今更だが、親父から渡されていた最後の腫瘍マーカー検査の結果をアップする。
これが親父の最後の腫瘍マーカーの数値である。
この検査の2週間後、親父は間質性肺炎の急性増悪で入院し、更にその1週間後の10月19日に他界したからだ。
2015年9月30日の腫瘍マーカーの値。( )内は前回検査時(2015年8月31日)の検査結果。
CRP 0.89(0.50)※基準値0.3以下 0.4~0.9だと体内に軽い炎症が発生している可能性を示す
ProGRP -(83)※基準値81以下 肺ガンに特有の腫瘍マーカー
CEA 6.6(6.5)※基準値5.0以下 胃・大腸・肝臓ガンに特有の腫瘍マーカー
NSE -(14.8)※基準値16.3以下 小細胞肺ガン、神経芽細胞腫に特有の腫瘍マーカー。告知時(2012/10/11の数値は22.8)
CA19-9 53(43)※基準値37以下 膵臓・胆道・胃・大腸・肝臓ガンに特有の腫瘍マーカー
【免疫力の数値】
アルブミン 3.4(3.5)※基準値3.8~5.3
リンパ球 23.9(25.8)※基準値18.0~59.0
ガンの大きさは
上部 縦(計測せず)(計測せず)
横(計測せず)(計測せず)
下部 縦5.16cm(6.86cm)
横7.88cm(7.88cm)
誰が読んでくれているのかわからないが、現在、このブログで親父が残した過去3年分の日記を公開し続けている。
公開している日記では、昨日(11月15日)が「肺腺癌ステージⅢB」と「余命1年」の宣告を受けた日(2012年)だった。
親父は日記にほとんど自分の「感情」を記さない男だった。
淡々と毎日起きた出来事を綴り続けていた。
それでも「2012年11月15日」は欄外にまで書き込みがあった。
「貴方はあと1年から2年で死にます」と医師から宣告され、恐怖と絶望と怒りでペンを持つ手が震えたのだろう。
この日の親父の文字は他のどの日より読みにくい。
親父の日記を公開し続けているのは、「余命宣告を受けたにもかかわらず、抗がん剤などの三大療法を拒否した末期癌の患者」が、どのように絶望し、どのように足掻(あが)き、そしてどれほど人間らしく死んでいったのかを、今この瞬間も癌と共存し、あるいは癌と戦い、あるいは癌を受容して日々を生きている方々に、そして、欲を言えば、医療に従事する全ての方々に読んで欲しいからだ。
そして、末期癌患者への「余命宣告」とか「(抗がん剤や放射線治療などのいわゆる)三大療法」の意義について、もう一度、考えてもらえれば、と思うからだ。
私の二人の息子たちは、親父が逝く前日、親父(彼らにとっては祖父)を病室に見舞い、食欲のなくなった親父に好物だったアイスクリームを食べさせてやった。
もうすぐ大好きな孫たちと会えなくなることを覚悟したからだろう。親父は、孫たちが病室に来た時、男泣きに泣いた。
親父が辿った「余命宣告後の3年間」を、親父の日記をブログにアップすることを通じて一緒に歩いている私は、孫たちの前で泣いた親父を女々しいとも情けないとも思わぬ。
まだ公開していないが、親父の日記の12月の「予記」には、繰り返し、「あと5年生きる」と書かれていた。
親父は告知から2年11カ月で逝った。
親父は自分の死について達観などしていなかった。
死の直前まで、「あと少しだけ。あと少しだけ生きたい」と願い続けていた。
親父が死んで、私の二人の息子(特に中学1年の長男)は何かが変わった。
親の欲目かもしれないが、少しだけ大人になった(ような気がする)。
少しだけ、毎日を一生懸命生きるようになった(ように見える)。
長男が勉強もしないでダラダラとマンガばかり読んでいたら、「カシコギ」の一節を語り聞かせようと思っていたが、その機会がなかなかない。
なかなか機会がないので、忘れないうちにこのブログでアップしておく。
たまにこのブログを読んでいる(らしい)長男の目に留まれば、と思う。
あなたが虚しく過ごした今日という日は、
きのう死んでいったものが、
あれほど生きたいと願ったあした
(カシコギ 趙昌仁/金淳鎬)
親父。あんたの孫たちは、あんたが逝って、少しだけ大人になったぞ。
だけど、親父。
なんで、死んだ。