昔から「ハゲにガンなし」「白髪に卒中なし」と言われて来たように毛髪は健康のバロメーターで身体に異常があれば確実に毛にも影響がある。
例えばユーゴーの「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンが極度な苦悩に依って一夜にして白変したり、フランス革命時のマリー・アントワネットがと共に捕らえられ、ブロンドの髪が驚愕のため、瞬時に白髪になった事は知る人ぞ知る話である。
この如く髪の毛は血液と深い関係にあって、毛は一つの血管ともいえる。
話は第二次世界大戦の頃だ。
物資が不足していた故、髪の毛から代用醤油を造っていたことは戦争経験者ならご存知のはずでこれは毛にアミノ酸が含まれていて、それを引き出していたのである。
まさに髪の毛は血の結晶で、そこから付会するに髪を長く伸ばしている男は不必要な所にも血液が伸びる結果、思索的になり、優柔不断になる。
反面スポーツマン、あるいはヤクザの髪のように、髪を短く刈り上げているのは決断力早く、女も男性的になる。
だいたい我々エカキや作家が髪をながくするのはこうした女性的感情移入をはかり、思索的になるためで、何もダテや酔狂で、あるいは不精で伸ばしているわけではないのだ。
音楽に携わる人間でも長髪が多いのは、この感情移入の為で決してカッコが良いからではなく、例えばロックの連中が丸坊主にすると音感が判らなくなるというより、深い所で理解出来なくなるからであろう。
またこの髪の毛はこれまで多くの研究家が性的な活力との間に、ある強力なる連想が働いている事を示唆してきた。とくにこの難問に取り組んだ史上最初の人はアリストテレスで、彼はハゲの原因は好色の為であり、性交未経験者にハゲがないのはその証拠だという。その理由は精液が頭から脊髄を伝わって流れ、頭髪の養分が失われるためで、その証拠に女にはこの様な生理作用がないからハゲにならない。
たしかによく観察してみると男性ホルモンの働きが極めて盛んな殿方のオツムの毛は薄いが、反面、ヒゲや胸毛は濃く、顔は油きってテカテカしている。このテカテカするのは男性ホルモンが脂肪の分泌を促進するからである。したがって女性ホルモンの多い男はハゲが少ない事になり、、若くしてアデランスやアートネイチャーのお世話になる方は精力絶倫と云う事になるのだ。
ところで精力絶倫で悩んだかどうか知らないが、この若ハゲで悩んだのは作曲家・山田耕筰氏で頭の禿げたのを淋しく思い、せめて名前だけでもと「耕作」の上にケを二本増やしている。こんな涙ぐましい努力も世界的皮膚医学の権威ホフマン博士に依ると、神経系統の中心である脳髄が発達するほど頭髪は微弱になるとおっしゃるのだ。故に博士はハゲは文明人の証明でケの多い者はケモノ、ケダモノで動物なのだ。
なるほど、すればどう禿頭を嘆くより、我こそは文明人の先端である。と胸を張ってもいい訳である。
さて髪の毛もなんだが、紙数も心細くなってきた。しかし頭髪を書けばヒゲも書かなければ片手落ちであろう。ではヒゲを厳密に漢字にすると鼻の下の口髭、顎にあるのを顎鬚、両頬にあるのを頬ひげというごとく色々あるが、いずれにしろヒゲは人間を己以上に見せようとする演出が見られる。ただ一面、ヒゲはサングラスと同じく単に己の素顔を隠すというだけでなく、顔と心の関連を断ち切り、己を世間的な心から開放するというより積極的な目的も忘れてはならない。そこにはヒゲやサングラスに頼っても、心の軌範から開放されて限りなく自由に振舞いたい願望も含まれているのだ。
ここで蛇足ながら画家ルネ・マグリットは何故髪が頭に生えるのか。ヒゲが口の廻りに生えるのか。おそらく髪の毛も口の毛も、当然、暗に下の毛が予想されても当然だと錬金術的手法で絵を描いている。つまり彼は骨相学的に言い表すならば頭蓋骨と恥骨との関係。女体の性器としての口唇形態の類縁関係、そこから顔貌は性貌にも通いあると言いたかったのではないか。
最後に皺だが昔、顔中に皺を寄せて、その皺にキセルの雁首を引っ掛ける事三十六本という奇妙な芸があったが、それぐらい顔には皺が多い。ある学者は表情筋の集約から出来上がったものが「顔」というものであると規定している程なのだ。
人相学では皺のことを「紋理」といい、医学では「ランゲル線」といって、確かに皺は生活上の事で様々なことを示しているといえる。イタリアの人相学の権威マルガッツアに依ると、皺によってその人の職業をいいあてる事が出来ると断言したのも別に不思議でなく、マルガッツアだけでなく、人間長い間、ある表情を続けると顔に恒久的な変化が生じ、この種の主張はかくも多くの優れた生理学者が唱えてきたものである。
筆者でさえ似顔絵のサンプルを描くのに古今東西の偉人・思想家を見ていて、あまりにも美しい皺、人生を刻みこんだ皺に驚嘆した事がある。たとえば執筆する神学者カルル・バルトやマザー・テレサ。指を噛むピカソ。正視する彫刻家ジャコメティなどなど・・・
日本でも生物学者モースが撮った写真には花を売る老女、漁民、アイヌの人々の美しい皺が浮かんでくる・・・
それでは何時頃から人の顔皺が面白くなくなったかと言えば高度経済成長時代からではなかろうか。
その頃より我々は自分で選び取った教育ではなく、自由度の乏しい教育を受け、マスコミから同じような情報を得、同じような生活スタイルと価値観で生きているから、いくら皮膚は年月にさらされているのに皺として受け止めているのを止めているのだ。
都市に生き、人工環境のみを行き来し、画一的な生活を送る人々には画一的な皺しかなくなって来た。それより今の人は皺を嫌い、美しい皺があった事を忘れているのだ。
人の顔から皺が少なくなっただけではなく、自然や町からも、そして地球全体からも、襞が消えつつある。その裏に何が皺寄せられているのか、まだハッキリ見えていない。
いずれにせよ「シワとは幸せなり」という美しい皺があったという事。今なお他国にはあることを思い起こして頂き人相考を塙筆したい。
例えばユーゴーの「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンが極度な苦悩に依って一夜にして白変したり、フランス革命時のマリー・アントワネットがと共に捕らえられ、ブロンドの髪が驚愕のため、瞬時に白髪になった事は知る人ぞ知る話である。
この如く髪の毛は血液と深い関係にあって、毛は一つの血管ともいえる。
話は第二次世界大戦の頃だ。
物資が不足していた故、髪の毛から代用醤油を造っていたことは戦争経験者ならご存知のはずでこれは毛にアミノ酸が含まれていて、それを引き出していたのである。
まさに髪の毛は血の結晶で、そこから付会するに髪を長く伸ばしている男は不必要な所にも血液が伸びる結果、思索的になり、優柔不断になる。
反面スポーツマン、あるいはヤクザの髪のように、髪を短く刈り上げているのは決断力早く、女も男性的になる。
だいたい我々エカキや作家が髪をながくするのはこうした女性的感情移入をはかり、思索的になるためで、何もダテや酔狂で、あるいは不精で伸ばしているわけではないのだ。
音楽に携わる人間でも長髪が多いのは、この感情移入の為で決してカッコが良いからではなく、例えばロックの連中が丸坊主にすると音感が判らなくなるというより、深い所で理解出来なくなるからであろう。
またこの髪の毛はこれまで多くの研究家が性的な活力との間に、ある強力なる連想が働いている事を示唆してきた。とくにこの難問に取り組んだ史上最初の人はアリストテレスで、彼はハゲの原因は好色の為であり、性交未経験者にハゲがないのはその証拠だという。その理由は精液が頭から脊髄を伝わって流れ、頭髪の養分が失われるためで、その証拠に女にはこの様な生理作用がないからハゲにならない。
たしかによく観察してみると男性ホルモンの働きが極めて盛んな殿方のオツムの毛は薄いが、反面、ヒゲや胸毛は濃く、顔は油きってテカテカしている。このテカテカするのは男性ホルモンが脂肪の分泌を促進するからである。したがって女性ホルモンの多い男はハゲが少ない事になり、、若くしてアデランスやアートネイチャーのお世話になる方は精力絶倫と云う事になるのだ。
ところで精力絶倫で悩んだかどうか知らないが、この若ハゲで悩んだのは作曲家・山田耕筰氏で頭の禿げたのを淋しく思い、せめて名前だけでもと「耕作」の上にケを二本増やしている。こんな涙ぐましい努力も世界的皮膚医学の権威ホフマン博士に依ると、神経系統の中心である脳髄が発達するほど頭髪は微弱になるとおっしゃるのだ。故に博士はハゲは文明人の証明でケの多い者はケモノ、ケダモノで動物なのだ。
なるほど、すればどう禿頭を嘆くより、我こそは文明人の先端である。と胸を張ってもいい訳である。
さて髪の毛もなんだが、紙数も心細くなってきた。しかし頭髪を書けばヒゲも書かなければ片手落ちであろう。ではヒゲを厳密に漢字にすると鼻の下の口髭、顎にあるのを顎鬚、両頬にあるのを頬ひげというごとく色々あるが、いずれにしろヒゲは人間を己以上に見せようとする演出が見られる。ただ一面、ヒゲはサングラスと同じく単に己の素顔を隠すというだけでなく、顔と心の関連を断ち切り、己を世間的な心から開放するというより積極的な目的も忘れてはならない。そこにはヒゲやサングラスに頼っても、心の軌範から開放されて限りなく自由に振舞いたい願望も含まれているのだ。
ここで蛇足ながら画家ルネ・マグリットは何故髪が頭に生えるのか。ヒゲが口の廻りに生えるのか。おそらく髪の毛も口の毛も、当然、暗に下の毛が予想されても当然だと錬金術的手法で絵を描いている。つまり彼は骨相学的に言い表すならば頭蓋骨と恥骨との関係。女体の性器としての口唇形態の類縁関係、そこから顔貌は性貌にも通いあると言いたかったのではないか。
最後に皺だが昔、顔中に皺を寄せて、その皺にキセルの雁首を引っ掛ける事三十六本という奇妙な芸があったが、それぐらい顔には皺が多い。ある学者は表情筋の集約から出来上がったものが「顔」というものであると規定している程なのだ。
人相学では皺のことを「紋理」といい、医学では「ランゲル線」といって、確かに皺は生活上の事で様々なことを示しているといえる。イタリアの人相学の権威マルガッツアに依ると、皺によってその人の職業をいいあてる事が出来ると断言したのも別に不思議でなく、マルガッツアだけでなく、人間長い間、ある表情を続けると顔に恒久的な変化が生じ、この種の主張はかくも多くの優れた生理学者が唱えてきたものである。
筆者でさえ似顔絵のサンプルを描くのに古今東西の偉人・思想家を見ていて、あまりにも美しい皺、人生を刻みこんだ皺に驚嘆した事がある。たとえば執筆する神学者カルル・バルトやマザー・テレサ。指を噛むピカソ。正視する彫刻家ジャコメティなどなど・・・
日本でも生物学者モースが撮った写真には花を売る老女、漁民、アイヌの人々の美しい皺が浮かんでくる・・・
それでは何時頃から人の顔皺が面白くなくなったかと言えば高度経済成長時代からではなかろうか。
その頃より我々は自分で選び取った教育ではなく、自由度の乏しい教育を受け、マスコミから同じような情報を得、同じような生活スタイルと価値観で生きているから、いくら皮膚は年月にさらされているのに皺として受け止めているのを止めているのだ。
都市に生き、人工環境のみを行き来し、画一的な生活を送る人々には画一的な皺しかなくなって来た。それより今の人は皺を嫌い、美しい皺があった事を忘れているのだ。
人の顔から皺が少なくなっただけではなく、自然や町からも、そして地球全体からも、襞が消えつつある。その裏に何が皺寄せられているのか、まだハッキリ見えていない。
いずれにせよ「シワとは幸せなり」という美しい皺があったという事。今なお他国にはあることを思い起こして頂き人相考を塙筆したい。