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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

膠澳帝国裁判所旧址 - 最後につくられたドイツ公共建築の一つ

2023-01-19 | 山東を歩く
膠澳帝国裁判所は、青島のドイツ租借時代の司法機関でした。

当地の建物が膠澳総督府前の広場の西側に建っています。



この広場周辺はドイツ租借時代の公共機関が集まっている場所です。



全国重点保護単位だそうです。

隣接する総督府の荘厳さ、華やかさに比べると控えめな印象を与えます。

ドイツ人建築家の設計、ドイツ企業による施工ですが、威厳や重厚さは感じさせず、上品で実用的、機能的な印象です。
花崗岩の石組でつくられた土台も青島のドイツ建築ではよくみかけます。



1912年から14年にかけて建設されました。
ドイツ租借時代に完成した最後の公共建築の一つです。この裁判所が完成したのは1914年4月、ドイツが日本に降伏して租借権を失ったのはこの年の11月です。

つまり、植民地の最高司法機関だった裁判所は、竣工からわずか半年で明け渡すことになりました。

日本が青島を統治するようになると、この施設には青島軍政部が置かれました。1916年には日本による裁判所となり設置し、刑事・民事事件を審理しました。

その後日本が去り、政権が変わっても司法機関としての機能を維持しました。





ところで、行政府の庁舎前広場に面して右側に司法機関を置くというのは、日本租借時代の大連と同じです。これは偶然でしょうか。

現在は青島市南区検察院として使われています。

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青島 陵県路34号建築 - コロニアル都市の名もなき老建築

2023-01-16 | 山東を歩く
青島旧市街を歩いているときに見かけた2階建ての老建築です。



陵県路と広東路が交わる場所で、住居表示は市区陵県路34号です。

消防関係の製品を扱っている会社のようですが、人気がなく玄関が空きっぱなしになっており、空き家のような感じもあります。



戦前は何に使われていたのか調べてみましたが、わかりませんでした。

築年もわかりません。
20世紀前半であることは間違いないと思いますが、ドイツ時代の建物なのか、日本時代なのか民国時代なのか判然としません。どの時代のものと言われても、そうかなという気がします。

空いていた玄関から中を覗いていました。



くねくねした螺旋階段がとてもおしゃれです。

こんな遊び心のある作りですから、西洋人が設計したのだろうと思います。旅順ヤマトホテルの階段がこんな感じでした。



階段に沿って斜めに縦長の窓枠が4つ嵌められています。これもしゃれています。

建物を観察したところ、文物や保護建築に指定されていることを示すプレート類は確認できませんでした。

したがって、保護を受けてきたからこの状態を保っているのか、たまたま残ってきたのかはわかりません。

青島旧市街にはこういう20世紀前半の老建築がひしめきあっていて、独特のコロニアルな雰囲気があります。散歩がとても楽しい街です。

願わくば、いつかこの街でのんびりと休暇を過ごしてみたいと思います。
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大陸銀行青島支店旧址

2023-01-10 | 山東を歩く
青島旧市街の中山路沿いには20世紀前半の近代歴史建築がたくさん残っています。

この鉄筋コンクリート造りの4階建てビルは大陸銀行青島支店だった建物です。



今は1階はマクドナルドなどの商業施設が入っています。

竣工は1934年です。
設計した羅芳傑という人物は、清華大学を卒業した後に米国に留学し、ミネソタ大学で建築工学を学んだ人物だそうです。

フォルムは機能性重視でしょうか、平面的でシンプルですが、石材の花崗岩が優美さと重厚さを感じさせます。

大陸銀行は1919年に天津に設立されました(2021年10月18日の日記)。

青島支店は1923年別の場所で開設して、いったん閉鎖を経て1928年再開、そして1934年にここに移転してきたようです。
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ドイツ膠澳総督府 / 青島特別市公署旧址

2023-01-07 | 山東を歩く
青島旧市街の旧ドイツ膠澳総督府です。



ドイツ租借時代を代表する建築物です。

ドイツは1898年に青島を租借した後、1902年に行政の中心となるこの4階建ての総督府の建設に着手し、1906年に竣工しました。

ドイツ人建築士による設計で、建築面積は約7千㎡あるそうです。青島のドイツ建築の中では最大です。



中国語のサイトによると、凹型で左右対称で、四隅と真ん中が少し飛び出しているのは19世紀欧州の公共建築の特徴だと紹介されていますが、そんなものでしょうか。

おそらく何度も修復を繰り返してきたのだと思いますが、とても保存状態がよく、美しい姿を保っています。

ここから青島湾まで200メートルぐらいです。建物の正面部分は海岸線と平行につくられているので、2階以上の南側の窓からは青島湾がすべて視界に入ったのではないでしょうか。

この総督府の周りにはさまざまなドイツ時代の公共施設の建築物が残っています。ここを中心として膠澳行政の中心区が形成されたことがわかります。







総督府は行政だけでなく、青島に駐在するドイツ軍の最高指揮官を兼ねていました。このほか鉄道、鉱山開発、裁判所などに対して監督権を持ち、大きな権力を握りました。

1914年に日本が青島に駐留をはじめると、ここは日本の青島守備軍司令部となりました。

初代の司令長官になったのは第一次世界大戦の青島攻略戦で指揮をとった神尾光臣でした。

民国時代を経て二度目の日本支配時代となる1938年には青島特別市公署となり、その後青島特別市政府と名前を変えました。

今は青島市人代常務委員会と青島市政協の事務局として使われています。
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大連汽船株式会社青島支店旧址

2023-01-04 | 山東を歩く
青島旧市街にある大連汽船株式会社青島支店として使われていた近代歴史建築です。



1927年の建築だそうです。斜面に立つ風情ある5階建ての洋館です。

場所は館陶路と広東路の交差点北東角で、この方向の角は約50度ぐらいの鋭角になっているのですが、この狭い間口を面取りをしたような円形のファサードがつくられています。このため、とても特徴的な面構えです。



正面からみると、間口が狭くて奥が広がっているように見えます。まるで大型船を正面から見ているようです。

汽船会社だけに意図的にこういうデザインにしたのでしょうか。そうだとすれば、なかなか遊び心があっておもしろいです。

こういう形の建物はインパクトを与えます。

上海旧フランス租界の武康大楼などがその代表例です。渋谷109、渋谷マルイなどもそうです。

大連にある大連汽船本社ビル(2014年10月24日の日記)は装飾を一切省いたシンプルなつくりですが、対してこの青島支店は凝っています。



正面は2本の大きなコリント式円柱で支えて風格を出し、その両側にも壁中で装飾しています。

この建物は坂の途中にあって、ファサードはちょうど膠州湾の貨客船ターミナルの方向を向いていますので(距離は600メートルほど)、3階以上の部屋からは港湾の様子がきれいに見渡せたのではないでしょうか。

あるいは、それを狙ってのこの場所だったのかもしれません。ともかく、ロケーションは最高ではないでしょうか。





大連汽船は満鉄資本の船舶会社です。
本社は大連で、青島のほか天津、上海、神戸に支店を持ちました。

大連-青島-上海、大連-天津、大連-台湾、大連-敦賀-伏木-新潟という定期航路があったようです。



青島市の行政は2009年に近代歴史建築が密集するこのエリア(館陶路)を青島ドイツ風情街と名付けて開発したようですが、これを紹介するサイトでよくこの建物が使われています。



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青島日本商工会議所旧址

2022-12-29 | 山東を歩く
青島旧市街の館陶路を歩いていると、こんな石板が目に入りました。



今は海軍の病院になっているようですが、戦前の青島日本商工会議所のオフィスビルだったようです。
旧青島取引所の北隣です。



シンプルなタイル貼りの3階建て、一部2階建てです。



調べてみると、建物は1938年に建てられたようです。2回目の日本占領時代に当たります。
元々は中国人が設立した建物を接収したようです。



青島日本商工会議所は1915年に設立し、終戦までの間活動しました。

ネットの情報によると、1回目の占領時代が終わる1922年に日本軍が撤退した際、日本は青島に総領事館を設立したほか、在留居民団や商工会議所などの組織を維持し、1938年までに直接の軍事と政治統制権を再獲得したとあります。

当時、青島日本商工会は多くの書籍を発行していますが、1939年に刊行された青島商工案内によると、決して日本企業だけが会員だったわけではなく、当時青島にあった中国企業や日本以外の外資私企業も会員としていたようです。
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HSBC青島支店旧址

2022-12-23 | 山東を歩く
青島旧市街の館陶路にある戦前のHSBC青島支店ビルです。



1917年の竣工だそうです。

建物の壁にも1917と表示されています。
HSBCが青島に拠点を置いたのはドイツ占領時代の1912年でしたが、ドイツの撤退に伴って新しく金融街としての整備が始まったここに移転してきました。



建物は銀行建築らしい重厚さがなく、小ぶりでシンプルなつくりです。



僕が見てきた中国に現存するHSBC支店ビルはいずれも格調の高いクラシック様式でしたが(大連支店(2014年4月28日の日記)、天津支店(2021年7月17日の日記))、ここは違うようです。

これはさまざまな理由があるようですが、HSBCにとっての青島の重要性を反映しているのでしょうか。

地上2階+屋根裏+半地下という感じでしょうか。
マンサード屋根で南側の角が丸くなっていて、ドイツ風のかわいらしい雰囲気です。

HSBC青島支店の主要業務は欧米を中心とした外資企業が行う貿易の外貨決済でした。
太平洋戦争が始まると日本軍に接収されて業務を停止し、1946年8月に再開するもの、1951年に再び業務を終了しました。

現在はレストランとして使われているようです。





夜に訪問したらいい感じにライトアップされていました。

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春和楼 - 青島老舗の山東料理店

2022-12-17 | 山東を歩く
青島旧市街の中山路と天津路の交差点で、いかにも老舗っぽい雰囲気の料理店を見かけました。



春和楼飯店という店のようです。

正面に掲げられている1891という数字は設立年でしょうか。あるいは建築年でしょうか。



調べてみると、春和楼の誕生は青島と同じ年で、魯菜(山東料理)の名店としてさまざまな逸話を持つ名店なのだそうです。
「中華老字号」とよばれる国が認めた老舗の称号をも持っているのだとか。

歴史を調べてみると、1891年、店はここから東側に1kmあまりの場所で漁業関係者向けに開業したようです。ときは清代光緒帝の時代です。

店は人気を博し、同年末に青島を訪れた北洋海軍の李鴻章は評判を聞きつけてこの店の料理長に料理を頼んだそうです。

1897年にドイツ軍が青島を占領して港が開港されると、店は現在の場所に移転します。そこで初めて今の春和楼という店名が付けられました。
その後時代を経て店を拡張し、今の店の姿になったのは1933年のようです。

国有化された1960年代には一時的に「人民飯店」という店名を名乗ったこともあったそうです。これも時代ですね。

1957年には毛沢東の恩師として知られる徐特立が家族で来店し、名物料理の香酥鶏、油爆双脆、爆炒腰花、塩水大蝦などの山東料理を楽しんだそうです。

激動の近代史を経てきた青島にあってこれだけ長い間経営を続け、逸話を持つ店は珍しいかもしれません。



古い青島人には、「着るなら謙祥益、かぶるなら盛錫福、食べるなら春和楼、観劇なら中和、病を診てもらうなら宏仁堂」という合言葉があるそうです。それだけ市民から広く支持されている店だという証拠です。

山東料理は大連料理のルーツとされているので、僕も馴染みがあります。この店の料理は必ず美味しいはずです。

僕がこの店の前を通りかかったのは開店前でしたのでその味を楽しむことも賑わいを観ることもできなかったのですが、次に青島を訪問することがあったらぜひ試してみようと思います。
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青島 聖ミカエル大聖堂

2022-12-11 | 山東を歩く
青島旧市街の聖ミカエル大聖堂です。



混じり気のない、王道の教会の建築様式です。

戦前に建てられたドイツ風の建築物が並ぶ街の中に花崗岩によるゴシック様式の荘厳な二つの鐘楼が天に向かって伸びています。

とても気高く、コロニアルな風景をつくり出しています。





中国の教会によくある中華趣味を織り交ぜた様式ではなく、純粋な欧風の教会建築スタイルです。正面から見るとロマネスク様式のようでもあります。

中山路と肥城路の交差点から東を向くと、石畳の坂の上に鐘楼がそびえ立つ美しい姿が目に入ってきます。



教会の立つ広場がもともと高台である上に鐘楼の高さは56メートルですから、高低差があってとても写真映えします。

1934年の竣工です。
建築を主導したのは当時のドイツ人司教だったゲオルク・ヴァイクで、設計したのもやはりドイツ人建築家のアルトゥール・ビアルヒャだそうです。

この高さですから、当時はかなり目立つ建物だったと思います。

僕がこの教会に立ち寄ったのは日曜の朝8時台だったのですが、ちょうど礼拝が始まる直前だったらしく、旧市街中に届きそうなぐらいの音量で美しい鐘の音が響いていました。

まるで中国にいることを忘れるようです。
中国大陸の旧租借地に建てられた教会の中で、もっとも西洋の教会に近い教会ではないでしょうか。







土曜日の夜には、教会前の広場でフリーライブが行われていて、多くの若者でにぎわっていました。



全国重点保護単位です。

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青島取引所株式会社旧址

2022-11-23 | 山東を歩く
旧青島取引所は、青島に残る近代洋風建築の中で最大かつ最も美しいと建築物のひとつとよばれています。



青島旧市街の使陶路の中ほどにあります。
中国の映画やドラマのロケ地としても使われてきたそうです。





とても大型で迫力のある建物です。

日本租借時代だった1925年の竣工です。
正式には株式会社青島取引所とよばれ、当時はアジア最大の証券取引所でした。



取引所は1920年に事業を始めました。当時は現在の中山路と徳県路の交差点付近にあったそうです。
取引が行われた商品は落花生、落花生油、綿糸、綿花、小麦、大豆油などでした。

紙幣の取引は横浜正金銀行発行のものに限られ、有価証券の取引は青島の日本企業の株式24種類に限定されていたそうです。
取引所は、スポット取引や先物取引で活況を呈したとされています。

日本人建築家である三井幸次郎の設計です。この人は朝鮮銀行もそうですが、青島では相当活躍をしたようです。
正面のファサードは6本のコリント式オーダーがある古典様式で、重厚感と威厳がたっぷりです。この円柱の高さは何メートルぐらいあるでしょうか。

三角形のファサードの上にさらに層を設け、2つの望楼を支えています。

鉄筋コンクリートの3階建てで、地下にも空間があるようです。

使陶路がそれほど道幅の広い道路ではなく、かつこの建物は大型なので、正面から全体を写真にとらえることができません。望楼を見続けると首が痛くなりそうです。



正門を背にするとこんな景色です。道幅は10メートルほどでしょうか。

取引所は1944年6月に解散し、終戦とともに閉鎖されました。
その後はさまざまな用途で使われたようですが、今は何に使われているのでしょうか。

エントランスには共産党のスローガンが大きく掲げられているので、党関連の施設なのかもしれません。

入場券売り場があったので、一般人も入場することができるようです。








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三菱商事青島支店旧址

2022-11-14 | 山東を歩く
青島旧市街に残る日本租借時代の三菱商事青島支店のオフィスビルです。



築年は1918年という情報と、1921年とする情報があります。

御影石が積まれた大きくて迫力のある古典様式です。



すらりとした気品のあるイオニア式の壁柱が2階上部まで伸びています。

三菱商事は今でも日本を代表する総合商社ですが、青島では100年以上前から事業が行われていました。







歴史を紐解くと、三菱商事の中国事業は1875年に上海から始まります。横浜・上海定期航路の開設です。岩崎弥太郎は念願だった定期航路の第一便の出発を見送ったとされています。

その後大連、漢口、香港と続き、やがて中国国内各地に拠点を広げていきます。そして三井物産とともに対中国貿易のメインプレーヤーとして存在感を示しました。

青島支店はどちらかというと後発組に入るようですが、それもあってか、建物から伝わってくる重厚で威風堂々とした雰囲気は当時の三菱商事の旗頭としての自信の現れなのかもしれません。



戦前の金融街だった館陶路は青島のウォール街ともよばれています。

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横浜正金銀行青島支店旧址

2022-11-08 | 山東を歩く
青島旧市街の横浜正金銀行青島支店だった建物です。





住所表示は館陶路1号です。
横浜正金銀行青島支店は1919年に建設されました。

青島に拠点を置いたのは1913年です。当時は事務所で、支店になったのは22年です。

設計を担った建築家は長野宇平冶(1867-1937)です。長野はかの辰野金吾の弟子で、古典主義建築を得意として国内に多くの建築物を残しています。

中国大陸で現存しているのはここだけです。





この建物も、地上2階、地下1階の銀行らしい重厚感のある古典主義です。

花崗岩のイオニア式角柱が正面に8本並んでいます。切妻の部分には蔦が這っていますが、これも風情があってよいものです。

ただ、惜しいのは街路樹のプラタナスです。この木々があるので全体像が見えません。

ドイツ統治時代の青島では徳華銀行青島支店が代行していた関税や鉄道関連業務などが横浜正金銀行に取って代わられ、貨幣発行や日銀の国際為替業務も行い、正金銀行が青島における金融業の新たな覇者となりました。



ところで、これまで横浜正金銀行の支店はいろいろ見てきました。

大連、旅順、瀋陽、長春、北京、天津で、これが7か所目です。
またどこかで見かけるチャンスがあることを祈ろうと思います。

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朝鮮銀行青島支店旧址

2022-11-05 | 山東を歩く
青島の館陶路にある旧朝鮮銀行青島支店です。







1932年の竣工で、設計者は三井幸次郎です。
鉄筋コンクリートの地上2階建てで地下室もあるようです。



三井は青島に拠点を置いて建築設計業務を行った日本人建築家と伝わります。

長年大連や北京で老建築めぐりをしてきましたが、初めて聞く名前です。どんな人物だったのでしょうか。

調べてみたところ、1893年生まれで、1914年に東京の工手学校 (今の工学院大学の前身)を卒業後、中国工商有限公司なる会社に所属して青島を中心に建築設計活動を行ったそうです。
1935年に没しています。

施工したのは株式会社大倉土木だそうです。今の大成建設です。

朝鮮銀行青島支店は1917年に設立されています。当時の社屋は青島駅に近い河南路にあり、その後ここに移転したようです。

機能性と合理性を追求したのか、装飾を省いたシンプルな作りです。外壁はタイル張りです。

現在は中国商工銀行が使っています。正面玄関に掲げられている「ICBC中国工商銀行」の大きな看板が全体の美観を損ねているのが惜しいところです。外してくれればいいのに、と思います。

ところで、この建築物は、2017年に利用者である中国工商銀行から一部破壊されたそうです。
報道によると、エントランスの両脇に建て付けられている花崗岩の円柱が撤去されてしまったそうです。市民の通報で発覚したのだとか。



その後工商銀行は歴史保護建築を破壊したとして当局から罰金の支払い命令を受け、修復を行ったのだとか。幸いなことに、撤去された2本の円柱は柱頭と柱と土台の部分に分けられ、比較的良好な状態で見つかったため、修復が可能だったそうです。

これがその記事です。

柱が無事に戻ってきて何よりでした。

頭注だけでなく柱本体にも細かい網状のレリーフがほどこされた個性的な石柱です。



派手さのないシンプルな建物ですから、小さくてもこのローマ式オーダーの存在感は大きいと思います。この円柱も三井幸次郎がデザインしたのでしょうか。













夜はライトアップされていました。
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三井物産青島支店旧址

2022-10-21 | 山東を歩く
一時帰国の復路で青島で集中隔離を受けたとき、決められている10泊の日程よりも1泊長く滞在することになりました。

理由は、青島で感染者が出ていることを理由に、北京市から感染対策のため入ってこないでくれ、と通告されたからです。

この通知が解除されない限り、フライトも高速鉄道に乗車することができません。予約すらできません。
なんとも非科学的で理不尽な話ですが、この仕打ちを受けるのは僕だけに限った話ではありませんし、11泊目以降はホテルを移動して自由に動くことができます。

割り切って、この機会に青島旧市街に移って老建築巡りをすることにしました。

あいにくの降雨でしたが、傘を持って出かけます。
幸いというべきか、10泊の不自由な生活で体は鈍っています。歩きながら見学すれば運動不足解消にもちょうどよいです。

まずは戦前、金融機関が集中していた館陶路に向かいます。

中山路を北上して、堂邑路から館陶路にさしかかると、最初に現れてきたのは三井物産青島支店だったビルです。



1920年の竣工だそうです。日本の第一次占領時代です。
古典様式でなかなか大型の建築です。屋根裏もあるようです。



1階から2階部分にかけて風格のある花崗岩のイオニア式の壁柱があしらわれていて、銀行のような風格のある作りです。





この頃、三井物産が青島で大きなビジネスの勢力を誇ったのかが伝わってくるようです。

三井物産が青島に拠点を置いたのはドイツ統治下の1906年と早く、日本の商社では最初だったそうです。日露戦争の翌年です。

その後も青島の日本企業のトップランナーとして存在感を示したようです。

1942年発行の中国工商年鑑によると、三井物産青島支店の事業内容として、「問屋、運送、代理業、工事請負、製材、造船、係船並びに陸揚場業」と紹介されています。

このエントランスも装飾が凝っています。

惜しむらくは、プラタナスの街路樹が遮って建物全体をフレームに収めることができないことです。

落葉したあとにあとに来ればよく見えるはずです。これは中国の歴史建築あるあるです。





夜はライトアップされていました。
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濰坊 坊子駅 - ドイツの植民地支配の歴史を語る駅舎

2021-08-16 | 山東を歩く
前回に続いて山東省濰坊市の近代歴史建築をご紹介します。

膠済線の坊子駅です。珍しいドイツ様式の駅舎です。



1902年の竣工です。







今は駅としての役目を終えています。旅客駅としても、貨物駅としても利用されていません。

1900年、青島を租借したドイツの探鉱隊はこの地を掘削して総埋蔵量300-350万トンの炭層を発見します。

当時、建設が進んでいた膠済鉄道は青島から濰県(現在の濰坊)に向かっていましたが、発見した石炭資源を獲得するため、当初の計画を変更して東南方向に迂回させ、炭井から2キロ離れたこの場所に駅を建設しました。



こうした思惑をはらんだ坊子駅は1902年6月に開通し、その後石炭と旅客を青島に運びました。

石炭輸送を重視したドイツ占領軍は坊子駅を「高級駅」に指定しました。
膠済鉄道沿線にあった56駅のうち、「高級駅」は青島駅、済南駅、張店駅とこの坊子駅の4つしかありませんでした。

当時、坊子駅での列車の停車時間は15分間と長めだったそうです。
石炭を積み込み、蒸気機関車に注水する時間が必要だったためです。

鉄道と駅は、1914年の第一次世界大戦後は日本が接収します。
その後日本はドイツが建設した鉄道施設をそのまま利用した上で駅の拡張を行いました。

日本は1922年に締結した「山東懸案解決に関する条約」でいったん膠済鉄道を中華民国に返還しますが、1937年の満洲事変後に再度占領しました。

戦後は中国鉄路局が利用を続けましたが、1984年、廃坑により石炭輸送の責を負わなくなった坊子駅は支線の終点駅となり、4等駅に格下げされました。



駅の南側には当時の駅前商店街らしき老建築が残っていました。



駅前広場の売店だったのでしょうか。



往時は利用客や炭鉱労働者、輸送、貿易にかかわるビジネスマンで賑わったことと思います。



駅から旧ドイツ人街に繋がる道です。

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