迷信といえば頭の大きさと能力の関係だ。古今東西、頭の大きな者は知力も優れていると信じられてきた。
たしかにレーニンの頭は非常に大きく、作家マーク・トウェンは「デカ頭」のソバかすだらけの若者であり、画家ルーズ・ロートレックも大きな頭の持主で、足が異常があった事は知る人ぞ知る話である。
しかし頭の大きさと優れた能力とを結びつけて早まった結論をおろしはいけない。頭が著しく小さいが偉大な人物も多く輩出している事である。
人類学者アシュレー・モンタギューによれば、記録に残っている人類最大の脳は二八五0グラムでその持主は白痴であり、一方最も小さい脳は一0一七グラムで、なんとそ持主はかの有名な作家・アナトール・フランスと言うではないか。彼自身も己の頭が異様に小さい事を気にかけていたらしく、特別誂えのカツラで誤魔化していたのはそういう事を知っていたのであろう。
ちなみに頭脳の平均的重さは一三五0グラムより一四00グラム。ゴリラは四三0グラム。夏目漱石は一四二0グラム。ツルゲーネフは二000グラムであった事を申し添えておく。
ところで大脳は左半球と右半球に別れている事は読者もご存知であろう。
その左半球を「言語脳」と命名し、言語活動や論理思考を司ると考え、右半球の方は「音楽脳」と命名して音楽や情緒をを司ると考えたのは生理学者M・C・コバーリスだ。
ところが大脳の両半球は耳の神経に交差して繋がっており、左脳は右耳、右脳は左耳。結論を言えば言語的素材は右耳で聞いた方が解かりやすく、音楽的素材は左耳で聞いている事になる。
これを普遍し、画家(視覚)の適性は後頭部の発達した長頭型。音楽家(聴覚)の適性は側頭の発達した短頭型が多い。
余談だが連合艦隊参謀の仙人参謀と言われた黒島亀人はこういう人相した者を偵察員に配属し、飛行機乗りの適性も人相で判断したと言われるがそれが九十パーセント以上当たっていたというから驚きである。・・・・閉話休題だ。
ではあの有名な詩人ベルレーヌの肖像画を見てみると異様なぐらい右脳が発達していて、言語的素材を自由に振り回していた事納得できるが、ニーチェの場合だ。
彼は四十五才のとき、梅毒で著しい精神障害をおこし、話すことがテンデバラバラで言語脳を完全に破壊されていたらしく、それを証明するように右側のヒゲが真っ白い事がやはり残された肖像で確認することが出来るであろう。
前号の東大・時実教授も口や舌、ノドの筋肉が健全であるのにも係わらず、喋れなくなくなった患者の死後、その脳を調べて見ると大脳の左半球
(言語を司る)、大脳皮質のコメかみの奥あたりが確実に壊れていたと言うから恐ろしい話じゃないか。
このように頭脳に於いても左右で違ったように人間の顔も右顔と左顔が違っているのである。
筆者等ニガオエを長年描いて入るとすぐ解かるが読者諸氏も右から写した顔と、左から写した顔が意外に変わっている事を認識されているはずだ。
ある心理学者の実験によると喜怒哀楽と表情は右より左顔に顕著にあらわれると指摘している。
ゆえに右顔で微笑していても左顔が引き吊っておればこちらに好意をあまり示していない事になる。
ニガオエにおいても常に左顔を描くのは、その人の本質を突くくため、正塙をを得ているといえ、もし右から描こうとする画家には疑問を感じていいだろう。
もう一つつけ加えて措きたいのは赤ん坊の笑い顔は左右対称的でるが、大人のように意識的なものは非対称的な表情となると云うことだ。
それは左右対称的な顔をしている時は、まさに情緒に浸っている時といってよい。喜び、満足、没入、陶酔、安堵、恐怖、驚愕、悲嘆、号泣等といった心情は、自ずからから表情は左右対称的な顔であらわれる。作為的ではない顔、つまり素直な心が創りだす顔は左右の歪みが生じないのだ。
反対に非対称的な表情が出るときは心の流れは意識的であり、意図的、作為的になる。皮肉、嘲笑、苦笑,否定、批判、疑惑、意地悪、侮辱等の思いが心中を流れる時はこういう顔になるのである。
ところで世の中で一番素直人間といえば赤ん坊であろう。赤ん坊の作る表情は寝顔であり、泣き顔であり、笑顔であるが、これらの顔は全て左右対称的であり、顔を歪める事はまずない。赤ん坊の心は情緒の世界に浸りこんでいる。
しかし、赤ん坊はやがて幼児になる。その顔の表情はそろそろ左右非対称的になる。それはある年齢に達すると他所の子を罵ったり、攻撃的な表情をするからである。こう書いてくると、知性というと人々素晴らしい高級な心性の様に考えがちであるが、むしろ意地悪な心性、ズルイ心情こそ知性の始まりだという事なのだ。
無論、大人の世界でも人間関係に素直な人、己に正直な人、喜怒哀楽をそのまま受け入れる人等は左右対称的な顔になる。それは謹厳な人の顔も、またすぐ怒り出す単純な人の顔も作りだす顔は左右対称的の顔を作り出すという事だ。
面白い事にそういう顔は左右対称の表情が幾万回と繰り返されるために、やがてには木の年輪と同じく、やがて顔の中に深く大きな皺が彫り込まれる。ゆえにその皺の後をたず訪ねる事によって、その人物の心の遍歴の総和を読み取る事が出来るのだ。
たとえば自分の仕事に打ち込み、仲間と何でもストレート話せる生涯を送って来た農村や漁村の老人の顔(幾ら皺が多くとも)確実に左右対称の皺が見られる。謹厳な校長先生の顔についても、皺の寄り方のパターンが違っても同じ事がいえるのだ。
これに対し騙し、騙される修羅の人間世界を生き抜いてきた人々、ありていに言えば政治家や投機商人、芸者置屋の女将の顔には確実に非対称的な皺が深く刻みこまれる。こういう社会では、人間との駆け引きでとても鷹揚な顔をしておれなく、人に接する際の表情もつい片側だけ強く引き攣るようになるのである。
そこから人並み外れた左右不対称の表情をしている人、あるいは皺の跡を残す人を見る時、描く時、俺はその人人生のあり方に、本来ならば侵してしてはならない好奇心と警戒心を持ってしまうだ。
たしかにレーニンの頭は非常に大きく、作家マーク・トウェンは「デカ頭」のソバかすだらけの若者であり、画家ルーズ・ロートレックも大きな頭の持主で、足が異常があった事は知る人ぞ知る話である。
しかし頭の大きさと優れた能力とを結びつけて早まった結論をおろしはいけない。頭が著しく小さいが偉大な人物も多く輩出している事である。
人類学者アシュレー・モンタギューによれば、記録に残っている人類最大の脳は二八五0グラムでその持主は白痴であり、一方最も小さい脳は一0一七グラムで、なんとそ持主はかの有名な作家・アナトール・フランスと言うではないか。彼自身も己の頭が異様に小さい事を気にかけていたらしく、特別誂えのカツラで誤魔化していたのはそういう事を知っていたのであろう。
ちなみに頭脳の平均的重さは一三五0グラムより一四00グラム。ゴリラは四三0グラム。夏目漱石は一四二0グラム。ツルゲーネフは二000グラムであった事を申し添えておく。
ところで大脳は左半球と右半球に別れている事は読者もご存知であろう。
その左半球を「言語脳」と命名し、言語活動や論理思考を司ると考え、右半球の方は「音楽脳」と命名して音楽や情緒をを司ると考えたのは生理学者M・C・コバーリスだ。
ところが大脳の両半球は耳の神経に交差して繋がっており、左脳は右耳、右脳は左耳。結論を言えば言語的素材は右耳で聞いた方が解かりやすく、音楽的素材は左耳で聞いている事になる。
これを普遍し、画家(視覚)の適性は後頭部の発達した長頭型。音楽家(聴覚)の適性は側頭の発達した短頭型が多い。
余談だが連合艦隊参謀の仙人参謀と言われた黒島亀人はこういう人相した者を偵察員に配属し、飛行機乗りの適性も人相で判断したと言われるがそれが九十パーセント以上当たっていたというから驚きである。・・・・閉話休題だ。
ではあの有名な詩人ベルレーヌの肖像画を見てみると異様なぐらい右脳が発達していて、言語的素材を自由に振り回していた事納得できるが、ニーチェの場合だ。
彼は四十五才のとき、梅毒で著しい精神障害をおこし、話すことがテンデバラバラで言語脳を完全に破壊されていたらしく、それを証明するように右側のヒゲが真っ白い事がやはり残された肖像で確認することが出来るであろう。
前号の東大・時実教授も口や舌、ノドの筋肉が健全であるのにも係わらず、喋れなくなくなった患者の死後、その脳を調べて見ると大脳の左半球
(言語を司る)、大脳皮質のコメかみの奥あたりが確実に壊れていたと言うから恐ろしい話じゃないか。
このように頭脳に於いても左右で違ったように人間の顔も右顔と左顔が違っているのである。
筆者等ニガオエを長年描いて入るとすぐ解かるが読者諸氏も右から写した顔と、左から写した顔が意外に変わっている事を認識されているはずだ。
ある心理学者の実験によると喜怒哀楽と表情は右より左顔に顕著にあらわれると指摘している。
ゆえに右顔で微笑していても左顔が引き吊っておればこちらに好意をあまり示していない事になる。
ニガオエにおいても常に左顔を描くのは、その人の本質を突くくため、正塙をを得ているといえ、もし右から描こうとする画家には疑問を感じていいだろう。
もう一つつけ加えて措きたいのは赤ん坊の笑い顔は左右対称的でるが、大人のように意識的なものは非対称的な表情となると云うことだ。
それは左右対称的な顔をしている時は、まさに情緒に浸っている時といってよい。喜び、満足、没入、陶酔、安堵、恐怖、驚愕、悲嘆、号泣等といった心情は、自ずからから表情は左右対称的な顔であらわれる。作為的ではない顔、つまり素直な心が創りだす顔は左右の歪みが生じないのだ。
反対に非対称的な表情が出るときは心の流れは意識的であり、意図的、作為的になる。皮肉、嘲笑、苦笑,否定、批判、疑惑、意地悪、侮辱等の思いが心中を流れる時はこういう顔になるのである。
ところで世の中で一番素直人間といえば赤ん坊であろう。赤ん坊の作る表情は寝顔であり、泣き顔であり、笑顔であるが、これらの顔は全て左右対称的であり、顔を歪める事はまずない。赤ん坊の心は情緒の世界に浸りこんでいる。
しかし、赤ん坊はやがて幼児になる。その顔の表情はそろそろ左右非対称的になる。それはある年齢に達すると他所の子を罵ったり、攻撃的な表情をするからである。こう書いてくると、知性というと人々素晴らしい高級な心性の様に考えがちであるが、むしろ意地悪な心性、ズルイ心情こそ知性の始まりだという事なのだ。
無論、大人の世界でも人間関係に素直な人、己に正直な人、喜怒哀楽をそのまま受け入れる人等は左右対称的な顔になる。それは謹厳な人の顔も、またすぐ怒り出す単純な人の顔も作りだす顔は左右対称的の顔を作り出すという事だ。
面白い事にそういう顔は左右対称の表情が幾万回と繰り返されるために、やがてには木の年輪と同じく、やがて顔の中に深く大きな皺が彫り込まれる。ゆえにその皺の後をたず訪ねる事によって、その人物の心の遍歴の総和を読み取る事が出来るのだ。
たとえば自分の仕事に打ち込み、仲間と何でもストレート話せる生涯を送って来た農村や漁村の老人の顔(幾ら皺が多くとも)確実に左右対称の皺が見られる。謹厳な校長先生の顔についても、皺の寄り方のパターンが違っても同じ事がいえるのだ。
これに対し騙し、騙される修羅の人間世界を生き抜いてきた人々、ありていに言えば政治家や投機商人、芸者置屋の女将の顔には確実に非対称的な皺が深く刻みこまれる。こういう社会では、人間との駆け引きでとても鷹揚な顔をしておれなく、人に接する際の表情もつい片側だけ強く引き攣るようになるのである。
そこから人並み外れた左右不対称の表情をしている人、あるいは皺の跡を残す人を見る時、描く時、俺はその人人生のあり方に、本来ならば侵してしてはならない好奇心と警戒心を持ってしまうだ。