倉敷・大原美術館横「似顔絵・宏プロ」

倉敷・大原美術館横で長年・似顔絵を描き、お世話になっている者です。

小林一三

2007-08-09 19:12:21 | 掲示版
[編集] 来歴・人物
山梨県巨摩郡河原部村(北巨摩郡韮崎町、現韮崎市)の商家に生まれたが、生まれてすぐ母が逝去・父とも生き別れたためおじ夫婦に引き取られた。

高等小学校から成器舎を経て後に上京し、1888年(明治21年)2月福沢諭吉が学長の慶應義塾に入る。そして卒業後の1892年(明治25年)には三井銀行(現、三井住友銀行)に勤務。34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。日露戦争終結後、三井物産の大物である飯田義一や、かつての上司で北浜銀行(現、三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任。しかし恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することになった。

その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。1907年(明治40年)6月に箕面有馬電気軌道と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となる。

もともと阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気鉄道は、鉄道国有法によって国有化された阪鶴鉄道(現、福知山線)の関係者が福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設し、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立されようとしていたが、おりしも恐慌に見舞われて、全株式の半分も引き受け手が無いといった苦境に追い込まれていた。
しかし社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった。そして1910年(明治43年)に現在の宝塚線・箕面線に当たる路線を開業させた。しかし有馬への延伸は、有馬温泉のほうから宿泊客がいなくなるという反対があったことなどで断念した。これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった月賦方式による分譲販売を行い成功を収めた。


小林一三像(宝塚大劇場前)同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場、そして1914年(大正3年)4月には、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊(後、宝塚歌劇団)を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていく。沿線開発はそのまま乗客の増加につながり、会社名を阪神急行電鉄(「阪急」の略称はこの時より)と改め、神戸本線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。これらの経営が現在の阪急を創り上げる支えとなる。1927年(昭和2年)に小林は社長に就任した。

また1920年(大正9年)には世界ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめる。路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に白木屋百貨店、2階に阪急直営食堂を入れた。次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店を新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。鉄道会社が直営で百貨店を経営するなどといった事例は海外にも無く、その前途に疑問を持つものも少なくなかったが、小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾が無くとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなか多くの客を集めることに成功する。さらに、客のことを考えた事業姿勢には定評があったといわれ、阪急百貨店における「ソーライス」の逸話などが、現在にも伝わっている。

この百貨店事業の成功は、1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となる)といった興業・娯楽事業、1929年に六甲山ホテルの、1938年(昭和13年)の第一ホテルの建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充にも更なる弾みを付ける契機となり、阪急グループの規模は年々拡大の一途を辿った。

その一方で、1920年(大正9年)に小林の提案で発足された日本による初のプロ野球球団である日本運動協会(小林が経営にかかわったのは、1924年に阪急が買い取り宝塚運動協会へ改称して以降。1929年(昭和4年)解散)のように、先進が過ぎて失敗した事業もある。しかし小林の野球への情熱は深く、1934年(昭和9年)に大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が、翌1935年(昭和10年)に大阪タイガース(現・阪神タイガース)が、1936年(昭和11年)に名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)が結成されるなど企業による球団設立が相次ぐと、小林は同じ年に「大阪阪急野球協会」(「阪急職業野球団」、旧・阪急ブレーブス)を設立した(同時期に日本初のプロ野球機構となる「日本職業野球連盟」が創立)。小林が遺した娯楽事業は数多くあるが、小林は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と言い残したと言われている。

これらの施策は多くの私鉄に影響を与え、それを見習う形での施策が他の会社でも行われるようになるが、その中でも目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄(後、東京急行電鉄)の総帥五島慶太は小林の影響を強く受け、実際に小林は同社の重役にも就任し、五島に田園調布などの開発指導を行ったりもしたといわれる。しかし五島が積極的に政治権力に介在し事業を拡張したのに対し、小林は天下りを一切受けつけずあくまでも「民主導」で事業を推し進めるといったように、その姿勢にはいくらかの違いがあった。

阪急社長を1934年(昭和9年)に辞任後、同社グループの会長に就任し(1936年(昭和11年)辞任)、さらに東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任。電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた東電(当時は東京電燈のこと)の経営を立て直し、昭和肥料(現在の昭和電工)の設立にも関わった。

小林は近衛文麿に接近し、第2次近衛内閣で商工大臣となる。近衛は当初岸信介を商工大臣に考えていたが、岸は財界の人間を大臣として自らは次官にとどまることを希望したため小林が大臣となった。しかし統制経済もしくは計画経済論者の革新官僚の代表格である岸と資本主義的財界人である小林は強く対立し、小林は岸をアカであると批判した。企画院事件で企画院の革新官僚ら数人が共産主義者として逮捕されると岸は辞職せざるをえなくなる。しかし岸は軍部と結託し、小林が軍事機密を漏洩したとして反撃、小林も辞職、雑誌に『大臣落第記』を寄稿した。

終戦後幣原内閣で国務大臣を務める。この閣僚経験がもとで戦後は1951年(昭和26年)まで公職追放を受け、解除ののちは東宝の社長になるが、1957年(昭和32年)に没した。
私鉄主導による沿線開発を提言した小林であったが、当時から経営の自主性の不在など問題点が指摘されていた日本国有鉄道(国鉄)に関しても、すでにこの段階で「民営にすれば開発事業も可能で、資金調達も自由に行なえ、創意と責任のもと積極的な経営ができる」と民営化すべきという発言を行うなど、生涯、論客としても知られた。

実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。これらを集めた「逸翁美術館」が、彼の旧邸・雅俗山荘があった大阪府池田市にある。 日本料理の創始者とも言われる湯木貞一と親交が深く、同氏が開いた料亭吉兆の初期の頃からの客であった。上客でもあったため、当時料亭内では小林一三を「神様」と呼んでいた。


[編集] 「われ関せず」
親友で同じ慶應出身者であり、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左衛門によると、小林の性格は「腹が決まってからのことには、何事も動じない」というものだった。また、自分に直接関知しないことには無関心であったとも言われている。

1930年代、福沢諭吉が作った時事新報が経営危機に陥った際、慶應卒業生の有力者が挙って時事新報を救うために出資や負債の引き受けなどを行った。鐘紡の武藤山治元社長や松永もその一人であり、松永は小林に時事新報救済のための協力を要請したところ、小林は「慶應と縁があっても私と縁のない時事新報にわざわざ金を出すのか?」とばかりに拒絶。松永こそ苦笑で済ませたものの、他の慶應OBから批判が殺到した。小林は時事新報の先行きがどう転んでも好転しないことを見通していたと言われ(事実、時事新報は1936年に東京日日新聞と合同)、先行きのない企業に投資は出来ないと言うことで拒絶したのであったが、そうと理解する慶應OBは少なかった。

また、1938年に五島慶太が私怨で三越(当時、幹部が慶應閥で占められていた)株を買占めしようとした際、小林は三井銀行・三菱銀行の幹部に会って五島を兵糧攻めにする作戦を進言。買占めに躍起になっていた五島は、慶應閥に顔が利き己が崇拝している小林に「外堀」を埋めてもらおうと小林に会ったが、逆に「蛙が蛇を飲み込むより無理ではないか?」と突き放され、資金調達すら行き詰った五島は結局、小林・三越・三井・三菱の慶應"連合軍"に降参した。

時事新報のときと同様、先行きのないことには賛同しない姿勢が出たものであったが、一方で、当時企業買収に夢中になっていた五島の頭を冷やす目的で、敢えて突き放したとも言われている。五島は後に京浜電気鉄道、東京地下鉄道の買収に成功し、後者の早川徳次(やはり甲州閥であり、また小林を模範としていた)を悶死に追い込んでいるが、小林はこの件には9割9分タッチしていない。唯一関わったことは、早川からの調停の依頼とそれに対する拒絶の返事だった(拒絶された早川は、次に根津嘉一郎(初代)に調停を依頼したが、根津が急逝して東京地下鉄道は五島の東京高速鉄道に屈した)。


[編集] 家族・一族
長男・冨佐雄
東宝社長を務めた。1957年10月逝去。尾崎紅葉・泉鏡花・永井荷風ら近代文学の書物収集が趣味で、コレクションが池田文庫の「小林家文庫」に収蔵されている。
次男・辰郎
松岡家に養子入りし、後に東宝社長を務めた。辰郎の子が現在の東宝会長・松岡功で、その息子で一三の曾孫にあたるのがプロテニスプレイヤーの松岡修造である。
三男・米三
京都帝国大学卒。父と同じく阪急電鉄社長を務めたが、現職のまま1969年2月に逝去した。阪急電鉄元会長・社長(現・名誉顧問)で、宝塚音楽学校校長の小林公平は、辰郎の長女で米三の養子となった小林喜美の夫で、戦前からの三菱グループ幹部の家系であった三村家から小林家に婿入りした。また、公平の長男が現・宝塚歌劇団理事長の小林公一である。
長女・春子
サントリー創業者鳥井信治郎の長男吉太郎に嫁ぐ。吉太郎は33歳で亡くなったが、息子に3代目サントリー社長鳥井信一郎がいる。
その他
一三の異母弟には山梨選出の衆議院議員で「カミソリ」と謳われた田辺七六、興行界のドンとして関八州の顔役達を膝下に置いた田辺宗英(日本ボクシングコミッションの初代コミッショナー。後楽園スタヂアム社長)がいる。なお、宗英と一三は同じ年(一三の没後11年目の1968年)に兄弟揃って野球殿堂入りをしている。田辺兄弟は読売新聞社主の正力松太郎と関係が深かったとされ、戦前から戦後にかけて噂も多い。

安田 善次郎

2007-08-02 11:48:50 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
安田 善次郎(やすだ ぜんじろう、天保9年10月9日(1838年11月25日) - 大正10年(1921年)9月28日)は、富山県富山市出身の実業家。幼名は岩次郎。安田財閥の祖。 音楽家オノ・ヨーコの曽祖父。


[編集] 経歴
富山藩における下級武士(足軽)善悦の子としてうまれる。安田家は善悦の代に士分の株をかった半農半士であっ た。21歳の時、奉公人として上京。最初は玩具屋、ついで鰹節兼両替商に勤めた。やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほコーポレート銀行)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)を次々と設立し、金融財閥としての基礎を築く。

自分の天職を金融業と定め、私的に事業を営むことを自ら戒めたが、同郷だった浅野総一郎の事業を支援するなど事業の育成を惜しむことは無かった(現在の鶴見線である鶴見臨港鉄道の安善駅は、安田善次郎の名前に因む)。また日本電気鉄道や、帝国ホテルの設立発起人、日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わった。

1921年、神奈川県大磯町の別邸で、金の無心に来た朝日平吾に刺殺された。

東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は安田善次郎の寄贈によるものである。


[編集] 関連項目
安田財閥
芙蓉グループ
富士銀行…旧安田銀行(現みずほコーポレート銀行)
損害保険ジャパン…旧安田火災海上保険
明治安田生命保険…旧安田生命保険
みずほ信託銀行…旧安田信託銀行
東京建物
安善駅
安田講堂
保善高等学校
安田学園中学校・高等学校
千代田区立麹町中学校(安田善次郎宅に建てられた)
旧安田庭園

鮎川議介

2007-08-01 22:57:47 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
生涯

鮎川義介16歳
満州重工業総裁時代1880年(明治13、0歳):明治の元勲井上馨の実姉の長女を母とし、旧長州藩士 鮎川弥八(第10代目)を父として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生れた。
1903年(明治36、23歳):東京帝国大学工科大学機械科を卒業後、芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。
その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべくアメリカ合衆国へ渡る。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。
1909年(明治42、29歳):井上馨の支援を受けて戸畑鋳物(現日立金属)を創立。
1928年(昭和3、48歳):久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。義弟久原房之助の経営する久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していたが、政友会の田中義一(陸軍大将)らは鮎川に再建を懇請し、しぶしぶ応じたものである。
この会社を持株会社に変更。公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。
1933年(昭和8、53歳):自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。
1934年(昭和9、54歳):自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。
1937年(昭和12、57歳):日産を満州国に移し、満州重工業開発株式会社として、初代総裁・相談役、同時に、満州国顧問、貴族院勅撰議員、内閣顧問を兼務。満州国の財界は、松岡洋右(満鉄総裁)、岸信介(産業部次長)など、後にスケの付く山口県出身の「3スケ」が牛耳っていたと評された。政界の「2キ」(東條英機・星野直樹)を含め「2キ3スケ」とも。
1939年(昭和14、59歳):この頃、白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏との戦争では英仏が勝つとの結論を得る。関東軍との関係悪化から日産グループの満州からの撤退を検討し始め、1942年頃に満州重工業開発の総裁を辞任。
第二次世界大戦終結後、戦犯容疑を受け1945年12月に逮捕され巣鴨拘置所に20箇月拘置されたが、容疑が晴れる。獄中にて日本の復興策を練る。
1952年(昭和27、72歳):日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。会長に就任。以後、中小企業の振興に力を入れる。
1953年(昭和28、73歳):帝国石油社長、石油資源開発社長。参議院議員に当選。
1956年(昭和31、76歳):日本中小企業政事連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。その後主として政治家としての晩年を送る。また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。会長、この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長。
1959年(昭和34、79歳):全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した次男金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、12月親としての責任をとり議員を辞職した。
1966年(昭和41、86歳):持病の胆嚢炎を手術したが、高齢により回復がはかどらず入院が長引く。
1967年(昭和42):合併症により急性肺炎を起こし、2月13日に駿河台杏雲堂病院で死去、享年86。墓所は多磨霊園10区 1種、7側1番。

[編集] 家族 親族
父・鮎川弥八(長州藩士)
母・ナカ
大叔父・井上馨(長州藩士、政治家)
姉・スミ(高知県,士族木村正彦養母)
妹・キヨ(山口県,実業家、政治家久原房之助に嫁する)
妹・フジ(福岡県,実業家貝島太市に嫁する)
妻・美代(京都府,実業家・高島屋創業家 飯田二郎長女)
長男・弥一(実業家)
中小企業助成会は長男・弥一の代にベンチャービジネス向けの投資会社「テクノベンチャー」に改組している。
二男・金次郎(政治家) 妻 雅子 ノーネスユニバーシティ学園長
孫・純太(実業家・テクノベンチャー社長)
2005年1月に女優の杉田かおると結婚したが、7ヶ月後の2005年8月に離婚した。
その他の親戚 岸信介(官僚、政治家・首相)

岩崎弥太郎

2007-08-01 22:29:03 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
人物
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末時に坂本龍馬や後藤象二郎の知遇を得る。「人斬り以蔵」と呼ばれた岡田以蔵がかかわった井上佐一郎暗殺事件の際には、井上と同行していたが難を逃れた。1873年に現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立(「三菱」が土佐藩(山内氏)の家紋である三つ柏を模していることはつとに有名である)、弥太郎の死後、政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。


[編集] 系譜
岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。また弥太郎の孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがおり、曾孫には鎮西清高(古生物学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく古生物学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴・由利子兄妹の又従兄で東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務める岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の当主)らがいる。家紋は重ね三階菱。

なお弥太郎の死後、嫡男の久弥が父の業績に対し男爵を授けられた。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。

弥次郎━┳弥太郎━┳久弥━┳彦弥太━┳寛弥
    ┗弥之助 ┣春治 ┣降弥  ┣勢津子
         ┣豊弥 ┣恆弥  ┣昭子
         ┣磯路 ┣美喜  ┗美智子
         ┣富子 ┣澄子
         ┣秀弥 ┗綾子
         ┣雅子
         ┣康弥
         ┗正弥

渋沢栄一

2007-08-01 22:19:00 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
生い立ち
渋沢栄一は1840年(天保11年)2月13日武蔵国血洗島村に父・市郎右衛門 母・エイの長男として生まれた、幼名は市三郎。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったとされる。

一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠のもとに通い四書五経や『日本外史』を学ぶ。18歳の時(1858年)には惇忠の妹千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、1861年に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に出入りし、勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から1863年に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。京都に向かい、一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。主君の慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する(瀬名秀明の小説『八月の博物館』では篤太夫として日本館のシーンに登場、エジプト学者のオーギュスト・マリエットと交流している)。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、1867年に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した。


[編集] 大蔵省出仕~実業家時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩に出仕することを命じられる。しかし、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、仕官を断り1868年1月に静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年に井上馨と共に退官した。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。

第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。 また「渋沢財閥」を作り巨富を得ることも当時の栄一には簡単に出来たのであろうが、「私利を追わず公益を図る」考えを自身も生涯に渡って貫き通したのである(GHQが財閥解体を命じた時、岩崎家(三菱)の総資産は33億円、一方渋沢家は625万円だった)。 しかし、三井、三菱、住友、古河、大倉などの財閥系ですら男爵どまりであったが、栄一ただ一人が経済人では最高位の子爵を授かった。


[編集] 社会活動

震災復興院委員 左から右に栄一、伊東巳代治、加藤高明
渋沢栄一像(常盤橋公園、東京都千代田区)栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、キリスト教徒でもないのに救世軍を支援したほか、関東大震災の復興のために、大震災善後会副会長となり、寄付金集めなどに奔走した。

また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎との関係で大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、創立者大隈重信との関係で早稲田大学、創立者三島中洲との親交で二松学舎(現二松学舎大学)、野田(大塊)卯太郎との誼で国士舘大学(創立者・柴田徳次郎)、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)の寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、成瀬仁蔵らとともに日本女子大学校、伊藤博文との関係で東京女学館の設立に携わった。

若い頃は固陋なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったがこれが現在の時事通信社と共同通信社の濫觴となる。また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての評価も高い。1926年と1927年にはノーベル平和賞の候補にもなった。

現在、埼玉県では、多くの企業の設立や育成に携わる一方で、福祉や教育などの社会事業にも尽力した栄一の生き方と功績を顕彰するため、栄一の精神を今に受け継ぐような、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を贈呈している。


[編集] 道徳経済合一説
『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。また、幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者山田方谷の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。


[編集] 家系
江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが「中ノ家」に養子にはいったのである。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷をでてからは妹の貞子が「中ノ家」をまもり、須永家より市郎をむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は初代名古屋大学総長となった。

民俗学者であるとともに大蔵大臣や日本銀行総裁も務めた渋沢敬三は栄一の嫡孫である。また、栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からはフランス文学者の澁澤龍彦を輩出している。なお、1968年まで第一銀行頭取を務めた長谷川重三郎は栄一の庶子。子孫に、NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事の澁澤寿一などがいる。 作曲家の尾高尚忠は、栄一の従兄の尾高惇忠の孫にあたる。 政治家の橋本岳は栄一の血を引いている。


[編集] その他
日本史上を代表する経済人として、日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。特に、日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局、伊藤博文が採用された。当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。
高崎線の深谷駅で使われている駅スタンプには、栄一の顔が入っている。
深谷市では、栄一の命日である11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。
居合の達人。
埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは、深谷ねぎが栄一の故郷である深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。