立した国家銀行でした。

金融調整を主要業務として、ローン、手形業務を行い、国庫代行として関税や塩税を徴収し、紙幣を発行しました。

天津支店は1931年に開業しました。

この建物は1926年に建設されたものです。元は日中合弁の中華匯業銀行で、中央銀行が1936年に購入しました。

正面は4本のイオニア式柱と2本の角柱で左右対称です。洗練された荘重な風格で、古典復興主義建築でしょうか。



この建物はかの中国人建築家・瀋理源です。

20世紀初めにイタリアに留学して建築を学んだ人物です。
天津にはこの人が設計した優れた洋館がたくさん残っています。

3階建ての混合構造のビルで、半地下室があります。

現在は中国人民銀行が使っています。

機会があれば一度中に入ってみたいものです。
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天津 ジャーディン・マセソン洋行ビル旧址

2022-02-10 | 天津を歩く
天津の旧英国租界・解放北路に残るこの老建築は、かのジャーディン・マセソンの天津支店だったビルです。



1921年築ですので、去年で100歳です。
ジャーディン・マセソンが天津に事務所を置いたのは1867年です。上海に続く2番目の拠点でした。

ジャーディン・マセソンといえば、近代中国の歴史に大きくかかわった会社です。

設立は1832年で、前身は中学の社会の授業で学んだ、かの東インド会社でした。設立当時はアヘンと茶の貿易が基幹事業だったそうです。その後事業範囲を広げていきます。

同社は日本の近代史にも深く関わっています。

長崎の英国武器商だったグラバー商会は、ジャーディン・マセソンの代理商でした。
2010年の大河ドラマ「龍馬伝」では、坂本龍馬がグラバーと交流する場面が何度も描かれました。

長州藩が買った英国製軍艦・壬戌丸や、いろは丸事件(1867年)の舞台になったいろは丸(英国製)を調達したのもグラバー商会です。

グラバー邸は今や世界遺産です。僕は中学の修学旅行で行きました。

また、ジャーディン・マセソン横浜支店があったのは、今のシルクセンターがある場所です。僕は20代前半に横浜で暮らしたころは何度も訪れた場所です。

当時の僕はジャーディン・マセソンなぞ知る由もなく、自分が将来中国に関わることになるなど夢にも思わなかったわけですが、これだけ長い時を経て繋がりを持つとは、感慨深いものです。



この天津支店が竣工した当時は輸入部、輸出部、船舶部、機械部、木材部などの部門があったそうです。

ビルの裏庭(東側)は今は別のビルが建っていますが、もともとは同社の倉庫があったそうです。
その東側は海河に面していますので、貿易商社としては絶好の場所だったと思われます。

天津市文物保護単位に指定されています。
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天津 旧光明社/光明電影院 - 100年歴史の映画館

2022-02-01 | 天津を歩く
天津の光明影院は100年以上の歴史を持つ老舗映画館です。



映画館が位置する濱江道と和平路が交わる一帯は天津で最も賑やかな場ひとる所のひとつです。

設立当時、光明社とよばれたこの映画館は、1919年に別の場所で開業し、28年にここに移設されました。
当時は座席数1,500席を有する大型施設だったとされていますが、今も同じでしょうか。

ファサードにはどことなく中華風とイスラム風の装飾が施されています。

経営には英国人やフランス人が関わったそうです。
最新の設備を誇ったラグジュアリーな施設で、米国のハリウッド映画も上映したようです。

日中戦争開始以降、日本企業が管理したにっちゅう時期もあったようです。

現在、天津市文物保護単位、重点級歴史建造物に指定されています。

今もその名前を冠する現役の映画館です。

次に訪問する機会があれば、ぜひ入場して映画を鑑賞してみようと思います。
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チャータード銀行天津支店旧趾

2022-01-26 | 天津を歩く
天津の解放北路と大連道の交差点に建つこの老建築は、英国チャータード銀行だった建物です。



この辺りは旧英国租界です。

1924年に英国のヘミング&バークレー建築事務所が設計し、1926年に完成しました。
クラシック様式の2階建ての鉄骨造りです。

このチャータード銀行天津支店は、当時の天津租界地の銀行の中では最大クラスだったそうです。



6本のイオニア式列柱が開放的な吹き抜けの空間をつくり出し、雄大かつ荘厳な雰囲気をみせています。
英国租界を代表する金融機関だったからでしょうか、装飾に実験性や遊び心は感じられません。

チャータード銀行といえば、神戸の旧居留地にも1938年に建てられた神戸支店ビルが残っているそうですが、写真を見たところ、こちらもイオニア式列柱があります。
上海の外灘に残っている上海支店ビルもイオニア式ですので、これは銀行のこだわりだったのだと思います。

天津市文物保護単位です。
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天津 惠中飯店旧趾

2022-01-23 | 天津を歩く
旧惠中飯店は、天津のショッピングエリアの中心地である和平路と濱江道の交差点に建つ歴史建築です。



1930年の竣工、1931年開業の高級ホテルでした。

30年代と40年代、天津で最も賑わった社交場だったと評する文献もあります。
ホテルの利用者は社交界、官僚、裕福なビジネスマンが中心で、本当の意味での旅行者は少なかったといいます。

1935年、劇作家である曹禺(1910-1996)は、このホテルを舞台に社会の闇を描いた有名な戯曲「日出」を発表しました。

ホテルには100以上の客室を擁し、中国料理と西洋料理のレストラン、ダンスホールと野外映画館を併設していたとされています。

本体が5階建て、中央部分が6階建てのフレーム構造で、交差点を向いて丸みを帯びたファサードと中央の塔が非常に目立っています。



この交差点は110度ぐらいの広角ですので、建物も横の広がりを感じるのですが、建物全体が細く高く見えるように設計されており、実際の高さよりも高い視覚効果があるそうです。
このため、当時は「天空のホテル」とも呼ばれていたそうです。

当時の天津を代表する建築物だったのだと思います。

現在はダウンジャケットで知られるアパレル大手の「波司登」の店舗が入っています。
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天津日本租界 日光堂書店分店旧趾

2022-01-08 | 天津を歩く
天津の日本租界の中心付近で、こんな洒落た2階建ての老建築を見かけました。



場所は春日街と宮島街の交差点です。今の鞍山道と河南路です。



バロック風の装飾を凝らしたファサードがとてもおしゃれです。

これは何の建物だったのでしょうか。古い資料を使って調べてみました。
当時の住居表示は宮島街17番地です。

その結果、ここは「日光堂書店分店」だったことがわかりました。本屋さんだったのですね。

分店ということは、本店があるはずです。

中国工商名鑑(1941年)によると、日光堂書店の本店は壽町にありました。ここから1kmぐらい北側です。今は残っていません。

日光堂書店の代表者は鈴木芳太郎とされています。

1939年に発行された「最新天津市街図」という詳細な地図の発行者が日光堂書店となっているので、単なる書店や文房具店でなく、出版までやっていたようです。

場所は張園や静園の近くです。
溥儀や川島芳子もこの店を利用したのでしょうか。
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旧仁記洋行天津支店

2021-12-30 | 天津を歩く
天津和平区の解放北路(旧ビクトリア道)にある旧仁記洋行天津支店です。



1933年の竣工です。

仁記洋行は1843年に上海に設立された英国資本の商社だそうです。アヘン戦争終結の翌年ですので、この戦争の南京条約がきっかけになったのでしょうか。

同社の設立当時は武器やアヘンの貿易を手掛け、英国租界では最大規模の商社だったようです。

天津支店の開設は1861年とされていますが、この社屋ができる前は別の場所にあったのでしょうか。

ここ以外にも北京、奉天、ハイラル、漢口、上海、寧夏、包頭にも支店を構え、生糸や紅茶などの貿易や保険、海上運送、陸上運送、労務派遣など幅広いビジネスを行ったようです。

英国の建築会社による設計と伝えられています。

現在は空き家になっているようです。

天津市の歴史的風貌建築と文物保護単位に指定されています。
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天津日本租界 岡本書籍店旧趾

2021-12-27 | 天津を歩く
天津の旧日本租界の瀋陽道古物市場の一角でこんな流線型のデザインが目を引く赤レンガの建築を見かけました。



当時の住居表示では花園街9番地です。

古い資料を使って調べてみたところ、ここは岡本書籍店という書店でした。

1941年の商工名鑑によると、当時の日本租界には書店が6店舗ありました。

在留邦人の日本語書籍の需要に応えて賑わったことと思います。
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天津日本租界 旧秋山街23番地 - 岡谷商事天津出張所

2021-12-18 | 天津を歩く
天津の旧日本租界とフランス租界の境界に当たる錦州道(旧秋山街)を歩いていると、左右対称のユニークな2階建て(一部増築して3階建て)の老建築が目に入ってきました。





日本側ですので、日本人の住宅か会社だったと思われます。

これは何の建物だったのでしょうか。

番地入りの古地図と当時の商工名簿を使って調べてみたところ、ここは秋山街23番地ということがわかりました。



秋山街23番地にあったのは、次の3つの会社でした。

三商合資会社天津出張所(綿花輸出)秋山街23
岡谷商事株式会社(機械工具、建築材料販売店)秋山街23-1
大阪鋼材株式会社出張所(造船、鉄工材料、鋼材)秋山街23-1

この3社が建物をどのように分けていたのかは分かりません。関連会社だったのでしょうか。

調べてみたところ、岡谷商事とは、現在の岡谷鋼機(名古屋市)の前身である岡谷商店の海外営業所でした。





同社の中国事業の拠点は奉天(現在の瀋陽)でした。天津は出張所です。

岡谷鋼機は江戸時代から続く老舗企業です(同社の歴史)。

山の下に宗の文字の社標も当時から変わっていません。
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天津 大和ホテル旧趾

2021-12-12 | 天津を歩く
天津旧日本租界の「大和ホテル」だった建物です。



大和ホテルというと、満鉄が経営したヤマトホテルグループのひとつかと思いきや、そうではないかもしれません。

というのも、天津のヤマトホテルに関する文献や古写真が見つからないのです。
また、ヤマトホテルは満洲と関東州につくられましたが、天津は満洲でも、満鉄の沿線でもありません。

当時の番地入り市街図と商工名簿から割り出すと、日本租界花園街13番地だったここに「大和ホテル」と呼ばれた施設があったことは間違いありません。

また、この建物には天津市歴史風貌建築のプレートが掲げられていますので、日本租界の時代の建築物であることもまた確かでしょう。

つまり、この建築物は「大和ホテル」ではあったけれども、ヤマトホテルグループではなかったのだと思います。

当時、ここから西側2ブロック目は日本人居留民の憩いの場だった大和公園でしたので、公園名からネーミングしたものと推定しましたが、いかがでしょうか。



いずれにしても、日本人経営の日本人向けホテルだったということはたしかのようです。

今は集合住宅として使われているようです。

どたなか情報をお持ちの方は教えてください。
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天津日本租界 旧扶養街1番地ビル

2021-12-06 | 天津を歩く
天津の旧日本租界には今もたくさんの当地の建物が残っています。

この流線型の玄関が目を引くモダニズム調の2階建てもそうです。



当時、ここの住居表示は扶養街1番地でした。

戦前の天津市街地図や1939年の商工名簿を参照すると、当時、このビルには「川徳洋行」と呼ばれる輸入商が入っていたようです。綿やレーヨンの輸入事業を行っていた会社です。

このほか、商工名簿によると、「華風洋行」と呼ばれた綿花の輸出商、「新月」と呼ばれた飲食店、「美人座」と呼ばれたカフエー(今でいうカフェではありません)もこの番地になっています。

今も通りに面して複数の店が入っていますが、当時から複数の店が入る商業ビルだったようです。
数えてみると、全部で7区画あるでしょうか。

ここは日本租界とフランス租界の境界に当たります。



南北に走る通り秋山街(現在の錦州道。写真の右側)、東西の通りが扶養街(現在の河北路。写真の左側)です。秋山街とは天津の駐屯軍司令官だった秋山好古から取った通り名です。

ここは当時から交通量の多い交差点だったと思いますので、当時の居留民には親しまれたのではないでしょうか。



これは通りの向かい側(東側)の旧フランス租界の老建築です。

租界の境界はそれぞれの国の特徴がわかるので、なかなか楽しいものです。

天津は露天の博物館そのものです。
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旧天津日本商業学校

2021-12-03 | 天津を歩く
天津日本商業学校の校舎は、旧日本租界に残っています。



武徳殿の北隣です。当時、ここは宮島街と淡路街と呼ばれた道路が交わる場所でした。

天津日本商業学校は男子校でした。
12歳から入学が認められ、修業年数は5年間でした。



開校は1933年です。

校舎がここに移転してきたのは1936年です。

当時の天津は日本人居留民が増加し、日本人による会社経営が増えていましたので、語学と経済の教育を充実させ、人材を育成する必要があったのだと思います。

天津商業は野球も盛んだったらしく、1938年と39年には満洲代表として夏の甲子園に出場しています。

レンガ造りの4階建てです。

モダンなデザインですので、当時の日本租界ではかなり目立っていたのではないでしょうか。

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