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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

濰坊 坊茨小鎮 - 山東半島に残るドイツと日本租借の痕跡

2021-08-13 | 山東を歩く
山東省濰坊市を訪問してみました。

濰坊には坊茨小鎮と呼ばれる20世紀前半に造成されたドイツ人街/日本人街の街並みが残るエリアがあるというので、行ってみました。





ここです。

濰坊市坊子区です。濰坊駅の南側数キロの場所にあります。

ドイツはなぜこんな場所にドイツ人街を作ったのでしょうか。

1898年、ドイツは独清条約により清国から青島・膠州湾一帯の租借権に加え、青島と済南を結ぶ膠済鉄道の敷設権、鉄道沿線15キロ以内の鉱山採掘権などを獲得しました。
ここには膠済鉄道の駅(坊子駅)を置いたので、駅を中心にした街づくりが行われたようです。



当時、この坊子地区にはドイツの炭鉱隊が探し当てた炭鉱があったそうです。
石炭は膠州湾に要する海軍にとって重要な動力だったので、ドイツは採掘権を行使するためにここに線路と駅を造りました。

したがって、この駅付近に広がるドイツ人街にはドイツ軍も駐留しました。

1914年、第1次世界大戦が始まると、日本はドイツに参戦します。その翌年、中華民国に二十一カ条の要求を認めさせ、山東半島を占領するようになります。

その後、1919年のパリ講和条約を経てここは日本の租借地となり、日本人コミュニティが発達しました。

現在、この一帯には、ドイツ式建築が103棟、日本式建築が63棟残っているそうです。



ドイツ人住宅です。



これもドイツ人住宅です。



部屋の中を見学することができました。









これは学校だった建物です。ドイツ時代はドイツ人学校、日本時代は日本人学校として使われたそうです。



学校だった建物は、現在ビアホールとして利用されていました。

見たところ、僕が歩いたエリアはすべてがドイツ建築のようでした。
隅々まで見たわけではありませんが、ドイツ軍司令部、ドイツ軍病院、駅、機関車修理工場、電報局、郵便局、炭鉱、修道楼、教会、学校、兵営、給水塔などとして利用された施設が今も残っているそうです。

日本租借時代に建てられた建築物としては、日本領事館坊子出張所、横浜正金銀行、横田旅館などがあったようです。





坊茨小鎮は地元政府によって2000年代に保存活動が始まり、修復工事が行われたそうです。
このため、一部は良好な状態で残っています。

ドイツの租借地であり、ドイツ風の古い街並みが残るのは青島だけかと思っていましたが、こういう鉄道付属地として開発された場所もあったのですね。満鉄と同じです。

日本ではあまり知られていませんが、山東半島の近代工業文明発展の記憶を留める場所です。

コメント
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