青島旧市街の旧ドイツ膠澳総督府です。

ドイツ租借時代を代表する建築物です。
ドイツは1898年に青島を租借した後、1902年に行政の中心となるこの4階建ての総督府の建設に着手し、1906年に竣工しました。
ドイツ人建築士による設計で、建築面積は約7千㎡あるそうです。青島のドイツ建築の中では最大です。

中国語のサイトによると、凹型で左右対称で、四隅と真ん中が少し飛び出しているのは19世紀欧州の公共建築の特徴だと紹介されていますが、そんなものでしょうか。
おそらく何度も修復を繰り返してきたのだと思いますが、とても保存状態がよく、美しい姿を保っています。
ここから青島湾まで200メートルぐらいです。建物の正面部分は海岸線と平行につくられているので、2階以上の南側の窓からは青島湾がすべて視界に入ったのではないでしょうか。
この総督府の周りにはさまざまなドイツ時代の公共施設の建築物が残っています。ここを中心として膠澳行政の中心区が形成されたことがわかります。



総督府は行政だけでなく、青島に駐在するドイツ軍の最高指揮官を兼ねていました。このほか鉄道、鉱山開発、裁判所などに対して監督権を持ち、大きな権力を握りました。
1914年に日本が青島に駐留をはじめると、ここは日本の青島守備軍司令部となりました。
初代の司令長官になったのは第一次世界大戦の青島攻略戦で指揮をとった神尾光臣でした。
民国時代を経て二度目の日本支配時代となる1938年には青島特別市公署となり、その後青島特別市政府と名前を変えました。
今は青島市人代常務委員会と青島市政協の事務局として使われています。

ドイツ租借時代を代表する建築物です。
ドイツは1898年に青島を租借した後、1902年に行政の中心となるこの4階建ての総督府の建設に着手し、1906年に竣工しました。
ドイツ人建築士による設計で、建築面積は約7千㎡あるそうです。青島のドイツ建築の中では最大です。

中国語のサイトによると、凹型で左右対称で、四隅と真ん中が少し飛び出しているのは19世紀欧州の公共建築の特徴だと紹介されていますが、そんなものでしょうか。
おそらく何度も修復を繰り返してきたのだと思いますが、とても保存状態がよく、美しい姿を保っています。
ここから青島湾まで200メートルぐらいです。建物の正面部分は海岸線と平行につくられているので、2階以上の南側の窓からは青島湾がすべて視界に入ったのではないでしょうか。
この総督府の周りにはさまざまなドイツ時代の公共施設の建築物が残っています。ここを中心として膠澳行政の中心区が形成されたことがわかります。



総督府は行政だけでなく、青島に駐在するドイツ軍の最高指揮官を兼ねていました。このほか鉄道、鉱山開発、裁判所などに対して監督権を持ち、大きな権力を握りました。
1914年に日本が青島に駐留をはじめると、ここは日本の青島守備軍司令部となりました。
初代の司令長官になったのは第一次世界大戦の青島攻略戦で指揮をとった神尾光臣でした。
民国時代を経て二度目の日本支配時代となる1938年には青島特別市公署となり、その後青島特別市政府と名前を変えました。
今は青島市人代常務委員会と青島市政協の事務局として使われています。
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