倉敷・大原美術館横「似顔絵・宏プロ」

倉敷・大原美術館横で長年・似顔絵を描き、お世話になっている者です。

倉敷にがおえエレジー 49回骨相学②

2004-10-01 20:26:47 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
            骨相学②                                                                                  もう一つつけ加えて措きたいのは赤ん坊の笑い顔は左右対称的でるが、大人のように意識的なものは非対称的な表情となると云うことだ。
 それは左右対称的な顔をしている時は、まさに情緒に浸っている時といってよい。喜び、満足、没入、陶酔、安堵、恐怖、驚愕、悲嘆、号泣等といった心情は、自ずからから表情は左右対称的な顔であらわれる。作為的ではない顔、つまり素直な心が創りだす顔は左右の歪みが生じないのだ。
 反対に非対称的な表情が出るときは心の流れは意識的であり、意図的、作為的になる。皮肉、嘲笑、苦笑,否定、批判、疑惑、意地悪、侮辱等の思いが心中を流れる時はこういう顔になるのである。
 ところで世の中で一番素直人間といえば赤ん坊であろう。赤ん坊の作る表情は寝顔であり、泣き顔であり、笑顔であるが、これらの顔は全て左右対称的であり、顔を歪める事はまずない。赤ん坊の心は情緒の世界に浸りこんでいる。
 しかし、赤ん坊はやがて幼児になる。その顔の表情はそろそろ左右非対称的になる。それはある年齢に達すると他所の子を罵ったり、攻撃的な表情をするからである。こう書いてくると、知性というと人々素晴らしい高級な心性の様に考えがちであるが、むしろ意地悪な心性、ズルイ心情こそ知性の始まりだという事なのだ。

無論、大人の世界でも人間関係に素直な人、己に正直な人、喜怒哀楽をそのまま受け入れる人等は左右対称的な顔になる。それは謹厳な人の顔も、またすぐ怒り出す単純な人の顔も作りだす顔は左右対称的の顔を作り出すという事だ。
 面白い事にそういう顔は左右対称の表情が幾万回と繰り返されるために、やがてには木の年輪と同じく、やがて顔の中に深く大きな皺が彫り込まれる。ゆえにその皺の後をたず訪ねる事によって、その人物の心の遍歴の総和を読み取る事が出来るのだ。
 たとえば自分の仕事に打ち込み、仲間と何でもストレート話せる生涯を送って来た農村や漁村の老人の顔(幾ら皺が多くとも)確実に左右対称の皺が見られる。謹厳な校長先生の顔についても、皺の寄り方のパターンが違っても同じ事がいえるのだ。
 これに対し騙し、騙される修羅の人間世界を生き抜いてきた人々、ありていに言えば政治家や投機商人、芸者置屋の女将の顔には確実に非対称的な皺が深く刻みこまれる。こういう社会では、人間との駆け引きでとても鷹揚な顔をしておれなく、人に接する際の表情もつい片側だけ強く引き攣るようになるのである。
 そこから人並み外れた左右不対称の表情をしている人、あるいは皺の跡を残す人を見る時、描く時、俺はその人人生のあり方に、本来ならば侵してしてはならない好奇心と警戒心を持ってしまうだ。


 ここまで書いて来てしみじみ「日暮れて道遠し」の感が拭えない。読者も俺の文章が観念的て引用もあり、心がダブつき気味だろう。
 思うに曲がりなりにも読者がここまで付いてきてくれたのは画家て゜もない、占い師でもない毛色の変わった俺が文章を書くから「こいつ、どんな珍芸をやらかすのか」とヒヤヒヤ読むところに面白みがあったのであろう。それがこの按配だと今に狂人病院から、眼の据わった小父さんさんでも担ぎだして、書かしたした方が面白いと言い出すかも知れない。
 しかし、それには耳を貸さず読者を次ぎの諸章に送りださねばならぬ業かある。そう開き直れば通い慣れたる土手八丁が白井権八なら、喋りなれたる口八丁はこの俺だ。
 故に続けるが読者諸氏よ!「縁あれば千里」というではないか。いわんや、縁は異なもの、味な事もある。小さな声で次回も乞うご期待・・・

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