威厳とフェミニティ 上原彩子ピアノリサイタル

2012-01-16 02:47:47 | 日記
プログラムは、前半がベートーヴェンの悲愴ソナタ、
リストの「詩的で宗教的な調べ」より「孤独のなかの神の祝福」と、「リゴレット・パラフレーズ」
後半が、ラフマニノフの練習曲集「音の絵」だった。
燃焼を抑え、内観で弾かれたベートーヴェンもよかったが
彼女の「いま」が感じられるリストとラフマニノフに、特に感動した。
秘められた炎を感じる演奏だった。
タッチは繊細で、透明感にあふれ
テクニカルなパッセージも内容が濃いので、浮いた「技術」を感じない。
強い想念が伝わってきて、それはゆるぎない彼女の内面の芯だった。
ラフマニノフは、「音の絵」から9曲が演奏されたが、
楽曲の性格に従って多彩なニュアンスで描き分けられ、
うつろいゆくものの儚さ、寂寥感が伝わってきた。
リストに至っては、何かを透視しているような「鏡の向こう側」の音を感じたのだ。
亡霊のような孤独感とともに、かすかなぬくもりも感じられる。
触れないのに、触りたくなる音。
このリストは、女性にしか弾くことのできないリストなのでは? と思った。

ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてはではなく、
内省的な宗教家としての個性が噴出した時代のリストの作品は
女性ピアニストととても相性がいい。
「女性から選ばれる」男リストを感じるというか。
ジェンダーによる差別はしてはならないが、派手さを抑えて
豊饒さを霧のように拡散していくリストの後期作品には
とてもデリケートなニュアンスがある。
女性が愛すべきものが、たくさん詰まっているのだ。

あるピアニストの音が女性的だとか男性的だとか、断じるのは
おそらく大雑把すぎる。
いわく言い難く精妙なバランスが、その人の個性を作っているのだから。
それでも、リストのある時代の作品だけは「女性にしかそこにはいけない」という
境地を感じることがある。ある種の霊感の共有であり、
リストが女性から愛された理由もそこにあるような気がする。
魂に触れてくる微妙さがあるのだ。
女のほうから、リストに触れたくてたまらなくなる。
それは、(皮肉にも)リストが僧籍に入った後期の作品に集中しているのだ。

上原さんのリストは、彼女の奥深いところにあるフェミニティと
奇跡的なバランスで響き合っていた。リストの宗教性は、女性の本能的な「慈愛」と
シンクロしているのかも知れない。
「詩的で宗教的な調べ」の優しさと謙虚さは、母性的なものともつながっている。

このリサイタルのあと、METのオペラ映画で「ファウスト」を観た。
ファウストに捨てられて正気を失い、みずからの手で嬰児をあやめてしまう
マルグリットの姿を見て「女性は、なんてやられっぱなしなの!」
と憤懣やるかたない想いになった。
女は、こんなふうに長らく弱い性であったために、特殊な強さを身に着けた。
自分が愛したくないものに対しては、徹底して身を閉じるという強さだ。
男性に対しては、特にそうだ。間違った触り方をする相手に対して
女性は拒絶する権利がある。心も身体も。
どんな暴力も強制も、この女の決意の前には無力だ。

リストの音楽の前で「すべてを開く」という感覚を
女性ピアニストは実際に感じているのかどうか、わからない。
もしあるとしたら、それはとても現実的な感覚であろうとも想像する。
男性芸術家ほど、女性芸術家は「現実逃避的」ではいられない。
霊感のために、「山籠もり」はできないのだ。
小さなお子さんのいる上原さんの音楽からは、そんなことも感じた。

アンコールの「愛の夢」は、鍵盤の上を柔軟に踊る指に驚かされた。
摩擦や、でこぼことしたところは少しもない。
愛の歓喜の背後にある、絶対的な安心感に
「女」のあるべき心の姿をみたような気がした。