倉敷・大原美術館横「似顔絵・宏プロ」

倉敷・大原美術館横で長年・似顔絵を描き、お世話になっている者です。

倉敷にがおえエレジー 70回鼻考①

2004-10-23 18:41:36 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
鼻考現学

 鼻は顔の真ん中に鎮座している。その鼻を指して「俺が・・・」「私が・・」と言うのは古人曰くだ。
 眼は芽であり、歯は葉であり、耳は実であり、鼻は花である所から、その生命隊の一番自己主張する所からであろう。
 あのダビンチも鼻こそ顔の顔の全体的な特徴を決めると考えたし、デュラーも鼻の長さをほんの僅か変えるだけで著しく顔の感じが変化する事を描き出している。
人相学者ラヴンターは顔のあらゆる魅力は全て鼻しだいだという考えを述べた。故に「もしもクレオパトラの鼻がもい一センチ高かったら、世界の歴史は一変していたであろう」とパスカルの有名な警句が出来たのだ。
 日本でも芥川龍之介の短編「鼻」の主人公、禅智内供の鼻が腸詰めごとく伸びているのを悲観し、鼻を茹でて、その鼻を弟子に踏ませる悪戦苦闘の話だが、整形外科の発達している現在では、そんな事は訳もなく人口的に細工出きるだろう。しかしだ。そこにこそ人生の悲喜劇のドラマがあり、人は退屈せず生きていけるのであって、それを安易に努力もせず整形するという事は人間の喜怒哀楽の鞍部まで捨てきった個とになるのではないか。「画一化」という匿名の集団の中に逃げ込む事は、これは完全に人格性を喪失した生き方ではないのか。

だいたい「画一化」という思想はムダを省くことである。しかし、道草する馬が肥えるように、ムダが人間を豊かにし、ムダが内面生活を鍛えていくのだ。難しく言えば図のルネ・マグリットの指摘した様に「精神内容の不可視性」かも知れないのだ。
 本人が欠点と思っていた所が、実は案外唯一の魅力だったりするのである。
 故に整形して傲慢になるより、劣等感を抱き続けている者は謙虚である。傷を負って生きている人は優しい。そして尚「ヨシ、自分は自分なりに自分の人生をベストを尽くして生きる」ところに立派な顔が出来上がっていくのではないか。

さて鼻の話だったのたが過日「何時までも若くありたい。美しくありたい。と言うのは、何時の時代