goo blog サービス終了のお知らせ 

HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

浙江興業銀行天津支店旧趾 - 保存の意欲と配慮に溢れた名建築

2021-07-02 | 天津を歩く
旧浙江興業銀行天津支店ビルは、天津市内の平和路と浜江道の角に残るクラシック折衷様式の銀行建築です。



建築面積は2034平方メートルです。二階建てで半地下の空間があるようです。
竣工は1922年です。

エントランスに当たる東南角の交差点側を円弧状に面取りしています。
二本組の円柱が1階部分、2階部分と二重になっています。窓枠の装飾やレリーフも手が込んでいます。

銀行建築にありがちな威圧感がなく、気品のある佇まいです。
玄関の白い7段の階段は大理石でしょうか。



現在は改築され、スターバックスとして開放されています。
スターバックスリザーブとありますが、リザーブとはどういう意味だろうと思って調べてみると、スタバがそういうブランドで展開している高級志向の店舗なのですね。東京にもあるようです。

浙江興業銀行は1907年に設立された中国初の商業銀行です。
設立当初は杭州に本店が置かれ、後に上海に移転しました。中華民国時代には国内で最大の取扱額を誇ったそうです。
天津支店はちょうど100年前の1921年6月に華信工程司の沈理源によって設計が始まり、翌1922年に開業しました。

この老建築は、建築当時の姿を大切に保存しようという関係者の意欲と配慮がとても現れています。

白っぽい外観は塗装が行われておらず、おそらく建築当初からこのような色だったと思われます。
スターバックスの看板はイメージカラーの緑を使わず、建物の色に同化させています。
エントランスの上部には「浙江興業銀行」の6文字を残しています。
何より、この場所の特殊性に配慮を感じます。
ここから北西側一帯に広がるブロックは恒隆広場という2014年に開業した大型ショッピングモールです。
モールの建設に当たり、この区画は用地の買収が行われ、古い建築が取り壊されたはずです。しかし、区画に含まれていたであろうこの旧浙江興業銀行だけが再開発を逃れ、残されています。



赤で示した場所が旧浙江興業銀行です。

1枚目の写真を見ると、モールに囲まれるようにこの建物が残っているのが分かると思います。

おそらく、恒隆広場の開発計画時期にはここも取り壊してしてモールの一部にする案も上がったのではないかと思います。
保存の決断を下した関係者には拍手を送りたいと思います。

天津市文物保護単位です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津 国民飯店

2021-06-26 | 天津を歩く
天津の国民飯店は、旧フランス租界の赤峰道と和平路が交わる場所に残っています。



1923年の開業で、設計はスイスの建築会社が担いました。

ホテル内には四川料理や広東料理などのレストランがあり、天津有数のハイクラスのホテルだったそうです。敷地面積は約5,200㎡とかなりの広さがあります。
国民大飯店と名乗っていた時代もあったようです。



1931年8月には溥儀の側室だった文繍は、滞在していた静園を出てこのホテルの37号室に住まいを移し、ここで溥儀との離婚を宣言しました。

最近補修工事が行われたようで、外観は良好な状態に見えました。



現在は漢庭酒店天津和平路店として、一般利用されています。

天津市文物保護単位です。
もう今は国民飯店ではなく漢庭酒店ですが、ゲートや文物保護単位のプレートには「国民飯店」と表示されています。普通なら「原」とか「旧祉」という文字が付くはずなのですが。

ひょっとしたらそういう呼び方もしているのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津 旧フランス兵舎群

2021-06-08 | 天津を歩く
天津の旧フランス租界に、駐留フランス軍の宿舎や司令部として使われていたレンガ建築が残っています。



和平区赤峰道です。
1915年頃に建てられたそうです。





元々は1879年に李鴻章が設立した北洋水師営務処があった場所でした。
1901年の北京議定書で清国から軍隊の駐留権を得たフランスが天津‎に約1,400人を駐留させました。

やがて手狭になったため、1915年、フランス当局はここに兵士の宿舎や司令部を再建しました。
戦後は天津市港湾局の宿舎として使われていたようですが、今は一般の民家として利用されているようです。













3階建ての建物が1棟、2階建ての建物が3棟があるようです。
天津市文物保護単位に指定されていますが、普通の住宅なので住宅の共有エリアには入ることができます。



フランス人が作った建造物だけあって、レンガはフランス積みです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津塩業銀行旧趾

2021-06-02 | 天津を歩く
天津の解放北路エリアは租界時代に建てられた銀行建築が連なる一角で、ここが当時の中国北部の金融センターであったことを偲ばせます。

天津塩業銀行は文字通り、塩の専門銀行として1915年に設立されました。



天津の海陸輸送の地理的優位性を生かして塩産業を中心に様々な産業に関りながら事業範囲を拡大し、当時の商業銀行の中で中心的な役割を担いました。
このクラシック様式の本社ビルは1929年に建てられました。

レンガ造りですが、とにかく凝っています。
ファサードには高さが10メートルほどありそうな大型のコリント式とイオニア式を組み合わせたようなオーダーが鎮座しています。



設計者は中国人技師の瀋理源です。
瀋はクラシック様式の建築を専門として、中国の伝統的な装飾技術を取り入れ、中国と西洋の建築文化の融合を試みました。



南側の赤峰道沿いには6本のオーダーが連なります。



見るからに手の込んだ、複雑な作りです。
様々な様式や要素を取り込んでいて、実験的な雰囲気が伝わってきます。中国における西洋建築黎明期の設計者の意欲が伝わってくるようです。
きっと、当時の天津はそういうチャレンジができる場所だったのだと思います。周囲には外国人設計の銀行建築がたくさんありましたので、こうした建築物も参考にしたのではないでしょうか。

現在は中国工商銀行天津支店として利用されています。
全国重点文物保護単位です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津神社の社務所と大和公園

2021-05-18 | 天津を歩く

戦前、天津市の日本租界には日本人居留民が建立した天津神社がありました。

今の鞍山路と山東路が交わる場所です。当時、この2つの道と新華路、多倫路に囲まれたエリアは大和公園と呼ばれた公園でした。

大和公園は1904年に建設が始まり、1909年に開園しています。
当時、公園内には天津神社のほか、あずまや、噴水、北清戦役記念碑、音楽堂、児童運動場などが次々に建設され、日本人居留民コミュニティにとっての重要な集いの場所となっていきました。
日本人による春の運動会もここで開催されたそうです。

今は病院が建っているようですが、何か当時の痕跡が残っていないか、訪ねてみました。

古地図を参考にして歩いてみたところ、天津神社の社務所だったと思しき平屋の建築物が残っていました。



位置は古地図と完全に一致します。
古写真と照合しても同じです。

間違いないと考えてよさそうです。







しかし、外観からは神社建築らしさを感じません。
神社を建てる前から存在していた建物を社務所として利用したのか、社務所として建築したものの、廃社後にリフォームして今の姿になったのか、どちらでしょうか。

文献によると、天津神社は1915年に建築が決定され、1920年に竣工しています。

祭神は天照大神と明治天皇です。



しかし、よくこの市街地の真ん中に今まで神社の一部が残ってきたものだと思います。

隣接するガソリンスタンドを建設するときに潰されても不思議はなかったと思いますが、土地の使用権の関係でたまたま残ったのでしょうか。
旧社務所は行政の保護指定を受けている様子はありませんので、いつ取り壊されても不思議ありません。

また、旧大和公園の東北角には、こんな年季の入った門柱が残っていました。





これは大和公園の門柱として利用されていたものかもしれません。
塗装されているので一見すると分かりませんが、近づいて触ってみると、相当時間が経過していることを感じます。

柱の中央に縦に架かっていた表札には「大和公園」という4文字が入っていたと推測しましたが、さて、いかがでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧朝鮮銀行天津支店

2021-05-12 | 天津を歩く
天津の解放北路に残る旧朝鮮銀行天津支店です。



3階建て、レンガ造りです。鮮やかな赤レンガが個性的です。



建物の通りに面した部分を覆うように12本のローマ式の円柱が配されています。
3階部分にはテラスのような設えがあります。

こういう建築様式は何と呼べばいいでしょうか。

設計を担ったのはフランスのシャレイ&コンヴェシー事務所です。

朝鮮銀行は1911年に設立された日本の特殊銀行です。朝鮮銀行券の発行を担いました。
天津支店の設立は1918年です。

したがいまして、この建物は日本の投資で建設されたものです。
この建物のすべてが朝鮮銀行だったわけではなく、一部はフランス人経営のウリヴァン洋行として使われていたようです。



天津市文物保護単位に指定されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧横浜正金銀行天津支店

2021-05-06 | 天津を歩く
旧横浜正金銀行天津支店です。





租界時代の金融機関が集中する解放北路に位置しています。

威風堂々、壮麗なクラシック様式です。
手の込んだ装飾のコリント式オーダーが風格と威厳をたたえています。
正面から対峙したとき、思わず、かっこいいなぁ、男前だなぁ...という言葉が口をついて出てきました。

あまりに大きい建築なので、僕のスマホでは正面から全体を画面に収めることができません。

竣工は1926年です。





中国の他地域の正金銀行のように日本人による設計かと思いきや、 英国のHemmings & Berkeley事務所の設計だそうです。建築には相当な予算を投じたのではないでしょうか。

天津における横浜正金銀行の拠点の開設は1901年です。当時は支店ではなく出張所でした。



現在は中国銀行天津分行として利用されています。

正面上部に「BANK OF CHINA 行銀国中 BANK OF CHINA」と金色の文字が掲げられていますが、目を凝らすと、その下には「THE YOKOHAMA SPECIE BANK LIMITED」という文字が確認できます。



天津市重点保護単位です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天津 - 近代歴史建築がひしめくコロニアル都市

2021-05-03 | 天津を歩く
天津を訪問してみました。

昨年9月に北京で暮らし始めて、初めての北京市外に足を踏み出しました。
天津といえば華北地域最大の貿易港として19世紀半ばから外国に開港され、最大時には日本を含む9か国の租界が存在していたコロニアル都市です。

高速鉄道で通過したことは何度かありましたが、足を踏み入れるのは初めてです。
いかにも僕の街歩き嗜好に合いそうな街です。



北京南駅から高速鉄道でわずか30分で到着です。

かつて、我々外国人にとって高速鉄道の乗車券購入はなかなか手間でしたが、今はとても便利になり、予約から支払い、乗車手続きまですべてスマホで簡単に完結します。
この進歩には目を見張ります。



到着後はシェアサイクルに乗って市内を回ってみました。
いつも北京で使っている美団の月票(定期券)がここでも使えますので、無料です。これもまた便利です。





各国の租界時代の個性的な近代歴史建物が非常によい保存状態でたくさん残っており、独特の美しい街並みが目を楽しませてくれました。

市内には数千軒もの近代歴史建築が残っているそうですが、それも納得です。これだけひしめきあっていれば、数千はあるでしょう。
きっと、都市開発の早い段階から行政が保護する方針を決めていたのだと思います。



欧州を思わせるような石畳の道が残っています。
租界エリアはフランスや英国、イタリア、日本と国によって分かれていますので、それぞれのエリアでその国独特の個性的な景観が広がります。



天津市のマンホール蓋は日本のラーメン丼のような粋なデザインです。



さながら露天の博物館です。

今後、この日記では「天津を歩く」のカテゴリを作って、少しずつご紹介していこうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする