それにはやはり孫三郎で、翁はまさに「下駄と靴を片足ずつ履いて、そのまま歩き通した人生」だと言ってもよく、非常に分かりにくい人だったそうである。語録にも「学校の先生が褒めるような人物はたかが知れている。」「愚問を大胆にやって真を掴むことが出来る。賢そうな行動には発見も発明もなし」等だが、故に氏は思想的に右でも左でも夢を抱いて生きる男が好きであった。
山川均等は氏と小学校が一緒であったが、社会主義者の旗手であり、明治四十一年、堺利彦の赤旗事件に連座して千葉の監獄に入れられたとき、孫三郎はわざわざ慰問にいくほど親しくしている。
また大原社会問題研究所を創設したとき「貧乏物語」の著者・河上肇を所長に招こうという下心もあって、自ら河上を訪ねている。河上は思いがけぬ資本家の来訪に驚き「私の様な所へ来られると、あまり貴方の為になりませんよ」と孫三郎をたしなめている程である。
勿論これらは靴の方で、片方の下駄には当然ながら、彼の周囲には特定の女も居た訳で、とくに好んで老芸者の世間話に耳を傾けた。
「ワシはあまり本を読まぬ代わりに、そういう女より、とても学校では教えて貰えんような学問をした」というのだ。
有名な話では東京での学生時代、放蕩で高利貸しから今の金で言う数千万円の借金したとき、倉敷まで付いてきた付け馬に「他国の若者に大原を信用して、よくそれほどの大金を貸して下さった。」とご馳走し、返済したと言う孝四郎と言う父も並の人ではない。
この孝四郎という人は松田元成の臣で、藤田大炊介を祖とし、四代照之は蘭皇と号した儒者で京・大坂の著名な学者・文人と交わった家柄である。
総一郎の曾祖父にあたる五代目大原与平は旧禄・新禄との闘争、下津井事件にも連座しているとして片耳を切られたり、立石孫一郎一党に銃で威嚇されたりするがあくまで商人としての堅実主義に徹し、名実ともに大原家の礎を築く。
その頃、著名な儒者・森田節斎が倉敷に招かれ塾を開いたのを機に、自ら住居を「謙受堂」と名ずけ、藤田孝四郎を養子としているのは「満は損を招き、謙は益を受く」に共鳴したからであろう。この「謙受説」は倉敷紡績の社是となり総一郎氏にも受け継がれていくである。
山川均等は氏と小学校が一緒であったが、社会主義者の旗手であり、明治四十一年、堺利彦の赤旗事件に連座して千葉の監獄に入れられたとき、孫三郎はわざわざ慰問にいくほど親しくしている。
また大原社会問題研究所を創設したとき「貧乏物語」の著者・河上肇を所長に招こうという下心もあって、自ら河上を訪ねている。河上は思いがけぬ資本家の来訪に驚き「私の様な所へ来られると、あまり貴方の為になりませんよ」と孫三郎をたしなめている程である。
勿論これらは靴の方で、片方の下駄には当然ながら、彼の周囲には特定の女も居た訳で、とくに好んで老芸者の世間話に耳を傾けた。
「ワシはあまり本を読まぬ代わりに、そういう女より、とても学校では教えて貰えんような学問をした」というのだ。
有名な話では東京での学生時代、放蕩で高利貸しから今の金で言う数千万円の借金したとき、倉敷まで付いてきた付け馬に「他国の若者に大原を信用して、よくそれほどの大金を貸して下さった。」とご馳走し、返済したと言う孝四郎と言う父も並の人ではない。
この孝四郎という人は松田元成の臣で、藤田大炊介を祖とし、四代照之は蘭皇と号した儒者で京・大坂の著名な学者・文人と交わった家柄である。
総一郎の曾祖父にあたる五代目大原与平は旧禄・新禄との闘争、下津井事件にも連座しているとして片耳を切られたり、立石孫一郎一党に銃で威嚇されたりするがあくまで商人としての堅実主義に徹し、名実ともに大原家の礎を築く。
その頃、著名な儒者・森田節斎が倉敷に招かれ塾を開いたのを機に、自ら住居を「謙受堂」と名ずけ、藤田孝四郎を養子としているのは「満は損を招き、謙は益を受く」に共鳴したからであろう。この「謙受説」は倉敷紡績の社是となり総一郎氏にも受け継がれていくである。