倉敷・大原美術館横「似顔絵・宏プロ」

倉敷・大原美術館横で長年・似顔絵を描き、お世話になっている者です。

倉敷にがおえエレジー 106回似顔絵の歴史⑱

2004-11-30 19:07:25 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
 それにはやはり孫三郎で、翁はまさに「下駄と靴を片足ずつ履いて、そのまま歩き通した人生」だと言ってもよく、非常に分かりにくい人だったそうである。語録にも「学校の先生が褒めるような人物はたかが知れている。」「愚問を大胆にやって真を掴むことが出来る。賢そうな行動には発見も発明もなし」等だが、故に氏は思想的に右でも左でも夢を抱いて生きる男が好きであった。
 山川均等は氏と小学校が一緒であったが、社会主義者の旗手であり、明治四十一年、堺利彦の赤旗事件に連座して千葉の監獄に入れられたとき、孫三郎はわざわざ慰問にいくほど親しくしている。
 また大原社会問題研究所を創設したとき「貧乏物語」の著者・河上肇を所長に招こうという下心もあって、自ら河上を訪ねている。河上は思いがけぬ資本家の来訪に驚き「私の様な所へ来られると、あまり貴方の為になりませんよ」と孫三郎をたしなめている程である。

 勿論これらは靴の方で、片方の下駄には当然ながら、彼の周囲には特定の女も居た訳で、とくに好んで老芸者の世間話に耳を傾けた。
 「ワシはあまり本を読まぬ代わりに、そういう女より、とても学校では教えて貰えんような学問をした」というのだ。

 有名な話では東京での学生時代、放蕩で高利貸しから今の金で言う数千万円の借金したとき、倉敷まで付いてきた付け馬に「他国の若者に大原を信用して、よくそれほどの大金を貸して下さった。」とご馳走し、返済したと言う孝四郎と言う父も並の人ではない。
 この孝四郎という人は松田元成の臣で、藤田大炊介を祖とし、四代照之は蘭皇と号した儒者で京・大坂の著名な学者・文人と交わった家柄である。
 総一郎の曾祖父にあたる五代目大原与平は旧禄・新禄との闘争、下津井事件にも連座しているとして片耳を切られたり、立石孫一郎一党に銃で威嚇されたりするがあくまで商人としての堅実主義に徹し、名実ともに大原家の礎を築く。
 その頃、著名な儒者・森田節斎が倉敷に招かれ塾を開いたのを機に、自ら住居を「謙受堂」と名ずけ、藤田孝四郎を養子としているのは「満は損を招き、謙は益を受く」に共鳴したからであろう。この「謙受説」は倉敷紡績の社是となり総一郎氏にも受け継がれていくである。



倉敷にがおえエレジー 105回似顔絵の歴史⑰

2004-11-29 20:13:45 | 掲示版
もう一つは我国の社会事業家の先達「石井十次伝」を読んでいると、このニコライ・ガノーの名が出てきたのだ。それは十次の娘・友子の結婚相手を探していた時、日本救世軍を創始する山室軍兵(哲多町)がニコライの資料を十次に紹介。
そこで十次はあらゆる面で援助を受けていた大原孫三郎に相談すると即座に画家・児島虎治郎の名をあげるのだ。しかし、その当時、美術で喰えるものはごく少数で、美術を勉強するというと武術の間違いではないかと言われた時代だったが
 「人間と云う者は、決心と心掛けしだいでどの様にもなるのだ」という孫三郎の信念を知悉していた十次は「これ神命なり、疑うなかれ」と神と孫三郎に一切を任せるのだ。

 ところで人間は区々たる運命に翻弄される者だが、人間は何の為に生きるのかと考えた時、己の中に生まれながらに与えられている才能の可能性を、出来るだけ幅広く伸ばそうとすると豊譲な出会いをするものなのだ。彼等はそんな人達であったろう。況や人間の価値を逆さまに、異人の方が根源的には真実を語り、実践していると確信する乞食エカキにとっては裏話に興味があるのだ。
 「生き物にはその行動に於いて、奇妙な裏話が在る」と書いたのは「昆虫記」のファーブルだが、総一郎氏はその本を座右の書としていたとあるので誤解を恐れず続ける・・・・



倉敷にがおえエレジー 104回似顔絵の歴史⑯

2004-11-29 05:31:58 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
41 似顔絵の歴史6大阪・京都・神戸

 ニコライ・ガノーという露国の画家の名前には二度出会っている。最初は世が安保闘争の真最中の頃で東大生の樺美智子の死と引き換えに「もはや戦後ではない」と第一次池田内閣が発足した頃であった。当時の俺は面白くない高校をさぼっては単車をぶっ飛ばしたり、映画館の梯子をしたり不安定な状況であった。
 そんな一日、大阪の盛り場・千日前を歩いていると「よう、兄ちゃんの似顔絵、描きまひょ。」と声をかけた男がおる。濃い眉に濃いヒゲ面。一見して沖縄人の顔だ。「二百円」というので描いて貰うことにしたのだが、何と彼こそが
儀間比呂氏といって、行動美術会員で「沖縄」という「受難島」を主題に彫り続けていた時代なのである。そして一九五六年、沖縄で個展を開くのだが、それを見た沖縄タイムズの新川明は感動するのだ。
「当時の私は、米軍の軍事支配によってもたらされる人間否定の現実に目をそむけて、安穏とした日常に埋没している沖縄の芸術のあり方に苛立ち、抵抗の芸術運動を提唱して血気に満ちていた。そこへ儀間氏の作品に接し、彼こそ沖縄のシケイロスやオロスコである」と沖縄タイムズに個展評を書くのである。
           
以来、二人は刎套の友となり「詩画集・沖縄から日本が見える」等を出版し続けていくのである。
「その時の儀間氏は芸術というものは、人が上手く行えないものを、表現して実践してやるもんじゃ。公募展等に色気を使うより、絶えず生きた人間との相互関係を大切にすることだ。云わば相互の滲透において存在するものでなければアカン。その点ニコライ・ガノーという画家は似顔絵を描いて孤児を養育したというが、これこそ芸術なんだなぁ」
 この話は今でも強烈に覚えている。





倉敷にがおえエレジー 103回似顔絵の歴史⑮

2004-11-27 18:06:51 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
またその年の十二月より大原美術館開館、入場料は一般五十銭、学生三十銭、進駐兵は無料だったが、氏は兵士が喰いいる様に鑑賞する姿を見て、芸術に国境がないことを確信するのである。以後、ビニロンを開発する一方、今までは印象派のアカデミックな絵が多かったが、ゴッホやセザンヌの様なエコール・ド・パリ以降の作品も購入するのである。と共に昭和二十六年にはマチス展、翌年にはピカソ展を開催。戦後の大原美術館のルネサンスとも言うべき改革が見事に華ひらくのだ。「倉敷を日本のローテンブルゲに」というのが総一郎氏の希望だったそうだが、今、現実に具体化しつつある。


 ところで人が環境によって助長する者と仮定すれば、この一介の地方都市から多くの画家が輩出している事である。大原氏の奨学生であった満谷
国四郎と児島虎次郎。岡山洋画壇の父といわれた吉田茜。裸婦の寺松と言われた寺松国太郎。太平洋洋画会の中心だった鹿子木猛郎。アメリカ画壇で成功した国吉康雄。フォーブの鬼と言われた中山巌、フォーブより大原美術館員になった三橋健。我国抽象絵画の先駆者・坂田一男。盲目の旅芸人・ゴゼを得意とする斉藤真一。
 日本画では小林竹喬に池田遙邨等の巨匠をあげていけば切りがない。
 では何故こういうことを書いて来たかとというと俺が東京へ似顔絵を描きに云った時、前回で紹介した野崎氏や小野君。竹槍氏という具合にこの倉敷出身の似顔絵師が実に多かった事に疑問を感じていたからだ。しかし、こう書いてきてみると何の不思議も無い分けである・・・・


 竹槍氏は下津井出身でシャープな顔立ちにロマンスグレーの良く似合う人だが根はボッケー頑固者である。「わしゃ、倉敷に居る時はゴクドウ者でな」おっしゃる氏のゴケドウはとは黒住教の布教者として、その頃台頭してきた新興宗教を論破して歩く事を指すらしい。その間、大原美術館に魅せられ、この道に入って来たらしい。小野君は
叔父さんが英国でアッシャー賞に入賞した抽象画家・藤岡章氏の影響もあるが、やはり大原に魅せられてこの道に入ったと叙階する。

 神さま、仏さま、オオハラさま。皆、オオハラの恩恵を受けているのである。


It may be denied 99%. It has applied to 1 next%. With one 1000 眼暗 and one eye difference person who say commonly .....









倉敷にがおえエレジー 102回似顔絵の歴史⑭

2004-11-26 19:15:27 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
日本通で岡倉天心を知るラングドン・ウォーナーの功績も多大で、彼は「日本にある人類の宝を守れ」と云ってアメリカ人類学者オーティス・ケーリーを通して、米陸軍長官ヘンリー・スチムソンに依頼したことである。
 また大原美術館前に立つ二体のロダンの彫刻像「カレーの市民」「洗礼者ヨハネ」を時の軍部が
接収命令を出して来た時、ときの館長・竹内潔真が「このロダンの彫刻はかけがえのない重要美術品。軍需工場で働いているおられる多くの労働者に感動を与えています。」と直訴。それを「供出の必要なし」と受け入れた審議会委員の人々に柏手を送りたい。

 実際、戦争中の入館者は多く、殺伐とした時代故に芸術に触れ、人間としての魂を一瞬でもとりもどしたかったのだろう。のち孫三郎の後を継ぐ総一郎氏は当時を回想して、次の様に書いている。
 「その頃、毎日のように武官に連れられて特攻隊出陣の若い学徒兵の人達がやって来た。当時敵国の美術品に囲まれた中で、故国に決別する最後の一時を過ごして任地に向かう、これらの人達の印象は今も消し難く思い出される」
 総一郎氏にすれば孫三郎より受け継いだ倉敷紡績も軍に接収され、木製飛行機を造らされていたが、多くは特攻用で日本楽器製造の「剣」が有名だが、ここのは「白菊」という可憐な名で、結局、十七機が造られ、総一郎氏としては感慨ひとしおであったろうと想起するのだ。



倉敷にがおえエレジー 101回似顔絵の歴史⑬

2004-11-25 18:34:43 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
その大原美術館は昭和五年開館だが、当初は児島虎次郎記念館みたいなもので、全ての作品は大原氏の援助で児島氏が集めたものと彼自身の作品であったからだ。
 そもそも虎次郎は成羽町の宿屋の息子であったわけだが、画才が優れ大原孫三郎の援助によって東京美術学校に入校。この時の校長が黒田清輝で同期には和田三造、辻永、南薫造、熊谷守一。そして文豪・夏目漱石をして「あの人は天才だと思います。」と言わしめた青木繁等、日本洋画壇の精鋭が揃っていた。とくに青木芸術は歴史の激しい審判を超えて第一級の名を後世に残しているが、当時の彼は黒田や岡山出身の児島や松岡寿、満谷国四郎を馬鹿にし、「海の幸」より「わだつみのいろこの宮」が最末席になるや「大家は退化なり、貯財せずば大家になれず。困ったものなり・・・」の文を敲き付けて出奔、満身創痍のうち他界するのだ。

 一方、孫三郎の庇護下にあった虎次郎は石井十次の岡山孤児院を描いた「情けの庭」が一等賞を獲得、皇后のお買いあげとなるのである。個人的には藤島武二の描いた石井の教育理念の「ライオン教室」の方が面白いが仕方あるまい。結局、虎次郎は孫三郎の薦めでパリのコランに次いでベルギーのガン美術学校に学ぶのである。その在学中に泰西名画の原画を見るに及んで感動、孫三郎に西欧絵画のコレクションを進言、アマン・ジャンの「髪」を手始めにモネの「睡蓮」、マチスの「画家の娘」。そしてマルケ、デヴァリェール、ドニ、ベナール、コッテ等の作品二十七点を購入。そして「第一回仏蘭西名画展覧会」が、この倉敷の新川小学校で大正十年に催されるのだが、その反響は異常なほど大きかったと言う。小磯良平や前田寛治など多くの画家の渇仰を癒し、遠くは北海道や九州からはるばるやって来た愛好家まであって汽車が着くたびに倉敷町民も驚いたが、一番驚いたのは孫三郎だったらしい。
 以後、孫三郎は再三、虎次郎を名画の寡集の旅に出発させ、後、大原美術館の顔にるエル・グレコの名作「受胎告知」等手に入れるのだ。

この事は昭和七年、満州事変に際して国際連盟から派遣されたリットン調査団が日本の片田舎にこれほどの西洋絵画が集められている事に驚嘆したと言われている。この事情が第二次世界大戦末期日本国内各地が浴びせられる中、倉敷が無事であったのは己自からの文化を灰塵に帰するに偲びなかった。つまり、一個の美術館が町を救ったのであると云っても過言ではなかっただろう。




倉敷にがおえエレジー 100回似顔絵の歴史⑫

2004-11-24 21:51:12 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
40 似顔絵の歴史5倉敷編

 大原県倉敷・・・この奇妙な県名を聞いたのはこの倉敷出身の似顔絵描きの小野君からであった。といって別に奇妙でも何でもなく、俺が大阪の美術学校に通っている頃から、先生や美術研究生からオオハラ・クラシキと何度も呪文の様に聞いていたからだ。

 確かにクラシキを世界的な名にしたのは倉敷川を挟んで白壁,本瓦葺き、格子窓といった特異な蔵屋敷をバーナード・リーチやエドマンド・ブランデンが絶賛した事にもよるが、何といっても大原一族の存在だろう。

 その大原氏は早くも明治二十一年に英国より紡績機械一式を買い入れ成功するのだが、ただ単なる実業家でなく「富のうちのみに死する者は、汚辱のうちに死する者でる」と云い、実践した世界
最大の鉄鋼王カーネギーに似て、社会事業に身を捧げるのである。倉敷奨学会、岡山孤児院、大原社会問題研究所、大原農業試験所、倉敷中央病院、民芸館建設等などだが有名で誰でも知っているのは大原美術館だろう。



倉敷にがおえエレジー 99回似顔絵の歴史⑪

2004-11-23 19:14:36 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
上野公園は寛永寺跡だが、明治より博覧会のメッカで、そこに尚、動物園、博物館、美術館等多くあり、とくに桜の季節になれば花見客で満杯になる所だ。
 それに昭和二十六年になると東京国立博物館でアンリ・マチス展。ついでピカソ展,ブラック展等開催多くの人を集めるのだが、余談ついでにこのヒカソ展を見た大原総一郎氏は「頭蓋骨のある静物」を二年がかりで手にしているのだ。

勿論ここにも数人の似顔絵描きがいた。戦争孤児をテーマにした作品を描き続けている西村滋氏に依るとストコフスキーというアダ名の似顔絵師を紹介しているが、やはり日本人が米兵に悪戯されると、大きな声でアメリカ国歌を歌い、それが大合唱になって兵士はコソコソと姿をくらましたという。
 彼等はズボラであったが一方で露ほどの規制も因襲も嫌う潔癖さを持っていて、虐げられる者同士の仲間意識が強く、その一つが警視総監が数名の部下を連れて夜の上野公園を視察中、オカマやその仲間に殴られる事件もその一つであろう。

 また新宿だ。新宿は昭和初頭より、おそらく東京中で一番人の込み合う町だったろう。故に流しの芸人は銀座より多かったし、花売り娘も、易者も、乞食も、況や大道絵師も大勢闊歩していたと思う。
 戦後、この一帯を娯楽センターにする構想は敗戦三日後にすでに決定、歌舞伎町となるのであるが、数人の男エカキに混じって井上のおばあちゃんエカキに左手のない池田という若いおんなエカキが出現していた。しかもここが一番柄の悪い絵描きの集まる所で、あえて言えば精神病院入院一歩手前の様な奴ばかりで、ここを縄ばりにしていた尾津組も和田組もこのような大道絵師からはショバ銭は取らなかった。

 関西でも京都では口で絵を描く睦ちゃん。大坂の難波では共産党員で二人がかりで一枚の似顔絵を描く人。行動美術で沖縄出身の儀間比呂志氏。神戸で橋本関雪と京都絵画学校で同期だった杉本氏等々を話しに聞くが、ではこの倉敷ではどうだったのだろうか。

 「秋津温泉」で有名になった郷土作家・藤原審鋳は今の千秋座に近い喫茶店の二階に住み「秋楽町横丁」を描いている。これによると、この岡山に進駐してきたのはコート代将でここもご多聞にもれず食料難で進駐軍に浅ましい行為をする事を禁じている。涙ぐましい事には食料難を解決する為に新渓園で「もみ殻パン」「スイトン」「どん栗餅」奇抜な所では「鼠のスキ焼き」等を試食しているのである。
 しかし嬉しいことには終戦の年には早くも大原美術館開館、何とすぐにピカソ・マチス展を開催しているのには驚く。
 それに現在は日展会友であり、後世の育成に邁進されている「福ちゃん」の愛称で親しまれているK氏が即席似顔絵を描いて倉敷を明るくしたことが救いであろう・・・

 次回 似顔絵の歴史 !)




倉敷にがおえエレジー 98回似顔絵の歴史⑩

2004-11-22 23:41:16 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
しかし、俺は「自らの意思でドロップアウトして、自主独立へ脱出した自由人もいたのだ」という夢と希望の歴史観を持ちたいし、描きたいのだ。

 銀座に戻る。昭和二十七年になると松屋や第一生命ビル等が日本に返却されるが、驚くなかれ似顔絵客は全国七百ケ所の基地に駐留している米軍兵士が主流だった。

 相変わらずトンボという似顔絵描きは服部時計店前や松屋前等を飛び回って、似顔絵を描き、独立展に出展していたが入選せず、公衆便所の中で凍死するのだが彼の口癖は「林武のアトリエにウンコして来てやった」であった。
 東大法科出のゴーケツという絵師はハオリ・ハカマで矢立て描く人だったが名の通り、正義感強く、三人連れの米兵に日本娘が悪戯されているのを目撃すると、下駄を脱ぎ捨てその中に割って入るのだが何しろ栄養失調だ、米兵にスキヤ橋下に投げ捨てられたあげく水死。俗に言うヤンキーゴーホーム事件だ。
 明治芸術学部出の野崎という絵師は絵を描き終わっても「ザッシライト」と言わなければ、おもむろに鉛筆削りを取り出して鉛筆を削り始め威嚇するのだ。彼は後年NHKより「失われた大陸」等ドキュメンタリー物をモノにするのだが、ちなみに彼は岡山・高梁の出であった。
 又、ある奴は柳の木に登り「ミィ、ミィ」と蝉の鳴き真似をしたり、「ホーホケキョ」とウグイス」の鳴声して「外人にはわかるメェ」のタンカを切ったり、「俺の身体売ります」と言う看板を首からぶら下げたり、まだまだ街はデカダンとニヒリズムの洪水であった。
 一方、無頼派と称する文学達はアドルムやヒロポンを手にし「ニヒリズム奨励」の文学を書きまくっていたのである。
 あえて言えばとことん落ちてしまえば住みやすい世界だったのだ。
 ところが講和条約なるや大道絵師の大半が住んでいた新橋、有楽町の国鉄ガード下にあったバタヤの強制徹去。それに児童福祉法の改正施行にもとずき、警視庁は銀座の花売り、靴磨きを一斎補導乗り出すのだ。似顔絵描きの中でも未成年の者がおって、彼等は上野公園に進出して行くのである。



倉敷にがおえエレジー 97回似顔絵の歴史⑨

2004-11-21 17:34:41 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
39 似顔絵の歴史!)

 昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争は、日本に取って重大な意味を持つ事件だった。他人の不幸で漁夫の利を得た結果になったが、この戦争から受けた利益は膨大でこれが日本の再建に注ぎ込まれ、少なくとも物質的な面では太平洋戦争という愚行に突入する前に近い状態に戻ることが出来たのだ。
 それは金ヘンであり、糸ヘンであったのだが、やはり大道似顔絵師の先輩の話だが、パンパンガール経済と共に大いに似顔絵師も寄与したというのだ。

 これは少々極論になるかも知れないが、確かに全国進駐軍の来た所では彼等から相当金せしめただろう。とくに横須賀や佐世保の軍港では、似顔絵長屋がズラッと並び、街灯も点灯し毎日祭りみたいな騒ぎだったと言う。

 ところが翌々年、国民自ら選んだものでない日米安保条約が発効。三日後には血のメーデー事件。「破防法」いわゆる治安維持法、特高の悪夢が又、再現されるのだ。
 余談になるが我国の民衆史のパイオニアである八切止夫史観によれば、古墳時代における我国の人口の九割は奴隷だったという。奴隷は妻帯が許されず(賎ズリという言葉の語源はここにあるとか)奴隷頭に出世した者だけが子孫を残す事を許された。即ち奴隷頭とは、仲間の奴隷達を裏切って鞭打たれる側から鞭打つ側に回った連中の事である。要するに日本人民衆のほとんどは、裏切り者の子孫であり、その内なる奴隷根性は二千年のプロセスをえて形成されたという訳だ。

 八切止夫はこれを自らの戦争体験をもとにして「天皇バンザイ」で中国へ出征した日本兵達が捕虜となるや「毛沢東バンザイ」を、シベリアに抑留されると「スターリンバンザイ」を唱え、帰還したとたんに「マッカーサーバンザイ」を唱えるという、その徹底した節操のなさ、プライドのなさこそ、古代奴隷制が如何に強力だったかを証明していると言うのだ。
これが事実ならマッカーサーに「日本人の精神年齢は十二だ」と言われても仕方なかろう。
 しかし、俺は「自らの意思でドロップアウトして、自主独立へ脱出した自由人もいたのだ」という夢と希望の歴史観を持ちたいし、描きたいのだ。

 銀座に戻る。昭和二十七年になると松屋や第一生命ビル等が日本に返却されるが、驚くなかれ




倉敷にがおえエレジー 96回似顔絵の歴史⑧

2004-11-20 22:46:07 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
今度は銀座のハナとかマドンナと言われたパンパンガールも一緒で、結局、彼女からも肉体の接待を受けるのである。
 勿論一般人の中にも銀座のど真ん中で日の丸のタスキを掛けて何だか訳のわからぬ演説をしている人だとか、マンドリンで弾き語りしている「天空」とかいう詩人とか、信号等無視して「止まれ!」「まだ行っちゃいけない!」等叫んでいる人とか、あらゆる軌範から解放され、個人の自由意志を現わす人が出て来たのも一種の救いであろう。


 先輩似顔絵描きはいうのだ。
「当時はある種の共同体の意識、お互い同士という気分があった。振り返ってみると、あの頃の真にみすぼらしい日本人の方が、今の身ぎれいなお洒落な日本人より、むしろ立派だったのではないかと思える。人々は呆然自失のショックを振り払って立ち上がり、軍国主義的な侵略など無益だと悟るや、別の道を求めて廃墟の中を歩む姿は美しかった」と。

 ところで今や世界的な版画家として有名な池田満寿夫氏も、自由美術の佐伯という似顔絵師の紹介で立っていたのである。
 「この似顔絵というヤツは特別な技術を必要とするらしく、私には初めから彼等に対抗出切るだけの要領のよさを持っていなかった。従って何時も兵隊を横取りされ、あげくのはて、この新参者は銀座の似顔絵のレベルを落とすとして彼等の協議の結果、銀座に立つ事を禁じられたのであった」と氏の著書で嘆いておられるのだ。氏は兵士が通りかかると「ボクは絵ヲ勉強中デ学資ガ必要ナンデス。ドウカアナタノ似顔絵ヲ一枚描カセテクダサイ」とたどたどしい英語で説明しょうとしているが「ヘイ、ユー、ノオライク、ノォペイ!」で良いのだ。
 それに横浜からくる第五空軍や第八連隊の米兵はよく描かせてくれるが、腕黄色地の馬のマークを付けた米兵はマッカーサー直属のいわゆる近衛兵で池田氏は見分けがつかなかったのであろう。

 池田氏はそれで良かったと思う。

 次回 似顔絵の歴史!)




倉敷にがおえエレジー 95回似顔絵の歴史⑦

2004-11-19 20:21:50 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
さて俄然似顔絵師の話が明瞭になってくるのは、戦後の事からであるというのは、その時より似顔絵を描き、なお現在似顔絵を描いている先輩がいるからである。
 その先輩の話しによると新宿、銀座、上野等の焼け跡にはすぐ露店が建ち始め、とくに銀座の服部時計店と松屋には進駐軍用の酒保、つまりPX前にはカーキ色の軍服を着た進駐軍兵士が大勢やってきたので、それを目当ての花売りや靴磨き、あるいはパンパンガール、箱形カメラを首から下げた俄か街頭写真屋等が出現した。

 そんな中にスケッチブックを持った大道似顔絵師も居たわけだが、その数は二十人とも三十人とも言われている。
 石田、橋本、野崎、ガマ田、大崎、松本、小林、岡田、福永、佐伯などなどだが決して本名で呼ばれる事なく、ガマやショウ、アラカンやガイコツ、あるいはイラスト等とニックネームで呼ばれていたのはお互いの過去を詮索することなく、一種の親しみとチームワーク堅さを現わしているとみえる。
 例えば絵に自信のあるものは丸の内の学士会館や王子の燃料倉庫跡に兵士が寝泊りしていたので、油絵の肖像画を描きにいった。F6号で毎日二時間、一週間完成で二千五百円。当時、似顔絵一枚は三十円程だったので良い値段と良い食事だったと言う。
 また面白い事に横須賀港に軍艦が入るとポン引きが連絡してくれ、大拳して似顔絵を描きに行くのだ。そして滅多に手に入らないフイリップモリスのタバコや缶詰を手にすると、当時殺人酒と言われたメチール酒で泥酔。数人の似顔絵師も死んでいったが決して「進駐軍万歳」「反軍国主義」「平和と民主主義」唱える事もなく、況や「芸術論」等一口も口に出さなかったと言う。
 ついこの間まで「我々こそは東亜の指導者である」という妄想を完膚なきまで叩き込まれ、一転、マッカーサーの説くデモクラシー、丹頂党(頭だけ赤い)の示唆するイデオロギーもそこに獣的な人間の利己心が働いている事を膚で痛いほど知悉していさのであろう。

 故にだ。彼等は自分自身を戯画的かつ露悪的にする方が行き易かったのだろう。例えばショージという似顔絵描きは客が如何に進駐軍兵士であろうとも、絵を描きだすと般若心教を唱えたり、アラカンというエカキは「ノー・マネー」と言っておきながら「眼はファイブ・セントだが描くか?」「鼻はシックス・セントだがどうする?」と言って結局三十円近くを手にするのだ。後、自害する石田氏はパンパンガールと歩いている兵士の帽子を、跡からひったくり赤ンベエして逃げ去るのを得意としていた。又、ある聾唖者のエカキは絵を描き終わって「ハウ・マッチ」と聞かれ、指を三本出すと何と三ドルもくれたという訳で又、皆でメチール酒で乾杯だ。



倉敷にがおえエレジー 94回似顔絵の歴史⑥

2004-11-18 15:00:44 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
37 似顔絵の歴史!)

 「文明」というものは創製、発展、爛熟、衰退という生命と寿命にも似た経過をたどるものであり、その爛熟期が大正時代だったと思うのだ。
 心理学者・南博氏は「現在の我々の周りを取り巻く現象はほとんど大正期にその原型が存在していたのである」と指摘されるのだ。

 例えばデモクラシー、マルクス主義、そして私小説、風俗小説、プロレタリア芸術、前衛派等の芸術面。マスコミ、マスカルチャーの現代との酷似。生活、風俗の面での生活の合理化、家庭文化、消費文化などは大小の差こそあれ、そのパターンは現代の原型である。
 たしかにこの時代は目覚めと行動の時代であり、芸術活動は盛んになって文学者や画家が輩出し数々の名作を発表。
 反面、失業率が多大で画で喰えない画家は銀座や浅草、あるいは上野公園に似顔絵描きとして立ったものと推測する。
 この頃の浅草は谷口潤一郎の「鮫人」や川端康也の「浅草紅団」などに描かれているように、軽演劇やレビューのメッカで人々は毎日溢れていたし、銀座でも今では(銀ブラ)など死語とかしているが、この頃は眩しいような街で、人々は(銀ブラ)というものはステータス化していたのである。これは昭和に入ってからだが作家・武田鱗太郎は「銀座八丁」で銀座のカフェーを次ぎのように活写しているのにも伺える。
 「時々、扉が開くので、皆はそちらを見るのだが、実に多いのは花売りの子供や声色屋、明暗教会の箱ぶら下げた虚無僧、バイオリン弾き、そして似顔絵描き」と出てくるのである。その頃流行った流行歌「東京行進曲」では銀座、浅草、新宿などを歌っているように其々の盛り場には先ほどの連中も集まって来たのであろう。

 似顔絵描きの先輩の話によると有名な漫画家の近藤日出造や清水昆も無名時代には大道似顔絵師として活躍していたそうだし、上野公園では日展審査員で「舞子像」を得意とする鬼頭鍋三郎氏も似顔絵を描いていたのである。




倉敷にがおえエレジー 93回似顔絵の歴史⑤

2004-11-17 17:03:07 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
ところで小生の友人に奥山という男がいて、彼は現在ドイツのドレスデン美術大学に留学していて帰国するとよく話しを聞くのだが、彼の説によると似顔絵が大量に描かれるようになったのは、鉛筆の発明からであろうと言う。たとえば十六世紀フランソワ一世の宮廷画家であったジャン・クルーエは鉛筆による似顔絵が数百枚、シャティのコレクションに残っているように・・・・

 なおこの似顔絵集は当時複製販売され、人気を得たというがそれは丁度今日、写真やグラフ雑誌が大衆に映画俳優やスポーツのスタープレヤーの容貌を伝えるのと同じであるまいか。

 また十八世紀のルイ・カロジスという画家はオルレアン公のお抱え絵師だったが、カルモンテルという偽名で色んな人の顔を描いたことである。
 そのモデルの其々の物腰、身なりが自然な表情で描かれているのは鉛筆画が油絵よりたやすく、しかも安価であったからであろう。故にクルーエの似顔絵がかって引き起こしたのと同じ様な熱狂が再びみられるのだ。彼の似顔絵も散逸したものを除き、七五0点がクルーエと同じくシャティイに現在も残っている。

 それにしても王侯、貴族、ブルジァア階級だけの肖像画が横行していた時代に庶民を好んで描いたと言う事は二人共、反骨精神を秘めていた事であろう。新たな大きな創造を成そうとする者は絶対反骨精神が必要なのだ。
 ヴアン・エイクは「オータンの聖母」に於いて寄進者を聖母の下に身体をくねらせ、辛い姿勢で跪かせている。ポッティチェルリは「東方の博士の礼拝」に於いてメディチ家の人々を可笑しくなるほど、尊大と傲慢さを描き加えている。レンブラントの「夜警」に到っては光線の原理を追及するあまり、支払いを拒否され、クールベは写実主義を追及するあまり、監獄に囚われているのである。

 話を本流にもどす。先の奥山の話を続けるとドイツに於いてもチューリヒ駅前通りの路上でバグパイプやギター演奏者のストリート・アーチストに混じって似顔絵描きも大勢いるらしい。しかし、何といっても有名なのはフランスのモンマルトルで、次いでスペインのマドリード広場、ニューヨークのグレニッジビレッジ(現在イースト・ビレッジ)であろう。
 ではこれらは何時頃からと言われれば、やはり日本と同じく大正期(一九二0年)以降と推測される。何故ならそれ以前は第一次世界大戦があり、後には第二次世界大戦があって、とてもストーリート・アーチストを横行させる余裕などなかったと思われるからだ。

 日本でも前回で紹介した漫画家の服部亮栄氏が「似顔絵の流行はもう全国的になった。我々はこの運動の先駆者である」と宣言したのは大正中期であった。この頃は巷に失業者が溢れ、それに世界恐慌が追い討ちを駆け、大学を出た者さえ就職口がなく、況や漫画家や画家を志す者には何をかであり、巷にボツボツ大道似顔絵師が散見出切るようになるのだ。

 それは時代の影に咲いたアダ花であったかも知れない。

 次回 似顔絵の歴史 !)




倉敷にがおえエレジー 95回似顔絵の歴史⑤

2004-11-16 18:23:38 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
さて西洋に目を転じ、問題を肖像画に限らずジャンルとしての意味でたんなる人物画にまで広げれば、文明が芽生えるとたちまち太古より、それがどんな荒削りなものであれ、石に彫られ、形作られ、刻まれ、あるいは物の上に描かれた人物画が現れる。
 例えば最初の文明として知られるシュメール文明では紀元前四千年にシュメールの女人像が作られているが、我が日本の埴輪と同じく葬礼用であり、肖像画とは言えないだろう。後に古代社会に階級と権力が生じてきたとき、それらの象徴として形象が作られ、あるいは描かれてきたが、これらも個人の存在を表現するというよりは、それぞれの位階・身分を示す類型的形象であった。
 やはり個人的特徴が描かれる様になるのは、日本の雪舟の出現と同じく十五世紀のルネッサンスからであろう。
 この頃はブルジョア階級の勃興と、これに伴う個人の自我の確立にともなって性格を正確に示す細密なリアリスティックな肖像画が現れてきたのだ。
 十六世紀にはティツィアーノ、デューラー等、個人の内面を洞察し、象徴的にこれを表現しょうとする精神性の深い肖像画が描かれるようになったが、この発展途上に十七世紀のレンブラント、ベルニーニなど、光と影の助力を得て精神性と時間性を示す個人表現は頂点に達するのだ。
 また個人の精神性に価値を置く十八・九世紀にはいずれの国においても肖像画の全盛期であったが、十九世紀末の写真の登場が長い肖像の歴史を大きく変化させた事は絵に興味ある方ならご存知の事で、しかし、ここではここではあくまで似顔絵の歴史で肖像写真は黙殺する。