つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

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入院

2015-10-18 23:45:37 | 親父の肺癌

先週、親父から9月30日現在の腫瘍マーカーの検査結果が送られてきた。

なので、本来なら、この記事は「腫瘍マーカーの数値(31)」の予定だった。

が。

今週13日(火)の朝、親父は救急車で病院に運ばれた。

朝起きて、耐えられないほど呼吸が苦しかった親父は、いつも世話をしてくれていたK叔父に自ら電話して助けを求めた。

K叔父に付き添われて丸山ワクチンを接種してくれている近所のKクリニックに行き、主治医のK先生に勧められて、救急車を手配して病院に行ったのだ。

病院に行く前、親父は新聞の購読中止の手続きを取り、ヤクルトの配達中止の手続きを取り、給食サービスの中止の手続きを取った。今にも死にそうな呼吸の下で。

 

13日。証人尋問を終えて法廷を出たところでK叔父の奥さんのN叔母からの着信履歴に気づき、折り返し電話をして初めて親父の状態を知った。

その日は別の大きな裁判が夕方に入っており、なんとか2~3日事務所を空けられる手はずを整えて、名古屋に車で向かったのは夜9時半。名古屋に着いたのは日付が変わった14日午前2時半だった。

 

親父は駄文溢れるこのブログを読むのを楽しみにしていたが、おそらく、もう、二度とパソコンを開くことはできぬ。

だから、ここで親父の容体を明らかにしても問題あるまい。

親父は間質性肺炎の急性増悪で入院した。

統計的には1か月持たぬ。

酸素飽和度は70を切っており、ときに50台にまで下がる。体は一回りも二回りも小さくなり、涙もろくなった。

食欲もほとんどない。

おそらく11月は迎えられないだろう。

 

14日・15日と親父に付き添い、16日午前3時にいったん帰京した。

どうしても動かせない裁判の期日が16日に2件入っていたからだ。

17日朝から、今度は妻と子供たちを連れて名古屋に行ってきた。

親父の意識があるうちに、孫たちの顔を見せてやりたかったからだ。

孫たちの顔を見て、親父はまた泣いた。

息をするのもままならないくせに、酸素マスクを自分ではぎ取って、長男に「卓球部の選手に選ばれたんだってな。すごいな。」と声をかけた。次男に「写生大会で金賞を取ったんだってな。えらいなぁ。」と声をかけた。

親父は、孫の話しかしない。孫たちの現在にしか喜ばず、孫たちの将来にしか夢を見ない。

 

17日は親父が契約していたT葬儀社に行って葬儀の打ち合わせを済ませてきた。

棺桶は何にするか、香典返しは何にするか、火葬場までの車は何にするか、参列者にふるまう食事は何にするか。

その日の夕方からモルヒネの投与が始まった。

18日は平岩家の菩提寺のT寺に行き、ご住職と会って通夜~葬儀の打ち合わせを済ませてきた。

 

そして先ほど。

私は明日(19日)、再び外せない裁判が2件入っているので、子供たちだけを連れて帰京した。

妻は名古屋に残って親父の万一の事態に備えている。

 

多くの方々に支えられ、気にかけていただき、親父は3年前に告知された余命を2年近くも越えた。

しかし、次の「親父の肺癌」の記事は、おそらく、「親父他界のご報告」になる。

 

親父の日々の生活の世話はK叔父・N叔母に丸投げだった。

本来は一人息子の私がすべきことだ。

しかし、そのバカ息子は、自分の父親の肺癌をテーマに、自分の父親の腫瘍マーカーの数値を公開し、その父親がいよいよ入院した時も仕事を優先してすぐに父親のもとに駆けつけず、今夜、あるいは明日の早朝、もしかしたら息を引き取るかもしれないのに、妻だけ残して東京に戻ってきて、こんなくだらないブログを書いている。

そして明日は顔色一つ変えずに、依頼者のために法廷で相手方を追い詰めるのだ。

 

すべての批判も罵倒も侮蔑も甘んじて受ける。

これが私の選択した仕事だからだ。

私はこうやって生きていこうと決めた。

だから、これからもこうやって生きていく。

 

親父は苦しい呼吸の中でも、

「仕事は大丈夫なのか? 裁判は大丈夫なのか? こんなとこにいていいのか? 早く仕事に戻れ。」

と私に言う。

友人知人が、親類が、世界が、私の生き方を否定しても、親父は病床にあってなお、息子の生き方を認め、息子を誇りに思ってくれている。

だから私は、明日も、何事もなかったように法廷に立つだろう。

バカ息子の生き方に、親父が、誇りを持って逝けるように。


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