つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

テラハ事件を考えてみる(1)

2020-06-01 12:12:00 | 日記

東京日帰りツーリングが残り2つ(武蔵野市と武蔵村山市)まできて足踏み状態だ。

いや、新型コロナ騒動で外出を自粛しているからではない。

てか、前にも書いたけど、バイクのソロツーリングって究極の反三密ですから。

こういうと、

「ツーリングの途中に万一事故ったら病院のお世話になって医療関係者に迷惑かけるだろ」

とか噛みついてくるゼロリスク中毒の方がいらっしゃるが、それは近所のスーパーに食料品を買いに出かける場合だって、時差出勤する場合だって同じだろう。

交通事故に遭う確率なら、歩きスマホしてるねーちゃんや、ウー◯ーイーツのバック背負って車道を自転車で爆走しているにーちゃんの方が遥かに高いと思うんだが。

昔、ある先輩弁護士が言っていた。

「本当に手に負えないのは、ヒステリーを起こした正義だ。」

 

私が武蔵野市と武蔵村山市に行けないのは、どちらも目的地に設定している場所が新型コロナの問題で営業を自粛しちゃってるからだ。

 

閑話休題。

 

日帰りツーリングにも行けず、7日間ブックカバーチャレンジも終わり、さすがにブログのネタが尽きてきたので、今回はテラハ事件について書いてみようと思う。

「フジテレビの人気番組『テラスハウス』(通称「テラハ」)の出演者だった女子プロレスラーの木村花さん(22歳)がSNS(主にTwitterらしい)上で自分に向けられた誹謗中傷に耐えかねて自ら命を絶った」

という事件である。

木村さんが亡くなった後、マスコミやネット上ではテラハ事件の問題点が色々と論じられているが、今回は、

【1】テラハの制作サイドの責任

について考えてみる。

 

マスコミやネット上の議論を見ていると、

(1)テラハには本当に台本はなかったのか

という問題と

(2)木村花さんが追い詰められてしまったことについて制作スタッフの責任はなかったのか

という問題がごっちゃになっている印象を受けるが、この2つはそもそも全く別の問題である。

まず、(1)テラハには本当に台本はなかったのか、という点。

この点はかつての出演者が取材に応じたりSNS上で内幕を暴露したりしているのだが、そもそも、TV番組の、しかも報道番組ではないエンタメ番組を制作する過程で、制作サイドから何の指示も出ていないわけがないではないか。

出演者の台詞の一つ一つが書かれた「台本」はなかったかもしれないが、物語としての大きな流れ、演出プラン、各週・各クール毎のクライマックスポイントは当然、制作スタッフが制作会議を重ねて詰めているわけで、それを、「台本」と呼ぶか「構成台本」と呼ぶか「演出」と呼ぶか「番組の方向付け」と呼ぶかは言葉の問題に過ぎない。

だいたい、プロの役者でもないド素人の若い男女を一カ所に集めて、

「自由に生活して恋愛して喧嘩して別れてください。」

とだけ指示して、面白い番組ができるわけないだろう。

世の中で「テラハには台本(あるいは演出)があった。騙された。詐欺だ」と騒いでいる輩(やから)はそんなこともわからないのか? あ、わからないから騒いでるのか。

 

じゃ、こういう言い方をすればわかるだろうか

テラハという番組が、ヤラセとか情報の捏造とかが絶対に許されない「報道番組」ではないことに異論はないだろう(ここで異論がある人はこの先は読まないでよろしい。議論にならない)。

テラハはどう見たって「娯楽・エンタメ番組」である。

その内容は視聴者の「のぞき見趣味」「他人様(ひとさま)の恋愛を揶揄(やゆ)する無責任心理」をくすぐる、(わたし的には)品性下劣なエンターテインメントだと思うが、とにかく、単なる「娯楽・エンタメ番組」の一つに過ぎない。

ここで、「テラハには台本(あるいは演出)があった。騙された。詐欺だ。」と騒いでいる人たちに問いたい。

あなたたちはマジックショーを見た後で、「あのマジックのトリックはこれこれこういうものだ」と教えられたら、「あのマジシャンは『タネも仕掛けもありません』って言っていたのに。詐欺だ!」と騒ぐのか?

 

フィクションをあたかもノンフィクションのごとく見せる。

虚構をあたかも真実のごとく見せる。

それはエンターテインメントの世界では称賛されこそすれ、批判されるものではない。

たとえ話をもうひとつ。

ウチの事務所の裏には「東海道四谷怪談」で有名なお岩さんを祀(まつ)った稲荷神社がある。

言うまでもなく、「東海道四谷怪談」は鶴屋南北が「仮名手本忠臣蔵」の外伝として書きおろしたフィクションである。

田宮家も於岩(おいわ)さんも実在した人物らしいが、於岩さんが夫の伊右衛門に毒殺されたとか、按摩(あんま)と不義密通した挙げ句、戸板の裏表に張りつけられて堀に流されたとかはすべて南北が作りあげた創作だ。

正確には時代を異にしつつも実際に起こった事件を、すべて「田宮家の夫婦問題」に落とし込んで怪談に仕立てたものだ。

まさかとは思うが、21世紀が始まってかれこれ20年が経とうとしている現在、「東海道四谷怪談」が史実(実話)だと思っている人はいないよね?(いたら、スマン)。

エンターテインメントとしての「東海道四谷怪談」が時代を超えて評価されるのは、「上演前にお岩詣でをしないと祟りがある」などという興行側の絶妙なプロモーションに大衆がひっかかって、書き下ろされてから200年近くにわたって(※初演は1825年)、「実話だ」「お岩さんは祟る」と本気で信じられていたからだ。

 

もう一度言う。

フィクションをあたかもノンフィクションのごとく見せる。

虚構をあたかも真実のごとく見せる。

それはエンターテインメントの世界では称賛されこそすれ、批判されるものではないのだ。

 

では、(2)木村花さんが追い詰められてしまったことについて制作スタッフの責任はなかったのか

議論するまでもない。責任はあった。

少なくとも、制作スタッフは木村さんに「テラハ」内においてヒール(悪役)を演じることを求めていた。

少なくとも、制作スタッフは木村さんがその方向に走っていることを制止しようとはしなかった。

何故か?

視聴率が取れて、ネットフリックスにも高く売れるからだ

それ自体はよろしい。エンタメ・ビジネスとはそういうものだ。

視聴者受けするコンテンツ、数字(視聴率)が取れるコンテンツ、他の媒体に高く売りつけられるコンテンツを作ることは評価されこそすれ、(そのコンテンツが違法なものだったり放送倫理に抵触するものでない限り)非難されるべきものではない。

ただ、それによって出演者が被る有形無形の不利益については、たとえ出演契約書に義務として明記されていなかったとしても、制作スタッフは出演者の安全を確保するための手立てを尽くす商道徳上の義務があるはずだ。

契約上の義務とは「契約書に書いてあるもの」がすべてではない。

テラハが「フィクションをあたかもノンフィクションのごとく見せる」「虚構をあたかも真実のごとく見せる」ことに成功していたコンテンツである以上、そして、番組の方針やスタジオ出演者の言動によってSNSを通じて雲霞(ウンカ)のごとく湧いて出る匿名のウンコ野郎どもの誹謗中傷さえも「番組人気のバロメーター」としていた以上、制作スタッフは木村さんを含む出演者たちが無防備にそれらの誹謗中傷に晒(さら)されないように、あるいは、度を越した誹謗中傷には法的措置まで取るくらいの覚悟を持って番組制作に臨むべきだった。

覚悟も方策もないのに(結果的にではあれ)SNSの炎上を「番組人気のバロメーター」として利用していた制作スタッフたち(法律的には「制作スタッフの所属していた会社」、あるいは番組制作の発注元であるフジテレビ)は出演契約に当然に付随・内包される「出演者に対する安全配慮義務違反」を問われてもやむを得ないだろう。

たとえば、番組出演中は個人のSNSアカウントの使用は控えてもらい、番組の専用アカウントのみに視聴者意見を集約させるとか、週に一度、定期的に出演者の個人アカウントに寄せられたすべてのコメントを制作スタッフもチェックして、あまりに度を越した誹謗中傷については制作サイドで法的措置を取る用意があることを出演者に伝えるとか、スタジオ出演者の山里さんらにこれらの糞コメントに対して番組内で何らかの是正意見を述べさせるとか、番組全体の演出としてヒール化していた出演者(=木村さん)をヒロイン化させていくとか。

方策はいくらでもあった。

「自分は一人ぼっちではない。番組スタッフ全員が味方になってくれている。自分を守ろうとしてくれている。」

それを木村さんに現実の行動として伝えるだけで、彼女は死を選ばずに済んだかもしれない。

「そういうことは思いつきませんでした」と言うのであれば、そういう制作スタッフは少なくとも生身の人間を出演させるコンテンツ制作に今後はかかわるべきではない。

想像力も危機対応力もない人間が創造行為に関与することは、幼稚園児に実弾の入った銃を渡して「好きに遊べ」というに等しい。

制作スタッフは、木村さんが追い詰められ、命を絶つまで事態の深刻さに気づかなかった。

そして22歳の一人の女の子の命が失われた。

人間の悪意にタカをくくる。

人間の心の弱さに思いを馳せられない。

そういう人間が作るコンテンツが、観る者の心を打つことなどあり得ない、と思うがどうか?

次回は、【2】スタジオメンバーである山里良太さんやYOUさんたちの責任について考えてみる。