Graffiti Decorations

私の人生は、キャンパスいっぱいに描かれ続けている。
生まれてからずっと、らくがきのように。

お久しぶりです。

2010-10-27 16:11:12 | 出来事
ブックマークから久しぶりにこのHPにアクセスしてみた。

このブログは私が19のときから書き出したもので、いま読み返しても考えてることが青臭いったらありゃしない。
後から読み返せば「ジブン、何様!?」って思うような記事ばかりですね、はい。

消してもいいんだけど、過去の自分を振り返るのには恰好の場だし、今後中途半端な発言はすんなよ、という自分への戒めとしても(笑)そのまま残している次第です。(単にめんどくさいだけともいう)

そしたらキモいコメントが多々入ってたため、編集画面に久々ログインしました。
人様の思い出のブログを汚しやがって!きー。
と、憎たらしい卑猥なコメントを削除して
ふとアクセス数を見た。
過去のもさかのぼってみてみた。

(ん・・・?意外とコンスタントにある)

2006年秋からほぼ更新してないし、2007年から別のサイトでブログ書くようになって、
今もそこでちまちまと更新し、なんだかんだもう3年にもなるんだけど

そのブログの更新が滞ってるときより
放置しっぱなしのこっちのアクセス数が多い(笑)なぜ!!!

変な日記だからどっかでひっぱられてたどり着くのかな?

それともその卑猥なコメントのために不特定多数のブログ訪問をしているシステムさん?


別にこのまま放置しっぱなしでも私はいいんだけど・・・

なんか気持ち悪いし、身辺整理をするにこしたことはないし(笑)、

もし興味本位でここに訪れている人がいて、もしこれを書いてた小娘が成長して今どんなこと書いてるのか
ちっとばかし興味あるって人はメッセージかコメントください。
ついに私も社会人3年目やってます。

リンクは貼るつもりないんで、new blogはその人にだけ教えます。
てかnew blogも収集つかないくらい膨らんでるんで、こっちに一部移すかも。

とりあえず、このブログの晒され度の実態を知るために(笑)
ご協力お願いします!

「男友達」と「男の友達」

2008-01-09 14:35:34 | LOVE
江國香織のこの分け方で考えるならば、
私には何人の「男友達」がいて、
何人の「男の友達」がいるのだろうか。

「男友達」

初めて読んだときから約3年。
改めて江國さんの本を読んで、
ますます共感している自分に気づいた。

得難い、男友達。


女性にとっての「男友達」と男性にとっての「女友達」は
男女の関係においてもっとも素敵な関係。
「恋人」よりも。



彼女は結婚していながらこの本を書いてしまって、
後悔していないか?

桜井さんが「LOVE」という曲に込めた気持ちが
男性の本質であるならば、

江國さんの書く「男友達」とは
女性ならではの感性的な定義だと思う。本質ではない。

どちらも、愛や恋を考えた末に行き着くものかもしれないが、
女性の心は男性のように普遍的ではない。

男性の本質を取り上げたドラマや小説はたくさん大衆向けにあるのに、
女性のこのような心が描かれた物語は少ない。
そもそも大衆に晒す必要はないのだけれど。


1年ぶりの日記

2007-10-22 14:28:12 | 出来事
1年くらい更新していませんでした。

就職活動本格化したくらいからずーっと書いてなかったかも。

私は自分の日記を読み返すのが苦手なので
このブログもあえて見ず忘れ去っていました。

久しぶりに自分のブログ見直すと、やっぱり書いてることが青臭いなーと思う。
情けない。恥ずかしい。こんなの自分じゃない。
そう思うと、昔のを消して書き直したくなる。

昔の自分に今の自分を上書きする。


それを、何度も繰り返していく。
常に、日記すら過去ではなく今の自分が書いたかのような文章にしたがる。

こんな状態で、日記をつづる意味はあるのだろうか・・・

最近気づいたが、私はどうやらとことん過去の自分が嫌いらしい。
それを裏返すと、常に今の自分が好きだとなるかもしれないが
それとも少し違うし、未来の自分に過剰な期待をしているというわけでもない。

でも、やっぱり過去の自分でもそれは自分でしかなくて、
それを否定して生きていくのはとても悲しい。


自分を肯定できるのは、その道を生きてきた自分だけなのだ。


というようなことを、就職活動を通して痛感した。
別に新しい自分探しでもなんでもない。

私は、過去の自分を無碍にしすぎた。

もっと、自分を大切にしよう。自分を好きになりたい。

これからこのブログも少しずつ更新していこうと思う。

ストレスとの付き合い方

2006-10-21 21:55:05 | hinaism
ストレスって、多かれ少なかれ誰にでもあるもので

多すぎてもダメだけど
それがないと逆にダメになると思う。

つらいこと重なったりしたら

誰だって現実から逃げたくなって
時にはまわりに当り散らしたりもするかもしれない。

でも、すぐ表に出して
すぐ切り替えれるのならヨシ。

一定までためこむけど
リミット達したらキレちゃう人

一度は我慢しようとしてると捉えると、まぁいい。
キレるまでほっといた周りも周りだし
周辺の人間含めて、改善してったらいい。

一番困るのが

自分で自分のストレスを発散させる方法を知らん奴。

「周りに弱み見せるのが嫌」ってのはわかるけど
一人になったら異様に落ち込んで
どんどん沈んでって
危ない状況になっちゃう人を何回か見た。

最初、私はこういう人はよっぽど周りの人間に恵まれてなかったのか、
とにかくストレスを受ける生活を毎日送ってたのかしらと考えてたけど

でもちがくね?

って最近思ってきて。


結局、人生80年とすれば
つらいとか悲しいとかそういう悩みは
80年も生きてれば限りなくあるだろう。

でもそういうのいちいち反応して凹んでを繰り返してたら
ココロもともかく身体的にも健康になれなさそう。

だから、自分にストレスがたまったとき
それをうまく発散させて
「また明日から頑張ろう」
って自分をコントロールする方法を身につけるのも
大人のマナーだと思う。

20越えた大人に
「私・・・リストカットしたことあるの」
っていきなり言われたりしたら

びっくりするってば!!

聞いたこっちが後引いてずーっと気になったりするし。


ストレス解消法は一人ひとり違って

スポーツに打ち込むとか
おいしいもの一杯食べるとかの
それを忘れるくらい何か夢中とか幸せを感じるものに触れる派もいれば

後からごちゃごちゃした感情が残ることを嫌って
その場その場で自分の感情を表に出すとか(TPOを考えること前提)

がぁーって泣くとか
カラオケでガンガン歌うとか

色々あるやん?

そしてラクになった後、

今後いかにしてそのストレスを受けないで生きていくか考える。


友達関係で悩むなら
一度その友達から離れてみればいい。

一人になるのが嫌なら
嫌でも誰かと一緒にいなきゃいけない状況を作るとか。
例えば、アフター5にバイトとか習い事とか、
休日は図書館行くor街に出るとか

そして変化したところから改めて自分を見て
戻ろうって思うなら戻って
変えたままにするならそれで

自分の人生自分で切り開かなきゃやろ!

自分で考えられる改善策を挙げきって
この中からどの方法を選ぶかで困り果てたとき
初めて誰かに相談して、

自分でできる範囲を全てやって
本当にどうしようもなくなったとき
初めて誰かに助けを請うんやない?


子どもの間は、難しいだろうし、
親にどんどん甘えるべき。

でも成人したら、自分を守るのは自分!!!
とお金。


子どもが親にも相談できずに自殺って
その原因はいじめだとか学校だとか他にあるにしろ

私は子どもに少なくとも「相談できない」って思わせていた
またはそういう状況を作っていた

実の親に問題があると思うよ。

「子どもを育てる」って
親が「自分がいなくてもこの子は一人で生きていける」
って思えるところまで成長させること。

甘やかすとは別。


だと私は思うんやけど。



話はそれたけど

ストレスは、ためずにちゃんと発散させなきゃダメ。
これは医学的にもいえるはず。

そんで、「だってこういう状況だから・・・」
って、周りのせいにしない。

人のせいにする人って
いくつになっても自分で解決策をみつけきれない。

自分がやれるだけのことをやってみてから
初めて「困った」って泣きつきにおいで。

その時は真剣に受け止めるし、その人の力になりたい。


と、私は思うんやけど。



でも、よぉぉぉーく考えてみたら
リストカットしたことあるって事実を人に話すことで
ストレス発散って方法もあるのか。

切る前に発散させようね。

私らしさ。

2006-07-27 02:12:59 | 自分について
自分とキャラや容姿、考え方がそっくりな人間にもし出会ったら、
果たして私はその人と仲良くなれるのだろうか。

と、考えてみたことがある。

もちろん大して意味のないことだし
実際この質問に即答で「ムリ」って言う人と
「おもしろそう、出会ってみたい」って思う人と
まぁ半々くらいで、大して何も考えずに答えられるようなことだ。

私自身も、なんとなく
少し人間関係に行き詰って
誰か私の気持ちを完全に理解してくれればいいのに、とか
そんな人いるんだろうかとか
そんなことを考えてたときにふと思ったことだ。

これに対する私の答えは、
確実にノーだ。

「もう一人の自分」なんてものに出会ってしまったらもう
私は生きていけないかもしれない。


なぜなら、私にはほぼ相対的な価値観しかないからだ。
比較対象があるからこそその存在を認識できる。
人と自分との「違い」こそが私であり、
私らしさである。

私はそう思っている。

結局、自分自身に絶対的な自信を持っていないともいえるが、
それだけやはり私はまだまだ自分をわかっておらず、自己分析にいつも悩む。

絶対的な考えを持っていないというか、持つのが怖いだけなのかもしれない。
それが覆されたとき、精神的にそれに耐えられるほどのタフさが
私にはないからだ。


もう一人の私に出会ってしまったとしたら、
「これこそ私」「私はこういう人間」
って思ってたものが自分だけではなくなり、
実は大して今まで「これがあたし」って思ってきたスタイルは
個性的で貴重なものでは全くなかったのではないか、
今まで私がいたポジションが彼女に取ってかわられるんじゃないか、とか
そういう恐怖と戦い続ける毎日になってしまう。


このことから、今まで私は他人と違うものを選択することで
自分らしさを表現して生きてきたのかもしれないと思い始めた。

私は重要な大きい選択から日ごろの何気ない選択まで
無意識のうちにマイノリティーを選ぶことで安心していたのである。

それだけでなく、自分の居場所を様々なところにつくりたいと思っている。
そして、ある場所に居続けていたら「自分」が消えていきそうだ、と感じたら
それ以外の場所での自分を想像し、時には「自分には色々な面がある」と他人に話したりする。

きっと、私はそうやって人に話すことによって精神的に自分を安定させていたのかな。


実際、これに共感できる人って結構いるんじゃないかな。

とりあえず、考えていたら私は結局こういう人間とわかったし、
むしろ私自身の居場所探しとマイノリティーを持ち続けられるような仕事につけれれば、将来をもっと気軽に過ごせるのかも、と思いました。



人と向き合うということ

2006-04-11 02:04:25 | hinaism
人間関係をうまくやっていける人を、私は一番尊敬する。

たった一度きりの人生の中で
人とかかわっていくことは、すばらしいことであると同時に、
難しい。

恋愛も、人間関係の中の一部である。
恋愛上手な人は友達も多いし、恋愛下手な人は友達が少ない気がする。

恋愛に自信がない人は、まずは自分の力でどこまで友好関係を広げられるか試して欲しい。
そして友達のなり方、付き合い方を客観的に見る。

広く浅く友達を作る人は、恋愛も淡白なものが多いし
友達からよく頼りにされる人は、恋愛相手からも依存されがちで
色々と魅力ある人は、異性からもモテるだろうし
人間性を好かれる人は、異性から心底愛されることが多いと思う。




そしてなぜか、恋愛がうまく言ってるときは友情で悩んだり、
友達関係で苦労してないときは恋愛がご無沙汰だったりする。

どちらも行き詰ると、生きていけないくらい落ち込む。


これらがうまくいってるときは他にもいっぱい娯楽があったはずなのに、
人間関係でうまくいかないことがあると、何も楽しくなくなるから怖い。

やっぱり、人間関係は難しい。


自分がこの世からいなくなるときに、どれだけの人が自分を惜しんでくれるのか

表面上悲しんでくれはするかもしれないけど、

実際どういう気持ちなのか、
生きていたときはどれほど必要とされてたのかを

疑わなくていいよう、人間関係は常に真剣に築いていく方がいい。


人を信頼しきれなかったり、付き合い方を踏み違えている人をみると、
その人の人生が惜しまれてならない。

人を見下したり、周りがすべて敵というような接し方は
見苦しいし、悲しい。

人は一人では生きていけないというけど、
まったくその通りであり、
どんなに裏切られても、どんなに傷ついても
死ぬまで「人と向き合う」ことは忘れずに生きていって欲しい。

人生は損得勘定じゃない。

人に与えたものは、自分の生き様として永遠に残る。

血液型って凄い!

2006-04-09 09:45:03 | hinaism
血液型にこだわる人って、私はずっと苦手だった。

まず、人間が4種類で区別されるわけないし、

なにより●型だから●●だよね~って言われるたび



んなわけあるかいっっ!!!!!


ってつっこんでた(心の中で)。

そんな一般論でくくらないで欲しい。
十人十色だぞと。

ここであえて私の血液型は公表しませんが。




それに、こんな血液型にこだわるんって日本と韓国くらい?

まず、映画まで作った韓国はさすがにやりすぎだと思った。(『B型の彼氏』とか)

世界では、自分の血液型すらたいていの人が知らないらしいね。

輸血するとき以外、はっきり言って必要ないし。


だから初対面のガイジンに「何型?」って聞くと、

「オレの血を狙ってる!!??」と、不信感もたれることうけあいです。


私は一回それで失敗した。

英語のネイティブの先生の授業のとき、ペアになった相手と自分の共通点を英語で述べるっていうワークで、

「私と彼女は同じ血液型です」

って、かるーい気持ちで発表。

相当怪訝な顔をされました。


はぁ~。
血が足りない人とか思われたかしら。。。



ところで、なんで今更この話題かというと、
最近、血液型で分けて考えるということにも、利点があるなと思えてきたから。

別に血液型じゃなくてもいいんだけど

ただ「区別する基準」の中の一つとして
一番わかりやすくて便利なものだなぁと。


だいたい日本って90パーセント以上が日本人っていう単一民族国家な上、
周りを海に囲まれてるから他の民族の侵入も少なく
グローバル化してるとはいっても基本的に閉鎖的な国だと思う。

アジアでも、一つの国にいろんな民族や宗教があるし
アメリカは言うまでもなく移民大国だし
北欧は国と国が隣り合い、目の色や髪の色とか見た目にもはっきりわかる個性がその住人にある。

日本人って、ほぼ仏教(むしろ宗教に無関心だったりする人が多いか)で、
見た目にも、今でこそカラーリングが一般的であるとはいえ
だいたいダークカラーの髪と瞳に、オークル色の肌。

とりあえず基本的人権の尊重のため、家紋とかとかいう時代も終わ(ったことになってる)り、

日本人って、見た目にも中身にもみんな一様。

貧富の差も、他国よりマシでしょ。

こんな時代。


でも、これだと
誰かと性格が合わないとか衝突があったときに、

「これはお互いの文化が違うんだ。別に両方悪いわけじゃない。
これは相手の文化として受けとめ、この衝突をプラスに変えよう」

とかいう、よく国際結婚がうまくいく理由の一つである
『文化の違いとして認識する』
っていう行為が、非常にしにくい。



みんな同じで、みんな平等で、みんなわかりあえなきゃならないっていうような
協調性を重んじる国家になってる




って思って、あぁ~だから血液型で区別すると便利なんだって納得。


『この人は●型だから合わなくて仕方ない。
自分と同じような感性、考え方を求めるなんて失礼だ』

って考えて、人間関係がスムーズに行くきっかけとして血液型を考えると

ものすごく便利。






たとえば具体的に言うと

実際海外に住んでたら「日本人だから○○よね」って差別フツーに受ける。

でもこの差別という名の区別をなくしちゃったら
地球に何百とある国や文化を尊重するということに反する。

むしろ日本人ならではの長所短所を相手がわかってくれれば
自分も相手の文化を全部受け入れたりすることなく
対等な関係が結べるはず。


ワタシ日本人ですが何か?

くらいに開き直って、日本人である文化をしっかり持って異文化と交流することが、現地で過ごす一番適切な方法のはず。

こうすることで現地での生活がうまくいく。


これと比べれば、
「日本人」として外国人に位置づけされるよりも、
同じ日本人に「●型」として認識される方がよっぽどラクで便利だと思う。

同じ血液型だからめっちゃ合う☆っていうラクなのにのっかってるんじゃなくて、
自分と違う血液型の人に興味を持つことができれば、
そこでその人と接して、
もし衝突があったとしてもそこであきらめず、自分の考えをいい、相手の考えも聞き話し合うことで一つの文化交流が生まれてくる。


と、ここまで考えて、

血液型って凄い!!!




だから異様なほどの血液型ブームが日本や韓国で巻き起こったんだ!
きっとみんなこういう「区別の基準」を求めていたときだった。
と思いました。


なんかほんっとどうでもいいことだけど
ずっと気になってたことに関して
自分で考えて納得できたっていうこの過程で私は満足。

これからは血液型にこだわる人を毛嫌いするのをやめます。
むしろ、合わないといわれる血液型の人と、もっともっと交流したい。

そりゃー合わないといわれる人たちとは合いにくいかもしれないけど、
世界はグローバル化が進む今、
同じ血液型でかたまったり、相性が合うと言われる人たちと一緒にいてばっかりの人生は、つまらないと思う。

敢えて難関コースに挑戦するのも、悪くないと。
お互いの文化をお互いにさらけ出して、そこで認め合えれば新しい人間関係が築けると思います。

新しい出発

2006-02-27 00:56:25 | 自分について
主観的な自分と、客観的な自分の違いに気づいたとき。

多分、だれもが通る道なんだろうけど、私もだいぶ悩んだ。

私の考える自分は、口げんかでは負けないし、音楽ではロックが好きだったし、納得できないことがあるととことん考えるし、登山とかアウトドアが好きだったし、映画といえばもっぱらアクション系しか見ないし、どちらかというと熱い心をもって人とかかわってきたと思う。

でも、私の他人にあたえる第一印象は、おとなしい、女の子らしい、ほんわかしてる、まぁもっと言えばひかえめで平凡でつまんないとか思われていたかも知れない。

このギャップに気づき始めた頃、私はとにかく本当の自分を知ってもらおうと
みんなの前では第一印象を裏切るようなことばかりしていた。

聞く音楽もヘヴィロック路線に拍車がかかり、今までかかわってこなかった遊びも、ファッションも、とにかくいろんなものを試して自分を飾り付けた。

でも、ふと気づいて省みると、
その「みんなの前のわたし」はどこか無理していて
形作るのは空っぽの自分で
外から見ると「似合わない」と思われても仕方ないような気がした。


そのときから、私は飾るのをやめた。

自分を客観的に見て
洋服も派手でない女の子っぽい格好にして
聴く音楽も嗜好を変え
最近の流行曲やフツウの女の子が聴いてそうな曲を探して
部屋にぬいぐるみを置き
キャラクターの小物も揃え
おそらく女の子っぽいであろうと考える趣味をことごとく試した。

はじめはこんなのいつまで続くかと思っていたが
それは案外すんなりと生活の中に入り
あっさりと新しい私を作り上げた。

そして、それからできた友達からは
「意外だね」といわれることもなくなり
表も裏もないフツーの女の子になった。

それからは前より人と接するのが楽になった。
「本当の私を見て」なんてあせらなくても
周りからは親しくする前に容易に想像がつくくらい
私は見た目どおりの女になったようだ。

それはそれはラクだった。
もう趣味が「似合わない」なんていわれないし
あとから作ったはずのスタイルにも違和感なく馴染み
私は生まれたときからこんな子だったかと
自分で錯覚してしまうくらいだ。
まったくの自然体だ。


そのかわり、私はなんも変わり映えのしない、
その辺にいるフツーの女の子になった。

もう周りと区別をつけれるほどのインパクトもなく
自分でも自己紹介のとき、好きなものや趣味に迷うくらいになった。

もう自分がわからなくなった。

そしてたまに出でくる「意地っ張り」な部分や「頑固」な私。
街角でふと昔聴いていたロックが流れたときや
自分がかつてなりたかった理想の女の人を見ると
懐かしいような、かなしいような、遠い昔の自分を思い出したような気がした。

たまに友達や彼氏とケンカっぽくなったり
胸のうちの深い部分を話すと、
「意外に熱いんだね」
「そんな行動的だとは思わなかった」
と、言われることもあったが、
それはそれでちょうどいい程度の「ギャップ」として
今までどおりの私と平行して通用するような気もした。

そして今、二十歳を迎えようとする今年。

やはり、このままではいけないと思った。
したいように生きないと、人生じゃない。
でも今の自分も自分だと思うし、否定はしない。

ただ、もっともっと自分を試したい。
自分をもっと好きになりたい。
人と違う自分自身の特徴がなんなのかを、もっと考えたい。

たぶん、今年行うであろう就職活動では
これが最大の課題である気がする。

いかに自分を分析し、アピールできるか。

でも就職活動に限らず、これから生きていくうえで、
やっぱり自分を知ることは大切だ。

主観と客観、このバランスを考えながら
ベストな自分にたどり着いたとき
自分で自分を世界で一番愛しているといえる。

人から好かれることよりも、まずは自分から。

そのとき、もっともっとすてきな恋愛ができるんじゃないかと思う。

青い芝生

2006-02-22 07:21:32 | 自分について
私は、昔から何かにつけて人と自分を比較する。

別に下を見て優位に浸ろうとか、そんなものじゃない。
うらやましいと思う友達を見て、自己嫌悪と後悔に沈むのだ。

別に人と比べる必要なんてない。
私は私。
とか思っていた時期もあったが、
今思えばそれは強がりでしかなかった気がする。

結局、私は
思春期から今の今まで
隣の芝生を綺麗だと思うばかりの人生を送っている。

でもまぁ、そのおかげで常に向上心も持てるし、
目標を達成するたびに自信もついてきた。

でもまだまだ足りない。

満足するのもつかの間で、私はまた新しい芝生をみつける。

たぶん、この貪欲さが
私の一番のストレスの元で、
自分を追い詰めることとなっている。

でも当分は、この貪欲さに付き合っていこうと思っている。
自分の可能性を、もっともっと試したい。
ネガティブ思考は自分をくすませるから、あまり落ち込まないようにしつつね。
私はいつもサイアクな事態を想像しつつ、前向きだ。
石橋をたたきながら、走るみたいな。(はやっ)


私はたまに、行き詰って悩んでいるとき、「少し休んでみたら?あせりすぎじゃない?」
と言われることがある。

そのとき、私もまったくその通りだと思い、
休みたいと思う。
でも、気づくとまた動こうとする。

別に急ぐ必要はないが、このままじゃ足踏みをしてるだけで先へと進めないと、何かが私をあせらせる。


最近、私はそういう性格なんだと気づいてきた。

高校時代、勉強の意味を見いだせなくてもこつこつ勉強を続けられたのも、
辞めたくて仕方がなかった部活を結局は引退まで続けるのも、
大学辞めたいとか進路変えたいとか言いつつ進級してってるのも

たぶん、そのときの私はその理由を聞かれても答えられない。
ただわかるのは、意味を見いだせなくても、やろうと思えばするってこと。

そこは、「無意味なものはしたくない」っていう私のポリシーと矛盾してるからヘンな話だけれど
たぶん、悩んだり考えたりすることで今の状態に損傷をきたすことは避けたい、というか、
少なくとも現状維持の状態で悩み続けたい、か、
今の位置さえも失うことはしたくない、みたいな
そんな気持ちが心のどっかにあったのかな。



今日、大学を休学した友達がうちに泊まりに来る。
彼女は多分もう大学には戻らない。
大学で同じクラスだったから、在学中に少しでも悩みを分け合えていればよかった、というのは後の祭りで、彼女が休学した後に仲良くなった。

一度同じラインに立ったものの、違う道へそれぞれ進んでいる私たちは、この先もまったく違う「人生」を描くことになるのだと思う。

引き算の美学

2006-02-18 11:05:58 | hinaism
って、言葉が私は好き。

とあるアーティストがインタビューで使ってたんだけど、
まぁ意味としてはSimple is the bestってのに似てる。

子供のころは色んなものに興味を持って、色んなものに挑戦することで自分の視野を広く、人生を濃くできる。
小さい頃から、「私はこれ」みたいに、
決め付けて自分の方向性を狭めちゃだめ。
食べ物の好き嫌いもだめ。

でも、大人になったら、引き算の美学というものを考えてみる。
ある程度自分で自分という人間がわかってきたら、
必要ないと思うことを取り払って、本当に好きなものや
大切だと思うことに絞っていく。
それは子供のころと違って、引いていくことが
本人を美しくさせる。
どういう人間なのかをよりはっきりあらわすようになる。
逆にまだ色々なものに手を出して、はっきりと自己をもててない方が
見苦しいし、かっこ悪い。

自己紹介で、好きな食べ物、嫌いな食べ物に迷うようじゃダメ。

何か食べようと店に入って、メニュー表を見ながら
あれこれと時間をかけて悩むようじゃ
一刻を争うビジネスなんかに乗り遅れてしまう。

「私はコレ」
「俺はコレ」
みたいな、本人独自のこだわりを持っている人はとてもカッコイイ。

好き嫌いやワガママとは違う。
成長の過程で、いらないと判断し捨てるという選択が、
とてもかっこいい。

私はそういう人が大好きだ。